今から表記する内容は、大時代だと世間からは失笑を買うものかも知れません。しかし、私が屍になり、そしてその更に後世においては理解される話であってもらいたいとの淡い期待をもって叙述しておきたいと思います。
まず本日の朝日新聞の紙面から以下の部分を引用しておきます。「政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大総長)は22日、海外で働ける『グローバル人材』の育成を目指した第3次提言をまとめた。小学校での英語教育の強化▽外国語教育を充実させた指定高校づくり▽大学での外国人教員の積極採用――など。月内に安倍晋三首相に手渡す。(中略)小学校では、英語を正式な『教科』にしたり、現在は5〜6年生の実施学年を前倒ししたりする拡充策を提案。下村博文文部科学相は会議後、授業時数や教員の確保策、学習指導要領の改訂などについて中央教育審議会や省内で検討を始める考えを示した」※1。
なるほど。小学校4年生からのイギリス語教育を本格始動させようと言うのですね。若輩は、大きく次の3点においてその導入に真っ向から反駁しておきたいと思います。
まず一点目は、「グローバル人材」の本質とは何かを問うべきではないでしょうか。そもそもグローバル【global】とは直訳すれば、「世界規模である様・包括的な様」のことを言うのでしょう。その際の「世界規模」とは本来であれば、言わずもがなまさしく全世界・世界中のことを指すことは小学生にも理解できることではないでしょうか。ではなぜ、イギリス語=世界と言う考えに発展するのか理解に苦しみます。世界と言えば、我が国の所属するアジア地域をはじめ、アフリカやラテンアメリカもその世界の中に含まれるはずです。また、以前からの文部科学省の方針によれば、イギリス語教育は国際理解に繋がると言われて来ましたが、それも同様に反駁されるべきことでしょう。なぜ、イギリス語を理解すれば国際理解をすることにそれが繋がるのでしょうか。中国語や韓国語を学ぶことは国際理解に繋がらないのでしょうか。
二点目は、愛民族心・愛国心に繋がる重要な問題にあります。言語は文化であることは言われ続けている事です。いみじくも、若輩も現在仕事上の目的を有してイギリス語会話を毎日の様に聞いていますが、会話の内容そのものに西洋文化が鏤められています。日本語に訳しても、日本人であればまずもってこんな物の言い方はしない受け応えの場面が散見するのです。この今こそ、日本文化に触れ学ぶべきライフサイクル期において、西洋文化とその言語を学ぶ小学生が増えることによって、日本語とその文化はきっと近いうちに崩壊の憂き目にあうと断言できます。その様にして、我が国のアイヌ語を含めた世界中の言語は喪失されていったのですから。
三点目では、世界中における言語と文化の画一化が急速に進んでいることに対する警鐘の意を表しておきます。画一化とは、主流の言語と文化が、非主流のそれを駆逐することによって進められていることを意図しますから、これは、非主流言語と文化の排他・排斥状況を意味します。言語学を学んだわけではない素人の発言ですので、ここでは次の2点を引用しておきたいと思います。
「現在、英語の国際的地位により、日本語は英語と対等な地位になく、日米コミュニケーションは『英語支配』です。言語の不平等は、両国の不平等な関係につながっており、『対等なパートナーシップ』の障害になっています。『英語支配』では日本の考えは十分に伝わりませんし、母語を使う『言語権』も奪われています。また、日本国民が熱心に英語を学んでいるのとは対照的に、アメリカ政府・国民は英語の上にあぐらをかいて、『日本語が障壁だ』とさえいうほど傲慢です。これでは、相互理解は不可能です」※2。
如上にあるアメリカと我が国の関係。これは明白な差別関係であると若輩は認識します。また、これは「言語権」という我が国の権利侵害であるとのご指摘ではないでしょうか。わが国の政府は、自ら喜んでこの「言語権」を放棄しようと言うのでしょうか。
「R. フィリプソンは、『言語帝国主義、あるいは言語一極集中状況』という書物の中で、英語国を『中心国』と『周辺国』の二つのグループに分けて論じている。いうまでもないことだが、英米両国は前者に属する。アジア・アフリカ(そして日本も)後者だ。中心と周縁の関係は、フィリプソンのことばを使うと『非相称的、非対称的』である。つまり、両者の関係は、支配と被支配の関係で、相互性はない。それは資源・情報・(科学)技術など、現代社会のシステム(あるいは世界秩序)を維持していく基本的構成要素が中心国によって支配あるいは独占されていくことを意味する」※3。
