「地域の絆」における「絆」は、多様な人々を結ぶ「絆」であり、地域における多様な個性を認め合う「絆」でもあります。しかし、取り立てて強調しておきたいのは「公益」と「私益」を結ぶ「絆」であるということです。「情けは人の為ならず」の視点において、他者の幸福と自身の幸福が、そして、他者の悲しみと自身のそれとが常に何処かで繋がっていることを明らかにする「絆」でもあります。よって、「地域の絆」が地域と向き合う理由は、誰かの支援を必要とする生活課題を抱えていらっしゃる人々の生活に触れて頂き、感じて頂き、それを他人事とはしない、自らのこととして捉える事の理解を促進することにあります。つまり、斯様な体験的学習を通した地域における福祉教育(昨今ある方から「social learning process」だと教わりましたが)の促進を通して、地域を、延いては社会の変革を促進していくことが我々の役目であると認識している所です。ですので、公助機能の補完役であるとか、その代替機能を担うと言う意識は正直持ってはおりません。なぜなら、我われの実践は、公助機能が基盤整備された上に付加されるべき形で展開されるものだと認識しているからです。
過日明らかになった「社会保障制度改革国民会議報告書」を読んでその思いを再確認しました。前段「社会保障制度改革推進法の基本的な考え方」を確認する形で、「国民の生活は、自らが働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという『自助』を基本としながら、高齢や疾病・介護を始めとする生活上のリスクに対しては、社会連帯の精神に基づき、共同してリスクに備える仕組みである『共助』が自助を支え、自助や共助では対応できない困窮などの状況については、受給要件を定めた上で必要な生活保障を行う公的扶助や社会福祉などの『公助』が補完する仕組みとするものである」と謳われています※1。また、ここで言う「共助」とは、「国民の参加意識や権利意識を確保し、負担の見返りとしての受給権を保障する仕組みである社会保険方式を基本とするが、これは、いわば自助を共同化した仕組みであるといえる」とある様に、自助を基本に据えているものであることが明文化されています※1。これは旧来からある我が国の社会福祉に対する形象と整合性のある方針であると理解します。つまり、自ら・家族が努力をし、そしてそれでも課題を克服できない様であれば、互助・共助の支援を経てそれでも駄目なら、初めて公的支援に辿り着けると言う流れが示されている訳です。如上の流れに依ってしか、福祉サービスに辿り着けないのであれば、サービス利用者の利用控えや利用者に対するスティグマは中々払拭されないように思われます。我が国で生活している人々は、自助・互助・共助に拘わらず要件を満たせば速やかに公的支援に接近ができるようにすることこそが政府の役割ではないのでしょうか。如上の要件であれば、公的支援を受ける人々が、自助・互助・共助を怠った帰結として周囲から捉えられる恐れがあります。結果、サービス受給に対するスティグマや利用控えが促進されることとなるでしょう。とどのつまりは、「社会保障制度改革においては、こうした自助・共助・公助の位置づけを前提とした上で、日本の社会経済の情勢の変化を踏まえて、その最適なバランスをどのように図るのかについて議論が求められている」とあり、社会保障の仕組みは経済情勢に拠ることが明示されるわけです※1。私たちの生活における「空気」や「水」と同等の社会保障が経済状況によっては保障されないとすれば、その様な社会が果たして如何ほどに成熟していると言えるのでしょうか。一般家計においても、借金をしてでも子どもを学校に行かせるわけですし、貯金を取り崩してでも医療機関に治療費を収めている訳です。マクロレベルにおいても、例えば、消防署や警察署が赤字を出しているからと言って要らないと言うことにはならないでしょう。それと同様に社会保障を捉えるべきなのですが、本報告書では、旧態依然とした方針が描かれることとなりました。
