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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

来たるべき秋を迎えて

2013/07/28 23:40:01  社会福祉
東北新幹線は当世風なデザインが多いですね。デザイナーさんが他と異なるのでしょうか?素朴な疑問です。
 先の参議院選後、いみじくも「政府の社会保障国民会議(会長=清家篤・慶応義塾長)がまとめる報告書の素案の概要がわかった」※1。具体的には、「財政が特に厳しい介護・医療が中心。介護分野では、介護の必要度が低い「要支援」(約140万人)向けのサービスを介護保険から切り離し、市町村の独自事業に移すことや、高所得の利用者の自己負担を今の1割から引き上げることを提案している。(中略)医療では、患者が紹介状を持たずに大病院を受診する場合、初診・再診料として定額の負担を求める▽保険料の上限引き上げ▽高額の医療費がかかった場合の患者負担の上限見直し――などを検討項目に盛り込んだ。安倍政権が検討している70〜74歳の医療費窓口負担の引き上げ(1割→2割)も、早期実施を求めている」※1とのこと。

 なるほど。これに対しては、驚くべきことは一つもありますまい。現政権は、方針通りにその仕事を着実に熟しているに過ぎません。それすら出来ずにいた前政権の体たらくよりもある意味“成果”を上げていると言えそうです。参議院選より前から政府は、経済財政運営の基本方針「骨太の方針」にて、社会保障費を「聖域とはせず見直す」と明記していたわけですから、これは当然の帰結であると言えます。

 併せて、この方針の定向進化の果ては容易に察しが付くものと思われます。それは、福祉・医療サービスの利用者の負担増加であり、介護報酬や診療報酬の現状維持及び減退の流れを築くことでしょう。国民年金の1ヵ月当たりの年金額は月額約66,000円であり、厚生年金(夫婦2人分の老齢基礎年金を含む標準的な年金額)で月額約230,000円と言われています。介護保険施設等の入所・入居費の月額平均は100,000円〜130,000円もしくはそれ以上であることを鑑みれば、これ以上利用者負担が増加すれば、いや既に、サービスを十分に受けることができない人々が溢流することになりそうです。因みに政府は、施設ではない「自宅」としてのサービス付高齢者向け住宅の設置を推奨していますが、その入居費の月額平均は約140,000円(介護保険サービスを含まず《広島県内調べ》)ですので、こちらも利用困難を更に極めて行くことでしょう。その様な状況下で、クライエントがサービスを選択する際の重要な要素は、サービスの質ではなく、利用料その金額が第一義となる傾向が既にあります。サービスの質が保障されているからでは断じてなく、そこをある意味諦めて、自身の支払い能力に応じたサービスを探すことに必然性が生じているのです。多くのクライエントにサービスの質を選択する余裕はなく、支払い可能なより安価なサービスを求めている傾向があるのではないでしょうか。それが、今後益々顕著となることでしょう。さすれば、施設・事業所側の取るべき道は一つしかありません。クライエントのニーズに応えるべく、廉売競争を始めることになるのではないでしょうか。もちろん、富裕層を対象としながらもサービスの質にこだわった実践も見られることでしょうが、これは飽く迄も主流の話にはなりますまい。

 言わずもがな、廉売競争に勝ち残れる法人とは如何なるタイプの法人か。説明するまでも無いでしょう。産業界に等しく、全国展開を図る大手法人に有利な状況となることは当然の帰結と言えます。地方に展開される小規模法人は、その大手法人の“下請け化”の中で生き延びるしかその方法は無くなることでしょう。政府は、地域包括ケアの推進を前面に謳っている訳ですが、全国展開を誇る大手企業による各地域での展開が広まれば、地域性を度外視した画一的ケアにそれが繋がるものと危惧されます。これは、今後政府が本気で地域包括ケアを促進しようと考えているのかどうかの重要な試金石になり得る視点であると認識します。

 社会保障制度の持続可能性を担保するための改革であると政府は説明しているようですが、そもそも、現在の制度を今の形のまま持続させる必要があるのでしょうか。例えば、介護保険制度はこのまま社会保険方式で今後何十年も継続していくつもりなのか。高齢者福祉は社会保険方式を取り、障害者福祉はそうではない根拠は一体何処にあるのだろうか。斯様な意味において、今一度社会保障制度の理念や本質を持続させるために、制度の在り方そのものを変革することこそが今求められているのかも知れません。本質や理念は容易に変えるべきではありませんが、それを維持するための制度の在り方は時代の状況に応じて変革すべきであると認識しております。

