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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

政治が守るべきもの

2013/09/28 19:03:20  社会福祉
 例えば、建設工事の請負契約を1億円で締結したとしよう。その後、竣工の半ばを迎えて、いきなり施主側が7000万円の支払いしか出来ないと訴えたらどうなるだろうか。建設会社側にすれば、工事の継続はおろか、契約違反を盾に取り、残りの3000万円の支払いを訴えるであろう。それが、聞き入れられない場合は、その後司法の場で判断されて行くのが全く「普通」の流れと言えるのではないだろうか。

 そんな「普通」が通用しない出来事が起こっています。本日付の毎日新聞によれば、「生活保護受給者や障害者ら社会的弱者の自立を支援する自治体などの事業を国が支援する『セーフティネット支援対策補助金』について、厚生労働省は今年度分の補助額を3割削減する方針を決めた。11日には各自治体に、減額分を自主財源で穴埋めするか、事業終了や規模縮小で対応するよう指示しており、混乱も予想される」※1とあります。本補助金は、2005年度に創設されたもので、生活保護受給者の就労支援や引きこもり・不登校の子どもの支援、刑務所を出た高齢者・障害者の支援などの事業に充てられているものです。予算総額は、250億円。

 年度半ばを迎えての3割削減と言うことは、5割の決算を終えて、残り5割に対する全体予算の3割削減ですので、下半期は何もできないに等しい事態に陥ってしまう訳です。つまり、冒頭の1億円の予算であれば、5000万円を使い切った後、残り5000万円に対して、3000万円の削減ということになります。特にこの手の支援事業の構成は、設備投資や諸経費は大した割合を占めず、その多くは支援者たる専門職の人件費が宛がわれています。つまり、年度途中で予算を削減すると言うことは、人件費をカットすることであり、即ちそれは、雇い止めや解雇を前提としたものになるでしょう。同紙によれば、「自治体からは反発の声が上がっている。首都圏のある市は非常勤職員を雇用し、生活保護受給者らの就労相談や学習支援を進めてきた。担当者は『補助が出る前提で事業を進めてきたのに、国にはしごを外された。非常勤職員のクビを切れというのか』と憤りを隠さない」※1ことが描かれています。この憤りは、本質的であり、人間としては自明の感情でしょう。

 また、本事業は、その趣旨からすれば、国民の生存権を想定したものであり、事業の後退は、国民の生活や福祉の後退を意味するものです。その意味において、先の建設工事の中止とは、公益的に訳が違うと認識しているところです。政治が、この状況を創り出している若しくは、静観し続けるのであれば、その本質自体も強く問われるべき事象ではないでしょうか。資本主義社会の力学的必然として、“勝ち組”と“負け組”が生まれるものの、“負け組”は公的に最低限の生活が保障されてこそ、私たちの社会は誰もが住みやすく健全なものになると言えます。政治が担うのは、まさに「ここ」であって、“負け組”の生活を守ることにこそ、いや、そのことを唯一至上の事として取り組むことにこそその面目躍如があるはずです。それを行わない政治は、無用であり、不毛であり、そればかりか弊害でしかありますまい。理論的にも破たんしている自己責任論を唱える政治も同様に。

 しかも、最も許されざるのがその理由にあります。先の毎日新聞を引用しよう。「同省によると、8月からの生活保護基準切り下げに伴う自治体の電算システム改修費や、通常国会で廃案となった生活困窮者自立支援法案に関連する事業に充てる補助金が想定を超え、今年度に必要な補助金額が予算を大幅に上回る313億円に達した。このため一部の優先事業を除き、予算の3割カットを決めたという」※1。なるほど、単なる予算管理ミスに起因しているのですね。斯くなる理由は、そのマネジメント力を疑ってしまう訳ですが、それはさておき、であったとしても、人間の生活に直結する予算を削減する理由にそれはなり得ません。

