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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

形骸化する「在宅」定義考

2010/12/29 12:00:00  社会福祉
少し前の広島市内の風景。実はこれ、あまり大きな声では言えませんが、車を運転しながら撮影しました。
 「(前略)国土交通省と連携しながら、高齢者向けの住宅を計画的に整備し、介護サービスや生活支援サービスと連携を図っていくことが必要である。
 具体的には、高齢者住宅について、24時間対応の定期巡回・随時対応サービス、訪問看護、デイサービス等の介護サービスを組み合わせた仕組みを広く普及することで、中重度の要介護者であっても、特養などの施設への入所ではなく、住み慣れた地域で安心して暮らすことを可能とし、居宅介護の限界点を高めていくことが望ましい」※1。

 上記は厚労省が取りまとめた「介護保険制度の見直しに関する意見」から抜粋したものです。厚労省としては、国交省と連携し、高齢者住宅と介護サービスの組み合わせを推進していく意向だそうです。そのことをもって、「居宅介護の限界点を高め」、「特養などの施設への入所」を緩和させるのだと。

 ここで猜疑心を抱いてしまうのは、高齢者住宅と介護サービスを組み合わせてなされるケアと、特養にみられる施設ケアはどう違うのかということに、自身としましては、答えが見出せないからかも知れません。財源や制度の根拠には大きな違いがみられるのですが、利用者の処遇についてはその違いが不明瞭です。そして、高齢者住宅と介護サービスの組み合わせによるケアは、在宅ケアに位置付けられ、介護サービスを利用していない間の利用者の処遇についての質の保証は制度上明示されていないのです。この点は「現状での高専賃では、質を担保しているのは居室の広さや整備、構造であり、運営には関与していない。今回の(介護保険制度)改正では、入居者保護やケアの内容に焦点を当てた質の担保が必要である」※2と白澤政和氏も述べられています。このようなケアの在り方を手放しに推し進めていくと、利用者の権利侵害等の問題が急増していく可能性も否定出来ません。

 また、白澤氏は続けて述べられます。「(高専賃では)ヘルパーは、実質ケアワーカー的な同時に何人かを看ざるをえない側面が大きい。このような仕組みを、より健全で効率的な仕組みに変えていく必要がある」※2。これでは、利用者の処遇は施設ケアと何ら変化無いばかりか、施設ケアでは入所中の生活全般の質が保証されているわけですから、それよりもより劣悪な生活環境に陥る危険性も有していると言わざるを得ません。

 そして、こうなってくるとそもそも「在宅」とは何か?といったことを考えてしまうわけです。国語辞典等から引用しても、在宅介護は従来自宅での介護のことを指していました。そこから「自宅でない在宅」の概念が生じ、その後は「居宅」という言い回しが増えているように見受けられます。

 今一度、この「在宅」や「居宅」の定義を厳密になすべきではないでしょうか。その答えは、実は、冒頭の文章にも見られます。「住み慣れた地域で安心して暮らすことを可能」にするために実施するのだと厚労省も言っているのです。

 つまりこれからの「在宅」と「居宅」の定義上必要不可欠な概念は、「住み慣れた地域」の中にあることだと言えそうです。「住み慣れた地域」の中で成されないサービスは、在宅サービスでも居宅サービスでも無いと。独居高齢者と高齢者のみの夫婦世帯が急増している昨今、「住み慣れた自宅」から高齢者住宅に移り住むことは避けては通れぬ現実なのかも知れません。しかし、「住み慣れた自宅」での生活は諦めたとしても、「住み慣れた地域」における生活は継続していく、これこそが「在宅」及び「居宅」における定義の最後の生命線となるのではないでしょうか。

 私たちがそこを大切にしなければ、旧来の施設ケアのしかも負の部分ばかりを引き摺った形でのケアが蔓延してしまうかも知れません。利用者の住み慣れた地域性を度外視し、他の都道府県や市町村より高齢者住宅に移り住み、そこで介護サービスが提供されることが極力無い様注視する必要がありそうです。

 斯くの如く、介護保険制度改正における議論は利用者中心主義の視点では成されていないようです。利用者の生活は二の次であり、飽く迄財源論が主流となっているのではないでしょうか。利用者を中心とした制度設計をしない限り、我が国の介護保険制度は、世界に名立たるものとは決してなり得ないでしょう。