言語帝国主義という言語間における如上の差別構造を等閑に付して、無関心のまま十代の頃より私はイギリス語を学ぶ気になれませんでした。今ようやくこの歳になり、西洋圏で仕事をする可能性が生じてきた為必要に迫られて初めてイギリス語を学んでいるのです。しかし、この歳からでも十分にイギリス語を一定程度は学ぶことが可能なはずです。だからこそ、学んでいるのですが…。なぜなら、私は「一定程度」つまり、会話が困らない程度に出来ればそれで良いと考えているからです。それ以上の特殊性のある専門性の高い話や、綿密な会話が必要な際は通訳を使えば宜しいと考えます。幼いころからイギリス語を学べば、通訳など使わずとも十二分に会話が成立するようになると言われる方もいらっしゃることでしょう。それでは例えば、私たちはどれだけ十分に日本語を用いる事が出来ているのでしょうか。よく私のブログを読んで、分からない漢字や日本語があるとのご指摘を受けることがあります。そして、書いている私ですら、まだまだ未知なる日本語が存在するのです。その様な状況下において、幼年期からイギリス語を学んだとしても、私たちの日本語同様に所詮限界はあるはずです。研究者や通訳・翻訳者等の特殊な職業人を除いて、その限界に挑戦するために多くの労力と歳月を用いる事は馬鹿げていると自身は考えています。何度も申します通り、大切なのは話す中身にあるのですから。幾ら流暢な日本語を話せたとしても、内容の無いことをペラペラしゃべられてもそこから多くのことは学べません。それと一緒で、他国・他民族の人々が思わず耳を傾けたくなる話すべき内容こそを研鑽して積み上げて行く必要があります。そのことにこそ、時間と労力を割いた方が必ずや素敵な人生を全うすることが出来るのではないでしょうか。
斯様に、小学校のイギリス語教育の本格的導入は、少数派の排他排斥を奨励するものであり、そして我が国の国益を大きく損ねるものであると断言できます。愛民族者及び愛国者である私の立場から言えば、これは看過できない体たらくではないでしょうか。
そして、小学校教育において最も大切なことは、国際社会で馬鹿にされないための、理論的思考力を高める事ことが求められており、その教材として、なぜこのような言語帝国主義の状況があるのかを教えることこそが真なる国際理解に繋がるのではないかと考えます。
※1 『朝日新聞』2013年5月23日
※2 津田幸男「私の視点 『日米言語協定』の締結を」『朝日新聞』2002年1月5日
※3 中村敬「この国を『米国ニホン州』にしないために」『週刊金曜日』1997年2月7日
あらゆる学問は全ての人々を幸福にするものでなければならない。物心がついたときからそのように教わった記憶がありますし、そのことを信じて39年程これまで生きてきました。そんな私ですから、高等学校までの勉強が実にくだらなく思え、そのあり方に反発ばかりしていた嫌な思いがこと勉強においては残っています。その意味においては、大学で真なる勉強の機会を与えて頂いたことは此の上の無い幸福であったと自身の人生を振り返ります。
さて、科学も学問である以上は、ご多分に漏れず全ての人々を幸福へと導くものでなければなりますまい。しかし、現状はどうかと言えば、首をかしげたくなる事象が数多見られるのが現実ではないでしょうか。電磁波・合成洗剤・食品添加物の問題をはじめ、原子力の問題を見ればそれは明白です。そこで、素人ならではの疑問が湧いてきました。科学は、真に人々を幸せに導いているのだろうかと。
サンデル教授の影響で、ソクラテスの書籍を手に取ったり、また知人の勧めで魯迅の単行本を眺めたりしています。夏目漱石の『個人主義のすすめ』も昨今改めて読み返してみました。そして、ここに書かれている現実を鋭く捉えた本質的な主張に触れながらその凄さたるや、現代における知識人と言われる方々のそれと比べて大いに感化されるものがあることが再認識させられました。
以前のブログでも申し上げた通り、人類は科学の発展と共に、人文学の衰退が顕著なのではないかと改めて感じる毎日です。科学の発展と人文学のそれは反比例の関係にあるのではないかと。自身の人生や、自身の所属する社会、そこで感じる自身の考えや思いと向き合うことが欠如しているのがこの社会ではないかと考えるのです。それは、科学の発展による利便性と近代化によって喪失されているのだと。近視眼的な利便性を手に入れる前に、私たちは立ち止まって考える必要がある。その利便を手に入れることによって失うものは何かと。そして、その利便は世界中の全ての人々を幸福へと導くものなのかと。例えば、臓器移植の問題をどのように捉えるべきか。
そう考えれば、原発再稼働などという愚劣な発想には到達しないと思えませんか。これも以前申し上げたことですが、人間は本当に優秀な生物なのでしょうか。残念ながら、人文の衰退した人間は、地球にとって、いや宇宙にとっては非常に危険な生物でしかないように思えます。理念なきテクノロジーは暴走し、地球を必ずや駆逐することでしょう。その意において、人間は、恐竜より無能な生物であると断言できます。
「現生人類が地上に登場してまだ20万年ほどなのに、地球温暖化や森林破壊、水質汚染など急速に地球環境へ悪影響を及ぼしている。現在、毎日100種もの生物が絶滅しているとの推定もあり、『第6の絶滅期』と呼ぶ人もいる。地球史上、過去5回ある生物の大量絶滅に匹敵するというのだ。千葉工業大学惑星探査研究センター所長の松井孝典は言う。『天体が衝突してこないかを心配するより、恐竜がなぜ1億6000万年もの長きにわたって栄えることができたのか、彼らが残したメッセージを真剣に考えるべきだ』」※1。
※1 宮崎勇作『GLOBE』朝日新聞 2012年2月15日
因みに、恐竜が絶滅した要因は、巨大隕石の落下にあると言われています。であれば、これがなければ恐竜は更に長きに渡って地上に君臨したことになります。
1.なぜ地域包括ケアシステムが必要なのか?