 生活保護費の削減を皮切りに、介護保険サービス利用者の負担の増加や要支援高齢者の非対象化が進められています。この様な社会保障の逃避・減退は、成長戦略・財政再建と言う命題の下、推し進められて来たものです。若輩浅学は思います。人々の生命と生活を守らずしてまで、この国が成長する意味は一体何処にあるのだろうかと。また、無駄を省くために、人々の生命と生活を軽んじて何が得られるというのだろうか。人々の生命と生活を守るのが政治であり、それすらも市場原理や自由競争に委ねると言うのであれば、もはやそれは無用の長物であると断言せざるを得ません。

 斯くの如き社会を鑑みて、この国で暮らすことに嫌気が差すこともあります。しかし、自身なりにもやはり、愛民族心や愛国心があります。この国で生まれ育った以上は、死ぬまで、この国で暮らし続け、そして、次の世代に僅かばかりでも何かを残せる自身でありたいと願います。と言いながらも、この様な愚劣な事態に触れる度に、自身におけるその動機と情熱が高まることは、真なる反面教師として非常に“有難い”ことかも知れません。


※1 遠藤拓・石川淳一『毎日新聞』2013年9月28日


たまには、どうでもいい話を

2013/09/22 19:03:25  食べ歩き
 当法人のホームページを管理して頂いている知人から、中島さんのブログは長くて読みにくい、そして、難しいと指摘を受けたことがあります。だから、アクセス数が伸びないんだと…。そこまでは、言われなかったかな。そこで、趣味は何かと聞かれました。趣味と仕事に線引きのない生活仕様を有する私は直ぐに答えが出てきませんでした。読書にセミナー受講等々全て仕事に関連するものばかりで、自身は趣味と思っていても、一般的にはその様に捉えて頂けないものばかりが彷彿されました。その中で、唯一挙がってきたのが、「食べ歩き」でありました。知人は、透かさずそれをブログの項目に入れ、「読みづらい」ブログの合間に執筆するように提案してくれました。その方が多様な人々に読んでいただけるだろうと…。そんな有難い提案を頂いておりながら、また「食べ歩き」の項目も設けて頂きながら、全く以て私は従来通りの執筆を続けておりました。そんな、良心の呵責からも、また、有難い知人の提案をたまには実行しなければとの思いから、今回はその「食べ歩き」について、叙述してみようと思います。専門職は、自らの実践を言語化できなければならない。これは予てからの私の口癖ですが、今回はこの「食べ歩き」を言語化してみようと言う試みです。

 見知らぬ地に訪れた際、当然にやるのはその地における食事の確保です。それも出来れば、その地でしか食すことのできない美味しいものであるべきです。美味しい不味いは、基本的に個人差がありますので、押し付けは最も忌避すべきことです。しかし、私ながら有する一つの指標は、値段との関係性にあります。つまり、800円の上手いハンバーグ屋さんがあって行列が出来ていたりしますが、そのハンバーグを2,000円にしたらそれでも客はそれを上手いと感じるのか、と言うことです。直言すれば、高い値段を出して上手いものを食べると言うことは極当たり前の事だと言えます。500円の上手いものは、500円だからこそ上手いのかもしれません。それが、1,000円であっても同様に上手いと感じるのかには思案が必要です。その意味において、27年間生活した大阪は、500円で上手いものを探すには誂え向きの絶好地であると思い起こされます。200円を切る値段の立ち食いうどんのなんと上手いことか。と言うことで、私の有する一つの指標は、値段が重要であると言うことです。

 見知らぬ地でお店を探す際は、インターネットやランキングは参考にはしますが、あまり当てにはならないと思っています。先ほど申し上げた通り、上手いと感じるものには個人差があります。私が上手いと思ったものを、他者が上手いと感じるとは限りません。その意味において、ランキングは参考にはなるものの重大な決め手にはならない訳です。後は、自分の足で稼ぐしかありません。街中を歩きながら探すのです。

