2010/02/21 12:00:00
地域密着型サービス 去る2月19日横浜市内で行われた「09年度小規模多機能型居宅介護事業 勉強会」に参加させていただきました。「人材マネジメント」というテーマでお話しさせていただきましたが、準備不足も相まってあまり良いお話しができなかったものと反省しております。その中で非常に僭越な発言になるかも知れませんが、私自身は、非常に多くの気づきと刺激を頂くことができました。
367万都市横浜で、小規模多機能を運営していらっしゃる管理者・職員の皆様方の苦悩を具体的に直にお聞きする機会が得られ何点か思うところがありました。以下要旨を列挙しますと―――
�〜反イ箸靴討領弋 ̄�変性及び専門性の高い人材が小規模多機能には求められること。
�∨/裕�模・種別や、運営形態(高齢者専用賃貸住宅との併設等)、経営者像(経営者の経歴や理念)の相違によって、悩みの内容が多様化していること。
��その中で、苦悩の丈を共有する仲間(ヨコのつながり)が必要であること。
�い修譴任癲�頑張っていらっしゃるのは職員の皆様ひとり一人に熱い情熱があるからこそ。
といったところでしょうか。
小規模多機能の運営において、地域性や、利用者・家族の個別性に応じた形で、臨機応変な対応を実践することがその生命線であることは言うまでもありません。であるからこそ、そこに求められる人材としては、多様なニーズに対応し得る有能な職員が求められることになります。また、経営者及び管理者にとっては、細部にわたっての方針を決定し、明確なビジョンを打ち出し、情報経路の確保を図っていくことが他の事業よりもより強く求められます。小規模多機能では、厚生労働省令・解釈通知に示されていない部分が非常に多く、事業所と利用者との個別の取り決めによってサービスを提供する部分が非常に多くあるからです。それが、小規模多機能の生命線を担保しているとはいえ、それはそっくり職員さんの負担へと化してしまうのです(無論、職員さんの意識によっては遣り甲斐と化すことも)。そのような状況下において、小規模事業所が人材育成を実践するのは非常に難しい。
小規模多機能の少なくとも人材育成に対して、何らかの公的支援が不可欠であると再認識した次第です。その中で、横浜市の行政職員及び市民セクター職員の皆様の使命感・実践に触れることができ、その姿勢に深く感銘を受けました。年に3回、半日かけた勉強会を中心的に実施し、外部からの講師を広く呼び寄せ、少しでも市内の小規模多機能型居宅介護の職員さんのバックアップに努めようとされるその姿勢に共感致しました。
あと、もう一点学ばせていただいたことがあります。地域密着型サービスは市町村単位で、事業の指定・指導が行われます。よって、市町村単位でその運営の在り方が随分異なっていると思われます。地域主権の考え方からすれば、これは非常に良い傾向であると私は捉えています。しかしその反面、市町村という限られた文化・風土の中での実践だけでは、卓越した新しい視点を生み出すことは難しくなるのではないかとも考えます。その意味においても、各市町村圏域内の日常的なネットワークの構築は第一義としても、時には、市町村外・県外・国外の情報に広く敏感に反応し、市町村内・都道府県内・全国区といった重層的なネットワークの構築が、特に小規模多機能には求められているように思われます。
そして、まちづくりのプロフェッショナルである行政(市民セクター)と、同じく福祉の視点でのまちづくりを志す福祉専門職は、協働するべき関係であることを再認識させていただきました。全国のどこの地域にも、まちづくりを真摯に考え、汗を流していらっしゃる行政マン(ウーマン)がいらっしゃることを確認することができたのが、明日への活力に繋がる一番の出来事でした。
