昨今の政治・経済を端から見ていると、全てにおいて理念や目的の欠如が伺えます。
社会保障費を目的に消費税を増税する。否、今は景気が低迷しているので時期尚早だ。そうだ、これでは選挙に勝つことができない…。政界においては、税と社会保障についての議論が御盛んですが、そこに崇高な理念を感じることが全くありません。ではなぜ、社会保障費が必要なのか、と言った目的についての議論がなされている様には見えませんし、その場限りの場当たり的な議論に終始しているようです。飽く迄も、素人見解ですが、社会化された人々の生活に課題が発生した際、それを社会的責任の下、支え合う仕組みが社会保障であり、それは確実に格差の是正に繋がる営みであると認識しております。社会保障の一つの役割は格差是正にあると若輩は認識しております。問題なのは、格差是正の仕組みとしての社会保障を目的として、格差の増大を促進するであろう消費税の増税を行う論理的破綻に多くの人々が異議申し立てをなさない点にあります。税の基本は累進課税です。多くの収益を上げている人は、社会の中で一定の恩恵を受けているからこそその収益を上げることができます。また収益が上がるか上がらないかは、多分に社会の情勢・時勢にその影響を受けているものです。ですので、その分それは社会に還元すべきであり、多く“儲けた人”は、その分多くを“収める”ことでその“儲け”を社会的に承認されることが許されるのだと認識しています。アメリカのハーバード大学では、サンデル教授が大人気だそうですね。この点をもって、時代の変遷に気づいたところです。消費税はその真逆の発想を持つ税であり、こちらは逆進性の課題をもっていると言われています。これは累進課税ではなく、金持ちも貧乏人にも均等に課せられる税なのです。単純に言えば、年収700万円以下の人々は、消費税を増税されれば生活が苦しくなり、年収700万円以上の人は所得税を増税されると懐が痛む構造となっています。つまり、消費税の増税は確実に格差を増大させることが明確に理解されます。そしてその格差を抑制する社会保障費の確保を目的に、格差を増長する消費税の増税を図るというのです。
外交にしても然りです。北方領土問題にしても、沖縄米軍基地問題にせよ、全て場当たり的で理念が全く見えません。人口減少社会に突入し、経済大国から一歩後退しつつあり、しかも資源を持たない我が国にとって、将来武器となるのは、軍事力や経済力ではなく、技術・知識・思考力等の目に見えないものに価値を求めそれを高めることではないでしょうか。特に他国に負けない優れた理念を持ち、それを貫徹する実行力を見せつけることが、外交には欠かせないと認識しております。残念ながらそれが感じられないのです。
目的や理念を決めることには膨大な時間と労力が不可欠でしょう。今社会全体が、実はそれを非常に惜しんでいる様に見受けられます。すぐに答えが出なければ不安になるのか、即座に結果や、見返りを求めたがる社会になっている様な気がしています。即効性の無いものや、短期的に生産性の低いものを軽んじたり、馬鹿にしたりする風土が醸成されているのではないでしょうか。事実、大学では、人文学や社会科学系を志す学生が減少傾向にあると聞きます。就職に不利な結果が出ているからだとか。しかし、今最も大事な視点は、社会を捉え、自らの人生をじっくりと腰を据えて考え抜く力であると認識しております。私は、科学の発展と人文学の発展は、反比例の関係にあると予てから考えておりますが、人文学が停滞・衰退した今こそ、その重要性に着眼すべきではないでしょうか。
「技術はどんなに高まろうと、目的の下にある」※。大学時代にこの詞集を拝読して以来、いつも記憶に残っている成句です。目的即ち理念なき技術は、その意味を成さないばかりか、時には害悪になり得るものであることは歴史が証明している事実です。原子力技術は、今どのように生かされていますか?かつての本ブログで、科学者がその技術を革新させるには、そこに理念や目的が無ければならないと書きました。その技術が社会にどのような影響を与え、そして使われるのか、そのことにまで責任を負わなければそれは知識人としては失格だと。理念なきテクノロジーは暴走する。これも私の恩師の口癖ですが、全くその通りですね。
私たちは、時間と労力を惜しむことなく、理念について議論を交わす必要があります。場当たり的、近視眼的な実践では、これ以上社会は持たないように認識しています。私も今一度考えてみたいと思います。私は、何のために生まれ生き、そして何のために働いているのか?
