巷間を騒がせている東京五輪エンブレム問題。芸術・デザインに全く無頓着な若輩が、このエンブレムが盗用されたものであるのか、真相を判別する資格は全く持たないものの、仮にこのエンブレムが明らかな盗作であったと証明されたとしても、やはり、佐野氏だけを騒動の首謀者に仕立て上げることには不合理さを感じざるを得ない。この問題自体に焦点化した分析を行うのであれば、いま報じられているように、大会組織委員会の在り方やその運営に付随する政治における瑕疵問題は避けては通れないのだが、ここでは、もう少し広範にこの問題を捉えなおすことにする。
実は、これら盗用の問題は、何もデザインの世界に特有なものではない。漫画や音楽の世界においても、盗作もしくは、盗作とまでは認定されない模倣の類の作品が蔓延している。特に音楽界では「サンプリング」の名のもとに、「引用」や「盗用」が跳梁跋扈しているようだ。なるほど、素人の私からしても、昔どこかで聴いたはずのメロディーを新曲で捉える事ができるほどに横行しているのである。
では、なぜこのような事象が多発するのだろうか。その大きく一つの要素として、まず、芸術分野に経済の論理が濃厚に導入されていることにその源泉があると私は考えている。つまり、現下の社会では、作品のメッセージ性や独創性よりも、商品価値の高い「売れる」作品こそが第一義に求められているのだと思う。商業化して売れるものこそが優先の社会。ここでは、大衆受けのするものが優れた作品であると評される。このような構造下では、例えば一世を風靡した知名度の高い者など一部の恵まれたアーティストを除いて、売れなくても良いと豪語できる状況下にあるアーティストは数少ない。結果として、商業化と競争化にさらされ、万人受けする作品が商業ベースに乗って普遍化していく。私たちの社会では、作品の画一化が広がり、独創性の高い奇抜な作品が生まれにくい環境下にあると言える。
効率性と生産性を最優先する社会においては、あらゆる実践や活動における多様性の喪失と画一化が顕著となる。この条件のもと、アーティストが生き残るためには、多数派により好まれる作品を創出していくことが強いられる。逆説的に言えば、現に売れている作品の多くは、大衆迎合型の独創性のかけらもない代物であるといってよい。
そもそも、アーティストの定義が、少なくとも我が国においては曖昧模糊とした状況にある。古くより語り継がれている人たちや現代においても敬拝されるアーティストの共通項としては、社会に対する意見表明や感情表出、メッセージの発信が作品の根底に見られることが挙げられる。つまり、本人のいま有する思想や感情、理論を、表現方法としての作品を通して、社会に発する人々がアーティストではないかと少なくとも私は考えてきた。この定義に照らしてみれば、巷には似非アーティストが蔓延していると言えなくもない。
アーティストが現下の社会をどのように捉え、そして、作品を通してその社会に何を伝えたいのか。斯様な本質を失した作品が多発し、作品を鑑賞する私たちの側においても、この深層を度外視した観察法が一般化しているのではあるまいか。この度のエンブレムに最も不足していた点は、まさにこのメッセージ性や本質の発露にあった。しかし、これはアーティストの責め一人に帰すべきものではなく、大会組織委員会をはじめそれを受け止める側の期待と観察眼やその社会構造に大きく依拠していることを忘れるべきではない。
そもそも、教育・環境・医療・福祉・芸術・防災などは経済の効率性とは相いれない領域であり、その分野にまでも、市場原理が敷衍していることによって大きな問題が顕在化している。そして、これらの流れと共同歩調をとるかのように、人々の思想や表現、活動の画一化が広がっている。多様性や独創性は減退し、自らと思想や価値の異なる他者への理解や慮りは欠如し、人々の信頼の関係も失墜の傾向にある。
今回の問題に終止符を打ったのは、すなわち、大会組織委員会の急速な変節は政治的判断によるものであった。盗用に関する真贋の丁寧な検証無くして、政権の思惑でエンブレムの取り下げが決断されたのだ。この拙速な幕引きによって、私たちは、責任の所在に加え、その社会的要因を追究する好機も同時に喪失したことになる。斯くの如く、その根源的な議論の機会を失してしまったことこそが、何よりもこの社会にとっての「機会損失」であった。