2011/09/30 12:00:00
地域密着型サービス『小規模多機能ケアの可能性』
今まで連載してきた『まちづくりとしての小規模多機能ケア』ですが、この度はその総括のお話をさせて頂きます。
地域密着型サービスの運営目的を一言で言い表せば、それは地域ケアの実践となるかと思います。2012年の介護保険制度改正を意識すれば、それを地域包括ケアと言い換えても良いかも知れません。地域包括ケアは一般に、「地域住民が住み慣れた地域で安心して尊厳あるその人らしい生活を継続することができるように、介護保険制度による公的サービスのみならず、その他のフォーマルやインフォーマルな多様な社会資源を本人が活用できるように、包括的および継続的に支援すること」※1と定義されているものであり、利用者の生活支援を専門職のみで行う視点ではなく、地域の企業・商店・住民をも巻き込んだ形で展開されていくべきものであると明示されています。そのことを通じて、地域住民の理解や協力を促進し、その意識の変革をも試みる実践です。
生活支援における「生活」は本来非常に幅広いものであり、福祉や介護の専門職だけでは到底守れるものではありません。そのことの限界をしっかりと認識した上で、他分野における専門職及び地域住民との連携をもって利用者の支援を行う視点が今まさに求められているのでしょう。
連載中お示しさせて頂きました様に小規模多機能型居宅介護(以下「小規模」)のケアマネジメントには、見守りや軽微な家事支援等を地域住民に依頼することで、利用者の生活の質向上と事業所運営の安定化を図る事が出来る素地があります。地域の絆においても、独居世帯・高齢者のみの夫婦世帯・多くの問題を抱えた世帯に属される利用者の支援に際しては、なるべく多くの地域住民の協力を要請した上で行うことにしています。
また、地域ケアの視点で事業所の運営を鑑みれば、「徘徊」時見守りや、災害時の協力等を住民から得る事ができ、事業所運営の安定化にもそれが寄与することに繋がります。私たちの事業所では、お一人で外出された利用者を事業所までお連れ下さる住民や、職員に知らせに来て下さる住民は決して珍しくはありません。
かてて加えて、地域ケアは対象者を限定しない共生ケアの視点も有しており、高齢者に限定しない支援機能を保持することによって、地域の多様なニーズに可能な範囲で対応できる様になり、やがてそれが地域住民との信頼関係の構築へと繋がっていくことでしょう。地域の絆各事業所においても、不登校・発達障害・触法といった課題を抱えている児童の受け入れや、障害を持たれた方の就労訓練の場として、「小規模」が地域に機能している姿を報告させて頂きました。
如上の体験的学習を通じて地域住民に意識の変革を促進する可能性も地域ケアは秘めており、地域ケアの実践を突き詰めるとそこには、誰もが自分らしく安心して暮らせるまちづくりに行き着くことも理解されます。利用者の日常生活圏域内で、その居宅での生活に対し、「通い」「訪問」「宿泊」「ケアマネジメント」の機能を臨機応変に組み合わせて支援を行う「小規模」には、この地域ケア実践の素地があると確信しております。
地域の絆の実践の中で、その推進力となる姿勢は、「とにかくやってみる」というものでした。地域の要援護者を地域住民の協力のもと支え合っていく実践は、口で言うほど簡単なことではありません。そのためには、日々の地域住民との交流が欠かせません。悩むべきは、何を手掛かりに交流すれば良いのかにあるのではないでしょうか。よく地域住民のニーズに応じた実践が取り沙汰されますが、そんなものは端から知る由もありません。ましてや、コミュニティアセスメントという実践的概念が確立されている様子もないのです。その中にあっては、一人の住民のニーズからでもいい、まずは暫定的にニーズを捉えて、とにかくやってみるという姿勢が欠かせないのではないでしょうか。
地域の絆では、事業所ごとに年3回のイベントの運営を行っていますが、活動する中で、�―嗣影瓜里慮鯲�が出来ていない、�∪ぢ經屬慮鯲�が出来ていない、��子どもの育成に必要な地域活動がない、といった形で捉えるニーズが変遷しております。対人援助におけるニーズも同様、大切なのは初期のアセスメントではなく、実践の中での関わりとしてのモニタリングや再アセスメントにあるのではないでしょうか。ニーズは常に流動的で可変的なものなのですから。
であればこそ、捉える事の出来ないニーズの把握に紆余曲折する前に、地域に実践を「投げかけていく」ことから始めるべきでしょう。できない理由を考えて何もしないのではなく、気軽な気持ちで仕掛けてみることが地域交流の第一歩なのだと私たちは理解しております。
それが、連載でもご紹介したペットボトルのキャップ回収であったり、子どもを対象にした書道・茶道等の教室、子ども会の会議場としての事業所の提供、広報誌作成における住民の参画等の実践に該当します。何でも結構です。地域に投げかけて、その反応を見ながら次に投げるものやタイミングを計りながら、また次を投げかける。その様な実践が求められているのではないでしょうか。