※むのたけじ氏『詞集 たいまつ』評論社 1997年6月 P.13.
外部連携と人材育成
今まで4回に渡って職員管理・育成についての持論を吐露させて頂きました。今回がまとめの最終章となります。前回の育成方法の検討では、育成全般に対する考え方と、経営者や管理職でも容易に取り組める実践例をお示しさせて頂きました。今回はその続編として、外部との連携を活用した育成の方法に触れてみたいと思います。
外部との連携と言えば、専門的技術としてのコーディネーションやネットワーキングがあります。双方とも、「連携」「協働」「繋がり」を意図した技術です。その中でも、コーディネーションの有効性として例えば社会福祉士養成テキストでは次の様に書かれています。「クライエントからみた有効性」として、「❶多様なニーズの実現性、❷密室化によって生じる支配的援助関係の緩和、❸援助利用過程の煩雑さの緩和」、そして、「援助者からみた有効性」においては、「❶各援助者の役割の明確化、❷新しい役割・思考の発見、❸援助者間の相互援助の獲得」が挙げられるとのことです※1。
障害の定義に生活モデルが導入され、以来、福祉・介護専門職には生活支援の視点が強く求められています。しかしながら、生活とは質的・時間的にも非常に幅が広く一人の専門職や一機関のみで支えることが出来ないのが現実です。であればこそ、法人内部のみならず外部連携の必要性が生まれてきます。そして、その連携は利用者のためのみならず、職員に対しても有効性が認められると如上のテキストでは記されているのです。異なる環境で培われた専門性や組織性に触れることで、新しい考え方や気づきを獲得することが出来ますし、異なる視点で相互助言を行うことも可能となるでしょう。また、法人内部であれば上司と部下の関係が大なり小なり顕在し、組織内に良好な人間関係が構築されていなければ、法人内において誰にも相談することが出来ない状況下で、孤立してしまっている職員も少なからずとも存在するはずです。法人内部では本音で相談ができないことも、外部連携を通して、同じ立場や同じ悩みを抱えている職員同士が、悩みや情報の共有を行うことができ、延いては、そのストレスマネジメントにまで発展することはよく知られている事実です。地域の絆では、外部連携は人材育成の契機に繋がることを強く認識し、積極的に外部連携を奨励しています。
外部連携による利点
人材育成に当たっては、組織の規模や情勢に応じて、そのやり方は多様であることは言うまでもありません。ただし、大規模法人であれば、人材マネジメント部門を別途設けた上で、人事部等の担当者が人材育成を計画的に実施することが出来ますが、小規模法人になるとそのような対応は非常に困難であり、人材育成はシャドーワーク化し、十分に機能していない所も多くあるように思われます。では、小規模法人においては人材育成が出来ないのかと言えばそうではありません。外部のネットワークに参画し、共に研修を企画・運営することや、相互に見学・実習依頼を行うなどの育成を実践する方法があります。マンパワーと財政の充実していない小規模法人でも、積極的に外部との連携を図ることで、人材育成を充足させることが出来るのです。逆説的に言えば、小規模法人は、外部連携なくして、十分な人材育成を行うことが困難な状況にあると言えるかも知れません。
小規模法人による外部連携の利点は大きいのですが、大規模法人にも実は多くの利点を見て取ることが出来ます。�〇拉枦�援助関係の改善、�∧亳�した関係性・組織性の修正、�B召遼/佑凌Π�に対する敬意の醸成、�ぅ�ライエントの支援に役立つことで、職員負担の軽減、と言った4点がその顕著な例ではないでしょうか。
�,了拉枦�援助関係とは、本来対等であるべき職員と利用者の関係が支配関係に陥りやすい状況を指しています。職員から何らかの支援を必要とする利用者は、職員に比べて判断能力や身体機能が低下傾向にあります。端的に言えば、判断能力があって体力のある職員と、そうではない利用者の両者にはパワーバランスの欠如が存在するのです。私たち専門職には、しっかりとその事実を受け止めた実践が求められています。職員側が意図して、一歩も二歩も下がって受容的態度で臨まなければ、そこに対等な関係は構築できないでしょう。前回お話した地域の絆の「接遇の3つのルール」は、それを意識化してもらうために設けたものです。