驚愕すべきは、厚労省が「夫婦世帯で年収三百数十万円、単身世帯では200万円台後半〜300万円程度」の人々に対する介護保険サービスの自己負担割合を1割から2割に引き上げる方針を打ち出したことにあります※2。対象者数は、数十万人に上ると推計されるとのこと。2005年10月「施設給付の見直し」において、宿泊費と食費が保険給付の対象外となった頃より、介護保険サービス費の1割負担であっても月々の支払い負担感が強くなり、サービスの利用控えが顕著になってきました。それが、2割になることで更なる利用控えが促進されることでしょう。また、1割負担者と2割負担者の調査及び把握を行う介護保険事業者の負担感や、利用者間の不公平感が促進されるのは目に見えています。厚労省は、対象者と非対象者の「線引き」についてそこに明確な根拠が示せるのでしょうか。つまり、年収幾ら以上の人々が「収入が一定以上の人」と断定できるのか、その根拠のことを指します。恐らくそれは難しく、現場は混とんとした状況に陥ることは避けられそうにありません。社会保障においては、低負担低福祉か、それとも中負担中福祉か、との議論があるようですが、その様な選択肢の設定自体が果たして妥当であり、根拠があるものなのかそれすら怪しく思えてきました。我が国の社会福祉において、最も手厚いサービスを受給しているのが高齢者であることは明白な事実でしょう。もちろん、これは絶対的な評価に拠るものでは無く、児童・障がい等のその他の分野と対比した相対的な評価に拠るものです。特に児童分野は惨憺たる状況ですね。その中にあって、月額約5,000円の介護保険料を納め、そして、サービス利用時には国民年金のほぼ全額以上の支払いを要求される現状を見れば、飽く迄も現場感覚での話に過ぎませんが、これは高負担と言い得るのではないかと認識する訳です。その高負担に果たして見合う、高福祉サービスとなっているのかは甚だ疑問に感じております。よって、高負担中福祉もしくは、中負担低福祉が我が国における現状では無いかと自身は分析しています。
「報告書」では、「地域包括ケアシステムの構築に向けて、まずは、2015(平成27)年度からの第6 期以降の介護保険事業計画を『地域包括ケア計画』と位置づけ、各種の取組を進めていくべきである」と述べています※3。斯様なことを促進させるために地域包括ケアがあるのであれば、諸手を挙げて推し進める訳にはいかなくなります。経済状況に応じた公的責任の逃避を補完する役割としての自動安定装置として、地域包括ケアがあるのであれば、これは明らかにクライエントの権利擁護からは懸け離れた代物となるからです。その反面、地域ケアや地域包括ケアは、冒頭述べたクライエントにとっての利益に繋がる可能性を秘めたものであるとも言えるでしょう。しかし、それはその実践を重ねる私たちの拠り所如何に依るとも言えます。政府の提唱する地域包括ケアを、クライエントの権利擁護を中心に据えたものに改変し、真に国民のために使いこなせる理念と技術を私たち実践家が有しているのかが問われている訳です。地域包括ケアには、斯くの如き諸刃の剣の作用があり、その刀の使い方によっては、クライエントを“切って”しまうこと、そして私たちの使命と誇りをも失墜させてしまうことに帰結することとなるでしょう。昨今における政府の見解や本「報告書」を紐解けば、その陥穽が白日の下に晒されることになります。
※1 社会保障制度改革国民会議「社会保障制度改革国民会議 報告書」P.2・3 2013年8月6日
※2 『朝日新聞』2013年8月26日
※3 社会保障制度改革国民会議「社会保障制度改革国民会議 報告書」P.29 2013年8月6日
組織から独立して事業を立ち上げ漸く7年の歳月が経とうとしています。斯様に一定の月日を経ながらも、当方における実践は依然過渡期にあり、まだまだ確たる成果を導き出すには至っていません。そんな中では有るものの、独立・起業を志す多くの人々に話をさせて頂く場面が続いています。話の場面は、講演であったり、直接相談によるものであったりします。話を聞いて下さる方々の多くは、既存の組織や機関では応えられぬ社会的ニーズに対応すべく独立への道を選択しようとされている方々であり、端的に捉えると程度の差こそあれ多くは社会の変革を意図されているとも言えそうです。既存の制度や組織では対応できない実践を行うことによって、社会的ニーズに応えて行く、延いては、その様な社会的ニーズに応え得る社会へと変革していくことを目的としているケースが多く見受けられるのです。
