社会福祉研究職の大先輩から、最近、ある指摘を受けました。「少子化はそんなにいけないことなのか?」と。先輩曰く、―――
明石家さんま氏が司会をする深夜番組で、生物学者が、アジの回遊について話をしていた。100匹が回遊している水槽に、5匹を追加して入れると、5匹が回遊から外れて、命を落とすというお話。適正な数を保つシステムが、生物界には整っているのではないか。であれば、人間界の少子化現象は、適正な数を保つためのシステムが働いているのかも知れない。今の日本の人口は多すぎるので、調整を行っているともとれる。少子化が問題なのではなく、高齢化にこそその対策が求められているのではないか?―――と。
一見、社会の一般常識から逸脱した発言とも取れますが、私の感覚としましては、「許容」の範囲の発想であり、それどころか、なるほど納得のいく鋭い視点だな、と受け止めました。
つまり、日本の人口は適正人口をはるかに上まっているのかも知れぬと。適正人口をはるかに上回っている社会において、その人口を維持させるためには、適正「容量」を超えた経済成長が望まれるのではなかろうか?と。そのことによって、適正を超えた生産性や効率性が、重要視される社会となっているのではないだろうか?と考えたのです。
事実、日本の適正人口は3,000万人程度という研究者がいると聞きます。これは、自給自足での循環の中で、生きていくための適正人口だそうです。
そう考えると、少子化は何も悪いことばかりではなく、効率性や、生産性を至上としない、環境に優しい社会を再構築する契機となるかも知れません。バブル経済の真っただ中、人々の財布の中身は「豊か」になりましたが、人の心までは「豊か」になり得なかった事実を鑑みると、このピンチは、実はチャンスへの一里塚ではなかろうかと考えるのです。
効率性・生産性を第一義とし、非効率・非生産の対象を排他・排斥してきた社会において、そうした生き方が、実は著しく人々の「私益」を減退させていることをしっかりと受け止め、新しい社会の在り方を考える岐路に私たちは立っているのでしょう。
少子化をそのようなチャンスに変換できやしないでしょうか?
社会化された私たちの生活を鑑みると、私たちの生活は、常に他者との関係性の中で成立していることは自明のことであり、「私益」と「公益」においても相互作用の関係にあります。「自分さえ良ければ・・・」と人々が「私益」に走れば、「公益」はおのずと減退し、「公益」の低下は、そのまま「私益」に跳ね返ってくるわけです。
最近、「コミュニティビジネス」について、若輩浅学ながら人前でお話させていただく機会があり、それに纏わる著書を数冊拝読する機会を与えていただきました。その中で、社会的企業や、コミュニティビジネスの在り方、延いては、企業における社会的責任(CSR)について若干振り返ることが出来ました。実は、地域の絆も、日本の中での社会的企業の確立を意図した実践を行っています。
孫引きを含みますが、気になる個所を引用してみます。
「J.ガルブレイス(経済・経営学者)は、(『不確実性の時代』《1983年》の中で)『特定の利益は全体の利益に従属させなければならず、全体に最も役立つことが自分にも役立つという感覚の涵養を目指さなければならない』と述べている。すなわち、健全な社会発展のためには、経済的な利益と社会的な利益が調和するような事業活動を展開することが重要となることを示唆したのである」「P.ドラッカーは、非営利組織の評価に際しては、多様な判断基準の組み合わせやバランスが重要となることを示唆しており、非営利組織の経営には、明確な『ミッション』を持ち続けることが重要となることを説いている」「これまで対立概念として位置づけられてきた『経済活動と社会貢献』『営利企業と非営利組織』といった二極対立の構造を超えて、それらの統合や協調によって、コミュニティビジネスといった新たな事業が生み出される時、従来型の社会経済システムの変革が加速され、真の豊かさを実感する社会が我々の前に出現することになろう」(風見正三氏『コミュニティビジネス入門』学芸出版社)。
これからの企業活動には、営利企業、非営利組織にかかわらず、経済活動と社会貢献を常に両輪とした実践が求められます。少子化で、これから急性的人口減少に見舞われる我が国の企業が、生き残れる道は、それしかないように見受けられますし、それこそが、成熟した社会、真に「豊かな」社会構築へと繋がっていくように思われます。
それは、「自分の会社さえ・・・。自分の国さえ良ければ・・・」といった考えが、既に大時代であることを意味します。そして、私たちが、今まで顧みずにきた真の「公益」とは何かを、惟る時が巡って来たようです。