2010/11/27 12:00:00
地域密着型サービス 11月27日(日)の17時よりコミュニティホーム仁伍懇親会が執り行われました。参加者数は35名。地域の皆様と当法人職員・役員の皆様との交流促進の良い場となりました。
新たに拠点を開設する際当法人では以下の視点を大切にしております――――。
�ヽ�設の1年ほど前より地域住民に対する説明会を開くこと、�⊇弭�後には、地域住民と専門職を対象とした見学会を2日開催すること、�3�設前には、地域住民を対象とした懇親会を開催すること。
�,砲弔い討蓮�地域福祉の拠点・まちづくりの拠点をつくるわけですから、施設をつくる前から地域住民との協働の視点は欠かせません。ですので、建設工事を着工する遥か以前計画が定まった時点において、地域住民へのアプローチを私たちは開始しております。地域福祉活動は、開設する以前から既に始まっていると捉えての実践です。�△蓮↓,両�況から常日頃関心を持っていただいている地域住民へのご案内と、フォーマルな社会資源として専門職に認識していただくことで、当事業所の機能と整合性あるニーズをお持ちでいらっしゃる利用者と繋がることも目的としています。
そして��。利用者に利用していただく前に、常日頃からお世話になっている、またこれからお世話にならなければならない地域住民にまずは施設を利用していただこうという試みです。いかなるお店でも、初めて入るのには勇気がいるものです。しかし、一度入ったことのあるお店は敷居が低くもなりますので、当ホームにおいてもそのような認識を持っていただくための催しでもあります。かつて、ある地域で拠点を開設した際、その懇親会の場で自治会長に「あんたと知りおうてから、もう1年は経っとるなぁ」と笑顔で言われたことがありますが、当法人ではそのような開設の方法を取っているのです。
当法人の各拠点における地域福祉活動の対象圏域は、自治会を基盤として小学校区までと捉えておりますので、懇親会の際は自治会住民にお声掛けをさせていただきます。実情の把握が十分に出来ていない地域における新規開設に際しては、自治会で何らかの役職をされている方にご案内をさせていただきます。一定の法則性をもった声掛けの方法でなければ、案内を出す方・出さない方の選定方法に主観が入り、その理由を問われることもあるやも知れません。また、案内を出す範囲においても、ある自治会には案内を出し、ある自治会には出さないといった根拠が示せない際は注意が必要です。そうであれば、一層のこと小学校区内の自治会全てに案内を出した方が良いようにも思われますが、それでは恐らく人数が多すぎます。結果として、開設地域の自治会役員の皆様に案内をさせていただくことになるわけです。無論、地域の実情に応じて、説明のできる範囲で、臨機応変な声掛けも行っていきます。例えば、開設に際して大変お世話になった住民の方々や、これからお世話になるであろう方々。大事なことは、なぜあの人を呼んで、あの人は呼ばないのか、と問われた際に一定の説明ができることにあると私は理解しています。事業所にとっても地域にとっても大切な会です。無造作に案内を出すことの無いよう心を込めて対応を行っております。
懇親会のメニューも、地域の方が恐縮されない程度の家庭的なものを選んでおります。もちろん、飲酒を含めた楽しい食事会です。幾つかの地域で開設すれば、好まれるお酒の種類も地域によって様々です。発泡酒は飲まないという地域もありますし、焼酎よりも日本酒を好まれる地域もあります。また地域住民との距離感によって食事の内容も変わってきます。この度のコミュニティホーム仁伍では、お鍋を提供させていただきました。親密度の低い者同士が始めっからお鍋をつつくことには若干の抵抗があるやもしれません。しかし、ここ仁伍町内会では、4年間の地域福祉センター仁伍での実績がございます。地域住民との親密度はそれ程低くはありませんので、この度はお鍋にさせていただきました。この様に、親密度の変化によって活動の内容が変遷して行くのが地域福祉活動であると私は強く認識しております。
また、日程や食事・お酒の内容、参加者名簿、席順等を自治会長や住民と話し合いながら懇親会は準備されていきます。建物(ハード)が出来て地域福祉活動が始まるのではありません。建物をつくり、事業を立ち上げる職員の姿勢と志(ソフト及びハート)がまさに、地域福祉活動を促進させているのです。
緊張感はありましたが、意外に慣れていらっしゃる自己紹介でした。
もちろん2次会も開催致しました!中途半端には帰れませんものね!?