その様な場において、実は7年前から全く同様のお話をさせて頂いている事柄があります。それは、実践家が行う社会変革の方法は、大別すれば2つに分けることができるというものです。その内1つは、独立・起業によるものであり、無いものを嘆くより創れば良いという発想に依拠しているものと思われます。目指すべき社会構築に接近する方法を既存の制度や組織・機関では採ることが出来ない。よって、無いのであれば、自らがその様な組織・機関を創設し、延いてはその実践の中で制度を揺るがしていく。その様な発想から端を発するものと言えるのではないでしょうか。そして、もう一つは、既存の制度や組織・機関の中に居座りながら、その中に敢えて自身を据えた上で、制度や組織・機関を揺さぶって変革していくというものです。自らが理想とする制度や組織・機関を、組織を飛び出して自らが創造するのではなく、理想とは言い難い既存の枠組みの中に敢えて自らの身を置き、その仕組みを内から変えて行くという発想が後者になります。そして、ここで最も重要なのは後者であると説明しているのです。自身が前者の道を取っている訳ですから、何とも無責任で且つ説得力に欠ける説明であり、よって、話を聞いて下さる方の多くは若干驚愕される傾向にあります。
既存の大きな制度や組織・機関の枠組みから飛び出し、新たな取り組みを生み出すこと、その様な小さな実践を増やしていくことは社会を変革する有効な方法であることは言うまでもありません。それを信じるからこそ、自身も独立・起業を試みました。しかし、小さな実践を沢山構築していくよりも、やはり、既存の大きな制度・組織の枠組みの中に居座り続けて、内部からじわりじわりとそれを変革していくことこそが、最も有効な方法ではないかと考えているのです。自身がその最も有効と思われる方法ではない前者を選択した理由は、自身の性格・嗜好に因るところが大きかったように思われます。敷かれたレールの上を上手く走ることが出来ない拡散性の個性が強い自身にとっては、前者の方法の方がより自身の能力を活かすことが出来るのではないかと勝手に判断したに過ぎません。よって、自身の個性が後者に適していれば、恐らくは後者の道を選んだことでしょう。
得てして、何らかの形で社会変革を志す人々は、既存の組織においては“手に余る”人々であることが多いようです。もう少し直言すれば、組織においては“歓迎されぬ”人々であるのでしょう。よって、その様な人々が組織を飛び出すこと自体、当の組織では大変“感謝”“歓迎”されると言うことになります。そして、その人々が、組織を飛び出し細切れとなって小さな実践を各地で積み上げたところで、果たして、社会変革を促進する大きな力にそれがなり得るのか少々疑わしく思うのです。
「君、地獄への道には善意が敷き詰められている」(サミュエル=ジョンソン氏)とは有名な件ですが、近視眼的な「正しい選択」が「正しい結果」を導き出すとは言えないと日々考えています。つまり、実践家に求められているのは、常に結果であると。自らが信じる「正しい結果」に近づけるために、その方法は数多あるわけで、方法にまでも「正しさ」を求める必要は無いのではないかと考える訳です。
この国が暮らしにくいからといった理由で、外国に移住される方々がいらっしゃいます。しかし、それで根本的問題が解決するわけではありません。どうせ結果が見えている、また良い選択肢が見つからないとの理由で選挙権を行使しない人々がいます。その悪循環が、今の政治を規定しているのではないでしょうか。法人税が高いので、企業が海外に移転するとのことですが、その様な社会的責任や愛民族心・愛国心の無い企業が海外に流出し成功を収めるとは考え難いのではないでしょうか。
アマルティア=セン氏もグローバル化を家庭に喩えて次のように述べています。「たとえて言うなら、家庭内の取り決めが女性にとってひどく差別的であると議論する場面で、家庭などないほうが女性はまともに暮らせる、と主張する必要はありません。その取り決めでは、利益の配分がきわめて不平等であることを示せばいいのです」※1。つまり、問題となっているのはグローバル化そのものではなく、その中にある制度的枠組みであり、その不公平さにあると述べているようです。
