ありきたり・素人的な表現と笑われるかもしれないが、最近終わりのあることの素晴らしさを実感している。同じくありきたりな表現でこの世のあらゆる物・事柄には終わりがあるのだが、このありきたりな感覚が実社会ではなんだか稀釈されている様に思われる。
終わりがあることは素晴らしいことであって終わりがあるからこそ人間は輝いて生きられる。
結婚や恋愛・仕事も同じでそれは永遠に続くと約束されているものでは断じてない。だからこそその間、人は生き生きと輝いていられるのである。
恋愛や結婚の話で言うと連れ合いと永遠に一緒にいられる訳ではない。死別にせよ破局にせよ必ず終わりが訪れる。だからこそ今お互いを大切にして生きていけるのだと思う。結婚すれば死ぬまで夫婦であると言う時代は終わったが、まだその義務感・「常識」の呪縛から社会は解き放たれてはいない。結婚すればお互いがお互いの永遠の連れ合いとなる様なそんな感覚がどこかに残っていたりする。お互いがお互いの永遠に約束された連れ合いであると実感した時、人・その関係はときめきも輝きも失う。終わりがあるという大前提があるからこそ今この時を大切にしたいと考えるし、相手を大切にしたいと感じるのである。そういったことを考えると、一般的に結婚より恋愛にときめきがあるのはその終わりがあることがより実感される為であると言えなくもない。人生も同じで「いつかは死ぬ」と実感して初めて自分が信じる後悔のない道を力強く生きて行けるのだと思う。
終わりがあることを実感して生きて行くと、色んな事に感動できるし物事がきらめいて見えてくる。ときめきが生まれる。「終わりがあることの素晴らしさ」と書く所以である。
科学の進捗と共に私達の生活は果たして発展・進歩しているのか?近頃疑問に思うことが多くなった。
例えば、今深夜番組を見ているが、私がテレビを見ている数百・数千キロ離れた地域の現在の生活場面が映し出されている。テレビがなかった時代には考えられない様相である。
茶の間にいながら、数千・数万キロ離れた今現在の情報がいとも簡単に手に入る時代になった。また科学の進捗と共に、職業の職種も増加し、仕事の専門化・分業化が顕著になった。これらのことを人類の幸福と考えるか不幸と捉えるか。極論ではあるが、私は人類の不幸であると思えてならない。
情報に関して言えば、テレビやインターネットなどにより件の数千・数万キロ離れた他者の生活をうかがい知る事が出来る一方、それを意識して生活せざるを得なくなった。異文化の今までは知りえなかった地域の情報をしかも適時映像で「知る」事によって、私達の文化・生活様式に変化が起こっている(もちろんその情報は偏向したものである)。これにより、文化・生活様式の画一化が進み多彩な文化の崩壊につながっているのは間違いない。
職業の専門化とは聞こえが良いが、言い換えればその部分部分ではスペシャリストではあるが相対的・総合的に物事を見れない人間の集まりであるとも言える。
科学の進捗と同時に大きく失って来たのはその「過程」ではないかと思う。物事における全ての「過程」を効率のために分業化・専門化してきた中でその「過程」を潜在化させていった。例えば、スーパーで切り身のパック詰めにされている肉や魚・野菜・果物等などから、家畜で育てられ食肉センターで殺される牛の姿や種から苗を育て苗から野菜・果物を栽培する農家の姿は見えてこない。
「過程」の存在を知らず「結果」の認識しか持たない社会は、物事の本質を見抜く力を持たない。それが確実に人文の衰退につながっているのではないかと考える。
そう考えると科学の「発展」と人文のそれは反比例の関係にあるのではないか?と疑念を抱いてしまう。『週刊金曜日』471号(2003.8.8.)「風速計」にて本多勝一氏は自身の鼎談から次の一節を引用している。「原爆までつくってしまった科学の無茶苦茶な発展ぶりに比べて、人文のほうは、ソクラテスや司馬遷の時代から、果たして進んでいるのだろうか」。鋭い視点であると感激した記憶があるが、実は科学の「発展」に比べて人文はほとんど発展していないのではなく両者は反比例の関係にあるのではないかと思うのである。少なくとも科学の「発展」は人文の衰退を招いているように思われる。
文頭より科学の発展と書けず進捗と書いたのはそれが直接人類の発展につながっていないのではないか?との思いからである。人類の発展に繋がる真の発展こそが今後の科学の課題であろう。
人類はさほど有能ではない。が、科学の「発展」を礎にその限界を感じずに今日までやってきた。その限界を認識し、そのありよう(パラダイム)の変革を迫られる時期が目の前に近づいてきている。
介護保険改正法がこの4月全面施行され、介護保険制度が7年目を迎える。この時期に、この制度を今一度総括する必要性を感じ、今これを書いている。
端的に功罪という形で現状を分析すれば、功として思い浮かぶ点はただ一つ。介護サービスの質の向上、この一点に尽きる。特に、サービス業としての接遇面におけるサービスの質は格段に向上した。これらは、営利法人やNPO法人など多様な事業所の参入が、競争をもたらした結果と言える。この点を評価しつつも、しかし、と本論に入る。
競争によって、得られたものは大きいが、失ったものもまた大きい事に、福祉専門職を含め多くの人々は気づいていないのではないかと思う。それは、地域力である。
事業所間の競争が激しくなると、サービスの質の向上と同時に、営業・広報活動も激しさを増してくる。そして、各事業所職員は利用者のことを「獲得」の対象として見るようになる。一昔前までは、近隣事業所同士和気藹々とした雰囲気の中で、地域の高齢者をお互いに支え合っている感覚が強くあった。しかし、介護保険法施行から6年が経過した現在、そのような感覚はほぼ消滅しつつあるのが現状だ。地域福祉という観点は希薄化され、自身の事業所さえうまく行けば良いといった風潮が強く流れている。