しかしながら、内部の指導・教育では限界があると筆者は考えます。介護・福祉事業所では、閉ざされた空間の中、支援をする側とされる側の二つの立場が24時間365日“同居”しているのが現状です。そんな中、知らず知らずの間に、利用者をモノ扱いしてしまうことが陋習化してしまう現状が見受けられます。職員が自身の意識化を幾ら試みたところで、また経営者・管理職がその働きかけを継続したところで、やはり環境要因に起因する限界が生じてくるものと認識しております。その環境要因を除去してくれるのが外部連携であると考えるのです。
研修や見学、実習を通して、外部の職員と接する機会を持つことにこそ、無意識の中で固定化されつつある支配的援助関係に気が付く契機を得ることが出来ます。スウェーデン・デンマーク・フィンランド等の福祉国家における施設では、その食堂で日中、地域住民と利用者が同じ席についてランチを食すのだそうです。これはもちろん利用者の生活支援の継続性を担保した実践ではありますが、外部の人材を積極的に施設内に受け入れることで、支配的援助関係を改善することも視野に入れられていると聞いています。そのような視点を私たちも持つべきではないかと思います。
�△蓮⊃Π�間の関係性及び組織体質の問題です。介護・福祉業界においては、要援助者という立場や状況の限定された利用者のみを対象に、限られた専門分野の専門職との連携のみで事業の運営が出来る状況にあります。しかし、そのことで、分野特有の凝り固まった考え方に縛られ、新しい視点や考えが組織内に芽生えにくい体質が醸成されているのではないでしょうか。専門職としての価値や法人理念を見据えながらも、外部の新しい視点を積極的に取り入れることで、内部の意識改革を適宜行う必要があります。
�△亡慙△垢觧訶世箸靴騰�があります。密室化に陥りやすい私たちの分野では、自身の評価は組織内部で受けることが専らで、外部の目で評価を受けることが非常に少ない状況にあります。また、他法人等の外部職員の仕事ぶりや姿勢を目にすることが非常に少なく、自身の実践の客観的評価指標が見えにくい現状も否めません。法人内部の評価指標が絶対的に“正しい”指標であることを祈りますが、閉ざされた業態が多い中、そこに若干の齟齬が生まれることは避けられないものと認識しています。つまり、唯我独尊的に陥ったり、独り善がりの実践を生じさせてしまう素地があるのです。そこで、外部連携を図ることで、大変な思いをして頑張っているのは自法人の職員のみならず、他法人の職員も同様であることや、熱心に自己研鑽しているのは自法人のみならず、他法人でも同様に、またそれ以上に研鑽されていることを認識することが出来ます。それらの営みを通して、他法人職員に対する尊敬の念を醸成することが出来るものと信じています。
��ができれば、�い寮�果を享受することが出来るようになります。外部と連携が取りやすくなり、利用者の紹介や情報の共有が気軽に出来るようになります。自法人のみでは十分な対応が出来ない利用者であっても、他法人との連携を図ることでそれが可能になり、延いては、職員負担の軽減につながります。また、各サービスの制度上の知識のみでは、利用者の紹介は出来ません。その法人や事業所の方針や、担当者の考え方の理解なくして、具体的な連携を図ることは困難です。例えば、医療依存度がどの程度の方であれば受け入れが可能なのか?BPSDの状況によって受け入れが可能か否か?など詳細点まで理解しなければ、適切な利用者の紹介がなされず、結果、利用者はたらい回しにされ、職員も疲労感のみが高まる結果が予想されます。そこには、サービス・制度の理解のみならず、専門職同士の顔と顔の見える関係が必要なのでしょう。その意味において、職員同士の顔と顔の見える関係を促進する外部連携は、職員の相互支援の機能を担っているとも言えます。
以上如上の� 銑い魎佞澆譴弌⊂�規模法人のみならず大規模法人の人材育成においても、コーディネーションやネットワーキングと言った外部連携が不可欠であることが理解されるのではないでしょうか。