 兎にも角にも、高齢者住宅における利用者の処遇に対しては、その質の保証をしっかりと担保していくことが、地域包括ケアにおける最低条件となりそうです。

 「高齢者の住まいについては、老人福祉法と高齢者の居住の安定確保に関する法律(以下「高齢者住まい法」という。)という2本の法律が存在している状況であるが、利用者にとって分かりやすい体系とすることが望ましい。一定の基準を満たした有料老人ホームと高齢者専用賃貸住宅を、サービス付高齢者住宅として高齢者住まい法に位置付け、これらの住宅について、サービス内容の情報開示や入居一時金の保全強化等を図っていく必要がある」※1。



※1社会保障審議会介護保険部会「介護保険制度の見直しに関する意見」2010年11月30日P.12-13
※2白澤 政和氏『シルバー産業新聞』「ケアマネジメント 白澤教授の快刀乱麻」2010年12月10日



『まちづくりとしての小規模多機能ケア』

2010/12/23 12:00:00  地域密着型サービス

『まちづくりに繋がるコミュニティケアの実践�ぁ�

最新版 地域の絆におけるコミュニティケアの定義
 前々回よりコミュニティケアの具体的実践例をお示しした上で、その在り方を模索する作業を行っています。前回までは特にコミュニティケアの技術としてのケアマネジメントを通した実践についてお話してきました。地域住民・商店・ボランティアを巻き込んだ利用者支援の実践です。この点について一つだけ補足しておきます。現実的には、インフォーマルな社会資源へのアプローチに敷居の高さを感じている方も多いのではないでしょうか。本ブログでご紹介した2事例では、発掘・開発に成功した社会資源のみを挙げていますが、水面下では、門前払いを受けたことや、度外視されたこと、冷や水を浴びせられたことも多々ありました。私たちの経験則上では、約50%の成功率です。この数字を高いと思われるか低いと思われるのかは皆様方次第ですが、少なくとも声をかければ2人に1人が協力して下さっていることを実感しています。そしてこれらの実践は、私たち専門職から声をかけない限り生まれることはありませんでした。その意味において、コミュニティケア実践の第一歩は、「声をかけることから始める」と言えるかも知れません。まさに、地域住民の家の扉を一つずつノックしていくことから始まると言えます。扉の向こう側には、他者の生活に関心を持たない住民が住んでいるかも知れませんし、誰かの役に立ちたいとウズウズしている住民がいるかも知れません。確率は決して低くはないにもかかわらず、私たち専門職は声をかける前から、「どうせ・・・」と、諦めているのではないでしょうか?専門職だけの力では利用者の生活支援が成し得ないこと認識し、地域住民へのアプローチを決して諦めない実践が今求められています。そして、その実践は確実に利用者の生活の質を高めることでしょう。協力してくださる地域住民はあなたの傍に必ずいます。成功体験を積み上げることで、地域の強みを引き出し、利用者が安心して暮らせるまちづくりに寄与していただければと願っています。

 ここからは、ケアマネジメントに依らないコミュニティケアの在り方を考えていきます。2006年1月に長崎県大村市のグループホーム、2009年3月に群馬県渋川市の老人ホーム、そして本年3月に札幌市北区のグループホームで火災が発生し、多くの利用者が命を落としました。防火・消火における環境設備や避難経路の確保等、ハード面による対策は欠かせませんが、職員のみによる消火活動・避難誘導には限界があるのではないでしょうか。特に夜間における対応は非常な困難を伴います。必要なハード面の整備を基調としながらも、災害時には地域住民からの協力が不可欠であると認識しているのです。「地域の絆」では、自治会の防災訓練時に、事業所の防災訓練を開催し、事業所における災害時の状況を地域住民に理解していただけるよう努めています。消火器を使った消火訓練では、事業所利用者・職員も参加させて頂きます。この様な関係を積み上げていくことで、当事業所に災害ある時、何人かの地域住民は駆けつけて下さるのではないかと淡い期待を持っているのです。事実、緊急連絡簿をいくら整備していても、職員が駆けつけるよりも早く駆けつけることができるのが地域住民ですので、この点は是非協力を要請したいところです。自治会との同時・協働訓練を開催するために、私たちは運営推進会議の場を活用しました。実は直接依頼をかけた際、ある地域においてはあまり良い返事を頂くことが出来ませんでした。そこで、再度運営推進会議の場で、事業所の現状を切に説明し、了承に漕ぎ着けることが出来たのです。運営推進会議の場には、地域住民のみならず、利用者・家族・行政職員・地域包括支援センター職員・その他専門職が同席しています。その場で、依頼をかけると地域住民は断りにくい傾向にあるようです。少し姑息な手と思われるかも知れませんが、よく考えてみて下さい、地域密着型サービスは専ら日常生活圏域内の利用者にサービスを提供する類型です。地域住民もいずれ私たちの事業所の利用者となる可能性が高いわけですから、今のうちにしっかりと意見交換を行い共により良い事業所づくりを担っていただかなければなりません。それこそが、住民自治の実践に繋がっていくはずです。

