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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

時間軸を超えたビジョンの共有を!

2012/07/27 16:17:41  社会全般
過日訪れた三原市本郷町の夏祭り。花火と演奏のコラボレーションは感動的でした。

 心の安らぎの一つ。それは、大学の恩師が発行されている新聞を読むことです。「試行社通信」と銘打たれたその新聞は、文章がぎっしり詰まったとても読み応えのある新聞です。どちらかと言えば私自身も書くことが好きなタイプですが、先生はまさに書くことが“異常”なまでにお好きなのだと新聞を見ては思う毎日です。

 未だに先生の文章にアンダーラインを引きながら、また余白にコメントを書き込みながら拝読しておりますが、本日目を留めたのは次の条でした。

 「早い話が、福島原発事故に関して責任をとった人間がただの一人でもいたのでしょうか。責任のなすりつけあいは盛大におこなわれる一方、誰一人、自らの責任に言及することさえしなかったではありませんか。(中略)実をいえば、原発事故といったタイプの大参事の場合、誰も責任のとりようがないのです。(中略)まして放射能汚染は短期間で消滅するものではなく、数十年から数百年単位、もしかするとそれよりも長期にわたって持続するものである以上、その意味でも最後の最後まで事態の推移を見守れる人間自体が存在しないわけです」。

 至極当たり前のことが書かれています。先生に言わせれば、おいおい、こんなところに着目するのかね?、とおしかりを受ける箇所かもしれません。しかし、私はこの部分が気になるのです。考えてみて下さい。世の中には如上のように責任の取れない、いや、取らなくても済む出来事が数多あるではありませんか。本放射能の人体に対する影響も然り、携帯電話やリニアモーターカーによる電磁波等の影響、食品に関連する化学物質や、合成洗剤の影響などが思い起こされます。

 如上の問題は、動物実験においては“許容”の範囲と判断され実用化が図られているのですが、実は人体にどの様な影響が及ぶのかは不明瞭なままです。恐らく今後、実質的な“人体実験”が20年〜50年かけて行われた末、各地で訴訟等が起こり、「誰か」が責任を取ることになるのでしょう。しかし、当時その決断をした責任者は第一線をとっくに退いており、実質的には誰も責任を取らないばかりか、仮に訴訟に敗れ損害賠償を履行したとしても、長期に渡ってそのことで利益を上げてきた企業等は勝ち逃げの状況に帰結するように思われます。つまり、誰も責任を取らないばかりか、その問題となる活動をした側がトクをすると言う現象が起こり得るわけです。

 インターネット等の普及によって、理念や情報のグローバル化が進んでいる昨今。私たちは、地球上のどの地域で何が行われ、そして、今人類に何が求められているのか、現在進行形の問題意識を共有することが可能となってきました。しかし、一方で今現在を生きている人々と、これから生まれてくるであろう子孫との理念の共有は、未だなされていないものと認識しております。私たちが屍となったそのあとに、残された、また生まれてくるであろう人々の生活の豊かさや平和を考える視点はまだまだ浅薄な状況にあるようです。

 随分前に目にしたある賞の募集要項が手元にあります。なぜこれが、今ここにあるのか経緯は忘れてしまいましたが、その中にかかれている文章に惹かれずっと手元に置いていたものです。

 「共生(ともいき)とは…
過去も未来も考えず、今が良ければいい。そのような考えでは、先の不安はつのり、後には後悔しか残りません。(中略)祖師や祖先から受け継がれてきた“いのち”をいただいていることに感謝し、今の世界の状況を見つめ、他の“いのち”の為にできることをよく考え、実践して後世に“いのち”を引き継ぐことこそ、“ともいき”なのです。
・きょうせい…自然や他の生物と共に生きること(共棲)
      =『自然との共生』etc… =横軸(同じ時間軸)のつながり
・ともいき…きょうせい+過去から未来へとつながる『いのち』と共に生きること。
      =横軸+縦軸(過去・現在・未来)のつながり」※1。

 若輩は宗教的なことはさっぱりわかりませんが、如上の定義で考えた際は、やはり「共生(ともいき)」を考えていくことが今人類に強く求められているのだと理解しております。昔から、「子どもは大人の父なり」(ワーズワース)と言います。子どもたちの視点で社会を点検し、そして、その構築を成していくことが「ともいき」への第一歩なのかも知れません。

 知識人や為政者に今最も求められている視点。また、その偉大さを測る指標。それは、100年、200年先の今を生きる人々に説得力のある実践が出来ているか否かにあるのではないでしょうか。まさに、「政治家の人生は歴史という法廷において裁かれることでのみ評価される」のです。