 私がどんな基準で、店舗選びをしているのか、敢えて彷彿しながら言語化してみます。まず、立地条件ですが、表通りに面していても看板が目立たず、存在を過大に広告していない店か、裏通りにある店を探します。当然に、価格等を看板に書いている店にはあまり興味がありません。理由は、客を選んでいるその姿勢にあります。客に選ばれる料理には然程興味がなく、自らの追及する料理を提供したい店側の姿勢が想像できます。つまり、自分の料理の味の分かる客に食べてもらいたいと言うことでしょうか。客が店を選ぶのだから、俺も客を選ぶんだと言う気構えが見えてきそうです。その意において、夜しか開店していない店にも魅力を感じます。ランチはサービスタイムであることが多く、本来の自分の仕事に集中するために敢えて夜しか開けていないのではないかと勝手な期待をしてしまうわけです。つまり、どのような基準かと申しますと、自分の料理にこだわりがあると言うことが要諦であると思うのです。自分の満足できる料理しか提供できないと言う確たるこだわりです。また、それを仕事として継続してくためには、そこに飽くなき向上心が無ければその動機は維持できないと理解しています。よって、老舗は上手いとの指標も持っています。

 次は、店の前を通り過ぎた際に匂いを嗅ぎます。店外に好きな香りが溢れていれば、好印象を抱くわけです。これは、全く経験則上の話ですが、匂いと味はとっても密接な関係にあって、味以上に匂いは重要であると昨今認識を強めています。よって、匂いと味には相関性が強くあると思っていますので、自身が好きな匂いではない店には入らないようにしています。

 最後に、例えば「○○屋 渋谷店」と言った複数店舗を経営している店も進んでは入りません。チェーン店の味は基本的に信じることが出来ません。なぜなら、料理にはマニュアルがないからです。例えば、レトルトで同じタレやスープ、食材も全く同じものを用いたとしても、調理の方法が微妙に変われば全く異なる結果が出るのだろうと思っています。大学時代よく通っていたラーメン屋さんは、今でも、麺の茹で加減をタイマーには委ねません。恐らく、室内の湿度や温度によって、またその時の麺の状態によって、茹で加減を変えなければならないからだと観察しています。必ず、一旦自身の口の中に入れて確認して出しているのですから。だから、お好み焼きでも、店員さんによってその結果が異なるので、あの店員さんに焼いてもらいたいという思いになったりするのでしょう。もっと言えば、寿司屋などは、客の好みや、体調を見ながら握り方を変えていくとも聞きます。客の反応を見ながら、調理方法を微妙に変えることもチェーン店には難しいことかと思われます。

 さて、ここまで書きながら彷彿されてきた一つの事はやはり仕事に関連することでした。最低限のサービスの質を保つためにマニュアルを忌避する気はありません。むしろ、それが全くなければ、専門性と組織性の基本を伝える事に私たちは多大な困難を感じてしまいます。その意味において、マニュアルは必要悪と認識しながら、導入すべき範囲を決めて導入を進めていくべきものであると考えています。一方でマニュアルを守るだけでは、その仕事が不十分であることも理解しておく必要があります。特に私たちの仕事は、クライエントの表情を見ながら、微妙な体調や思いの変化を察して理解しながら、そのやり方を臨機応変に変化させていく必要があるからです。如上のチェーン店が、そうでない店舗に対抗するためには、マニュアルの整備と同時に、その時々に変化する自身とその組織、あらゆる環境要因、そして、客の変化に対応できる職員ひとり一人の洞察力と思考力が強く求められるのでしょう。当然、その根底には、実践の拠り所たる共通の理念と方針があることは言うまでもありません。このまま書き続ければ、やはりまた仕事の話に終始してしまいそうです。知人の助言をまたも反故することになりますので、今回はここで筆を置くことにしますが。



負の循環を正の循環へ 変革の秋

2013/09/21 18:36:08  社会福祉


 広島県福祉・介護人材確保等総合支援協議会(事務局は広島県社会福祉協議会 広島県社会福祉人材育成センター)が今年3月にまとめた「福祉・介護人材に関する実態調査」の報告。調査の目的では、「福祉・介護職場における人材確保・育成・定着の現状と課題や,福祉・介護従事者の就労状況等の実態を把握するため」※1とあります。構成員の一人として関わりがありますので、調査結果については当然に通覧させて頂いております。その中で、昨今のブログでも取り上げていることと関連するであろう箇所に目が留まりました。それは、事業所従事者に対する「利用者の方等について,悩み,不安,不満等」に関する質問項目におけるその結果でした。本項目は、介護施設従事者と障がい者施設従事者の双方を対象に訊いたものです。少し覗き込んで見たいと思います。