思想や理論の相違から、その国や組織から距離を置くこと自体は難しい事ではありません。しかしながら、社会変革を志す者が孤高の状況にあってはそれは本末転倒であると言えます。私たちは、煩わしいものにほど距離を置いてはなりません。意見や理論の相違があっても、大局観をもって共通の価値観を相互に携えながら、断絶することなくそこに関わり続ける必要があります。その様な忍耐のいる地道な実践の積み重ねこそが社会の変化を促進させていくのだと信じるからです。
実践方法としての社会変革には2つの視点があるとのことでしたが、実は独立・起業の方法を選択したとしても、組織からは自由になれても、グローバルな社会からは自由にはなり得ません。人は皆、社会化されて暮らしている訳ですからこれは自明の理です。ましてや、理想の社会構築を目指す、そのための社会変革を促進する立場にある者が、その社会から距離を置くことなどは大よそ意味を有しません。前者の選択者であれ、後者の選択者であっても、社会構造の中で、その制約を多分に受け、そのことを実感し向き合いながら、社会変革を促進していくことは全くもって共通の視点となることでしょう。その上で、後者の重要性についていつも触れるのは、社会変革は綺麗ごとではないと言うことに尽きます。特に、クライエントの側に立った実践を展開する私たちソーシャルワーカーの社会変革は、相当な忍耐と妥協を有する作業になることは想像に難しくはありません。少数派の側から社会を変革していく訳ですから、こちらの言い分を通すためにはその何倍もの妥協を繰り返さなければ恐らく実現などしますまい。それでも、1つの言い分を通し、社会を変革させることが出来たとすればこれほど素晴らしいことは無いと自身は考えます。屈辱的とも言える妥協を繰り返しながら、それを忍耐をもって乗り越えて行く、その中で僅かな変化を積み重ねて行く。また、それを実践するために重要なことは、常に大局観を持って共通の理念を模索し連携できる仲間を見出すこと。これら、一見地味にも思われる地道な実践を重ねて行く帰結として社会変革があることを強く認識すべきではないでしょうか。
独立・起業し、派手な実践を重ねるだけでは、真なる社会変革の促進は成されません。独立・起業の道を選ぼうとも、既存の組織に居座り続けようとも、私たちは変革を求める現下の社会と距離を置いてはなりません。特に、独立・起業さえすれば、自らの理想的実践が貫徹できると言う訳では断じてありません。独立・起業しようとも、信念を持って、社会変革を迫ろうとすればするほど、多くの制約を受け、妥協を繰り返す中、忍耐と戦略をもって僅かな変化を積み重ねて行くことしか出来ません。しかし、社会の変革とは斯様にある種非常に地味に成されるものなのでしょう。これに関しては、独立・起業した者の答弁ですので、若干説得力があるものと言えそうです。
※1 著:アマルティア=セン訳:東郷えりか『人間の安全保障』集英社新書P.57 2011年10月
お盆の最中、誰もいない職場で、スクラップの整理をしています。それを一枚一枚読みながら整理すればこそ、流石に中々作業が進まずにいます。そんな中、作家の井上ひさし氏が生前広島市に訪れた際の記事に強く目を留めました。2009年7月の記事です。そこには、昨今の戦争の傾向として圧倒的に軍人よりも一般人が死亡する確率が高まっていること。つまり、今戦争を始めれば、「戦争の始まりを見逃していた普通の人たちが死者のほとんどを占める」ことになると述べています。加えて、日本国憲法の前文及び第9条が南極条約締結に役立ったその功績についても語っています※1。
今本紙に目が留まる理由。それは、現下の社会が井上氏の求めた向きとは、真逆の方向に流れていることを若輩ながら実感しているからであります。いみじくも、憲法改正の手続きを経ずとも、集団的自衛権の行使が可能となる様、内閣法制局長官人事が実施され※2、首相の私的諮問機関(「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」)でもそれに向けた議論がお盛んだとか。