※1 浄土宗「平成23年度 浄土宗宗祖法然上人800年大遠忌記念事業 『共生(ともいき)・地域文化大賞』募集要項」P.2



「国民の生活が第一」の「国民」

2012/07/16 23:46:01  社会全般
過日法人研修室で開催したプレ発表会。今年度はもう一つ全国大会の発表に一丸となって挑戦します!
 シンガー=ソングライターの宇多田ヒカル氏が、ツイッターで「キラキラネーム」と評しているらしい「国民の生活が第一」と言う名の新党。報道によれば、宇多田氏自身はこのネーミングに「批判的な考えを持っているのは明らか」※1なのだとか。更にそのツイッターには多くの批判的な書き込みが寄せられているそうで、「宇多田さんの“発言”に多くのフォロアーが反応し、ブログなどでも『キラキラネームではないけど厚顔無恥』『国民をバカにしたネーミング』など多数の意見が書き込まれ、盛り上がりを見せている。コンサルタントで著述家の城繁幸さんは、同党名について『国民の生活が第一とは当たり前のことで中身がない。粗末なプレゼントに派手なラッピングをしたみたいな名前』とし、『宇多田さんの評価は適切』と話している」※1などと報じられています。

 確かにこの新党、国民の心は掴んでいない。「共同通信社が14、15両日に実施した全国電話世論調査によると、小沢一郎元民主党代表が結成した新党『国民の生活が第一』に期待していないとの回答が計81・8%に上った。期待しているとするのは計16・5%にとどまった」※2。

 未だ不明瞭で暫定的な重点政策ポイントを見てみよう。「一、消費税増税の前に徹底した行財政改革。
一、財政出動で公共事業投資を積極的に進め、5年以内にデフレ脱却。
一、原発再稼働には慎重。再生可能エネルギー活用で原発ゼロを目指す。
一、環太平洋連携協定(TPP)反対。経済連携協定(EPA)や自由貿易協定(FTA)を推進」※3とあります。消費税反対・脱原発・TPP反対の方針は社会福祉専門職とは一致すべき内容ではないでしょうか。消費税の増税は年収700万円以下の国民には厳しく、所得税増税は年収700万円以上の国民に厳しいと言われています。また原発は一部の地域や一部の労働者の犠牲のもとに成り立つエネルギー政策ですから、「人間の尊厳」や「社会正義」におけるソーシャルワークの倫理に反します。TPPは、何処の国の「国民」のために行うのか、そこが見抜けていなければ我らが国民の権利は守れません。

 facebookにも記載しております通り、政治について若輩は「ベストよりベター」を考えます。つまり、選択においては消去法をより優位に考えるわけです。その際に、この新党の政策方針と、民主党のそれのどちらに賛同できるのかは然程難しい選択にはならないと考えます。今後の情勢によっては、不確定要素が非常に大きく判断に迷う部分もありますが、その不確定な部分を除けば、断じて新党に期待を寄せざるを得ません。

 なぜならば、以前申し申し上げました通り、「国民」のどの層の人々のための政党なのかと言う視点で捉えた際、その違いが明晰化されるのです。自身の言葉を使うまでもなく、「野田政権が重視しているのは『原発の運転』や『財政の再建』で、その背後には『官僚の意思』や『財界の意向』が『第一』の姿勢があるように感じます」※3ことは自明の理でしょう。つまり、現政権の守りたい「国民」とは、一部の利権を獲得した人々と、そして、富裕層の人々であって、それ以外の大多数の人々ではないことは明白な事実です。であれば、人気は無くとも、本新党は現政権よりはマシな存在であるということになります。

 「参院民主党は同日、このフレーズをちりばめた記者会見室の背景デザインを、ロゴマークと党名に切り替えたという。新会派『国民の生活が第一』の宣伝になることを嫌った苦肉の策とみられている」※4。この場合、民主党は「国民」のどの層の「第一」を放棄し、また包摂したのか。本ブログの読者には釈迦に説法でしょう。

 斯くの如き、「国民」なる言葉は、視点を変えればその解釈もその後の行動も全てが大きく変わってしまう取り扱い注意の用語なのでしょう。そもそも「国民」全員、すなわち「みんなの」政党などこの世に存在するのでしょうか。その意においては、この新党のネーミングを批判するのであれば、「みんなの…」の方がよほど理論的に間違っている様にも思われます。みんなの政党であるのか否かは、有権者ひとり一人が判断して決めるべきものですから。

 「国民の生活が第一とは当たり前のことで中身がない」とのことですが、その当たり前のことがここ20年ほど成されてこなかったことに最大の問題があるのではないでしょうか。

 如上のように、新党の「国民」と民主党の「国民」には、その対象者像が全く異なるという点において、同音異議の調和を成しているといえます。


※1 産経新聞 2012年7月14日
※2 北海道新聞2012年7月15日
※3 京都新聞 2012年7月10日
※4 中日新聞 2012年7月14日



不登校の何が悪いのか?