事例の紹介
地域の絆では、大きくA市・B市・C市の3市内にあるネットワークに参画させて頂いております。それぞれの特徴は表に示す通りですが、これを見て頂ければ多様な連携の方法があることがご理解いただけると思います。
まずA市での取り組みですが、地域密着型サービスと地域包括支援センターのネットワークとして創設されました。地域密着型サービスが創設されて約1年後に2名の発起人名にて、市内の全事業所に結成会議への参加を呼びかけたところ80名程の方の参加がありました。その場で事業種毎に2名ずつの世話人を選出してもらい8名の世話人会を結成しました。以後世話人会を中心とした組織運営が始まります。このネットワークの特色は、非常に緩やかな繋がりであるという点です。設立趣意書と役員名簿があるのみで、組織の会則を設けていません。また事業所を対象とせず、そこに勤めている職員個人を対象としていることも特徴です。事業所を対象にしてしまうと、規模が大きく力のある事業所が中心となってしまい兼ねませんし、そうなると個別の事業所同士の関係性に会の運営が左右されることになってしまいます。その様なネットワークには多様性は生まれず、すそ野を広げた幅広い方々の参加が望めなくなります。それを避けるために、事業所単位ではなく個人単位で参加する体系を取っているのです。
よって会議・交流会・研修等の参加については、市内の全対象事業所に案内を発送しています。つまり、会員・非会員の区別もないのです。市内にある全ての対象事業所に呼びかけを行い参加したいと思われた方は、どなたでも参加することが可能です。その様な民主的組織運営を大事にしているのがこの会の特徴と言えるでしょう。
年度によっても異なりますが、平均すると年6回の研修と年2回の交流会の場を設定しています。毎回の参加者数は、研修等のテーマにもよりますが、60名前後の方に参加頂いております。テーマによっては、行政職員や民生委員に参加を呼び掛けることもあります。例えば「運営推進会議の進め方」と題したディスカッションでは、冒頭30分程度で市が望む「運営推進会議のあり方」について市職員よりご講義いただき、その後グループワークでディスカッションを行う際にも、各グループに市の職員に入っていただいたこともございます。この様に会の催しを通して、ネットワークがつくられて行くことを実感しています。この様な企画は、毎回の研修アンケートをもとに世話人会で年度毎に計画を立て運営を行います。
B市においては、現時点では小規模多機能型居宅介護事業所のみによるネットワークづくりを行っています。良心的で懐の広い事業所が事務局を担っており、会則を設け、全ての事業所に均等に役職が付くよう配慮した上で運営を行っています。また会員の定めはあるものの、事業所毎に入会し、市内の全ての事業所が入会していることに特色があります。会費は年会費10,000円を徴収し、これを運営費に充てています。ですので、研修毎に参加費の徴収は行っておりません。また、この会では、研修を行うのはA市の取り組みと同様ですが、定期的に事業所管理者が集まる会議を設けています。そこで、管理者同士の悩みや問題の共有と助言が展開され、事業所毎の「空き」情報の共有も行われています。この会を起点に、小規模多機能型居宅介護に限定されない幅広いネットワークの構築もなされています。
C市における特徴としては、小規模人口の基礎自治体を基盤としていることもあり、事業種別ごとのネットワークでは参加者数が限られていることもあって、介護保険のあらゆる事業体がネットワークを組んでいることが特徴です。それぞれの立場の違いから、多様な視点と意見が積極的に出される為職員教育としては有効に機能しているように感じています。また事業所数も限定的であり、顔と顔の見える関係も一定程度は構築できています。であるからこそ、当ネットワークにおいては、職員の共同求人説明会の企画・運営や、法人間の職員実習・見学の相互受け入れを積極的に行うことが出来るのでしょう。この様な取り組みは、ある程度信頼関係が構築されていなければ出来ない取り組みですが、人口規模が小さいことによって、事業所・職員同士が顔と顔の見える関係になりやすいことが功を奏しているように思われます。