 まず、介護施設従事者の結果としては、「利用者に適切なケアができているか不安がある」の回答が最も多く48.1%でした。そして、次に多かったのが「介護事故(転倒・誤嚥その他)で利用者に怪我をおわせてしまう不安がある」(34.7%)で、その次が「利用者と家族の希望が一致しない」(21.4%)でした。障がい者施設従事者の結果では、「利用者に適切なケアができているか不安がある」の回答がやはり最も多く49.2%。次いで、「利用者は何をやってもらっても当然と思っている」(21.3%)、その次に「介護事故(転倒・誤嚥その他)で利用者に怪我をおわせてしまう不安がある」(21.1%)となっています。

 やっぱりそうかと心当たりがありながらも、若干驚愕したのが、「介護事故(転倒・誤嚥その他)で利用者に怪我をおわせてしまう不安がある」と「利用者は何をやってもらっても当然と思っている」、「利用者と家族の希望が一致しない」と言う感想を抱いている従事者の多さでした。特に介護事故に対する不安の数値は、クライエントの直接ケア・支援に関わる時間と頻度のより多いであろう介護職員に高い値を示していました(介護施設従事者が43.2%《全職種34.7%》障がい者施設従事者が34.1%《全職種21.1%》)。調査の趣旨から鑑みれば、これらの結果は、介護職の離職・定着に一定の影響を与えていると捉えることが出来るでしょう。

 社会福祉基礎構造改革以後、福祉・介護の分野にも市場原理が色濃く導入されてきました。クライエントは、「お客様」と呼ばれ、顧客化・消費者化が促進されて今があります。市場原理の下、顧客は獲得の対象であり、囲い込みの対象と化して行きました。そこで、地域における連携・連帯の意識も希薄化してきたのでしょう。顧客・消費者化したクライエントと、そのサービス提供事業者は、産業界同様に消費者対企業の対立構造に陥りつつ見受けられます。

 スウェーデンの高齢者住宅に訪問した際、現場の責任者に昨今介護事故が遭ったと言う話を聞きました。事例を詳しく聞くと、恐らく日本においては介護過誤として、施設側に責任が問われるであろう事故であると判断しました。そこで、ご本人・ご家族に対する説明や謝罪はどの様に行っているのか?と伺ってみたのですが、意味が分からないと少し怪訝な反応が返ってきました。責任者によれば、なぜ、謝罪や詳細な説明が必要なのか、分からないと言うわけです。自らが、自らの意志で歩いて転倒しただけなのに…、と。その後、その高齢者住宅における従事者の人員配置を詳しく見てみると、恐らく日本の高齢者グループホームのそれと同じか手薄い人員配置にありました。にも拘らず、職員さんの表情は皆穏やかで、ゆとりすら感じられました。皆さんの職場では如何でしょうか。

 この調査結果と合わせて考えられることは、日本の福祉・介護現場は市場化が進んだため、介護職が事故に対する斯様な恐怖を抱くようになったと言うことかも知れません。消費者対企業の様相が、当分野にも蔓延っており、福祉経営者は事故に過敏に反応するようになりました。その圧力が現場にかけられ、結果、介護職の不安を醸成しているのではないでしょうか。かてて加えてその先には、介護職の離職率の上昇と、サービスの質の低下、延いては、クライエントの生活の質の低下が見込まれるのです。リスク回避に対する現場の過剰な対応が、時にクライエントの生活者としての自由を奪ってしまう可能性にも注視が必要です。

 暇つぶしのために何気なく購入した雑誌には、いみじくも消費者対企業における訴訟費用が今後「最大コスト10兆円の可能性」があると論じています※2。つまり、対立構造の深化が信頼関係を阻害し、その帰結として余分なコストが発生すると言うことなのでしょう。もちろん、財界に象徴される大企業と消費者の様に著しくパワーバランスの欠いた関係においては、消費者の権利擁護の視点は不可欠であって、大企業が斯様に余分なコストを負担したくないのであれば、消費者の権利を重んじた商品やサービスの開発が求められて然るべきことは言うまでもありません。しかし、約8割が中小企業で構成されている福祉・介護施設においても、また、その社会保障における公的責任の議論もなくして、同様な対立構造が生じる事には強い懸念を抱いているものです。