如上の大きな社会進捗の流れに、一見私たち社会福祉専門職は無力に見受けられます。私たちの仕事は、目の前のひとりの人の生活を守っているに過ぎないと。ひとりの人の生活の一部を支えているだけだと。果たしてそうだろうか、と私は思います。ひとりの人の生活と人権を守る営みの如何に尊いことか、そして、その実践の積み重ねが社会に与える影響の大きさ、その可能性を信じて憚らないからです。
先の参議院選挙において唯一喜ぶべき点があります。それは、成年被後見人に選挙権と被選挙権が認められたことでした。2013年3月14日の東京地裁判決を受けての公職選挙法改正に因るものですが、これによって、全国の被後見人約13万6千人の方々の選挙権・被選挙権が回復の日の目を見ました。これは非常に重要な出来事であって、東京地裁の「主権者としての地位を事実上奪うものであり、参政権を保障した憲法に違反する」とあるように、議会制民主主義の根幹を成す選挙権の重要性とそこに制限を設けることの困難性を如実に示したものと言えます。これは、被後見人における権利の問題のみならず、全ての国民における民主主義に係わる重要な問題であったとも敷衍できるでしょう。本件において、更に注視すべきことは、この度の公職選挙法改正がまさにひとりの人の人権を守ることから端を発していることにあります。6月4日付けの『朝日新聞』の「声」では次のような言葉が寄せられていました。「茨城県在住の名児耶匠(なごやたくみ)さんは、後見人がついたら突然、選挙権を取り上げられた。彼女が訴訟を起こし闘ったことで、支援さえあれば投票が可能な人の選挙権を封殺した行政の理不尽を、多くの国民が知り、怒ったと思う。黙っていたら、憲法に保障された投票の権利を取り戻せなかった。正当性を見極めて粘り強く信念を貫き、権利を手にした名児耶さんと支援者に深甚なる敬意を表したい」※3。斯様に、ひとりの人の訴える「声」が、支援者と共感者を呼び、大きな社会の変革へと帰結したのです。今回の変革の周辺には主として法曹人の役割があったようですが、日本社会福祉士会も会長声明を出すなど、本領域と社会福祉実践は大いに重複するところがあったと認識しております。
「ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから」。とはまさにその通りかもしれませんが、問題の核心はそれが民主主義の手続きに則って成されたのかにあります。軍国主義の萌芽や戦争は一朝一夕に成されるものではありません。ひとりの人の言論や信教の自由、そして、その人権が軽んじられてこそ、そこに到達すべきものであることは歴史を見れば明らかでありましょう。この度の法改正に係わる中核には法曹人の姿があったわけですが、私たち社会福祉専門職の仕事は、まさにひとりの人の人権と権利を守ることこそがその使命とされており、この度の法改正に繋がる実践を日々積み重ねていることを再確認する必要があると思うのです。
「ひとりの人」の人権尊重が成されている社会が戦争や侵略に走ることはあり得ません。右や左のイデオロギー論争に与せずとも、私たち福祉専門職は、目の前の「ひとりの人」の生活と権利を守れば良いのです。そのことを通して、人と人が傷つけあう負の連鎖に楔を打つことができると信じています。かつて、社会構造を捉える社会学の知見が今ソーシャルワーカーには求められていると述べましたが、仮に社会構造を如何に捉えようとも、「ひとりの人」の生活と真摯に向き合い、その「人」の権利擁護を真剣に取り組んでいけば、その実践は誰もが暮らしやすい社会の構築へと繋がるものと思われます。つまり、マクロのとば口から入っても、ミクロの入り口から関わっても、ソーシャルワーカーの実践は恐らく同じ社会変革・社会構築へと帰結するものと信じる訳です。その上にあって、特に執拗に述べておきますが、個別支援においては皮相的実践では到底そこに辿り着くことが出来ず、真なる権利擁護を捉えた実践でなければ方向性を見誤る事があるので留意が必要です。
目の前のクライエントの生活と権利を守っている我々の仕事は、実は現下の平和を根底から支えている仕事であると換言することが出来るのではないでしょうか。ノーマライゼーションの提唱者であるニルス=エリク=バンク-ミケルセンが、それこそ第二次大戦中ナチスに抵抗して、デンマークでレジスタンス運動をしていたことは今ではよく知られている話です。「ひとりの人」の、延いては、その自己決定に支援を必要とする人々の生活と権利を守る私たちが、我が国の平和を守る礎を築いていることを私たちは大いに励みとするべきでしょう。