地域包括ケアは、2012年4月の介護保険制度改正からその大きな柱とされています。ここで改めて、厚生労働省(以下厚労省という)が示している地域包括ケアの定義を見てみましょう。
「『地域包括ケアシステム』について『ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で、生活上の安全・安心・健康を確保するために、医療や介護のみならず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できるような地域での体制と定義し、『おおむね30分以内』に必要なサービスが提供される圏域として、具体的には中学校区を基本とする」※1。
「地域包括ケアは、地域住民が住み慣れた地域で安心して尊厳あるその人らしい生活を継続することができるように、介護保険制度による公的サービスのみならず、その他のフォーマルやインフォーマルな多様な社会資源を本人が活用できるように、包括的および継続的に支援すること」※2。
市町村合併によって保険者の圏域は広範になったものの、サービスの提供範囲はよりコンパクトに抑えて行こうとする営みであり、クライエントの住み慣れた地域での生活を継続的に支援する視点が強く伺えるものとなっています。また、「生活上の安全・安心・健康を確保する」ためには、医療・介護のみならず(フォーマル・インフォーマル如何によらず)多様な生活支援サービスが不可欠であることが明記されていることも大きな特徴と言えるでしょう。ここには、�.�ライエントの住み慣れた地域における継続的な生活支援と、そのために必要不可欠な、�▲侫�ーマル・インフォーマル如何によらぬあらゆる社会資源を活用する双方の視点が不可欠であることが理解されるでしょう。
東西南北に伸展し、かつ列島化している我が国においては、「地域」とひと言に述べても多様な状況が存在します。その意において、我が国の地域包括ケアモデルは多様に存在し、如上の厚労省の定義のみでは示しきれない現状があります。よって、地域包括ケアは、依然緒についた段階であり、創設期に入った所にあると言ってよいと思われます。この様に、現時点においては曖昧模糊としている地域包括ケアではありますが、今後の方向性として外せない考え方も存在します。一つは、これからのケアと個別支援を掘り下げて考えてみる視点にあります。認知症介護実践研修等のカリキュラムの中にも、「生活の捉え方」や「生活支援の方法」といった科目が目を留めます※3。しかしながら、生活の概念は非常に範囲が広く、果たして介護や福祉の領域だけでそれを支えることが出来るのかという素朴な疑問が生じなくもありません。例えば、大橋謙策氏によれば、人の社会生活を成り立たせるためには次の6つの自立が成されていなければならないとあります。「�]�働的・経済的自立、�∪鎖静�・文化的自立、��身体的・健康的自立、�ぜ匆餞愀古�・人間関係的自立、�ダ験莎蚕囘�・家政管理的自立、��政治的・契約的自立」※4。つまり、これら質的に非常に幅広い生活を介護や福祉の領域だけで支援することは不可能であると言えます。また、ベンクト=ニィリエの言うところの「ノーマルな一日のリズム」「ノーマルな一週間の規則」「ノーマルな一年間のリズム」※5の保障を鑑み、時間的視点で生活を捉えてもその困難性は明確であると言えるでしょう※図1。
しかしながら、認知症介護実践研修等の制度的研修のカリキュラムにおいては、そのことが明示されていない様にも思われます。福祉や介護だけでは、クライエントの生活は守れない、この大前提を今一度強く認識しておく必要があるのではないかと考えるのです。そこを強く確認することによって、であればこそ、クライエントの生活支援においては外部連携が欠かせない現実と自然に向き合うことが出来るのではないでしょうか。すなわち、クライエントの生活支援を完遂するためには、他分野の専門領域及び地域住民との連携が不可欠であるとの認識にそれは繋がると思われます。それこそが、地域包括ケアに代表されるこれからのケアや個別支援の基本的な考え方となるでしょう。
一方、在宅支援の現場において昨今大きな問題になっていることもあります。それは、家族介護者の高齢化と男性化が進捗していることです。今や家族介護者の3人に1人は70歳以上の高齢者であると言われています※6。また、3人に1人が男性です※7。男性介護者のことを巷では「ケアメン」と呼んでいます。実は、この男性介護者の現状は深刻な問題を孕んでいるのです。介護殺人・心中の加害発生率は、男性介護者に極めて高いと言われています※8。また、ご周知の通り、高齢者虐待における加害発生率も男性に顕著です※9。地域との関係が疎遠、感情的コミュニケーションが不得手、人に弱みを見せない、他者に相談をしないといった傾向が顕著であり、家事経験の少ない男性介護者の支援が社会問題化しているのです。