 結局のところ、折り合いや合意を目指さない対立構造は不毛そのものなのでしょう。例えば、若輩は当然ながら10代の頃より反原発論者ですが、しかし、それでも、そこを目指すための現実的な合意と戦略が不可欠であることぐらいは理解が出来ます。以前読んだ本で、著者は思い出されないのですが…、原発反対派が「原発は絶対に安全なのか?」との問いに、推進派は「絶対に安全である」と答えるしか無かった、よって、原発政策には安全神話が確立したとの経緯が描かれていました。やはり、排除関係にある対立構造は不毛に等しいと繰り返し思うのです。前出の岩本氏の次の行を紹介します。「どんな商製品・サービスも『絶対』と言えるものは存在しないにもかかわらず、日本では企業も消費者も、『絶対大丈夫』ということを前提に売り買いするきらいがある。本来は、どんな商製品・サービスも『こんな条件ならここまでは大丈夫』といったものであり、それを契約の際に明確にすることが、企業と消費者とのコミュニケーションにおいて重要である」※2。

 話を福祉・介護分野に戻します。社会保障の市場原理化が顕著な事象として昨今、医療機関や介護施設の「紹介事業」のことが取り沙汰されています。医療機関や介護施設に患者や入居者を紹介するビジネスが横行しており、厚労省は実態調査に入っているのだとか。しかしながら、次の行にあるようにそもそもこうなることは想像に難しくは無かったはずです。「これまでにも医療機関は患者獲得のために、電話帳に広告を掲載したり、鉄道駅に広告看板を設置したりするなどの宣伝行為を行ってきた。こうした広告費にも診療報酬が投入されていることを考えれば、紹介料だけを問題とするのは疑問ともいえる」※3。如上の事象と冒頭の調査の結果は、どこまでを市場化させて、どこからを公的責任において行うのか、その本質的議論を蔑ろにし、ただただ惰性にその身を任せて、市場化に流されていった帰結が顕在化したものに過ぎないと自身は考えます。今まさに、社会保障における本質的な議論が求められています。

 最後に、クライエントとソーシャルワーカーは対立関係にあるのでしょうか。一見この愚問とも言える質問に、私たちはどのような答えを用意しているのでしょうか。如上の市場原理に晒されている私たちの職場で、一体何が起こっているのか、社会構造をマクロな視点で確かに捉えた上で、現実における葛藤の中での実践が今執拗に求められています。クライエントの権利擁護は、全ての国民の福祉の向上にそれが帰結する、この事実こそが、真なる私たちの誇りであり、拠り所であると言えます。


※協会ホームページ。
 広島県福祉・介護人材確保等総合支援協議会「平成24年度 福祉・介護人材に関する実態調査」2013年3月29日
※2 岩本 隆「集団訴訟の影響をシミュレーション 最大コスト10兆円の可能性」『WEDGE』ウエッジP.49-51 2013年10月
※3 『週刊 高齢者住宅新聞』2013年9月18日


大同連合の秋

2013/09/14 19:16:30  社会全般

 例えば我がまち福山では、鞆の浦の埋め立て架橋の是非を巡って住民同士が対立関係に陥っています。福島の原発事故においても、「県外退避」組と「県内在留」組とで対立関係が見られると言いますし、原発立地地域内における再稼働に対する推進派と反対派の対立構造が取り沙汰されています。沖縄における基地問題も然りです。また、我らが社会福祉分野で考えると、障がいのある当事者団体同士が対立することもありますし、専門職団体同士が対立することも見受けられます。このような事例は、地域性や分野に関係なく枚挙に遑がないほど挙げることが出来ます。