 事業所における緊急時は、災害に限った事ではありません。例えば、「無断外出」「離設」等の「徘徊」も時間の経過とともに、利用者の生命をも脅かす緊急性を持っています。警察庁の調べては、「徘徊」によって年間905人の方が行方不明のままか、その死亡が確認されています(2004年データー)※。「地域の絆」のある事業所では、ご家族の同意を得た上で、自治会の総会の場で、「徘徊」により行方不明になるリスクの高い利用者の情報を公開し、利用者を見かけた方に事業所まで連絡をしていただく等の依頼を行いました。ただ単に、「徘徊」される利用者に困っているといったメッセージが伝わらない様、「徘徊」には無目的に歩き回るといった意味があるが、実際はそうではなくご本人なりの目的があって出歩かれていることを説明し、Aさんは家に帰ろうとされて出歩かれ、Bさんは仕事に行こうとされて外出される旨具体的に説明させていただきました。そうすることで、認知症の方に対する偏見を少しでも軽減させることが出来ればと考えたのです。利用者の安全確保の目的のみならず、認知症の方の生活を直接理解していただくことで認知症に対する偏見を低減させる試みです。総会や回覧板にて、利用者のお写真・外出の目的・歩いて行かれる方角等の資料を配布させていただきました。

 その結果、利用者が一人で外出されているとその旨知らせに来て下さることや、利用者の手を引いて事業所まで連れてきて下さる方、話し相手をして時間を稼いで下さる方が日常的に見られるようになりました。私が事務所にいる際も、「回覧板に載っていたおばあさんが、あっちへ向いて歩いているよ!」と教えに来て下さることがあります。地域住民のあまりの手厚い支援に事業所職員が甘えてしまっている側面も否めませんが、今のご時世、介護職もこの程度のやすらぎを頂いたとて、罰は当たらないかな、とも思う昨今です。


※『キャラバン・メイト養成テキスト』NPO法人地域ケア政策ネットワークP.27 2007年8月


「理解」することの意味

2010/12/18 12:00:00  社会全般
コミュニティホーム仁伍が竣工しました。ロゴマークのある位置が、法人本部の事務所です。
 2006年5月6日の私の手記には、ある方から叱咤された様子が書かれています。表題は、「『理解』するということ」です。次のような要旨が綴られています。

 ――――最近の若い人は、言ったことをすぐに「理解」するね。簡単に「そうですか・・・。○○なんですね」と。しかし、真に「理解」しようと思えば、その様な反応にはならないはずだ。様々な考察を脳裏に張り巡らし、「うーん」と考え込むに違いない。物事は本来直ぐには「理解」に到達しない。

 これはある著名な方とお会いした際、その方に仕事のアドバイスをいただける機会がありました。その時に彼がおっしゃられた助言に対して、「なるほど、よく分かります」と反応した際に彼が述べた言葉です。最近の若者は直ぐに分かりましたというが、本当に分かっているのか?そんなに浅い話をしているつもりはないのだが…、という意図で話されているわけです。言われた折、しまったと思い、その後自宅に帰って色々と考え込んで手記を残しておりました。

 私は毎日の生活の中で、人と話した会話の中身や、新聞・雑誌・テレビの内容、様々な事象を観察する中で、気づいたことは手記を残しています。パソコンの「ワード」に入力し続け今や400頁に到達する勢いです。そして、時折ファイルを開いてパソコンの画面上で眺めるのです。今日はこの部分に目が留まった次第です。

