以前本ブログにて、地域密着型サービスの理念について意見を述べました。地域密着型サービスの理念は、高齢者が住み慣れた地域で自分らしく生活できるよう支援することであり、そのためにサービス事業者はコミュニティケアの視点で臨まなければならない旨のお話を書かせていただきました。
ここで、私が考えるコミュニティケアの定義について少し叙述します。地域密着型サービス事業者が実践するべき「コミュニティケア」を私なりに言語化したものです。「地域の要援護者を地域住民で支え合う行為である」。非常に単純です。「地域住民」は、フォーマル・インフォーマルを含むあらゆる社会資源のことを指して考えております(無論サービス事業者もこの中に含みます)。住民主体の視点を重要視しているため敢えて、「地域住民」の表現にしました。また、「支え合う」とは要援護者も状況に応じて「支える側」に回ることがあることを前提に考えてのことです。「地域」に関しては、高齢者や子どもが、徒歩もしくは自転車で活動できる物理的範囲を考え、自治会及び小学校区の範囲と考えております。
このようなコミュニティケアの実践を行うことを目的とした地域密着型サービスを開設するための諸条件について、今回は考えてみたいと思います
まず、設置場所についてです。当法人では、既存に地域住民が集まる場所が近くにあることを前提に、開設場所を選んでおります。地域福祉センター仁伍は、自治会行事の殆んどを実施する広場に隣接して開設しておりますし、地域福祉センター向永谷においても、自治会支部行事の活動拠点の広場や集会所から歩いて2分の場所に開設しております。これは以後のコミュニティケア実践において、効率的・効果的に地域住民と事業所が交流することを考えて、事前に人の集まる流れを調べて選定したものです。
合わせて地域住民が気軽に立ち寄りやすい清閑な場所を選定しています。遠方の方が車で来所するイメージではなく、地域住民が徒歩もしくは自転車で来所しやすい場所をイメージし選定します。つまり、車通りの多い大通りに面しているよりは、少し奥まった公園が近くにある等の歩行者主体の道に面した場所がいいのかな、と思っております。
また大切な地域との関係性についてですが、あらかじめ何らかの関係性のある地域が望ましいと考えております。例えば、代表者や管理者の居住地や出身地に開設することで、地域との関係性が既にある程度出来ているところから進められる。また、土地や建物を賃借する場合、家主・地主さんが地域との強い関係性を有していらっしゃる場合は、以後の関係性を構築しやすい利点がある等。当法人の仁伍は私の出身地に開設しましたが、向永谷は何ら関係性のない場所での開設となっております。地域住民との関係性構築という視点においては、仁伍の方がやはり優位に進んでいるようです。しかし、関係作りには一定の方法論があると考えておりますので、これはまたの機会で報告したいと思います。
そして、もう一つ重要な要素は、マーケティングの視点です。私どもの法人はNPOですので、純粋なビジネスの視点では事業運営を行っておりません。しかし、事業であるからには潰すわけにはいかず、理念遂行のためにも経営の視点は欠かせません。そこで、必ず、開設前には、マーケット調査を実施しております。今は便利な時代で、HP等で各地区の人口(自治体によっては町別・年齢別人口)がわかります。あとは、その地域にどのような介護保険事業所が存在するのかや、その定員を調べ、高齢者人口と事業所普及率を鑑みて、開設場所を選定します。これは潰さない経営のためのみならず、地域住民のニーズのない所に開設しても意味がないとの認識からの実践です。私どもの法人は「利益を得る」ことを目的にはしておりませんが、理念を遂行するための重要な要素として捉えております。
また、指定指導監督責任のある市町村の方針と法人の方針が一致しているか否かの視点も重要でしょう。都道府県ではなく、市町村が指導・相談役になることで、行政との距離がより身近なものとなってきました。今後は、行政との協働の関係が強く望まれていくことでしょう。であるからこそ、行政の考え方・方針を事前に熟知しておくことが必要です。
以上は主に「場所」の条件についての話になりましたが、その他の開設条件として、知識と技術、経験を積んだ指導的立場の介護職が数名必要と考えております。私の考えでは、1事業所に最低3名は必要かと思っています。通い・訪問・宿泊あらゆるサービスに対応できるケア技術を有する職員の育成は不可欠ですし、中等度以上の障害を持たれた利用者を在宅で懸命に支えていらっしゃるご家族との連絡調整や連携ができるコミュニケーションスキルや面接技術も欠かせません。小規模多機能を運営する以前、デイサービスとグループホームの管理者をしておりましたが、小規模多機能の職員に求められるケア技術はより高いものであると認識しております。だからこそ、スーパービジョンの体制は欠かせませんし、そのためのスーパーバイザーが最低3名はどうしても必要になると考えます。なぜ3名かと申しますと、日勤帯に常時1名のスーパーバイザーを配置することを考えると、公休・夜勤等の関係でそうなるわけです。