 もちろん、これらは人々の生活に直結する重要な問題であるため、そこに意見の齟齬や対立が起こり得ることは自明の理だと言えます。皆自らの生活を守るために、それだけ必死に生きていることの証とも言えるでしょう。しかし、例えば、如上で挙げた対立構造を銘々取り上げて考えた際、これらは本当に対立すべくその関係に陥っているのか、といった疑念を「普通」に抱いてしまいます。なぜ、本来は利益を共有すべき人々が対立しなければならないのか。そこに大きな疑問を抱かざるを得ない訳です。

 本来は手を繋ぐべき人々が対立構造に陥る要因は素人ながら数点確認することが出来ます。一つは、市場原理下において、個人の幸福が自由競争に委ねられていること、二つ目に、同じ社会を構成する人々の利益が互いにどこかで繋がっていることが実感できないこと、すなわち、大局観を持って共通の利益を描くことが出来ないでいること、最後に、斯様な様相を構築するために、そこに社会的力動が作用しているということではないかと考えています。一つ目は、ここで深く論じるまでもありますまい。社会保障制度改革国民会議報告書でも分かるように、社会保障も今や市場原理に晒されている訳ですから、人々は、自分の生活を「自己責任」において守ることが強要されるため、他者の生活に慮っている余裕もなく、利己的にならざるを得ないというものです。実は、二つ目が重要で、その中でも、私たちには実は共通の利益があるにも拘わらず、その下に人々が連携することが出来ないことに端を発したものと言えます。誰かの哀しみは、いつかそれが自らの哀しみに繋がること、誰かの喜びはいつかそれが私たちの幸せに繋がっていることに多くの人々が実感的に気づいていないことに問題があるのではないでしょうか。そのためには常に、大局観を持って、共通の利益、即ち「人間の利益」(井手英策氏)を描いて人々が連携を図る必要があります。最後の問題ですが、それは、時に意図的に、時に無意識に社会環境から仕掛けられていることがあると言うことにも注視が必要です。冒頭の対立構造にあって、一番トクをする人々の面々を思い起こせば、これは大変わかりやすい。この辺りは、世界史的にも真なる知識人たちによって、搾取や侵略の方法として、それを「する側」が、それを「される側」を分断させる手段として対立構造を意図的に活用してきたことを考えれば、何も想像に難しくない問題かと思われます。しかしながら、たとえそうではあっても、だからと言って、そこで新たな対立構造を浮き彫りにしようとは考えないのが若輩の立場であります。これは、お互いの立場の違いを明確にしながらも、大局論で折り合いをつけながらでなければ物事は前には進まないことを経験則上学んできた若輩なりの物の捉え方でもあるのです。

 大局観や、共通の利益、即ち「人間の利益」(井手英策氏)を人々が共有するためには何が必要なのでしょうか。昨今自らの回想を通して、あることに気づかされました。それは、多様な人々に囲まれた豊かな社会環境との接点にあるのではないかと思われます。私は、幼年時代より、障がいのある子どもたちとの接点が身近にありました。また、小学校時代においては、民間の体操教室に通っていたのですが、そこでも障がいのある子どもたちとの日常的な関わりがあったのです。共に跳び箱を飛んだり、跳び箱の飛ぶ順番を伝えたり、先に飛んで後から飛んでもらったり…。そして、そこで彼ら友人のご両親が、その友人の将来を憂いで、貯金をするためにバザーを催したり、内職をされたりしている姿も目の当たりにしました。私にとってそれはごく自然なことでした。ですので、中学校に進学した際、障がいのある友人に対して攻撃的な友人がいれば、そこに強い憤りを感じましたし、そのことで喧々諤々も喧嘩もしたものです。

 ところが、今の時代はどうでしょうか。教育場面においても、社会全般においても、例えば、障がいのある方の生活がどれほど多くの方に、日常的に触れ合う機会があるのでしょうか。また、福島における原発事故という人災に遭われた人々の生活や、沖縄の基地周辺にお住いの人々の生活などにも触れる機会が如何ほどあるのでしょうか。多様性を認める社会を構築し、理念を共有するためには、まずは社会や地域において、多様な人々が暮らしていることを認識する必要があると自身は考えます。その認識なくして、私たちは多様な人々と手を繋ぐことは出来ないのでしょう。多様性を認める社会を阻害する差別や偏見といった対立構造は、多様な関わりのないところで生まれているのではないでしょうか。問題の捉え方は、その体験によって創造される。問題の捉え方が、その人の言動を規定する。そのように考えれば、多様な人々との接点を有する体験が、人々が共通の利益を共有し、その実現のために手と手を取り合う実践にそれが繋がるのではないかと淡い期待を抱いているものです。