 社会保障の本質は、何と言っても全国民の生活を守ることにあるのでしょう。現下の社会に社会化されて暮らしていく以上、私益と公益は相互作用の関係にあり、誰かが排他・排斥される社会は自らをも排除する社会であることは自明の理ではないでしょうか。一部の“不幸”な人々のために本制度があるのではなく、全ての国民のためにこそあることを改めて強く認識する必要があるのでしょう。また、そこが理解しづらい制度の在り方についても是非とも見直しをお願いしたいと思います。

 またまたいみじくも、参議院選の翌日、福島第一原発の高濃度汚染水流出の報道がなされました※2。原発の問題に顕著な様に、環境問題などは、その被害の対象領域はそこに住むあらゆる人々であり、一部の“不幸”な人々の問題とは捉えられないでしょう。大学生時に目を通した『奪われし未来』(1997年・翔泳社)においても、アメリカで発生した環境ホルモンが日本にまで到達する危険性を謳っていますし、現に中国における大気汚染が我が国の国民の健康被害を生じさせている現状を見れば、如何に私益と公益が重なり合っているのかを窺い知ることが出来るのではないでしょうか。以前東北の被災地支援に伺った際、ある集落の内一世帯だけが津波の難を逃れたその世帯住民と話をしたことがありました。自分だけが被害に遭わない辛さを強く訴えられていましたが、環境問題はそこに住む人々に等しく降りかかる問題として捉えることができるものなのかも知れません。無論、それでも経済的に裕福な住民とそうではない住民との間で、多少の格差は見られるものの。当法人では、環境理念を掲げておりますが、環境問題こそが、私益と公益の相互作用の可視化を図り、地域の絆を紡ぐ分かりやすい「教材」となる可能性を秘めていると言えそうです。

 私は、大手法人と中小法人の対立構造を生み出す視点で如上の指摘をしているものではありません。逆に、同業者として、また同じ専門職として、大局観で共通の理念を思い描くことは容易に出来るものと思われます。その大局観をもって、社会福祉事業を展開する法人及びそこで勤める専門職、延いてはクライエントとその家族における大同団結こそが今求められているのだと思われます。介護専門職は今後10年かけて倍増します。労働者人口の倍増は、選挙権の倍増を意味します。今こんな時代だからこそ、小異を乗越え、大局観をもって、多くの人々が連携を図り、社会を揺るがすことこそが求められているのではないでしょうか。


※1 『朝日新聞』2013年7月26日
※2 『朝日新聞』2013年7月23日
「東京電力福島第一原発の海近くの観測井戸から高濃度の放射性物質が検出されている問題で、東電は22日、汚染された地下水が海に流出しているとみられると発表した。さらに東電は坑道にたまった汚染水が今も地中に漏れ続けている可能性があるとみている。 今回の問題で、海への流出を東電が認めたのは初めて。東電は、原発の港湾外の海水に放射性物質の濃度の変動がほぼないことから、汚染は港湾内にとどまるとの見方を示している。しかし、東電が地元漁協などへの理解を得た上で、原発に流れ込む前に地下水をくみ上げて海に放出する計画は実現がさらに難しくなりそうだ」。



定向進化の果てに

2013/07/22 12:01:12  社会全般
 第23回参議院選挙の投開票から一夜が明けました。全く予想通りの結果を確認するや、昨夜は、いつもの様に通常業務を粛々と熟しておりました。

 素人にも予測が可能なこの結果。理由は、大きく3つありました。2点は言わずもがな、分かり切っていることですのであまり叙述の必要はありますまい。多くの死票を創出する小選挙区制度によるものと、前回を更に下回る約53%(朝日新聞社によれば52.61%)という低い投票率によるものです。この2点を鑑みれば、この度の結果も真なる民意を反映したものではないことは明白でしょう。しかし、ここで憚りながらも、認識せざるを得ないもう1つの要素に触れない訳にはいかなくなりました。それは、選挙制度や投票率の低さとも間接的に関連する国民の民度の低さにあります。