地域の絆には、制服がありません。利用者と職員の関係は、「お世話をされる側」と「お世話をする側」の関係が固定化されているのではなく、利用者も「お世話をする側」に回ることがあり、そのような自己有用感や、役割意識、達成感を利用者自身に持っていただくことが重要であると考え、「される側」と「する側」の固定概念を取っ払うことを主目的としております。また、小規模で「家庭的」な環境を鑑みると、職員全員が同じ服装をしている状況は少し異常な感を受けてしまいます。
また、職員のファッション(服装や髪型等)に対しても特に決め事は設けておりません。「利用者の安全が確保された服装や髪型であれば良い」としているのみです。金髪・茶髪でもOKなのです。ただし、もう一つ条件がありまして、利用者・家族から「あの格好はだらしない」と指摘を受けた場合は、強制的に服装・髪型を改めてもらうことにしています。
茶髪=「だらしない」という感覚は、偏見以外の何ものでもありません。しかし、社会全体にその偏見が蔓延しているのであれば、それでも敢えて茶髪を貫くのであれば、偏見に負けない理論と「人格」を備えるしかありません。
私がこんなことを考えるようになったのは、今から8年前あるイタリア料理店で食事をしたのがきっかけです。そのお店の店員さんは、非常に個性的なファッション(金髪の髪型やピアス等)の方が多く、お店に入った途端少し圧倒されてしまいました。しかし、その感覚はその後数分で無くなりました。とっても素敵な笑顔と、タイミング良く配慮された丁寧な接客に対して、私の偏見はどこかに消え去ったのです。その後、非常に心地よい時間を過ごすことが出来たのを今でも鮮明に記憶しています。
如上の経験から、偏見に打ち勝つだけの理論と「人格」を備えておれば、茶髪であっても問題ないと考えるようになりました。それこそが「自己責任」であると。自分の個性を貫くファッションをしたければ、社会の偏見に打ち勝つ理論と「人格」を持っておれば良いのです。そうすることで、「だらしない」「品格がない」といったレッテルを張られなくてすむのではないでしょうか。
また、自身の個性やファッションを尊重できない職員が、利用者のそれを重んじることは難しいのではないかとも考えており、職員のファッションは原則「自己責任」としているのです。職員の「個」の確立なくして、利用者の「個」の確立支援は困難であると認識しています。
ところで、バンクーバー五輪で問題となっている国母和宏選手のファッションの問題は、どのように考えるべきでしょうか。「国母選手はバンクーバー入りした際、ネクタイを緩めてシャツのすそを出し、ズボンをずり下げ、鼻にはピアスをつけて空港に現れた。10日の記者会見では『反省してまーす』と語尾を伸ばして発言、JOCに苦情電話や批判のメールが集まった」(京都新聞2010年2月14日)。
スノーボードとストリート系のファッションには、相関性があると言われていますので、上記のファッションはそれにあたるように見受けられます。よって、そのことに対する一方的な「代表の品格がない」といった非難は、偏見以外の何ものでもないと荼毘に付すことも可能です。しかし、10日の記者会見での対応を見る限りにおいては、社会の偏見に打ち勝つだけの理論と、「人格」を備えていないことが露呈したようです。この点だけが、惜しまれてなりません。
欧米のように個人主義が発達していない我が国においては、個性を貫くこと自体が容易ではないようです。そこには、決してぶれることなく隙の無い理論の確立と、強固な人格の形成が不可欠なのです。
1月末日にかけて、『朝日新聞』では「欧州の安心」と題した3連載の記事が載っています。欧州における高齢者ケアの現状と課題に触れたものです。その中で、1月27日はフィンランドにおける地方ケアの状況が紹介されています。読み始めには、違和感を抱きながら拝読したのですが・・・。
「『いつまでも在宅で』は理想だが、家が点在し、介護職員の確保が難しい地方の町は、都市部とは異なった課題も多い。
高齢者向けのサービスセンターや施設などを一ヵ所に集中させることで、介護サービスの効率化と質の向上を目指す、フィンランドの地方自治体の取り組みを見た。(中略)」