ソーシャルワーク理論に基づく援助者と被援助者には、相互作用の関係があると言われています。その意味において、ソーシャルワークやケアワークは行為であると同時に関係であるという理論が成り立ちます。上野千鶴子氏も同意している次のケアの定義を見てもそれは十分に理解されるでしょう。「(ケアとは)依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」であり、であればこそ上野氏は良質なケアを「ケアされる者とケアする者双方の満足を含まなければならない」と述べています※10。と言うことは、良質な支援とは、被支援者のみならず支援者も誰かに支えられなければならないことになります。また、支援者とは、家族介護者のみならずそれを業としている我々専門職もその対象になるはずです。今や我が国のケアは、「ケアをされる側」と「ケアをする側」双方を社会的に支えて行くことが求められているのです。でなければ、そこに良質な支援やケアは存続し得ないはずです。介護者と被介護者の外側にある地域環境・社会環境を持ってその支援に当たることが普遍化して行かなければならないと言えるでしょう。
ケアは、「規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて」実践されるのであれば、そこにはやはりソーシャルの視点、即ち、ソーシャルワークの視点が不可欠となります。今までのケアは、ある意味クライエントにのみ焦点化したケアであったと言えます。しかし、これから求められるケアとは、クライエントとクライエントの背景にある地域環境・社会環境を一体的に捉えたケアが不可欠であるはずです。しかし、この視点はソーシャルワーク分野では久しく言われ続けていたことではないでしょうか。
であれば、これからのケアワークに最も必要な視点は、ソーシャルワークであると言って過言ではありません。これからのケアは、ソーシャルワークを念頭に置いたものでなければならないのです。
2.地域包括ケアに必要なソーシャルワークの視点
しかしながら現状は、そこで働く専門職個々に未だそのような視点が確立しておらず、また、各個人が所属する機関・事業所の意識や体制もまだ十分でない状況が課題として存在するように見受けられます。2000年に改正された社会福祉法以降、地域福祉の推進を念頭に我が国の社会福祉施策は大きくその向きに舵が切られています。その後、2006年4月の介護保険制度改正時には、地域包括支援センター及び地域密着型サービスが創設されました。この流れにあって、未だ事業所及び専門職にその認識が不足しているように見受けられるのです。「地域」と「ケア」が認識として繋がっていない。「地域」と「ケア」が未だ全くの別物として認識されているようでもあります。
介護保険制度創設以後、営利法人を含む多様な法人格の参入が認められ、市場原理が導入されたことでクライエントの「顧客」化が顕著に進みました。「顧客」である以上それは、「獲得」の対象となり、であればこそ「囲い込み」の実践が促進されたのではないでしょうか。市場原理導入により、事業者間の競争が激化し、事業者は経営の安定化と更なる拡大を目指して複数の事業を行う複合体へとその姿を変え利用者の囲い込みが進みました。そのことによって、ネットワーキングやコーディネーションと言った外部連携の視点が希釈化され、「地域」と「ケア」の連携は更に希薄な状況が続いているように見受けられます。目の前のクライエントに焦点化した「ケア」が主流となり、その背景にある「地域」が見えない時代が今も続いている様です。「地域」と「ケア」をどのような媒介を用いて繋いでいくのかが目下の課題と言えるでしょう。そのためには、「地域」と「ケア」、すなわち、個別支援と地域支援が如何に繋がっているのかを専門職個人及び彼らの所属機関・施設が共通理解することも大きな課題としてあるように思われます。