 経済優先・憲法改正・TPP交渉本格化・原発再稼働これらのことを国民が容認したことを本結果は示しているわけです。その陰で、我々は社会保障の減退をも受け入れたことを忘れてはなりません。そして、その利が国外に逃れていく可能性をも甘受したのではないでしょうか。現下の社会は、一部の人々の被害を強いる社会であると若輩は認識します。ここで「犠牲」と敢えて表現しないのは、被害者の視点に立てば自ら進んで被害に応じている例はほぼ皆無であると考えるからです。よって、「犠牲」などという曖昧な表現は用いない方がよろしい。福島県民はもとより、未だ福島第一原発の最前線で復旧作業を行っている作業員の方々、沖縄県民、また地域性を度外視すれば、児童や障がい者そして、私たちの支援の対象者たる高齢者その他多くの少数派の被害の上にこの社会が成り立っていることは明白な事実であります。そして、その一部の被害は、あらゆる格差を生み出し、本来は手を繋ぐべき人々の信頼関係を挫き、憎悪感を生み出し、そして対立関係を乗じさせることでしょう。本来であれば利害を一致するべき人々が分断をして一体誰が利を得るのか。このようなことすら分からぬ民族に陥っていることが残念でなりません。

 消費増税や、インフレターゲットと相まって、社会保障費が減退すれば経済的格差は更に拡大することになります。経済的格差が、経済以外の多くの種別格差に帰結することは自明の理です。健康や社会的関係の質(情緒性・暴力性・信用の水準等)における格差にもそれが発展するのです。社会的包摂ではなく、社会的排除の傾向は今後ますます強化されていくことでしょう。

 如上の様な大局観を描きながら、各地域で地道な取り組みをしていかなければならないのが、私たちソーシャルワーカーの今現在の在り方となってしまいました。なぜに、大局観を抱く必要があるのか。それは、如上の政策の免罪符に私たちの尊い実践が活用されることが無いようにご留意頂きたいからであります。彼らの免罪符のために、私たちの実践があるのではありません。クライエントのためにその実践があることを常に思い抱きながら、本質あるソーシャルワーク実践を重ねて頂きたいと願っております。

 言いたくはありませんが、今この言葉が何度も脳裏を掠めます。「その国の国民は、自らの民度以上の政府を有することはできない」。



ジャーナリストとソーシャルワーカーの捉える事実

2013/07/11 01:40:55  社会全般
ジャーナリストとソーシャルワーカーの捉える事実は酷似している!?
 出張先で手にした7月6日付の新聞の同一面に気になる2つの記事が併記されていました。一つは、報道番組の中で、その内容の「公平さを欠いた」として与党が抗議し一時的に取材拒否に踏み切ったという要旨でした※1。もう一つの記事は、フィギュアスケート選手の出産についてその賛否をアンケートで募集した週刊誌が、多数の抗議によってアンケートの中止に追い込まれたというもの※2。

 報道に対する抗議といった点では同様の記事として捉えることができますが、本質が全く異なり過ぎてオモシロク拝読させて頂きました。

 「中立」「公正」「不偏不党」を各報道機関は掲げている様ですが、そもそも、その様なものはこの世に存在しないのではないでしょうか。100人いれば100通りの捉え方があり、その結果としての事実がある以上、客観的事実は存在しないことになります。では、ジャーナリズムの要諦は何かと考えれば、多様な事実のバランスを取ることにあるのではないでしょうか。権力側及び多数派は、その主観を普遍化、「客観」化する力を有しています。その情報をもとに、「普通」や「常識」が構築されていると言ってよいのではないでしょうか。3.11までの「常識」では「原発は安全」であったわけですから、これは最も分かりやすい事例ですね。であれば、ジャーナリストの使命は、非権力及び少数派の情報を強調して伝えることで、全体のバランスを取るということに尽きるのではないかと考えるのです。資本主義社会の力学的必然の中で、かき消された声をしっかりと拾い集め、それを世に伝えることこそがジャーナリストの仕事であると自身は信じて憚りません。その意において、日本に本物のジャーナリストはいない。自身はそう思っています。