かてて加えて、医療機関との連携が不可欠です。診療報酬の改定後(2006年度)病院の平均在院日数は急激に減少し、そのため、福祉関係者から見た医療依存度の高い高齢者が、在宅生活を強いられる状況にあります。特に小規模多機能型居宅介護事業所は、その多機能性を駆使して、そのような方々を積極的に支援することが求められるでしょう。であるからこそ、日頃から密な連携が取れる協力医療機関の存在が欠かせなくなります。特に、在宅・地域医療の視点を持つ協力医療機関と連携できれば、利用者も職員も安心できます。
以上地域密着型サービス開設の条件に対する私の考えを叙述しましたが、要点をまとめると下記のようになろうかと思います。
�ヾ�存に人が集まる場所(広場・公園・集会所・小学校等)が近くにあること。
��地域住民が、歩行や自転車で、気軽に立ち寄りやすい場所であること。
�C楼茲箸隆愀言�が既にあること(代表者・管理者・職員・家主・地主との地域の関係など)。
�す睥霄埒邑�が多く且つサービスの充足率が低い等、地域住民のニーズがあること。
�セ堋�村の方針と、法人の方針がある程度一致していること。
�Ε后璽僉璽丱ぅ供爾砲覆蠧世覯雜鄂Δ�1事業所につき最低3名は配置されていること。
��日常的に密な連携が取れる協力医療機関があること。
コミュニティケア実践には欠かせない視点ではないでしょうか?このような条件を満たすことができれば、後の運営推進会議の構成や進行も順調に進むことでしょう。
日本の社会福祉におけるケアは、施設ケアを前提に普遍化・意識化されている。在宅ケアであっても、例えば、多くの小規模多機能型居宅介護や、高専賃の運営の在り方をみると、施設ケアを前提とした効率化を最優先した代物であることに気づく。
施設ケア成立の歴史を紐解いて考えても、当時の、効率よく利用者を「収容する」観点からの脱却が今も尚なされていない。問題なのはそれが、施設ケア自身の課題ではなく、在宅ケアにおいてもその意識が引きずられ、無意識のうちに定着していることにある。脱施設とは、まさに、施設ケアの成立から綿々と受け継がれてきたその価値・意識からの脱却を目指すことであり、その価値・意識は施設ケアに限定されて受け継がれてきたものではなく、在宅ケアを含めたあらゆるケアの場面に浸透している。それは、非常に根深い陋習である。
よって私には、脱施設に対する以下の気づきがある―――
�仝�率化・画一化を優先する施設ケアの価値・意識からの脱却。
�∋楡潺吋△硫礎諭Π媼韻蓮�日本における在宅ケアを含めたあらゆるケアに蔓延しているので、そこからも脱却。
��実際の行動としての、脱施設。
皆さんは、どのように考えられますか?是非多くの意見をお寄せ下さい。お待ちしています。
現場を知らない学者や評論家・マスコミの言動に思わず首を傾げてしまうことが近頃多くなった。
例えば私たち福祉業界でよく言われているのが、職員配置の不足であるが、現場は現場で人員不足を補うための業務改善に創意工夫を凝らしているし、人員が充実している現場が必ずしも良いサービスを提供しているとは限らない実態もある。
一言でこうあるべきだと言い放つのは格好が良いし分かりやすい。しかし、物事を変革するには小さな作業を地道に積み重ねていかなければならないし、多くの妥協が必要となる。少数派の意見を反映させようと思えばなおのことで、それこそ妥協を通り越して屈辱の連続とも言える作業を強いられる。そして、こうした作業を通してのみ物事は変革されていくのだと思う。
いわゆる学者や評論家の多くはこの実践経験が絶対的に足りないのではないかと考える。現場にいて物事を変革した経験が圧倒的に少ない人間が多いのではないかと思う。私自身の経験で言えば、大学時代の魅力的な講師・教授はみな一度は「社会」で現場を経験した人達であった。
非実践家は総じて脆い。変革が、小さな改善の積み重ねと妥協の産物であることを実感し得ない人の論理にはなんら説得力も魅力も感じない。現場から離れた、実際に離れたとしても現場の感覚を持たない人間の論理には人の心は動かされない。
三年前に続き、バリ島南部の繁華街クタでまた爆破テロが起きた。この爆破テロ、五年前観光客として現地を訪れた人間としては、起こるべくして起こった感が強い。当時、現地で私が記した日記の一部から引用してみる。
「(バリと欧米・日本の)経済格差は揺ぎ無く存在し、その格差の狭間で、日本人・欧米人のリゾート地として発展してきたのだろう。揺ぎ無い経済格差、問題はそこに訪れた外国人ひとり一人がそれをどう捉えるかにある。『安く遊べる!』ただ単にそう思う人も多くいると思う。また、人権感覚の希薄な人は発展途上国の人を馬鹿にしたり、差別意識を持って来る。(中略)1ヶ月9000円程度の給与で生活している人々の前で、何万円ものお金をばら撒いて平気で遊べるこの感覚。それが全てを物語っている。欧米人もこれに同じだと思う。クタの少し裏通りで、欧米人が音楽に乗ってダンスを踊り飲み食いしているそのお店の横には、行き場のないかのような現地の子どもが座り込んでいる。どっちがその土地の『主人公』なのか分からない。人の地で、我が物顔でそのような振る舞いの出来る欧米人には“頭が下がる”。日本人もそれと同様の有り様だ」。
当時の外国為替は一円=約75ルピア、現在は一円=90ルピアである。依然として根強い経済格差は現在も存在する。現地を訪れる観光客の、人権感覚は果たして変わっているのか?