連携と言う名の育成
最終回の今回は、ネットワークを活用した育成について考えてみました。法人内部の連携を高めるためには、法人外部との連携を高める必要があると筆者は考えています。両者が相互作用の関係にあることは、ソーシャルキャピタルなどの文献を読めば明らかな事実と言えます。職員の人材育成は、利用者の生活支援と同様に非常に尊いものであると認識しています。一職員や一機関が全てを背負いきれるものではありません。無論、その責任から逃れることを勧めているのではなく、経営者や組織の責任をしっかりと見据えながらも、そこで補いきれない部分は、外部との連携で担保していく視点も持つ必要を感じている訳です。
今年4月から地域包括ケアの実践が希求されることとなります。利用者に対する良質なケアのためのみならず、職員同士の相互教育・支援のためにも私たちは積極的に外部連携を図る必要があるのです。最後に、これらの実践に必要な専門性として、そこにはソーシャルワークの視点が不可欠であることを、一ソーシャルワーカーとして付言しておきます。
※1 社会福祉士養成講座編集委員会編『新・社会福祉士養成講座 第2版 8相談援助の理論と方法�供拊羆�法規出版P.78 2010年2月
公私共に大変お世話になっているあるロールプレイングの研究者は、福祉・介護専門職の考える力と気づく力を高めることの必要性を説かれています。確かに、対人援助職に必要なのは、クライエントの思いを察して知る力であったり、クライエントの背景にある課題について深く考え抜く力であると認識しております。逆説的に言えば、それだけ福祉・介護専門職の考える力や気づく力が低下しているのかも知れません。当法人の職員の指導・教育をさせてもらう際も実はそのように感じることがあります。深く物事を掘り下げて考える。一般的な見地から全く違った視点で考え直してみるといったことが不得手な職員も少なくはありません。
なるほど、福祉・介護専門職は考える力が低いと言えるのかも知れません。しかし、では、社会全般を見渡した際、他分野の方々の考える力は高いのか。
昨今の新聞を眺めながら、そうではないことに気づかされます。今朝は、広島市内のホテルで朝を迎えたため朝日新聞を手に取りました。
有名な「天声人語」には、「ミャンマー」の民主化について次の様な件があります。「(前略)▼さて、ミャンマーの民主化である。悪名高い軍事独裁が長く続いた国の豹変ぶりに誰もが驚く。国際社会という観客に民主化を演じつつ、裏で舌を出しているのではないか。疑念がすっきりとは消えない▼アウンサンスーチーさん率いる野党の『勝利』が伝わってくる。だが、これとて『公正で自由な選挙をアピールする狙い』との見方がある。補欠選挙だから圧勝されても与党の優位は揺るがない、と。見る目が意地悪に過ぎようか▼スーチーさんは初めて国政に参加する。一歩前進で、民主化への弾みもつこう。とはいえ、強制と恐怖で支配してきた軍政による憲法は残る。『投票用紙(バレット)は弾丸(ブレット)より強し』という民主主義の理念を真に実現していくには、いらざる遺物だろう▼『私たちはふつうの暮らしをしたいだけなのです。他人の邪魔をせず、不安も恐れもなしに』。スーチーさんは以前、民主化を求める人々の気持ちをこう代弁していた。兆した春を冬に戻してはなるまい。日本も力を貸したい」※1。
「ミャンマー」の民主化を願う尤もらしい記事ですが、そもそもいつからビルマを「ミャンマー」と呼ぶようになったのでしょうか。民主化を願うと一方では声高に言いながら、軍事政権が名づけ、奨励する「ミャンマー」という名称を顧みず用いる姿勢には疑問を呈さざるを得ません。マスコミは、そして世論、民衆はなぜこんなことも考えなくなったのでしょうか。「報道ステーション」の前身「ニュースステーション」の久米 宏氏は当時、――私はビルマと呼び続けます――と公言されていたのを記憶しています。なぜ、こんなことすら考えなくなったのか。知らされていなかったから?そうやって原発の問題についても民衆は言い訳をしますが、知ろうとしなければ理解など出来るわけがない。自らがその一端を構成する社会の在り様を自らが主体的に思い考える営みが希薄化しているのではありませんか?