 前回のブログでお示ししたように、理解したことを示すには、理論や実践を自分の言葉で言語化出来ることが一つの指標となるようです。それが出来なければ「分かった」とは言えないはずです。その為には、多忙を極める実践の中で原点を忘れたままでは非常にまずく、立ち止まり深慮する実践が強く求められます。

 「たとえば、学生から『分かっているんだけど、言葉では説明できないんです』と言われることがある。世の中には言語化しにくい理解ももちろんあるのだが、私の授業では言語化できることしか教えていないので、『それは分かっていないことだよ』と言う。学生は不満そうな顔をする。
 そこで、受講生全員に対して、私の授業では次のようなことができたときに『分かった』とみなすということを説明することにしている。
 ◇その定義を言えるようになる(丸暗記でもOK)。
 ◇その定義を自分の言葉で言い換えられるようになる。
 ◇その定義にあてはまる例と例外を区別できるようになる。
 ◇その定義の例を自分で考えられるようになる。
 『分かった』ことをここまで具体的に定義すると、『分かっているけど説明できない』と主張する学生はいなくなる」※。

 近ごろ、人前で話す機会や職員の指導・教育場面が増えています。学び手に「理解」をしてもらうことの責任と難しさを痛感している毎日です。その折に、改めて「理解」することの定義と意義を再確認したのが今日のブログです。

 学びは本来非常に奥深きものです。であるからこそ、学び手と同時に、教え手の責任は更に重大です。「分かる」ために、教え手は学び手に如上の観点で「理解」させる必要があるのですから。

 そして、その責任の帰すところは、学び手と共に教え手にあるのです。


※島宗 理氏『インストラクショナルデザイン 教師のためのルールブック』米田出版 P81-82 2007年6月



コミュニティホーム仁伍正面玄関

 グループホームでは、ユニットごとに玄関が設けられています。生活の中で最低限必要な段差は、敢えて残しているのが特徴かも知れません。

風致地区なので、緑がたくさんあり、癒される空間となっています。

ユニットの名前は、「楽♥楽」と「遊々」に決定です。

帰納から演繹への狭間で

2010/12/11 12:00:00  社会福祉
認知症介護研究・研修仙台センターに御邪魔してきました。諸先生及び諸先輩方の話に感銘を受けて帰りましたが、まだ頭の中が整理されておりません。
 非常勤講師先の大学や、専門職教育の場で最近よく口にすることがあります。おそらく自身の中だけの一種の流行なのかも知れません。

 「その人らしさの支援」、「尊厳を保持した支援」、「利用者本位の支援」、「生活支援」、「自立支援」、「権利擁護」等々。認知症ケアの場面のみならず、対人援助職における現場では、如上の言葉がよく使われています。実践において重要なのは、これら煌びやかな言葉を目の前の利用者に対して体現していくことにあるのですが、そのためにはまず、この抽象的用語を実践レベルの言葉に置き換えることが求められるはずです。しかしながら、実践現場ではそれが成されていないのではないかと問いかけているのです。

 奥川幸子氏によれば、自らの実践を言語化できる専門職は「第4段階」の中で「第3段階」の専門職※1と位置付けられているように、自らの実践を自らの言葉で言語化する作業が専門職には求められているはずですが、どうもそのことが現場では促進されていないように見受けられます。

 「その人らしさ」とは一体何か?「尊厳の保持」とは目の前の利用者にどのようなアプローチをとることを指すのか?「生活」とは何か?「自立」とは?このような設問に答えられぬ以上、その実践は絵に描いた餅でしかありません。前職の尊敬する上司の言葉をお借りすれば、それはもはや「言葉の遊び」に過ぎません。「その人らしさの支援」をしますと意気込むだけで、何かそれに近づけたような、それが実践されているような気になっているだけでは、専門職として哀しいものが込み上げてきます。

 少し別の視点でよく申し上げているのは、ソーシャルワークや、ケアマネジメントについても同様のことが言えるわけです。私が大学生の折、同級生がソーシャルワーク実習に入っていました。その時彼は、実習指導者であるソーシャルワーカーに、「ソーシャルワークって一体何だと思われますか?」と問うたのですが、返ってきた答えは「よく分からないんだ」、といったものでした。ソーシャルワークをよく分からずに、ソーシャルワーカーとして仕事をしている人々が当時は多くいたように覚えています。十数年経った今ではどうでしょうか。ケアマネジャーに、「あなたにとってのケアマネジメントは何ですか?」と問うて、期待出来る答えが返ってくるでしょうか?以前のことですが、同様の質問を自法人のケアマネジャーにしたところ残念ながら期待すべき答えは返ってきませんでした。