更に問題なのは、「顧客」と化した利用者には、福祉専門職としての自立支援や残存機能の活用といった視点を度外視した、単なる利便性としてのサービスの提供が行われており、結果、本人・家族そして、地域の自立機能・残存機能は低下を来たしている。各事業所は、専門性を度外視した単なるサービス業に成り下がり、サービス利用者も、お金さえ払えば、両親の介護をしなくても良い、便利なサービスを受けられると言った感覚に陥っているように思えてならない。
介護保険制度は、その財源の半分に税金が投入されている。つまり、釈迦の手のひらの上で守られながら商売をしているようなものであり、この点において、介護保険サービスはビジネスには成り得ない。つまりこれは、純然たる市場ではなく明らかな準市場である。これを得意げにビジネスだと言う事業者は多いが、市場で言うとマジに失笑を買う。市場に比べて恩恵を受ける代わりに、地域社会への貢献を行う事が社会福祉事業経営の本質だと私は思う。
競争原理は、個々の能力の引き上げを生み出すが、連携・共同の視点を希釈する。小泉政権下、金科玉条の如く「小さな政府」が叫ばれているが、小さな政府は競争原理を生み出し、連携・共同感を阻害する。大切なのはそのバランス感覚なのだが、そのバランスを取る支点(政府)が、どうも壊れているように思えてならない。
市井では、介護保険制度の導入も相まって普通法人から公益法人まで、様々な経営主体が福祉施設を運営している。そうした中、競争を意識してか、公益事業を行わない法人が増えてきている。
言うまでもなく殆どの福祉事業はビジネスではない。支援費制度はもちろん介護保険制度においても、一定の公的資金が報酬に含有されているからだ。そういった意味では、収支バランスだけを考えれば、「儲かる」仕組みにはなっている。しかしそれは、直接収入に結びつかない、例えば制度外の社会的ニーズに応えるための活動を展開することへの「報酬」でもある。
今日こうした直接収入に結びつかないいわゆる公益事業を展開している福祉施設はいかほど存在するのか?社会福祉法人が税制上の圧倒的優遇措置を受けているのは、このような公益事業を使命的に行うことが前提であるが、社会福祉法人は公益事業を積極的に行っているのか?昨今の、公益法人制度改革の意図は別のところにあるのだか、社会福祉法人の多くが公益事業・活動を行っていない組織であるならば、件の優遇措置を絡め取られたとしてもそれは仕方の無いことかも知れぬ。
介護保険施設の利益率が、民間病院の約五倍である事が最近厚労省から発表された。「儲ける」だけの視点で経営を続けていると、「報酬単価」は必然的に下げられる。財政破綻寸前の行政も、まだ「余力」があるのならと、喜んで支出を抑えよう。これからの私達の仕事は、その付加価値として、いかに公益事業を仕事として地域に根付かせて行けるかに懸かっている。
職業としての福祉専門職(本当に3Kの職場??)
「介護人材確保」など、社会福祉の現場で人手不足が叫ばれています。原因は、低賃金や、3K職場である事が取り沙汰されています。
低賃金であることは自明のことであり、これは大きな問題です。法人経営者ばかりではなく、政府が責任を持って対応するべき問題でしょう。
しかし、定着率という視点で考えると、給与が安いからやめていくという問題点は若干薄れてしまうのではないでしょうか?給与が安いのは今に始まったことではありません。入職時から分かっていたことです。無論ライフサイクルに合わせた昇給が見込めないから、辞めることもあるでしょうが、多くの方は高給取りを目指してこの業界に入職したのではないと言えます。では、なぜ辞めていくのか?職場の人間関係等様々な問題があると思われますが、「自分の理想としている福祉現場」でないことも要因の一つではないでしょうか?無論、福祉現場は職員が自分たちの思いと力で作り上げていくものだと思います。しかし、いくら努力しても作り上げていくことが出来ないとしたら、それは、法人理念や、経営者の思いや考え方が、職員が理想としている福祉現場と乖離した所にある場合発生するのではないでしょうか?
介護保険の導入後、利用者が顧客と化し、株式会社も社会福祉法人も大差ない運営方針に転換してきた様に見受けられます。そんな中で、自身を含め、私たちがなぜ福祉専門職として働いているのかを鑑みると、社会的責任感や、使命感を全うできることや、目の前の利用者・家族・地域住民に感謝されたり、有用視されることに、遣り甲斐や自身の有用感を抱くことができたり、延いては、自身の自己実現を全うするために働いているのではないでしょうか?
私たちの職場は3K的な側面があったとして、それが全てでしょうか?これはマスコミの責任ではありませんか?ある特定のマイナスの要素だけを誇張して情報を流すことは、偏見を助長することに繋がります。世界でも最大手の自動車会社の車で、年間数千人の人が命を落としています。自動車事故です。このように、多くの仕事には正の側面があれば負の側面が常に両輪としてあるわけです。私たちの仕事はどうでしょう?きちんとした、専門的価値・知識・技術に則って、利用者の支援をする限り、社会に対して負の側面をはじき出す要素は非常に少ないと言えます。だからこそ、私はこの仕事をしています。
地域の絆では、職員の採用面接時、必ず「法人理念」・「運営理念」・「運営方針」・「3つの(接遇)ルール」を読んでもらい、感想をお聞きしています。法人の理念に共感していただけているのかを確認するためです。法人理念を是非ご覧いただければと思います。福祉専門職として成すべきことが、そこに詰まっています。共感いただける方は、職員として、ボランティアとして、協働者として、連携者として、また、利用者として、様々な関わりを持っていただければと思っております。本ホームページが、そのような新たな出会いの場となれば幸甚に存じます。