結論を述べると、「地域」と「ケア」、個別支援と地域支援の両者を繋ぐ媒介こそが、ソーシャルワークであると筆者は認識しています。ソーシャルワークの観点から見れば、個別支援の対象たるクライエントは社会環境との関係性において課題を抱えているわけで、当然両者には強い相関性と相互作用があることを前提としています。個人の生活と社会環境は切っても切れない関係であることを自明としながら、個人の生活課題にアプローチを行うのがソーシャルワークであると言えます。であれば、ソーシャルワークの理論と視点を持てば、地域包括ケアの意味も安易に理解できるはずですし、その実践も困難極まるものでもないはずです。地域包括ケアは、ソーシャルワークの視点を取り入れたケアであると筆者自身は考えており、そのような視点を持てば、厚労省の定義や、今巷で言われる地域包括ケアについても理解は然程難しくはないでしょう。
つまり,ソーシャルワークの視点から見れば然程理解の難しくないはずの地域包括ケアのその理解が進まない最大の理由は、そこにソーシャルワークの視点が希釈・欠如していることにあると筆者自身は考えます。高齢者福祉分野のみならず、今あらゆる社会福祉分野に求められているのはソーシャルワークの視点であるにも拘らずそれが驚くほど普及していない。そこに「地域」と「ケア」、個別支援と地域支援が繋がらない要因があります。
地域包括ケアをケアワークや医療の視点でのみ捉えるのではなく、ソーシャルワークの視点で捉えなおす作業があってこそ、その実践はさらに促進されるのではないでしょうか。
3.「認知症の人のケアマネジメント」とソーシャルワークの関係
1970年代後半にアメリカで創出されたケアマネジメントは、ソーシャルワークの一部であると言われ続けてきました※11。ケアマネジメントの目的としては、「コミュニティケアの推進」・「生活の支援」・「QOLの向上」・「コストコントロール」が一般に言われています※12。これらの点を注視しても、ケアマネジメントには一見矛盾する二つの目的があるように思われます。クライエントの生活支援の視点と、社会的コストの抑制です。クライエントの生活支援については、以下の引用にもあるようにソーシャルワークとケアマネジメントには多くの共通項があるように思われます。「ソーシャルワークは『人々がその環境と相互に影響し合う接点に介入する』ということを基礎にしており、ケースマネジメントが目指していることに合致しており、ケースマネジメントがソーシャルワーク実践の中核の機能を占めるといっても過言ではない。具体的には、ケースマネジメントは人々と社会制度(システム)を結びつけることを中心としており、さらには人々の内的な発展や社会制度(システム)の改善を目指すものだからである」※13。
しかしながら、ソーシャルワーク実践においては、必ずしもケアマネジメント程にコストコントロールは言われてこなかったように思います。むしろ、ソーシャルワークの使命(mission)とも言える権利擁護を鑑みれば、クライエントの権利を守るためにその社会環境を整えるべく社会変革を促進することが求められており、ケースによっては積極的に公的支援や責任の要請・追及を行うことが求められてくるため、その点においては、コストコントロールはソーシャルワークの目的とは言えません。
また、クライエントや家族・地域資源といったミクロ・メゾ領域を中心とした実践を展開することが多いケアマネジメントと、それに加えた政策提言や社会変革といったマクロ領域の実践も求められているのがソーシャルワークであることを考えれば、やはりケアマネジメントはソーシャルワークの一部であることが理解されるでしょう。
ここで僭越ながら、筆者が捉えるソーシャルワークとケアマネジメントの定義を吐露しておきたいと思います。ソーシャルワークについては、1981年に全米ソーシャルワーカー協会(National Association of Social Workers)が提示している社会福祉実践の内容に着目したいと考えます。「�/諭垢�発展的に問題を解決し、困難に対処できる能力を高めるよう、人々(People)にかかわる、�⊃諭垢忙餮擦筌機璽咼垢鯆鷆,垢觴匆饑�度(System)が効果的で人間的に機能するよう推進する、��人々に資源やサービスや機会を提供する社会制度(システム)と、人々とをつなぐ、そして�じ什澆亮匆饑�策(Social Policy)の改善と開発に関わる」※14。重要な視点は、クライエントの皮膚の内にのみ問題点を見いだすのではなく、その外側にある家族・地域・制度・政策・社会の価値規範に対しても問題点を抽出しその改善を図る箇所にあります。全ての人間は社会化され生きている以上、社会構造からは自由にはなれません。であれば、クライエントの抱える問題は、クライエントの個人的な問題のみならず、その社会環境が生み出す問題でもあると捉えることが出来るでしょう。ソーシャルワークは、この様な社会的な視点において問題を分析し、その解決を図る専門性の総体であると言えます。かてて加えて、筆者が拘りたいのが、サービス優先ではなくニーズ優先の視点です。つまり、相互作用の関係にあるクライエントのニーズと社会環境のどちらを優先させるべきかとの問いに対して、ソーシャルワークはクライエントのニーズを優先すべきであると認識します。