在宅支援などの拠点となるサービスセンターに、介護が必要な老人ホーム(入所者36人)を併設。その周りに、認知症向けのサービスハウス(同12人)や介護度が低めの高齢者向けサービスハウス(同16人)、元気な人も入れる高齢者住宅(同61人)が配置されている。(中略)
(認知症向けのサービスハウス)は、12人の入居者に対して、7人の職員がいる。ゆったりとした雰囲気のなか、職員に見守られて、落ちついて暮らしている。
(ロッピ町)高齢者ケア課のシスコ・ハーペネン課長「高齢者のみなさんに『ここに来れば、必要なサービスがある』と思ってもらえることが大切」と、一極化の狙いを語る。(中略)
一方で、高齢者福祉で国が担うのは、国民年金などの所得保障政策だ。
高齢者が施設に入所した場合、利用料の個人負担は原則、所得の85%と定めている。収入に応じた額を納めながら、自由に使えるお金も手元に残す考えがある」(松浦祐子氏『朝日新聞』「欧州の安心 中」2010年1月27日)。
本ブログを読んでいただいている方には、「違和感」の意味がお分かりかと存じます。地域性における事情があるにせよ、高齢者だけを「一極化」して“集めて”なされるケアが、利用者の権利擁護の実践に繋がるのか、といった問題意識がここにあります。もともと地域社会には、老若男女多様な人間関係があり、その中にも、ひとり一人の住民にとっての関係性が存在します。その「関係性」こそが、その人の人生であり、生活の一部であることが認識されつつある昨今だからこそ、地域ケアが声高に叫ばれているのです。地域の中で培ってきた利用者ひとり一人の関係性を大切に、ケアの実践がなされることの重要性が認識されつつあります。中でも、日本においては共生型ケアの実践が顕著ですので、高齢者の「一極化」されたケアに対しては、私と同様に違和感を抱かれる方も多いのではないでしょうか。
しかし、本報告では、もう一つの側面を窺い知ることが出来ます。ケアの効率化の先に、「手厚い」ケアや、政策の存在が顕在化しているのです。効率化を図るために、高齢者に対する「一極化」ケアを実践し、その分高齢者に対して「手厚い」人員配置でケアにあたる姿勢や、政策において高齢者の所得保障を充実させている姿勢は、日本それとは雲泥の差ではないでしょうか。
日本においても、高齢者専用賃貸住宅と、小規模多機能型居宅介護・通所介護・訪問介護等の在宅サービスとの組み合わせにより、従来の在宅ケアよりも効率化にシフトした取り組みがなされていますが、効率化の帰結として、手厚い人員配置が行われている事例は全てではないにせよあまりお見受けできません。更に、従来の日本の社会福祉施策を鑑みると、効率化が図れるのであれば、介護報酬を下げるといった方策が打ち出される懸念も存在します。日本の社会福祉のあり方は、効率化を図って、法人レベルではそれを「計上利益」に繋げ、政策レベルでは公的負担の軽減を図ることに流れていくのであって、本報告に見るように、効率化の帰結としての、手厚いケアや、手厚い政策といった発想では断じてないことが理解されます。
実は、本報告は、そのようなことを示唆してくれているように「読む」ことができるのです。
高齢者ケアの「一極化」を図っているフィンランドですが、地域ケアの視点を担保するために以下のような取り組みがなされていることも、本報告では取り上げられています。
「ヘルシンキ近郊のベッドタウン、アスコラ町(人口約4700人)。ここも町役場近くに、老人ホームやサービスハウス、高齢者住宅などを集中させている。
正午近くになると、サービスセンター1階のレストランには、併設する施設に暮らす高齢者のほか、一般の市民がランチを食べにやってくる。高齢者に疎外感を感じさせないように、地域の人との交流の場をつくる、フィンランドではよく見かける工夫だ。
町高齢者ケア課のハンヌ・レイノ課長は言う。
『生まれ育った地域で、最期まで人間らしい生活ができるよう支援する。私たちはそれを大切にしています』」。