新規事業を展開する当法人では、今が新規採用面接のラッシュです。その際、応募して下さった方々から何度もお聞きした話の要旨に、経験豊富な指導者がおらず十分な指導を受けていない、ここでは自分が成長しない、と思ったので当法人の採用面接に応募したといったものが多く存在しました。
その様にお話しをされた方には透かさずに次の様に質問しています。「そうですか、それは大変でしたね。ところで、ご自身はその間専門書を何冊手に取られて読まれましたか?独自にどのような研修を受けて来られましたか?」。残念ながらそれに対する多くの答えは、自己研鑽の実践が皆無であることが殆どでした。追い打ちをかける様に思わず嘯いてしまいます。「それでは、経験豊富で優秀な指導者の下にいても、その方の指導を十分に受け取ることはできませんよね」。
学ぶことは、教え手の問題であると同時に、学び手の問題でもあります。インストラクショナルデザインの様に、教え手の専門性を高める視点に立てば、学び手が正しいという原則に立って実践することが求められる訳ですが、学び手が自らの動機を高めて強く学びたいと思い行動しなければそこには限界が生じるはずです。
優秀な指導者が、優秀な実践者を生み出すのではなく、優秀な学び手が、優秀な指導者を上手く活用出来た際に、その才能を開花させているようにも思われます。指導者が凄いというのは間違いありませんが、その方について才能を開花させた学び手は更に凄いのだと私は認識しております。先生も凄いのだが、それに応える生徒はもっと凄いのだと。
昨日たまたま見ていたNHKの番組を見ながらその様なことを思い出しました。競泳日本代表ヘッドコーチの平井伯昌氏は、専門外の体験や知識を選手に伝えるのだそうです。マネジメントの本を選手に読ませたり、美術館の絵画鑑賞に連れて出かけたり、大人の集まる会に連れて出る等。平井氏いわく、競泳選手なので競泳のことだけを考えていればそれで良いというわけではなく、様々な経験と競泳を繋ぎ合わせて考えることが出来る選手が強くなる。競泳と関係ないことは一切しないと言った選手は強くなれないのだそうです。
学生から社会人になり、競泳に必要な体力や技術は向上するが、それだけでは結果が出せないと平井氏はおっしゃられていました。それとは違う分野の出来事を自ら分析して、それを競泳のヒントに繋ぐことが出来る、その様な選手が伸びるのだと。著名な北島選手も然りで、競泳以外の様々な分野の人たちと交流しながら、それをただ単にプライベートだと競泳と分けて考えているわけではなく、その経験を競泳に生かして結果を出しているとおっしゃられるのです。その様な応用力が彼にはあると。
つまり、学び手に如上の応用力がなければ、どの様な指導者の下であっても多くを学びとることは出来ないでしょう。
しかし、応用力はどの様に身につけるのか?その第一歩は、目標に向かって信念を持って歩んで行こうとする志の高さにあるような気がしています。今は出来ていない、しかしいつかは到達したい。だからこそ、今を懸命に自己研鑽している志。いつかきっとこうなりたい、だからこそ毎日を投げ出さずコツコツと積み上げている実践。その飽くなき向上心と、志が学び手に応用力を身につけさせるのかも知れません。
優秀な指導者が、優秀な実践家を生み出すのではなく、優秀な指導者のもとには、志の高い実践家が集まるのです。
※『仕事学のすすめ』「『人間力を高めるコーチング」第3回 ほめずに育てるコミュニケーション術」トランスレーター:勝間和代氏 語り手:平井伯昌(ひらいのりまさ)(競泳日本代表ヘッドコーチ)
本放送 11月18日 PM10時25分〜PM10時50分(教育テレビ)
ある大臣の発言をめぐって、野党より猛烈な批判が巻き起こっている今日この頃です。実はあの発言の場に自身は立ち合っておりましたので、色々と感慨深く勉強になる側面もありました。
発言の内容自体は、国民感覚からして許し難いものでしたし、こんなこと言ってもいいのかな?、と不安感を持ちながら話を伺ってもおりました。発言内容が不適切であることは自明の理です。
私が勉強になったと感じる側面は、それが例えどのような状況であったとしても、その発言は独り歩きし、取り上げられるといった事実にあります。そもそも発言とは、一方的なものではなく、受け手との相互作用によって成立するものです。受けて度外視の一方的な発言をする政治家はいないでしょう。よって、その場の受けての雰囲気によって発言者は発言を変えてしまう傾向があるわけです。久しぶりの地元に帰られて、多くの支援者を目の前にした際、それが“冗談”として許される空気があり、その場で発した言葉であっても、その言葉は独り歩きし、別の場所で取り上げられます。それが言葉の重みであり、発言に対する責任なのでしょう。
特に人前で話すことの多い講師業に従事する者は、自戒の念を持って如上の問題に触れる必要があります。かつて、前職における大恩人より、「お前は人前で話すことの重要性を理解していない!」と叱咤されたことがありましたが、まさにそのことを自覚せずして人前での発言は許されないのでしょう。
福祉教育や啓発活動を担うことのあるソーシャルワーカーの実践においても、そのプレゼンテーション能力が不可欠であると言われています。人前で話すことの多い私たちも、自分の発言に責任を持たねばなりません。
自分の発言に責任を持つとは、その発言が独り歩きしても、別の場で取り上げられたとしても、その正当性が説明できること、そのような発言をすることではないでしょうか。自身の信念に基づいて、自身が正当性のあると考える思いを吐露すること、そしてその結果に責任を負うことを決っして発言することが、言葉の重みに繋がるのです。