もちろん志なく、無造作に投げかけてもそれは決して響くものではないでしょう。私たちがどのような姿勢や思いで地域住民と向き合っているのか。そのことは絶えず問いかけられていることでしょう。「小規模」には素晴らしい「素地」があることを2年6か月の連載を通じてお伝えしてきたつもりです。しかしながら、その「素地」を生かすも殺すもそれは、私たち実践者の姿勢や取り組みに依るものと言えます。
※1 財団法人 長寿社会開発センター『地域包括支援センター業務マニュアル』P.9 2010年3月
物事の顚末には、必ず因果関係があるとの認識を永らく持って生きてきました。つまり、成功や失敗の背景には必ずその要因・原因があると。偶然に成功したり、失敗することは原則的にはあり得ないとの考えを重要視していますので、例えば見えない世界のオカルト的なお話には全く興味がありません。特に、失敗を体験した際はその要因分析を非常に大切にしています。地域の絆の苦情処理票(当法人内では「さわやか処理票」と呼んでいます)や、インシデントレポートの全てに目を通してはその要因分析を行う毎日です。そこに地域の絆の弱点や盲点、課題が見えてきますので、そこを修正することでこそ、法人の成長が図られるのです。いや、それを真摯に受け止め対応策を講じることでしか、法人の発展はあり得ないとさえ考えます。まさに、「失敗は成功の母」であり、「ピンチはチャンス」であるのです。
日清食品と言う会社は、親戚が勤めているということもあって、個人的には身近に感じている会社です。今日の新聞では、世界初のカップラーメンが発売されて40年が経つ旨が書かれていました。そこには以下の様に、日清食品の創業者故安藤百福氏の仕事に対する姿勢が描かれています。
「丼と箸で食べるという常識をどう覆すか。寝ている間も枕元に紙と赤鉛筆を置き、ひらめきを書き留めた。『一心不乱に考える』が発明の原点だったという。即席という言葉の裏の、壮絶な努力と試行錯誤の積み重ねを思う▲敗戦後の冬空の下、湯気が上がるラーメン屋台にできた人だかり。人々の満たされた笑顔に胸打たれ、安藤氏の挑戦は始まった。『いつ眠るのか不思議だった』。実験小屋での父を息子の宏基氏は振り返る」※1。
いみじくも今日の中国新聞。日本銀行広島支店長の米谷達哉氏のコメントに次のような件があります。
「科学における偉大な発見や発明も、ダイナマイト、ペニシリン、エックス線など最初のきっかけは、ちょっとした偶然から始まっているものが多いという。
こうした『偶然に幸運な予想外の発見をする才能』をセレンディピティー(serendipity)というが、それは決して単純な偶然ではない。『幸運は常に用意された人にのみ訪れる』とはフランスの細菌学者パスツールの言葉である。つまり、1回しかない偶然の中に普遍的な意味を読み取るためには、読み取る側の意識の中にそのための準備ができていなくてはならないのである。(中略)偶然訪れた機会をチャンスとして捉え、ものにしてやろうという鋭い観察力と強い目的意識があったからこそと考えられる」※2。
「一心不乱に」日常的な努力と準備を貫徹した安藤氏の発明を、偶然の産物から生まれたと考える人とは私は馬が合いそうにありません。「日常的な努力と準備」と抽象的な表現で書きましたが、それは自身の夢や希望、目的を達成するために毎日熟慮することではないかと若輩浅学ながら考えているところです。より深く、深く掘り下げて物事を考え抜くこと、苦悩から逃れることなくそれと真摯に向き合って悩み抜くことにこそ、そのヒントが隠されているような気がしています。
福島原発事故において、除染作業が遅々と進みません。除染における費用の総額は、数十兆円から百兆円は下らないと一部メディアからは報じられています。森林や河川を一体どのように除染すればよいのか、課題は山積している様です。この失敗は、偶然の帰結でありますまい。ましてや、偶然で片づけられる状況でも断じてありません。
失敗の因果関係を深く掘り下げて考え抜き、批難から逃れることなく、その声に真摯に向き合い悩み抜く姿勢が求められています。でなければ、いつかはやって来るであろう「偶然に幸福な予想外の発見」の機を私たちは逸してしまうことになります。
※1 「天風録」『中国新聞』2011年9月18日
※2 米谷達哉氏「今を読む」『中国新聞』2011年9月18日
10年毎に区切りをつける発想は、十進法を選定しているからに過ぎない。よって、十進法を選定していない民族にとってみれば、10年とは然程大した意味を成さない。あるジャーナリストが確かその様な事をおっしゃっていました。それを今思い起こすと言うことは、その発想に自身も賛意を持っていることになります。しかしながら、マスコミが数多取り上げている「9・11から10年」の今についてここでは少し触れておきたいと思います。
私が最も着目するのは、ブッシュ氏の言う「正義の戦争」の「正義」にあります。「正義」とは一体何でしょうか?「普通」や「常識」においても同様のことが言えますが、それは「誰にとっての」ものなのかによって、その内実が大きく変化するのは自明の理でしょう。ブッシュ氏にとっては正義であっても、アメリカのある市民にとってはそうでは無いかも知れませんし、私たち日本国民にとっての正義も異なっていたはずです。中東の国々にとっては、どうであったのでしょうか。この辺りの検証は、この「10年の節目」にて清算しておく必要があるでしょう。