NHKの人気番組『プロフェッショナル仕事の流儀』(アンコール2010年1月26日放送「修業は、一生終わらない 鮨職人 小野二郎氏」)を視ました。自身の信念を持って、妥協を許さぬ実践をしている出演者達から、若輩浅学の私が学べることは多々ありますので、時間の許す限り好んで視ている番組です。仕事の内容や、立場、理念によっては、大いに参考になる方から、あまり参考にならない事例もありますが、大なり小なり学べるものが詰まっていると認識しています。
今回は、80代の鮨職人が、年を重ねるごとにその「専門性」を高めてきたその姿に強い感銘を受けました。高齢になっても高まる能力、若僧には無くて、高齢者にしかない優れた能力があることをどこかで信じている私にとっては、非常に思慮深いことです。
私が注視したのはこの点ばかりではなく、「無駄が極上を生む」と小野氏が認識していることでした。この番組では更にもう一点感慨深い点がありましたが、この事はまたの機会にお伝えできればと思います。
つまり、「『手当て』(仕込み)を施した魚のすべてが客に出されるわけではない。例えば、同じ手当てを施した締め鯖でも、二郎が味を見て、その舌にかなったものだけが、鮨として握られ、残りは賄いに回る。こうした『無駄』が、うまい鮨を握るために欠かせないという」(NHKのホームページより)。
「無駄」や、「回り道」を忌避したり、恐れていては良い仕事が出来ないと予ねてより私は考えています。よい仕事には、「無駄」があるということを覚悟しておらねばならぬ、ということなのでしょう。私たちの実践に置き替えて換言すれば、「無駄」というよりも、「試行錯誤」となるのでしょうか。多くの実践から「試行錯誤」したうち、そこから得られて実益に繋がるものは、僅かかも知れませんが、実益に繋がらず、陽の目を見なかった「取り組み」も自身の身となり骨と化すのではないでしょうか。自身の財産として、蓄えられ、いつかその経験が、自身の信念を具現化する際効力を発揮するのでしょう。飽くなき信念へのこだわりと矜持があればこそ、妥協は決して許されず、厳しい試行錯誤が欠かせない。厳しい試行錯誤の中で、取捨選択が繰り返され、本物が残る。そのことを毎日繰り返すことに、「上達」のヒントがあるように思われます。まさに、失敗は成功のもとなのかもしれませんね。
時期をずらして、『中国新聞』2009年12月27日の記事から(「今を読む」広島大大学院 総合科学研究科教授 吉村慎太郎氏)。
「近年、大学院生のなかにも資料を注意深く読まないだけでなく、文献収集さえ怠る者が増えているようだ。私は院生時代、1冊の本を借りるため、東京から大阪に行ったこともあるが、そうした経験は今の院生には『おとぎ話』かもしれない。
『省エネ』的発想からすれば、読むべき文献量を最小限に絞り込み、短期間に論文という成果を出すことが望ましい。しかし、そうすれば、すそ野の狭い、深みに欠けた内容になりかねない。何ごともスピードと生産量を求め、さらに『省エネ』が加わると、論文の『粗製乱造』になる。研究は研究以外に目的はなく、無駄な作業なつきものだ。(中略)
視覚に訴える教材がもてはやされる。漫画やTVゲーム『熱中症』の半面、熟読がすたれ、聞きかじりの言葉やレッテルに飛び付き、それぞれの妥当性の是非や奥深い背景を理解しようとさえしない。記憶と反復、流行のとらえ方をなぞるがごとき『模倣』が繰り返される。(中略)
『無駄なことはやらない』という『省エネ』的発想ではなく、人的エネルギーの『浪費』こそが、現状に突破口をもたらす教育研究の原点であるとの認識も必要だろう。(中略)
自らのエネルギーを積極的に『浪費』する姿勢は、『模倣』がもたらす以上の成果を、遠回りであれ、人間に残す『贅沢』なのだ」。
私は、19歳より、新聞・雑誌のスクラップを続けております。また、心の残った文章は全て、引用先を明らかにしたうえで、パソコンのフォルダーに蓄積しています。これらの作業には非常に手間がかかり、「こんなことを続けて意味があるのかな?」と思いながらも、早18年が経ちます。
この一見、何の役に立つのかわからぬ営みこそが、私にとっての「贅沢」なのかも知れません。