 ジャーナリズムをこのように捉えると、如上の二つの記事の本質的差異がはっきりと見て取れます。ジャーナリストは、権力を有する側にこそそのチェック機能を働かせるべきであり、権力を持ち得ない民衆のチェックなどはその本質では無いということです。民主主義社会において、権力を有するということはそれと同時に義務を負うということを意味するはずです。よって、基本的人権は全ての人々に等しくあるものの、その人権は権力の側に薄く、民衆の側に厚くあるべきであることは自明の理であると思っています。

 従って、政権与党に厳しいチェック機能を働かすこの度の報道は、ジャーナリズムの観点からは妥当なものであり、謝罪などすれば却ってその本質を脅やかすこととなるでしょう。一方、何ら権力を有することもないフィギュアスケート選手のゴシップ記事などは、ジャーナリズムの本質から大きく逸脱した読むに値しないものであると認識する次第です。同じ報道批判であっても、両者の批判の性質は決定的に異なっていると言えます。

 さて、例えば、毎日新聞社の毎日憲章では「社会正義」が謳われています。そして、ソーシャルワークの定義の中にも、「社会正義」や「平等」が描かれています。実は、私はジャーナリズムとソーシャルワークの視点は非常に近い関係にあると見ています。ソーシャルワークの第一義は、クライエントの視点で、社会を捉えることであり、そして、クライエントの視点で、社会構造の課題を浮き彫りにし、社会を変革することがその仕事であると考えます。社会が多数派の理論で構造化されているのであれば、少数派たるクライエントの側から社会と対峙し、社会に変革を迫るのがその仕事であると信じる者です。その意において、日本に本物のソーシャルワーカーはいない。まさしくこの点も酷似しているのではないでしょうか。

 事実は一つではありません。しかし、ジャーナリストとソーシャルワーカーが扱う事実は、少数派やクライエントの側から捉えたものでなければ、その本質を喪失してしまうことは重要な事実であります。


※1「Media Times 自民、TBS取材を拒否 『指摘受け止める』文書で解除」『朝日新聞』2013年7月6日
「自民党がTBSによる幹部取材を拒否した問題で、TBSは5日夜、報道局長名で自民党に対して、『指摘を受けたことを重く受け止める』との文書を提出した。安倍晋三首相(自民党総裁)はその後、BSフジの番組で『この問題は決着した』と語った。自民党は『謝罪と受け止める』として、取材拒否の解除を発表した。ただ、選挙期間中に取材に応じないという異例の事態は波紋を広げた。(中略)しかし、番組ではキャスターが国会空転の責任は野党も含めた全ての党にあるとのコメントをしていることなどから、TBSは『番組全体として見ればバランスを欠いていない』と説明。自民党が求めるおわびや訂正はできない、との姿勢を示してきた。 事態の打開を図るため、5日の自民党との話し合いに添えた文書も『重く受け止めます』という表現にした。あくまでも謝罪はしないとの立場を維持しつつ、取材拒否の解除で同意したはずだった。それだけに、安倍首相が同夜の番組で『TBSから謝罪してもらった』と発言したことは同局にとっては寝耳に水。政治部長名で『放送内容について訂正・謝罪はしておりません』とのコメントを発表した」。
※2 『朝日新聞』2013年7月6日
「『週刊文春』編集部は5日、フィギュアスケートの安藤美姫選手の出産について賛否を尋ねる内容のアンケートを中止すると、新谷学編集長名で発表した。同誌のホームページによると、『緊急アンケート 安藤美姫選手の出産を支持しますか?』として、同誌のメルマガ読者を対象に実施。『出産を支持しますか?』『子育てしながら五輪を目指すことに賛成ですか?』という設問に多数の抗議が寄せられたという。 『出産そのものを否定したり、働きながら子育てをすることを批判しているような印象をあたえてしまいました』などとして、アンケートを中止した」。


クライエントの顧客化とソーシャルワークの危機

2013/07/06 16:34:55  社会福祉


 昨日の朝刊にて、有料老人ホームの紹介業者の紹介のなされる記事を拝見しました。そして、その相談料は多くは無料でなされており、紹介を受けた施設が紹介業者に紹介料を支払う仕組みなのだとか。気になる個所を少し引用してみます。

