「強い日本、豊かな日本をつくっていくことが私に課せられた使命」。野党第一党の党首が語ります。愛国心や愛民族心を自負する私です。言葉の意味において、それは異論のないところです。問題なのは、その内実にあるようです。
さて、「強い」そして「豊か」な国とは、どのような社会構造を有するものでしょうか。今朝目にした朝刊には「男女の平等、日本101位に下落」の記事がありました。ダボス会議を主催する世界経済フォーラムが、政治・経済・健康・教育の4分野で評価したものですが、我が国は135か国中101位に位置付けられているらしい。特に、女性の議員や企業幹部が少なく、政治の項目では110位であったとあります※1。この様な不名誉な烙印を押され、若輩の愛国心は満身創痍の思いに駆られてしまいます。権力の中枢にいらっしゃる政治家諸氏もきっと同じ思いであることでしょう。
また、過日見かけた記事には、「富裕層:日本360万人で世界2位 スイスの金融大手発表」の文字が。「スイスの金融大手クレディ・スイスが22日発表した12年の世界の富裕層件数ランキングによると、純資産100万ドル(約8000万円)以上を持つ富裕層件は日本に約360万人おり、米国に次いで2位だった。前年より約8万3000人増え、17年には540万人に拡大すると予測している」※2らしい。普遍的経済状況は衰退し、若者は就職難に喘ぎ、生活保護受給者は年々増加、自殺者や孤独死の絶えない我が国において、富裕層は増加の一途を辿っています。また、今後もさらに増え続けるであろうと推計されているのです。個人の所得格差は年々増加し、いわゆる勝ち組は“勝ち”続け、負け組は“負け”た後の支援も希薄な中、更に転落を強いられるという構造。そこに、格差を増長する逆進性の強い消費税が導入されるわけです。そして、更にフェアでないのは、勝ち組が“勝つ”理由が個人の資質や能力によるものだけではないことであり、また負け組が“負け”る理由も同様である点にあります。もちろん、資本主義社会の力学の中にあって、全ての人が“勝つ”ことなどありえないことやも知れません。であればこそ、勝ち組は時代の趨勢や社会構造の中で優位に立ち振る舞った結果、“勝って”いる訳ですから、その利益を社会に還元することが大前提として必要になろうかと思います。年収3億円の経営者と、年収300万円のサラリーマンに、収入格差ほどの能力格差があるとは私には到底思えません。であれば、年収3億円の高額所得者は、より多くの納税を積極的に実施してこそ、その利益が社会的に認められると考えるべきものでしょう。それが、累進課税の考えであり、税の基本的な考え方であると若輩は認識しています。勝ち組と負け組が生れること自体は、現下の社会では仕方の無い事かも知れません。しかし、その代わりに、“勝った側”は、時代の趨勢に助けられて“勝った”のであって、“負けた”側を支援する義務が生じるのです。その為に、より多くを社会に還元すべきであり、それが、格差を是正し、結果“勝った”側にとっても暮らしやすい社会構築に繋がるものと理解できます。
冒頭の女性に対する課題や、沖縄や岩国の問題、そして、原発事故に曝された福島の問題。これらの問題は全て、女性の問題でも、沖縄の問題でも、福島の問題でもなく、我が国における問題であるはずです。いや、むしろ、当事者(「被害者」)以外の、その状況を構築している人々こそが取り組むべき問題であるとも言えます。私の考える「強い」そして、「豊かな」日本とは、如上の人々をしっかりと支えることが出来る国体を指すと認識しております。いつも吐露させて頂いております通り、真に成熟した社会とは、多少の犠牲も許さない社会であり、全ての人々が幸せに暮らせることを目指して作られている社会と言えます。その為に行うのが、学問であり、教育、そして政治であると強く理解をしているところです。