F=P=バイスッティクの「バイスティックの7つの原則」における第一の原則が「クライエントを個人として捉える」です。当法人の経営理念に掲げている憲法13条においても個人の幸福追求権が謳われていますし、ソーシャルワーカーのミッションとも言われている権利擁護における要諦は、個人の尊厳保持の支援であり、自己決定の尊重であると認識しています。
その人なりの幸福を一体だれが判断するのかなどは自明のこととして本人が決定するべきものです。クライエントの問題はクライエントにしか解決することが出来ないものであり、私たちはそれを傍で支援・調整する役割を持つに過ぎません。
このようなことを整理すれば、対人援助職にとって最も大事な視点は、クライエントの個別の価値や思いを大切にすることであると言えそうです。では個別化の対義語は何でしょう?おそらく画一化がこれに当るのではないでしょうか。しかしながら、私にはもう一つ注視したい言葉があります。「普通」や「常識」という言葉。
私の中にある「普通」や「常識」の定義は、100人いれば100通り、1,000人いれば1,000通りのそれがあるとの認識です。理論的・科学的に1億2千万人の「普通」や「常識」などは存在しません。であるにも拘らず、なぜ人は必要以上にそれに捉われて生きているのか?また、それは誰にとっての「普通」や「常識」なのか?といったことを10代の頃より私は悩み考えてきました。この度は次の記事を読んだ際、そのようなことを思い出しました。
「(大学では)最近は友だちと一緒でないと食堂で昼食をとれない学生が増えている。ランチメートを確実につくるため、昼休み前後の授業科目が友だちと同じになるようにカリキュラムを組む学生も目につく。一人で食べるのがつらいのではない。一人で食べているところを知人に見られるのがつらいのである。
一人でいる人間には価値がない―。
若者たちの間にはそんな見方が広がっている。自らの生活の充実にとって、個人的な能力や経済力より人間関係の方がはるかに重要と考えている。個々人が内面に持ち合わせている知識や技能、道徳性や倫理といったものではなく、どれだけ豊かな人間関係を持っているかによって、人間としての価値が決まるという発想である。
人間関係を偏重し、過剰と思えるほどの価値をそこに見いだすようになったのは、比喩的に言えば、人間関係の自由市場化(流動化)が進んだからである。人間関係上の制度的な拘束力が弱まり、自らの意思に反した関係に縛られることが減ってきたからである。(中略)制度的な枠組みがかつてのように関係を保証してくれなくなったということでもある。(中略)人間関係は、自己責任のもとに個々人がゼロから構築しなければならないものになっている。
(中略)安定した物差しを見失った人々は、それに代わって他者から受ける肯定的な反応、すなわち自己承認によって、自らの価値判断や行為選択を正当化しようとする。しかし、他者の評価次第で自己が大きく揺らぐということは、その肯定感の基盤が不安定なっていることを意味する。常に内面に不安を抱え込み、それを打ち消そうとさらに人間関係に埋没せざるを得ない」※。
如上の発想に加え、つまり、人間関係への過剰な偏重は、「普通」や「常識」への帰属意識もその要因であると認識しています。人から後ろ指を指されたくない、人間関係において孤立したくないという意識は、「普通」や「常識」からはみ出したくないという思いの表れであり、そのことに対する恐怖や不安に対する行動に整合性が見られます。
「普通」や「常識」は誰のためのものでしょうか?障害者の「常識」ですか?認知症高齢者の「普通」でしょうか?子どもたちの考えがそこに反映されているのでしょうか?否、そうではないようです。
例えば、先ほど私は「1,000通り」と表現した際、3桁でコンマを入れていますが、日本語を基調に考えればこれは4桁でコンマを入れた方が合理的と言えます。しかし、3桁コンマの表記が基盤となっているのはイギリス語を基調とした発想によるものでしかありません。このように社会の「常識」や「普通」は多数派のそれでしかなく、万人にとっての代物ではないことが至極当たり前のこととして理解ができそうです。
であるならば、私たち対人援助職は、社会の「普通」や「常識」とは、猜疑心を持ち一定の距離を置いて実践することが求められるのでしょう。そして利用者の価値やその思いを第一義に援助活動を実践しなければなりません。それが、「個別化の原則」であり、パーソンセンタードケアであると私は認識しています。利用者の価値や思いを大切にするとは、生活や人生における様々な判断を利用者にしていただく支援をすること他なりません。
この様に、「個別化の原則」や権利擁護の実践には、社会にある一般的な価値・意識と対峙することが求められているのです。しかし、その道のりは決して平坦なものではありません。
※筑波大学大学院教授 土井 隆義氏 中国新聞2010年10月24日
サンデーオピニオン「『ひとり』が怖い若者たち 人間関係の流動化重荷に」
朝6時の羽田空港 第二ターミナル
過日は、東京に出張後の翌日、広島市内の研修に間に合うように、朝一番の飛行機で羽田から広島まで空の便を活用しました。
驚いたのは、朝6時でもこの人の多さ。この人たちは毎日このような生活をされているのでしょうか?地方都市に長らく住んでいる人間にしてみれば非日常的な空間に感じてしまいました。
この光景を見ながら色々と感慨深いものがありました。