「ホームの経営者らでつくる高齢者住宅経営者連絡協議会(高経協)が、加盟社に紹介業者との付き合いについて尋ねたアンケート(45社が回答)」によると、「87%のホームが紹介業者と連携していた」。
「高経協は『つきあいの程度はホームによって差があるが、紹介業者は、ホームにとって「なくてはならない存在」になっている』」と発する。
紹介料は、「1件当たり30万円〜40万円が最も多く、10社は『100万円以上』と回答していた。ホームの入居金は数百万円〜数千万円と幅広いが、『紹介料』にも大きな幅があるようだ」。
「『キャンペーン』と称し、ホームが一定期間、自分のところに優先的に紹介してもらえるように、紹介業者に割り増し紹介料を支払う慣行もあるという」。
コンサルティング業者によれば、「『経営に余裕がなくなり、効率を考えて社内に営業部隊をおかず、外部の紹介業に頼らざるを得ないホームが増えている』」。

 当然ながら、これは私たちソーシャルワーカーとしては警鐘を鳴らすべき事象でしょう。つまり、クライエントのニーズではなく、割増賃金を支払ってくれる施設への紹介を優先するというシステムが罷り通っているのです。また本紙にもあります様に、紹介料は当然クライエントの負担に帰結するわけですし、そこからはこのような事態を静観している国交省や厚労省の在り方を含め公的責任の減退の姿勢もうかがい知ることが出来ます。また、施設側はその費用も含めて廉売を行う必要があるため、さらに競争原理は激しくなる悪循環が生じる恐れも推測されます。また、クライエントのニーズと社会資源を繋いだり調整するといった本来の専門性の劣化が生じると共に、そもそも専門職が必要なくなる時代に突入したのかも知れませんね。利用者中心のニーズを把握するための綿密なアセスメントなどは、その効率性からは必要ないということなのでしょう。

 このような事象の原因としては、大きく次の二つのことが挙げられます。社会福祉に対する公的責任の減退、そして、競争原理に晒された施設経営の効率化。少し乱暴な言い方をすれば、小さな政府と経済至上主義の影響がここに見られると言っては言い過ぎでしょうか。

 さて、ここで予てより考えていたことが彷彿されます。社会福祉の対象者のことを、「利用者」と呼び、「当事者」と呼び、「ケース」と読んだり、「クライエント」と呼ぶことは周知の事実です。全ての呼び方に問題があるものの、私は無難にクライエントと呼んでいます。しかし、「お客様」や「顧客」と呼ばれだしたのは少なくとも介護保険制度が導入されてからのことではないでしょうか。

 クライエントの主訴がそのまま、私たちの捉えるところのニーズではありません。クライエントが表現できない思いや考えもニーズであることが多く、また訴えられる内容がニーズでないこともあり得ます。私たちの捉えるニーズはとは、斯様に専門性をもって押さえていかなければ捉えきれるものではないのです。そこが、産業界におけるサービス業のそれと我々のサービスの分水嶺となっています。産業界におけるサービスの基本は顧客の求めに応じて、求められたものに対してのみサービスを提供すればよい。しかし、私たちは個々の生活に対して専門的見地からアセスメントを実施し、時にクライエント自身が気づいていないニーズに応じたり、また、クライエントの求めているものとは別のサービスをクライエントと共に検討することもあり得るのです。その意において、ソーシャルワークは、コストコントロールを結果として導き出すこともあれば、その逆に、クライエントのニーズを起点に公的責任を追及する側面も有した専門性の総体であると言えます。

 斯くの如く、社会福祉実践には、専門性とその実践に纏わる時間と労力が不可欠です。しかし、我が国においては介護保険制度創設以降、いや、1990年代後半の社会福祉基礎構造改革以後、クライエントを顧客と捉える傾向が顕著に見られるようになりました。「利用者」を「消費者」と捉えだしたと言ってもいいかも知れません。「顧客獲得」における競争原理の下、効率化が優先される中、その手間と時間を要する真なる社会福祉実践は益々困難な状況下となってきました。そのことによって、サービス提供者毎の個々の技術は精巧化された一方、専門職としての価値・拠り所は益々希薄化しているように見受けられます。また、技術革新はなされているものの、価値を失った専門職は専門職たり得ず、その意において1990年代後半以降の社会福祉専門職の専門性は実はその劣化の一途を辿っているのではないかとの疑いが頭から離れることがありません。