同じくトップでは、「市長選 役所ぐるみ」と題して、「橋本徹大阪市長の依頼を受け、市職員の政治活動などの実態調査を進めてきた市特別顧問の野村修也弁護士ら第三者調査チームが2日、最終報告を発表した」※2、と続きます。昨秋の市長選で橋本氏と争った平松邦夫前市長が、当時の副市長や区長ら幹部が組織ぐるみで選挙を支えた実態を調査し、その証左を掴んだとの記事です。「チームは業務用メールの調査や各職場への立ち入り、職員からの聞き取りで実態解明を進めた」※2と報告されているようですね。例えば、当法人で良からぬ事態が起こったとしても、このような恐怖政治的、強権的、高圧的な手法はまず採り得ません。真の問題解決に繋がるとは到底思えないばかりか、組織があまりにも画一化され、却って組織力の低下を招く恐れがあるからです。それに、ここまで調べる時間と労力は、費用対効果を考えても無用な活動の様に思えます。大阪市民はこのような労力と費用の捻出をどのように考えておられるのでしょうか。
3月30日、自宅で読んだ中国新聞では、「3人の死刑執行」の記事。「小川敏夫法相は29日、東京、広島、福岡の各拘置所死刑囚3人の刑を執行したと発表した。千葉景子法相在任中の2010年7月以来1年8カ月ぶり。民主党政権では2回目。小川法相は執行後に記者会見し、『刑罰権は国民にある。国民の声を反映するという裁判員裁判でも死刑が支持されている。法相の責任として死刑を執行すべきだという方の規定になっている』と述べた。関係者によると、27日に執行の命令書に署名したという」※3。
私は、ソーシャルワーカーとして、福祉専門職としての立場から死刑廃止論を謳っています。予てから人の人権や命には例外を設けてはいけないと考えているからです。犯罪被害者にも想像を絶する悲しみや憤りの感情があります。これは誠に正当な感情です。私たちはそれを受け止めながら、丁寧に支えていく必要があります。そして、その上で、このような事件が二度と起こらない対策を社会的に考え講じる必要があるのです。それは死刑を執行することでは、成しえないことであると認識しています。また死刑の一つの欠点は、冤罪で刑を執行してしまった場合、それが全く取り返しのつかない状況に帰結する点です。原発の問題も然り、人間が行う以上、我々は必ずミスを犯します。であればこそ、推定無罪の原則が司法にも存在するのでしょう。また、見せしめの様に人の命を軽く扱えば、その行為は社会に共鳴し、人々の普遍的な人権を侵すことに繋がると自身は理解しています。仮に、どの様な命であっても、決して軽んじてはならない。その強い意思の共有が、豊かな社会を醸成すると信じています。
さて、だらだらと書きましたが、社会は今立ち止まって考えることをしていないと自身は考えます。いや、考えることを拒否しているようにも伺えます。自身の社会のことを、そして、自身の子や孫に引き継ぐべき社会のことを、あまりにも他人事のように見ているのではないでしょうか。
何処かの救世主が出てきて、世の中を変えてくれることなどはあり得ない夢物語です。自らが悩み、考え、その末に、創り出すしかありますまい。日本の教育システム自体が、考える力を奪っているとの見方も出来ますが、それでも私たちには自らのために考えて生きる責務があります。
実は、「考える」一つのヒントは、クライエントが持っていると私は考えます。認知症の分野では、パーソンセンタードケアが叫ばれていますが、真なるクライエント中心主義で社会を見た際、そこには今までに見たことの無い風景が広がっているはずです。多様な視点と角度から見なければ、物事の真なる姿は見えてこないはずです。しかし、私たちは、容易く手に入る一方的な情報だけで全てを判断しているのではないでしょうか。そうではなく、全く違った角度から物事を自身で捉え直すことも大切な営みです。1億2800万人の普遍的価値などこの世には存在しないはずです。であるにも拘らず、私たちは、「普通」や「常識」に捉われて生きています。実は、「普通」や「常識」も偏った一面的な存在にしか過ぎません。そこから自由に、自分の頭で考え、気づくこと、そして、自分の思いに耳を傾けることが、真に豊かな社会構築へと促進させるのだと考えております。そして、そのことはきっとクライエントが教えてくれるのだと。
利用者本位、権利擁護、クライエント中心主義、パーソンセンタードケア、エンパワメント…。これらも福祉現場では皮相的に捉えられており、深く考えられる機会が奪われている言葉であると認識しています。今一度、ソーシャルワークの視点で、これらの言葉を一緒に捉えなおしてみませんか。
※1 「天声人語」『朝日新聞』2012年4月3日
※2 『朝日新聞』2012年4月3日
※3 『中国新聞』2012年3月30日