例えば、認知症ケアの現場においては、クライエントが住み慣れた家・地域での生活を望んでいるが、家族や地域がそれを断念しており、施設入所を考えているような場面には数多く遭遇します。そんな時、ソーシャルワーカーやケアマネジャーは何を中心に援助活動を展開すべきかその拠り所が問われてきます。残念ながら、筆者が知る限り、家族や地域のニーズを中心に、クライエントのニーズを調整しているケースは珍しくはありません。しかしながら、ソーシャルワークが目指すべき実践は、クライエントのニーズを実現するために、家族や地域、社会環境に何が出来るのかを考え、理解や協力を引き出す活動を展開することにあります。ソーシャルワークの技術はそのためにこそ使われる必要があるでしょう。
全米ソーシャルワーカー協会の定義するように、クライエントの問題を個人的な問題に帰結させずに、それを社会的な問題と捉えて援助活動を実践する。そして、その活動の中心にはクライエントのニーズを据えることがソーシャルワークの要諦であると筆者は理解しています。そこで、筆者は次のようにソーシャルワークを定義しておきたいと思います。
「�\験莢歛蠅鯤�えている人々(クライエント)に直接支援を行うこと、�▲�ライエントが生活しやすい社会システム(家族・地域・社会の構造)を構築するよう働きかけること、��クライエントのニーズを中心に、クライエントと社会システムとの関係を調整すること、�だ�府・行政に対して、クライエントのニーズを代弁したソーシャルアクションを行うこと。如上の4つの仕事を通して、クライエントが生活しやすい社会を構築し、延いては、全ての人々が暮らしやすい社会を創出する専門性の総体である」。特に注目しておきたいのは�い任后�ニーズ中心主義・ニーズ優先のアプローチを取る以上、そこには社会資源の発掘・開発・創出の視点が不可欠となります。実は、ソーシャルワークの要諦はまさに、この様なソーシャルアクションにあるのではないかと筆者は考えているのです。ソーシャルワークの一部と言われるだけあって、これからのケアマネジメントに対しては、社会資源の把握のみならず発掘・開発・創出の視点までを求めておきたいと考えています。
橋本泰子氏の定義によれば、ケアマネジメントは地域ケアの技術であるとされています。現時点において、筆者もこの定義には賛同する立場を取っています。「複合的なサービスニーズをもつ利用者が、安全で安定した自分らしい日常生活を自宅で長期的に維持できるよう、利用者一人ひとりのためのケア態勢をマネジメントする地域ケアの技術である」※15。つまり、地域ケアを成すための一つの方法とされているのです。地域ケアは、本テーマである地域包括ケアとほぼ同意のものであると筆者は認識します。例えば、野川とも江氏によれば、「地域ケア(コミュニティケア)とは、人々が高齢になっても障害があっても、必要なあらゆる地域資源(人的、物的、制度的)を選択して活用し、住みなれた地域社会のなかの家庭を基盤として、生涯を通じて継続的に普通の生活ができるようにすること」※16とされています。つまり、「あらゆる地域資源を選択して活用」するとは、介護保険サービス以外のフォーマル・インフォーマル如何を問わぬあらゆる資源を用いてクライエントの支援を実施することがその根底にあると言えるでしょう。クライエントのニーズを地域資源の総動員によって実現していく地域ケアの技術としてケアマネジメントがあるということは、介護保険サービスのみを社会資源と捉えた実践は、本定義にはそぐわないということになります。よって、クライエントのニーズに対応するために、あらゆる社会資源にアプローチすることがケアマネジメントの基本的姿勢となると言えそうです。
兎にも角にも、クライエントの皮膚の内のみならず、その外にも問題を見いだし、そして、クライエントと社会環境の双方にアプローチを仕掛ける点において、ソーシャルワークとケアマネジメントには強い相関性があると言えます。また、ソーシャルワークには、複数のクライエントのニーズを同時に支援していくクラスアドボカシーや、ソーシャルアクションの視点が欠かせない一方、ケアマネジメントの領域ではそこまでは認識が無いように思われます。つまり、ケアマネジメントはミクロ・メゾ領域まで、そして、ソーシャルワークにおいてはそれに加えた形でマクロ領域までその実践が求められている点において、ケアマネジメントはソーシャルワークの一部であると言えるでしょう。そして、コストコントロールが一つの目的として導入がはかられているケアマネジメントは、それを目的にしていないソーシャルワークとの関係において、ソーシャルワークとは相容れない要素も含み持っていることを確認しておきたいと思います※図2。しかしながら、今「認知症の人のケアマネジメント」に最も必要なことは、如上のソーシャルワークの視点であると強調しておきたいと思います。