 即ち目的・価値・知識・役割・機能・技術等の総体としての専門性のうち、最も重要な目的や価値が希薄化しているのが現下の社会福祉専門職の有り様ではないでしょうか。つまり、市場の競争原理下で生き残るために勝ち抜くためにその機能や役割を担い、知識と技術を駆使するのがその姿であり、そこにクライエント中心主義という目的と価値を喪失しているのであれば、それはもはや社会福祉専門職ではないということになるのでしょう。

 私たち社会福祉専門職の取り巻く社会環境は、斯くの如き、その本来の専門性を発揮できない状況にあります。そのことに日々自覚しながら、自戒の念を持ちながら、その揺らぎの中で仕事をすることが私たちひとり一人に今求められているのだと思っています。無論、福祉経営者たる若輩もその揺らぎの中にいます。そして、これは個々の専門職だけの問題ではなく、クライエントの権利擁護の視点に立ったソーシャルワーカーにおける政策提言の中核的課題ともなると断言できます。



孤独を恐れない心

2013/07/01 23:33:38  社会全般
現場で公開されている私のスケジュール。ちょっと公開しすぎかな?と思う昨今です(笑)。
 テレビを見て過ごすことは、人生における時間の無駄遣いであると基本的には思っています。しかし、ある特定の番組などからは学べるものもあり、時折その番組を狙って視聴することがあります。NHKの番組は、ニュース等はジャーナリズムの視点が希薄化されたものが多いと感じていますが、ドキュメンタリー等ではまさにジャーナリズムの視点で描かれているものが多くありその違いに戸惑うことが多い昨今です。そんな折、先ほどNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を拝見しました。スポーツのことはよく分かりませんが、予てから、理論的思考レベルの高さを感じていた本田圭佑選手の特集でした。

 番組の中で、彼は「自分を信じる」を何度も連呼していました。ピンチの時こそ、自分を信じてやるしかないと。実は、若輩が今この仕事で踏ん張れるのは、まさに全く同じ精神からでした。19歳の頃より、「普通」や「常識」ではない考えに基づいて行動してきましたので、周囲からはいつも冷ややかな視線を感じていました。時には、親からにさえも「お前は、偏っている」と有難い指導を受けたものです。しかし、私はそれでも自身の考えを改めませんでした。なぜか。一度しかない人生だからです。人生において後悔しない為にも、自身が正しいと思う道をひたすら歩みたいと思ってのことでした。

 周囲の理解や支援が得られなくとも、自身の信じる道を行く。これこそが、自身の生命線であることを先ほど改めて確認することができました。ある時から私は、誰かから信じてもらえなくても良いと思うようになりました。いや、そう思い込むようにしたのかも知れません。誰からも信じてもらえなくとも、自分が自分のことを信じてやればそれでいい。そう思い続けてきました。

 周囲や他者の思いに慮るあまり、自身の信念が貫けない苦痛を乗越える為には、周囲からの期待を諦めるしかなかったのかも知れません。つまり、自分を信じる力とは、孤独を受け入れる力でもあるのです。思い返せば、周囲の他者に比べて、孤独に対する恐れが希薄化している自身がいることに気づかされます。それは、孤独を恐れていては、自身を信じることができないからかも知れません。

 本田氏は言います。「全ては自分が選ぶ道なので、責任をもって進んでいく」と。本田氏は、自身を信じる力を有することと併せて、「自分が一番好き」と述べるように自尊の精神を強く抱いている様子でした。それもそのはず、窮地に追いやられた際にいつも感じているのは「周囲のせいにしない」「自分の情熱が足りない」ことだそうです。つまり、自らの自己実現のために、自身に対する厳しさも有しているからこそ、自身に誇りを抱けるのではないでしょうか。

 自分を信じるとは、単に自分を甘やかすことではありません。自身の自己実現を信じる事であり、その実践の結果に責任を負うこと、それを成し遂げる為に孤独と闘うことであると自身は考えるに至りました。

 中途より拝見した30分足らずの時間で如上の確認が取れたこと、テレビも然程時間の無駄遣いでもないな、と思えた瞬間でした。


※1 「特別編 信じる力 500日の記録 サッカー日本代表・本田圭佑」『プロフェッショナル 仕事の流儀』NHK 2013年7月1日 22:00〜22:48

中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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