よく政治家が「国民のために」と言いますが、その際も、“どの層”の“何処に所属している”国民のためであるのかをしっかりと見据える必要があるのではないでしょうか。どこに負担を求め、どこを優遇しようとしているのか、私たち市民は矯めつ眇めつ見ていかなければなりません。
抽象的で、耳触りの良い言葉に流されることなく、それを具体的に再言語化していくことがジャーナリズムの使命であると認識していますし、延いてはそれは国民の責務であるとも認識しています。
社会福祉の現場においても、「利用者本位」や、「その人らしさの支援」、「権利擁護」、「尊厳の保持」、「自立支援」等の言葉が飛び交っています。クライエントを目の前に、どのような具体的実践が如上の実践に繋がるのかが理解できなければ、その実践は画餅に帰してしまうことになります。
私たち日本人は、特に、耳触りの良い抽象言語を、具体的な言語へと再定義をする習慣を持たなければなりません。そのようなことを省みながら今「10年目」を迎えます。
我々人類は バカ
過去・現在・未来 バカ
正義はあったのか バカ
正義は勝ったのか バカ
くり返し くり返し くり返し 歌う ※
※1 「皆殺しのメロディ」THE BLUE HEARTS 作詞・作曲 甲本 ヒロト氏
当法人では、職員さんはお子さんと一緒に出勤することが可能です。専門の託児所があるわけではありません。利用者の生活空間で利用者と職員と共に過ごすのです。なぜ、そのようなことをしているのか?目的は4つあります。
�/討箸靴討凌Π�さんが、自身の仕事を子どもに見せることができ、子どもと関わりながら仕事が出来ることで、子どもに対する教育的効果が見込めかつ安心して働くことができる。
��核家族化が進む中、高齢者と接点を持たない子どもが多く、経験を積み上げられた人生の先輩としてのご利用者に接することで、宇宙の摂理や人間関係の多様性を無意識に理解することができる。
��子育ての経験及び能力が高いご利用者が多く、ご利用者の居場所と役割が創出できる。
�す睥霄坩奮阿涼�であっても、気軽に立ち寄れる場所であることを地域住民に理解していただくことに繋がる。
要するに、�/Π�にとって、�∋劼匹發砲箸辰董↓M�用者にとって、�っ楼莉嗣韻砲箸辰椴匹い箸いηЪ韻納汰�しているわけです。
その子どもたちの対応を聞くに見るに、私たち専門職が忘れている大切なことに気づかされることが今日ありました。ある職員はいいます。少しだけ咽せた利用者の背中をさするし、少し気になる表情を利用者がされたら「大丈夫ですか?」と気配りを見せる。当たり前のことを子どもたちはしてくれると。
私たち専門職は、少しだけ咽せた利用者の背中をさするでしょうか?もちろんそのような実践を大切にされている方を私は多く知っています。しかし、そうでない方もいらっしゃるのではないかと振り返って考えました。専門職であるがゆえに、あの程度の咽せは“タッピング”に値しないと、見守るだけであったり、取るに足らないと看過してしまっていることがあるように思われます。利用者の表情が気になっても、いちいち問い掛けなくとも、その思いは分かっていることを前提に、見守るだけの対応に終始していることは無いでしょうか。
私たちの生活は、その行為が必要か必要でないのかをいちいち専門的観点から考えてなど営まれておりますまい。気になるから声をかける。大丈夫だよと、安心感を与えるために体をさする。これらは、生活の中における極自然な営みなのでしょう。
中途半端な専門性を身に着けてしまった私たちは、その至極当たり前の営みを何処かに置いてきてしまっているのではないか。そのようなことを考えさせられた、ある職員さんからの発言でした。
「ビオラ」の皆様によるフォークダンス
盛り上げていただきとっても感謝しております。華やかでとっても可愛らしい衣装で、会場の雰囲気がとっても和やかになりました。
有難うございました。
息のぴったりと合った踊り
おそらく練習を積み重ねておられるのでしょう。とっても息が合っていました。俄仕込みで一緒に踊れるレベルではありません。
ところでここは…。道路??
そうです。空間がなくとも地域交流は出来るのです!!
よく、コミュニティスペース(空間)が無いので、地域交流が出来ないとのぼやきを耳にします。確かに、無いよりは断然に有った方が良いと認識しています。ですので、地域の絆各センターには余分な空間を必ず設けているのです。
でも、空間がなければ交流が出来ないのかと言えば、そうではありません。やはり、最後には、そこにいる人々の意識と志が無ければ、交流促進は成されることが無いのでしょう。
そういう志ある、地域住民、そして職員に、感謝・感謝の毎日です。
毎年恒例のビンゴゲーム
地域福祉センター仁伍の職員さんが、応援に駆け付けてくれ、司会進行を行いました。
昨年よりも上手な進行です。
来年も皆様是非ご参加ください。よろしくお願い申し上げます。