 若輩浅学の私です。正しい答えを持ち合わせているわけでは断じてありません。また正解がないのがこの仕事の醍醐味であることも認識しております。問題なのは、自分たちが大切にしているものは何なのかを認識した上で、その実践レベルにおける定義を自らの言葉で言語化していないことにあります。奥川氏いわく、それを福祉専門職以外の領域の方にもわかりやすく説明できるほどに※2。

 前出の上司に夕食をご馳走になる機会がありました。もう彼此1年ほど前のことです。その際に如上のような話に発展しましたが、「昔の人間はそれが言語化できていた」と彼は仰っておられました。つまり、認知症ケアの走りの時代、現場で利用者のために懸命に実践してこられた諸先輩方が如上の理念型の言語を作り出したのであり、その当時は当然の如く、その言葉の意味を説明することが出来たはずだということです。自らが作り上げた言葉を説明できない者はいないと。

 若輩にとっては、非常にためになるお言葉でした。認知症ケアや対人援助職における現場は、今や帰納から演繹に向かう道程であることが理解されたのです。

 帰納とは、個々の具体的実践から一般的に通用する理論・法則を導き出すことを言いますし、演繹はその逆で、一般化された理論から特殊な理論を推論し説明することを指すことが謳われています。

 それら理念型の言葉は、1990年代以前に現場の実践の中から帰納的に創出されたものなのでしょう。そして時代が流れた昨今、その帰納の過程を知らぬ世代が第一線の現場を担っているため、抽象的用語は実践レベルに言語化されることなく絵に描いた餅として機能し始めているのではないでしょうか。私たちは、今一度、諸先輩が構築された「その人らしさ」や「利用者本位」、「尊厳の保持」、「生活支援」といった抽象的言語を実践レベルに落とし込む演繹的作業を実践する必要があります。

 これも元上司の言葉です。「先輩が構築した理論を、全く進化させずに活用するだけであれば、それは盗人猛々しい行為である」。現在私たちが実践現場で活用している理論は、百数十年に渡って諸先輩方が実践の中で蓄積されてきたものです。それを実践に生かし、そして活用する中で、更に熟成させ、それを後進に受け渡していくことが専門職としての社会的責務なのでしょう。逆説的に言えば、理論を全く知らずに実践している者は非常に“罰当たり”なことをしていると言えます。

 「その人らしさの支援」「尊厳を保持したケア」「利用者本位」を自明の如く掲げ実践している私たちですが、その言葉を今一度実践レベルの言葉に、自らの言語として落とし込むことが今強く求められているのではないでしょうか。

 ――――「介護福祉の専門性を考察するためには、二つの視点がある。一つは理論から考察する場合である。つまり介護福祉の専門性とは何かの問い(定義:理論)から演繹的に見ていく方法である。二つは実践の場から実証的に見ていくこと、帰納的に見ていく方法である。すなわち帰納的方法とは、一人の生活の事柄をよく見る。そして他の事例から共通の因子を見いだして法則性を見いだすのである。学問はこの両者を併用して構築するのである。すなわち理論は実践の場で生かされなければならない。一方実践は理論的な根拠(エビデンス:evidence )をもって行われる。つまり専門性は理論と実践は統合的になることで裏付けされる」※3。


※1 奥川幸子氏『身体知と言語 対人援助技術を鍛える』中央法規 P448-572 2008年8月
※2 奥川幸子氏『身体知と言語 対人援助技術を鍛える』中央法規 P454 2008年8月
「臨床実践のダイナミクス(目に見えない、かたちにならない世界)を根拠だてて映像的に言語化でき、異なる職種や領域への伝達が可能になる」
※3日本介護学会記念講演「介護福祉における専門性」―生活自立支援からー
浦和大学客員教授 黒澤 貞夫氏
社団法人日本介護福祉士会ニュースVol.84(2008年2月15日金)より



信頼の絆と便利さの関係

2010/12/04 12:00:00  社会全般
 最近ソーシャルキャピタルの著書をよく手にしています。東北大学の著名な先生のご講義を受けて以来、自身の実践に照らして鑑みると頭から離れぬ概念となっているからです。