4.地域包括ケアシステムの課題と今後
冒頭挙げた「地域包括支援センター運営マニュアル2012」にも書かれているように、「地域包括ケアシステムは『自助・互助・共助・公助』それぞれの関係者の参加によって形成されるため、全国一律のものではなく、地域ごとの地域特性や住民特性等の実情に応じたシステム」※2となるはずです。
よって、地域包括ケアは一部の地域においては以前から実践され続けているものの、大多数の地域においてはその実践は未だ緒についたばかりであり、まだまだ創設期の中にあると述べました。であればこそ、そのことを定義化したり、決めつけることは今は忌避すべきことであり、今後津々浦々の実践を積み重ね多様な実践定義が成されるべきであると考えています。地域包括ケアはこうあるべきだと論じるには、時期尚早の感が否めないのです。
「地域」の定義においても、それぞれの地域性が加味されるべきかと思われます。厚労省の定義では「中学校区を基本とする」とあるのですが、実際は中学校区よりもより広い範囲で日常生活圏域の設定が成されているようです※17※図3。筆者も地域密着型サービスの運営を行う立場でありますが、中学校区の全国平均人口は約11,000人であり、その中で、クライエントの支援にかかる地域連携を行うことを鑑みれば、その範囲はより狭い方が機能するのではないかと経験則上感じている所でもあります。中学校区であれば、関わる住民は、自治会長や民生委員と言ったキーパーソンのみに陥ってしまい、“サトウさん”“ヤマダさん”と言った“ヒラ”の住民と出会う機会を喪失してしまう恐れがあるからです。このように、現在の地域包括ケアにおいては、その地域の捉え方が曖昧であるところにも課題があるように思えます。また、民間活力に委ねた事業所整備では、事業の採算性や利益率が優先されるためクリームスキミング(cream skimming)が生じることになります。今後計画的な事業所整備を行うためには、規制緩和ではなくむしろ公的な関与を強化する必要があると言いえるでしょう。
また、「地域」とひと言で述べても津々浦々での多様性が存在します。全国規模で地域包括ケアを推進していくのであれば、都市部に焦点化したモデルではなく、沿岸部・島嶼部・山間部・豪雪地帯等々の複数のモデルを示していくことも政府の役割として考えられます。
先ほどから「政府」の責任を重ねて述べていますが、介護保険における保険者は当然に基礎自治体です。もちろん、基礎自治体における責任も大きいことは言うまでもありません。しかしながら、例えば次のような問題も見受けられます。各基礎自治体における第5期介護保険事業計画の策定は、「日常生活圏域ニーズ調査という新たな計画策定手法を導入」して行っている訳ですが、その結果としては、「全体の8割強の保険者(1,322保険者)で日常生活圏域ニーズ調査」の実施が見られたが、「要介護者やサービス見込み量の推計に当たって、地域診断の結果を反映させたと回答した保険者の割合は、保険者全体の2割弱」程度に留まったと報告されています※17。このことからも、基礎自治体に全てを委ねるのではなく、やはり、政府がしっかりと公的責任において地域格差の是正を図っていくべきことが理解されるでしょう。
以上本稿においては、地域包括ケアシステムを促進するためにはソーシャルワークの視点が不可欠であることを述べてきました。しかしそれを成すためには、養成カリキュラムや、福祉教育機関、専門職団体、実践機関におけるソーシャルワークの普及が不可欠であり、その責務があることも最後に付言しておきます。
※1 地域包括ケア研究会「地域包括ケア研究会 報告書」三菱UFJリサーチ&コンサルティング P.3 2010年3月
※2 平成23 年度地域包括支援センター運営マニュアル検討委員会「地域包括支援センター運営マニュアル2012」一般財団法人 長寿社会開発センター P.15 2012年3月
※3 認知症介護実践研修標準カリキュラム(厚生労働省)
科目 生活の捉え方