またタイトルで「犠牲」と書かずに「被害」と書いているのは、今まさに「犠牲」になっている人々は、自ら好んで身を挺している訳では全くなく、それを強いているのは当事者(「被害者」)以外の人々でありその人々から見れば「犠牲」という表現がしっくりと来るのかも知れませんが、当事者視点から言えばこれは明らかに「被害」以外の何ものでもない訳です。斯様に、視点が変われば、物事の捉え方も合わせて変じることは、成熟した社会の構築において理解しておくべき大切な視点となるでしょう。
多様な価値観を認め、誰かを排他・排斥することなく、誰かを蹴落とすことなく、多少の「犠牲」も許さない社会を目指していくこと、その営みが根強く担保されている国こそが、「強く」そして、「豊かな」他国に誇り得る国であると言えます。またそのような国こそが、世界のリーダーたり得ると私は強く認識します。
この度は久しぶりに、私なりの愛国心・愛民族心を吐露させて頂きましたが、今朝の「天声人語」の冒頭の行を最後に引用しておきましょう。
「『知るものは言わず、言うものは知らず』という。物事を深く理解する人は軽々に語らない、との戒めだ」※1。つまり、愛国心や愛民族心を日々声高に言わない人々の心にも、その思いは存在するし、その逆もまた然りであると言うことでしょう。
※1 2012年10月25日『朝日新聞』
※2 2012年10月22日『毎日新聞』
「今ほど息苦しく、世知辛い社会情勢は未だ嘗てない。だからこそ、人々に『笑い』が必要なんだ!」。出張先の東京で一人昼食をとっていると、他のテーブルから繰り返し聞こえてきました。話を聞いていると、どうもテレビ会社の番組制作にかかるお話の様です。世相を捉えることがその仕事であるテレビ会社でお勤めの方のご発言。やっぱりそうなのか、と改めて感慨深く思い始めました。
生まれた病院は広島ですが、間違いなく私は大阪で育ちました。生後間もない時期から、27歳まで大阪で暮らし育ちましたので、大阪文化の影響を多分に受けて現在の生き方が構築されていると言えます。15年ほど前に比べると大阪の様相も随分と変わりました。キタもミナミも更に高層ビル化が進み、今も尚発展途上の「進化」を遂げているように見受けられます。しかし、それでも、東京の目覚ましい「進化」には追いつくどころか、ますます突き放されているようにも見受けられます。なぜなら、15年ほど前は大阪の人間が東京に行っても今ほどの格差を感じなかったからです。それほど、東京は一極集中して巨大化を果たしていると言えそうです。
我が故郷広島県福山市はどうでしょうか。市町村合併を繰り返し肥大化してきた人口47万の中核市は今や停滞の一途を辿っています。今後大きな「進化」などまず望めますまい。当法人が事業所を開設させて頂いている島嶼部広島県江田島市はどうでしょうか。人口2万7千のこの基礎自治体では、負債が膨らみ、労働者人口の流出が顕著な状況で、「進化」の真逆の「退化」の一途を辿っているように見受けられます。
まちづくりにおいても、基礎自治体の自己責任論を宛がおうとしているのかも知れませんが、如上の自治体格差は、必ずしもそれぞれの基礎自治体の責任ではないように思われます。つまり、大都市に有利な社会政策が根本的な要因としてあるわけです。財力の乏しい基礎自治体に十分に手厚い配分を行わず、その結果として、地域格差が広がっているように思われます。
もちろんこれは、個人における格差にも全く同じことが言えるわけです。大企業の内部留保金は年々増大し、高額所得者も同様に増加を続けている一方、年収250万円以下の人々が増え続ける社会。個人においても、そして自治体間においても格差が急速に広がっています。
もちろん、「進化」と鍵カッコを付けている意味はお分かりでしょう。それが人類にとって、人々の生活にとって真なる進化となっているのかは甚だ疑問であるという意を含んでのことです。「退化」の意味も同様に。狭い地上に敷地いっぱいに高層ビルが立ち並び、地下にも同様に街が広がるこの空間を、豊かな空間として見ることが出来ないのは私だけでしょうか。私には、江田島市の空と海とそして、人々の関わりの方がより豊かに思えてなりません。