 ソーシャルキャピタルはよく、社会関係資本と訳されていますが、人と人との絆や関係を資本と見立ててそれを増強することを目的として使われているようです。

 人間生活における豊かさは、経済的指標のみでは測れません。懐が温まれば、人の生活が豊かになるわけではありません。人の生活が豊かになるためには、経済的自立のみならず、健康・文化・社会関係・生活技術・信教・政治等の分野における自立が不可欠であることは自明の理です。つまり、経済的な豊かさは、人を幸せにする一つの手段に過ぎないのです。おそらくは、人の豊かさを図るもう一つの全く違った指標としてソーシャルキャピタルは存在するのでしょう。だからこそ、私はその魅力に取り憑かれているのかも知れません。

 写真は、法人本部の所属する仁伍町内会のあるゴミステーションで思わず撮影したものです。いわゆるゴミ捨て場に、ゴミ出しにやってくる住民の心を少しでも安らげて差し上げたいとの思いからお花を植えておられます。お花を植えるのみならず、その前に掃除をし雑草を刈っているのです。これは誰に頼まれたわけでも、決まり事でもありません。住民が自らのご意志で、行動されているのです。素晴らしい取り組みだと思いませんか。心が温まりませんか。豊かな気持ちにならないでしょうか。この様な素敵な取り組みが皆様の地域の中にも沢山あるはずです。しかし、私たちは忙しさの中で、その豊かさを感じることなく生活しているのかも知れません。このような豊かさに目も触れず、また重要視せずに私たちの生活は成り立ってはいないでしょうか。このような行動はお金にならぬ取り組みかも知れません。が、このような豊かさを大切にせずして、私たちは本当に幸せになれるのでしょうか。私たちが生きていく上での豊かさは、実は身近なところに沢山あるのです。そのことを把握し、理解する。そしてそれを増強していく取り組みがソーシャルキャピタルなのだと若輩ながら理解しているところです。

 12月1日にコミュニティホーム仁伍が開設しました。近頃は便利なもので、入り口とトイレの照明はセンサー式になっています。ご存知の通り、来客があればセンサーで明かりがついてくれます。私も夜間出退社する際に助かっています。一方で、隣の地域福祉センター仁伍の玄関にはセンサーが付いていません。向永谷も宮浦西もそうですね。

 センサーが付いていないセンターでは、来客時職員さんが気を利かせて電気をつけて下さいます。センサーが付いていないからこそ、そのような気配りを図ろうと思い行動するのでしょう。では、センサーが付いてしまったらどうでしょうか。ひょっとするとそのような配慮は埋もれてしまうかもしれません。そのようなことの無いようコミュニティホーム仁伍の職員さんには期待を寄せたいと思っております。

 同じ原理で企業では、わざと自動ドアを設置していないところもあると聞きます。手動にして、従業員の方が絶えず気配りをして開閉するのだそうです。それが人間関係の信頼の絆を醸成するのでしょう。これはビジネスモデルの発想かも知れませんが、この取り組みはおそらく直接収入には結びつかない実践であると言えます。その点においては、ソーシャルキャピタルにおける実践のヒントにもなり得るかも知れません。

 如上のように私たちの生活は便利になりました。しかし、決して豊かにはなっていないように見受けられます。経済成長を成し遂げて便利になることのみをもって、私たちの生活が豊かになることはありません。それは手段であって目的ではないからです。

 地域の中で誰もが排他・排斥されない地域社会。困っている方をお互いに支え合える地域。上記事例のように地域住民が豊かな取り組みをしている際、それを認識し、感謝し、増強し合える地域。そのような地域の絆を紡いでいくことが真の豊かさに繋がるものと信じている若輩です。


実は、ごみステーションそのものが地域住民の手作りです。

 地域住民手作りのゴミステーションだからこそ、皆さんで大切にされているのではないかと私は考えています。補助金で業者に委託して作ったゴミステーションであれば、このように大切にされないのかもしれません。

 このゴミステーションは地域の誇りです。私はそう思います。住民の方にも是非そう感じていただきたく存じます。

このような些細なところに幸せは存在します。

 どなたが考え取り組みだしたのか・・・。私はこういったことに幸せを感じる人間です。皆さんはどうですか???
中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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