※1 『中国新聞』2009年7月2日
「第1次大戦での死者は、軍人が95%を占め、一般人は5%にすぎなかった。だが、第2次大戦ではその比率が52%と48%に接近。朝鮮戦争で16%と84%となって逆転し、ベトナム戦争では5%と95%と、一般人が大多数を占めた」と語った。その上で「今、戦争を始めると、兵隊は少ししか死なず、戦争の始まりを見逃していた普通の人たちが死者のほとんどを占める」と、無関心が戦争を招く怖さを力説した。
※2 「社説 集団的自衛権 まず人事権の行使とは」『朝日新聞』2013年8月3日
内閣法制局は、憲法のご意見番ともいえる行政組織である。安倍首相は、そのトップ人事に踏み切る方針を固めた。
今の山本庸幸長官に代えて、小松一郎駐仏大使をあてる。これまで一度も法制局の経験がない外務省出身者を、いきなり長官に起用するのは異例だ。
参院選の直後、首相は集団的自衛権の行使容認に向けた憲法の議論を再開すると表明していた。積極派の人物をここで登用する人事は、容認への布石であることは明らかである。
平和憲法の原則にかかわる問題の議論を始めようというときに、人事から着手する手法には危うさを感じざるをえない。これでは、丁寧な議論が成り立たなくなるのではないか。
同盟国が攻撃されたとき、日本が自らへの攻撃とみなして反撃行動に出ることができる。それが集団的自衛権である。
歴代内閣は、その行使は「認められない」という憲法解釈で一貫してきた。それを支えてきたのが法制局である。
憲法9条は、必要最小限度の武力行使しか認めていない。集団的自衛権の行使はその一線を越えている――。
法制局は長年そんな立場を崩さず、解釈見直しにブレーキをかけ、政府見解や国会答弁の整合性を保ってきた。
イラクへの自衛隊派遣で議論になった「非戦闘地域」などの概念は、時の政権が法制局と折り合いをつけるために編み出した苦肉の策だった。
集団的自衛権の議論を進めれば、いずれかの段階で法制局長官を代えざるをえない。政府内ではそんな見方が強まっていた。今回の人事は、これまで繰り返されてきた法解釈論争を、一足飛びに越えようとする狙いとも受け止められる。
新長官になる小松氏は、外務省で国際法局長もつとめた外交官。首相の外交顧問役である谷内(やち)内閣官房参与とも近い。
憲法の解釈変更に向けては、首相の諮問機関が近く論議を再開する。こちらも変更の容認派の顔ぶれが並んでいる。
いうまでもなく、これは専守防衛という日本の安保政策の基軸をめぐる論議である。その前段で、まず人事権を使って外堀を埋めておこうとするかのような手法は、乱暴ではないか。
政府内に異論があるなら、一層時間をかけ、幅広い議論を尽くしたうえで合意を築き、国民に説明するのが筋だ。
過去の政府見解との整合性を軽んじたり、きめの粗い議論に陥ったりしては、憲法や法体系の信頼が揺らぎかねない。
※3 今井正「声 選挙権取り戻した闘いに敬意」『朝日新聞』2013年6月4日
遂に今月より生活保護費の大幅な減額が始まりました。社会保障費(約75兆280億円)の内生活保護費の占める割合は約3兆5千億円の3.47%であり、また世間で取り沙汰されている不正受給の被害金額は173億円だそうです。しかしこれは、生活保護費全体の0.5%に過ぎないと言われています※1。またその不正の内訳の7割以上が収入の申告漏れであり、思い違いや誤解による過大受給も多分に含まれていて、その多くが悪質であるとの捉え方は間違っています。