 ですので、当法人の運営する地域交流事業において、クライエントの姿を見て頂き、その生活に触れて頂くことを重要視しているのはこのためです。また、その生活を側面から支えている私たち専門職の仕事にも触れて頂くことを大切にしているのです。

 対立構造からは何も生まれない。昔は違いましたが、今はそう思っています。でも、私たちソーシャルワーカーは、クライエントや少数派の立場を支持します。それでも、対立構造に陥ってはいけないと。では、何をすればよいのか。それは、少数派たる私たちの存在と社会に示していくことにあるのではないかと考えます。ここに我々がいる事を、決して隠すことなく、その存在をしっかりと社会に示していく、同じ利益を有する社会の構成員として我々があることを。その存在までを否定する権利は誰にもないのですから。

 今のような時代だからこそ、私たちは手を取り合う必要があります。その手を取り合うために、私たちは、共通する利益を互いに探し求める必要があります。もちろん、避けられない対立もあることでしょう。しかし、私たちはその過程を重要視しながらも、共通の利益を導き出す作業を惜しむべきではありません。そのような、小さな実践の積み重ねこそが、社会を変革する確たる一歩となることを信じるものです。



ソーシャルワーカーと社会福祉士を繋げるもの

2013/09/02 00:57:59  社会福祉
 本日県下の社会福祉士の皆様の前でお話する機会を頂戴しました。そこで私は、「社会福祉士の倫理綱領」(以下、倫理綱領)の重要性をお伝えさせて頂きました。本倫理綱領こそが、社会福祉士がソーシャルワーカーたる生命線となり得るからでした。

因みに、全米ソーシャルワーカー協会(NASW)の1981年定義を基に、私はソーシャルワークを以下の様に定義しています。「①生活課題を抱えている人々(クライエント)に直接支援を行うこと、②クライエントが生活しやすい社会システム(家族・地域・社会の構造)を構築するよう働きかけること、③クライエントのニーズを中心に、クライエントと社会システムとの関係を調整すること、④政府・行政に対して、クライエントのニーズを代弁したソーシャルアクションを行うこと。如上の4つの仕事を通して、クライエントが生活しやすい社会を構築し、延いては、全ての人々が暮らしやすい社会を創出する専門性の総体である」。

 如上の定義は、一般的なソーシャルワークの定義を鑑みた際、決して特異な内容ではなく、実践家や研究職の皆様においても比較的普遍性の高い内容になっていると認識致しております。であればこそ、国家資格たる社会福祉士のその法における定義に疑問を抱かざるを得ません。法において社会福祉士は以下の様に定義されています。「『社会福祉士』とは、(中略)社会福祉士の名称を用いて、専門的知識及び技術をもつて、身体上若しくは精神上の障害があること又は環境上の理由により日常生活を営むのに支障がある者の福祉に関する相談に応じ、助言、指導、福祉サービスを提供する者又は医師その他の保健医療サービスを提供する者その他の関係者との連絡及び調整その他の援助を行うことを業とする者をいう」※1。また、同法「第四章社会福祉士及び介護福祉士の義務等」においては、「社会福祉士及び介護福祉士は、その担当する者が個人の尊厳を保持し、自立した日常生活を営むことができるよう、常にその者の立場に立って、誠実にその業務を行わなければならない」※2ことや、「社会福祉士は、その業務を行うに当たっては、その担当する者に、福祉サービス及びこれに関連する保健医療サービスその他のサービス(次項において「福祉サービス等」という。)が総合的かつ適切に提供されるよう、地域に即した創意と工夫を行いつつ、福祉サービス関係者等との連携を保たなければならない」※3と義務付けられています。