目的 「医学的理解」「心理的理解」の講義を元に、認知症という障害を抱える中で自立した生活を送ることの意味と、それを支援することの重要性を講義のみではなく演習を通して理解を深めること。
内容(120分 講義・演習)
・生活障害としての認知症の理解。
・個人と認知症との関係の理解。
・生活支援の重要性の理解。
・演習は90分以上であること。
科目 生活支援の方法
目的 「認知症高齢者の生活支援の方法」の教科のまとめとして、高齢者が、様々な人的・物的・社会的環境の中で生活していくことを、どのように支援していくべきかを理解し、事例演習を通してその方法を考えること。
内容(90分 講義・演習)
・日常的な生活支援のあり方。
・その援助方法・環境調整、地域資源の活用の重要性。
・事例を用いた体験的理解と具体的な方法の検討。
・家族の位置付けは、家族支援の視点も含めること。
・演習は60分以上であること。
※4 大橋謙策『新版・社会福祉学習双書2008 7地域福祉論』全国社会福祉協議会 P.22 2008年
※5 ベンクト=ニィリエ著 ハンソン友子訳「ノーマライゼーションの原理」『再考・ノーマライゼーションの原理 その広がりと現代的意義』現代書館 P.14-15 2008年12月
※6 毎日新聞 2008年9月9日「家族間で介護する世帯のうち、高齢者が高齢者を世話する70歳以上の『老老介護』世帯の割合が初めて3割を超えたことが、厚労省が9日公表した07年国民生活基礎調査で分かった」。
※7 「“ケアメン”を支えろ!男性介護者120万人時代」2012年6月25日(月) NHKニュース おはよう日本
ケアメンは全国で120万人に迫ること、介護する人の3人に1人は男性であることが報じられている。
※8 津止正敏・斎藤真緒『男性介護者白書 家族介護者支援への提言』かもがわ出版P.14 2007年9月
「加藤悦子が新聞記事から抽出し分析を行っている。加藤によれば、1998年から2003年までの介護保険導入前後の6年間に起こった介護殺人の件数は198件、死亡者数は201人である。加害・被害の関係をみてゆくと、息子が加害者の場合が最も多く全件数の37.4%、次いで夫が加害者の場合であった(34.3%)。加害者199人中、男性は151人、女性は48人で、男性が加害者の4分の3を占めた。介護者の性別では3割弱の男性たちが、介護事件の加害者では圧倒的多数を占めている」。
※9 厚生労働省「平成22年度 高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律に基づく対応状況等に関する調査結果」平成23年12月6日
「虐待者との同居の有無では、同居が85.5%、世帯構成は『未婚の子と同一世帯』が37.3%で最も多く、既婚の子を合わせると63.7%が子と同一世帯であった。続柄では、『息子』が42.6%で最も多く、次いで『夫』16.9%、『娘』15.6%であった」。
※10 上野千鶴子『ケアの社会学』太田出版P.39・7 2011年8月
※11 村社 卓『ケアマネジメントの実践モデル』川島書店P.31 2011年6月
「理論研究においても、これまでわが国では、ケアマネジメントはソーシャルワーク機能の一部であり(渡部2003)、ソーシャルワークが『個人の「成長・変化」指向をもつアプローチを多様にもっている』(副田2003)のに対して、ケアマネジメントは『ニーズ充足計画実施のために活用するひとつの戦略、方法』(副田2004:27)と理解されてきた。ソーシャルワークはケアマネジメントよりも『幅広い目的』(副田2003)、『幅広い機能』(梅崎2004)を有している、と一般には理解されている」。
※12 白澤政和『新・社会福祉士養成講座8 相談援助の理論と方法�供‖�2版』中央法規P.22-24 2010年2月。
※13 白澤政和『新・社会福祉士養成講座8 相談援助の理論と方法�供‖�2版』中央法規P.51 2010年2月。
※14 北島英治・白澤政和・米本秀仁編著『新・社会福祉士養成テキストブック�⊆匆駟〇祓臀�技術論(上)』ミネルヴァ書房 P.5 2007年3月
※15 橋本泰子『新版 社会福祉士養成講座9 社会福祉援助技術論�供拊羆�法規 P.329 2007年1月
※16 野川とも江 日本地域福祉学会『新版 地域福祉辞典』中央法規 P.184 2006年9月
※17 厚生労働省 老健局介護保険計画課「第5期市町村介護保険事業計画の策定過程等に係るアンケート調査結果について」平成24年8月21日
図1 生活の質は時間的にも幅が広い
図2 ソーシャルワークとケアマネジメントの関係イメージ図
図3 日常生活圏域の設定状況