ここで、敢えて「過ぎない」と表現するには大きな理由があります。斯様な不正受給に対する批判的な流れから生活保護費の削減が目論まれてきた訳ですが、全体から見れば“僅かな”不正を非難することによって、生活保護制度の根幹を揺るがす本末転倒性に警鐘を鳴らすべきと考えるからです。同時期に生活保護費を下回る最低労働賃金の問題が取り沙汰されていますが、この生活保護費はまさに最低労働賃金とも連動しており、全ての国民の生活を守る最後の砦と言われるに相応しい理念で成り立っています。不正行為は許されざるものです。しかし、不正は生活保護受給者に特異なものでは断じてなく、政治家や官僚、企業のトップも不正を行うことがあります。また、不正の発生はその機会との相互性が言われている訳であって、つまり、不正がしやすい機会を減退させていくことも同時に求められています。生活保護課のケースワーカー1人当たりの担当数は約93世帯(2012年度平均・標準は65〜80世帯と想定)と言われています。そこで生活保護受給者に対する十分な支援や不正の防止策が図られているとは考えにくい。そのような施策の在り方にも、不正を誘発する要因があると言えるのではないでしょうか。
不正が許されないことは子どもでも理屈として分かっています。しかし、私たち大人がすべきことは、その不正の背景や本質を理解することであり、ある人の起こした不正を不必要に追及することによって、その不寛容性の中で喪失するものがあることに想像を膨らませることにあります。なぜなら、不正を起こした誰かの不幸は、私たちの不幸ときっと何処かで繋がっているからです。
私が危惧するのは、誰かを排除する社会であり、不必要なバッシングを浴びせる社会が深化することにあります。誰かに向かって飛ばしたバッシングは、いつか必ず自らに向かって飛んでくることでしょう。不寛容な社会は、却って、私たち自らの首を絞める作用を引き起こすことを忘れるべきではありません。この度の生活保護費の減額は、まさにその代表的な教科書として注視すべきものと言えます。
※1 『朝日新聞』2013年6月21日。
※2 『朝日新聞』2013年3月11日。
「不正の内訳は、就労で得た収入の無申告が最も多く45%。年金の無申告が25%と続く。このほか、親族から得た仕送りを申告していなかったり、交通事故の示談金を申告していなかったりした事例があった。不正が見つかったきっかけで多かったのは、自治体による照会や調査で90%だった」。
閣僚をはじめとした政治家諸氏の「失言」は今に始まったことではありません。かつては、首相の「単一民族」発言に始まり、女性を「子どもを産む機械」と「失言」した大臣もいらっしゃいました。昨今では、大阪府知事による「慰安婦」発言や、先の副総理による「ナチス」発言が取り沙汰されています。そして、これらの「失言」は世論の批判を受け、多くが本人にとって渋々撤回や謝罪という形で処理されていきます。
さて、ここで素朴な疑問が浮かばれます。そもそも、「失言」とは何か?という日本語の捉え方に発展する疑問です。一般的に「失言」とは、言うべきではないことを、うっかり発してしまうことやその言葉であるとされています。「言うべきではない」とは、ある人前で、ある場所などの周囲の状況に応じてそうするべきではないと言っているのであって、「本心」や「本音」とはおよそ関係のないものであることが理解されます。つまり、「失言」の撤回は、必ずしも「本音」の撤回にはなり得ず、そして、その場合の「謝罪」は欺瞞的なものに過ぎないと言えます。「本心」や「本音」は結局のところその本人にしか認識できぬものなのですが、その「失言」の多くが渋々撤回されている事実を鑑みた時、周囲の状況と乖離した形で、本心や本音が思わず露わになったのが失言であると言えなくもありません。
周囲の状況に慮ることなく、そこから乖離した発言を安易にしてしまうことには、恐らく驕りであったり、慢心があるのかも知れませんが、大事なのはそれが本心であり本音であるのかその如何によるのでしょう。自身の事を俎上に載せて顧みても、失言の多くは「言うべきではない」場面において本音を漏らしてしまったことに端を発しているようです。また、如上の「失言」者のその後の対応を見る限りにおいても、それらが限りなく本心・本音に近いものであることを窺い知ることが出来ます。
斯様に失言とは、往々にして、普段からの考えや思い、更には本心や本音を表しているものであり、それが支援者に囲まれる等の話しやすい環境と相まって思わず露呈するものなのでしょう。その意において、失言こそが、その人の本質を突いているとも言えます。自戒の念を込めて、正にその本質が問われていることをここで確認しておきたいと思います。