地域や組織、そして個人間で、いま急速に格差が広がっているのです。その帰結として、冒頭のテレビ局の方のご発言が生れているのだと私は考えます。帰りの新幹線の車中、如上の事を考え今これを打っています。車窓からは、我が故郷広島のまちが見えてきました。
あれだけ事故の危険性が高いとされるオスプレイが、我が国沖縄の普天間基地に配備されました。「米新型輸送機オスプレイの配備を前に、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の周辺では9月30日も、配備に反対する市民と沖縄県警がにらみ合った。市民がゲート4カ所を封鎖していたが、機動隊はこのうち2カ所で門をふさぐ車や座り込む市民を強制排除した。
県警が最初に実力行使に踏み切ったのは、基地西側の通称『大山ゲート』。市民が28日から路上に座り込み、29日に車12台を門の前に並べていた。
30日午後1時前、100人余が座り込むゲート前に、盾を持った機動隊員約100人が横一列に整列した。『ただちに移動しなさい。従わない場合、強制的に排除します』と警告し、排除を開始。『やめろ』『同じ沖縄県民だろう』と訴える市民を数人がかりで担ぎ出した」※1。
アメリカにおいては、斯様な住宅密集地で飛行を許可していない危険な代物が、我が国の領土で飛行を続けています。恐らく普遍的な論理としては、「国益のためには多少の犠牲はやむを得ない」との思想が根底にあるものと思われます。また、この場合は、「犠牲」というよりも、「被害」と言った方が現実には即しているようにも思われます。
政治に関しては全くの素人の私ではありますが、この沖縄県民の姿と、原発被害を受けている福島の人々、そして、私たちが支援をさせて頂いているクライエント姿が被って見えるのは私だけでしょうか。
素人の私には、右や左の定義がよく分かりません。しかし、素人ながらも、今ほど革新や保守の定義が曖昧模糊としている時代は無いものと認識しているところです。であれば、右も左も本来の機能を果していないのが我が国の政治状況であると思っております。
「国益のための一部の犠牲」。これって本当なのでしょうか。そもそも、国益とは何か?古い辞書には書かれていませんでしたが、昨今の辞書には明記されているこの言葉。国益、「国家の利益」※2、とあります。では国家、「1 くに。2 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる」※3。つまり、どうにでも捉えることが出来る便利な言葉の様です。若輩は考えます。国益とは、即ち、「全ての国民の利益」であると。
如上の定義に異論の無い方にお尋ねしたいと思います。沖縄県民や福島県民、そして私たちの支援をさせて頂いているクライエントは国民ではないのでしょうか。このような酷い状況を、私たち福祉専門職はソーシャルエクスクルージョンと言っています。つまり、少数派や弱者が切り捨てられている、排他・排斥されている状況を言うのですが、クライエントのみならず、沖縄や福島県民もまさにその状況にあると言えないでしょうか。つまり、沖縄県民や福島県民も私たち福祉専門職のクライエントになり得るのではないかと感じずにはいられません。なぜならば、私たち福祉専門職は、ソーシャルインクルージョンを目指して、社会変革を実践する専門職だからです。
誰かが排他・排斥されている社会では、誰もがその立場に置かれる可能性を有する社会であると言えます。事実、皆様の地域でも、オスプレイが飛ぶことだって、原発の建設計画が始まることもあり得るのです。私たち福祉専門職は、誰かを排除する仕組みそのものを問題にしなければなりません。
一部の犠牲、いや被害を容認し、強要する社会は、常に誰かをエクスクルージョンして成り立つ社会と言えます。このような社会が、国益を生み出すことなどありますまい。「情けは人の為ならず」と言います。私益と公益は必ずどこかで繋がっているものです。国益を、全国民の利益と捉えて鑑みたとき、誰かの被害は、巡り巡って必ずや皆さんの所へ到達するはずです。
※1 『朝日新聞』2012年10月1日
※2 『デジタル大辞泉』
※3 『デジタル大辞泉』