2012/07/11 18:37:56  社会福祉
過日開催された 地域福祉センター仁伍主催の 仁伍こい祭り 借り物競争はとっても盛り上がりました。


 昨年10月、大津市の中学2年の男子生徒が飛び降り自殺をした事件について世論が再燃を起こしているようです。

 大津市教育委員会及び学校の厚顔無恥な対応に世論の非難が集中しているようですが、そもそもこの事例は特殊なものとして取り上げるべきものなのでしょうか。つまり、このような市教委や学校組織の機能不全は随分と前から何人もの児童の命を犠牲にしてきたのではないでしょうか。今に始まった特異な事件では断じて有り得ません。

 例えば、西日本新聞の社説の一部をご紹介しましょう。「いじめやそれに伴う責任を容易に認めたがらない学校や教委の隠蔽体質は6年前、福岡県筑前町で中学2年の男子生徒が自殺した問題を思い起こさせる。当時も事実解明は後手に回り、町教委が設けた外部の調査委員会に委ねた。教育界の頑迷ぶりは変わっていないようである。最大の問題は筑前町の事例と同様、学校がいじめをいじめとしてしっかり受け止めていなかった節があることだ」※1。

 また、若輩浅学が、大学時代に書いた論文から引用するだけでも同様の紹介はごまんとあるわけです。
「学校側、生徒には口封じ(中略)清輝君の自殺の翌日、市教委に『突然死』と報告」(毎日新聞1994.12.6)、
「(前略)間宮校長は認識の甘さを認めながら『本人の申し出がない限りいじめとは確定できない』と述べた」(朝日新聞1994.12.9)、
「(前略)『自殺の原因は何か』という質問に対して、同校長は『いじめが主原因だったと思うが、引き金は、自殺当日午後の金銭要求や、前夜や当日の朝にお父さんが厳しくしかりつけたり、諭したことなど』と発言していた。しかし、すぐに『あ、すいません。行き過ぎました。調査中です。』と表現を和らげた」 (東京新聞1994.12.10)。
「(前略)加藤校長は十四日夜、同校内で記者会見し、『原因はいじめではなかったと思う』と語った。(中略)加藤校長は十三日、『今から思えば、いじめだった』と発言した。ところが、この夜は『落書きは一度だけで、単なるいたずら。いすを投げつけたことも、突発的なけんかだった』と前言を撤回した」 (朝日新聞1995.2.15)。

 この度大津市で自殺した男子生徒のご遺族は、生徒が亡くなったことの意味を無駄にはしたくないとの思いから、同級生3人と保護者・市を相手取り、損害賠償を求め大津地裁に提訴されているようですが、今まで亡くなってきた子どもたちの死を無にしてきた帰結としてこの度の自殺があるとも認識すべきでしょう。

 これはある特定の教育委員会や学校で起こった特殊な事件などではなく、普遍的に社会構造の中に存在する社会病理であると共通理解するべきでしょう。

 自殺の形態には多様なそこに至るまでの経緯が存在するのでしょうが、この場合の自殺は、同級生から権利侵害を受け続け、それを学校側に救済を求めたにもかかわらず黙殺されたことによる帰結であったならば、周囲の社会環境によって自殺へと追い込まれたのが事実であると言えそうです。であれば、これは単なる自殺ではなく、「学校」によって殺された殺人であるとも言えます。いや、敢えてこれは殺人であると断定すべきであると認識しています。でなければ、この度の男児の死も荼毘に付してしまうことになるのではないでしょうか。責任の所在を明らかにし、次の進歩に繋げていかなければ、今後ますますこの殺人による被害は増大するに違いありません。

 大津市教委やその学校の体質からは、この度の事件に関する反省の気配は微塵も感じられません。つまり、“失敗”、しかもこの場合は、単なる“失敗”ではなく殺人事件同様の重大な過失によるものであるにも拘らず、反省しない、改善しない組織体質であれば、この機関と学校は永遠に変革を遂げることは無いでしょう。そんな学校に皆さん、大切な子どもを預けたいとお思いでしょうか。少なくとも私はご免蒙りたい。

 当然のことではありますが、私は思います。命を削ってまで、命を賭してまで、通わなければならない学校はこの世に存在しない。命を懸けてまで働かなければならない職場もおんなじだ。

 如上で申し上げた通り、これは特定の地域に固有の問題ではなく、普遍的な問題として、市教委や学校に存在すると捉えるべきです。また、その問題は旧態依然として変革の余地がないように見受けられます。もちろん一部の例外の存在があることは、どの分野でも同じこととして言えるのですが…。

 今如上の生徒と同様の境遇に立たされている子どもたちは全国に数多いることでしょう。そして、そこで共に悩む両親も。その方々に本ブログを通して私は声高に言いたい。「もう、そんな学校に行かなくても良いですよ!」と。そして最後にもう一言、皆様が思っていらっしゃるほど今の学校は決して素晴らしい所ではないのですから。


※1 「社説」 西日本新聞 2012年7月11日



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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