 皆さんもお分かりの通り、本定義におけるこれは、ソーシャルワークと大きく乖離したものであると認識することが出来るのです。クライエントに対する「相談」「助言」「指導」及び関係機関との「連絡及び調整」もしくは「連携」が描かれているだけではないでしょうか。社会システムや社会政策等への働きかけを度外視した、ソーシャルワークの定義を矮小化したものであるとも言えます。つまり、上記定義による②と④が全く描かれていないのです。

 社会福祉士のmissionとも言われ、また冒頭の倫理綱領にも色濃く描かれている権利擁護には、次の3つの視点が欠かせないと自身は日々考えています。①権利侵害から守る(予防する)ことを支援する、②自己決定を支援する、③そのための社会環境を整えるために社会変革を行う。例えば、不適切なケアや虐待・拘束等の権利侵害から守り、「主体者としての位置づけ」を守るために自己決定を最大限尊重することを支援することが、①と②であり、この2つが権利擁護の起点となる考え方であると認識しています。しかしながら、これらを遂行するためには当然に、周囲の社会環境を整える必要が強くある訳です。自助機能のみでは、自らの生活課題を克服できない状況下にあるクライエントの①と②を支援するためには、それを実現するための社会環境の整備が欠かせない。つまり、社会変革やソーシャルアクションの視点がその実践の要諦として認識されます。昨今ケアワークの世界においても、パーソンセンタードケアが久しく謳われています。そこでは、①と②について強く言われているのですが、③の実践については書かれていません。③の実践なくして、①②の実践は成し得ないにも拘らず…。私は、ここにケアワークの限界を感じています。

 そう考えて行けば、ソーシャルワークの生命線はソーシャルアクションとその結果としての社会変革であることが理解されます。逆に、そこが希薄化すれば、ソーシャルワークの実践は画餅に帰すことになるでしょう。また、「身体的・健康的自立」に多大な影響力を有する医療専門職と対等な連携を促進するにおいても、それこそが、ソーシャルワーカーの強みとなることが確認できます。若輩の定義する②と④の領域は、本来は医療職の実践領域では無いからです。それだけ、②と④の実践が、ソーシャルワーカーの要諦となることを改めて確認しておく必要があるのです。

 さて、斯様に考えると「社会福祉士及び介護福祉士法」に定められる社会福祉士とは、ソーシャルワーカーでは無いことが理解されます。ソーシャルワーカーの国家資格としての社会福祉士という流れを促進するためには、本法を改正するしかないと理解しております。ソーシャルアクションや社会変革を明文化することを切望いたしますが、それが叶わないにしても、段階的な議論として、「社会資源の把握・発掘・創出・開発」等の文言を明記することを求めたいと思っております。真なるソーシャルワーク実践の出来る社会福祉士を育成するためにも、これは最低限不可欠な取り組みになると考えている所です。

 如上に叙述した様に、法においては斯くの如き不備があるものの、実は倫理綱領では、社会変革や社会正義の視点が明確に描かれています。本倫理綱領は、国際ソーシャルワーカー連盟が定義する有名な「ソーシャルワークの定義」をその中心に据えたものとなっています。「ソーシャルワーク専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワーメントと解放を促していく。ソーシャルワークは人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である」。その意味において、日本社会福祉士会の正会員及び正会員に所属する個人の会員は、本倫理綱領を承認しなければ入会が出来ませんので、社会福祉士会に所属する社会福祉士は当然として、倫理綱領を承認している社会福祉士はソーシャルワーカーであると言えるでしょう。現時点では、この倫理綱領を承認している事こそが、社会福祉士がソーシャルワーカーたる所以であると言えるのです。であればこそ、本倫理綱領は斯様に重要であるとお伝えした次第です。

 ここでの最大の問題は、なぜこのようなことが広く議論されていないのかにあるのでしょう。若輩なりに分析をしておりますが、例えばスウェーデンでは、ミクロ・メゾ・マクロ領域の実践に一貫性が見られるようですが、日本の場合は3つの領域がそれぞれの思惑で動いており、その考えに一貫性が見られぬ部分があるのではないでしょうか。また、特に、個別支援におけるミクロ領域での実践家が、マクロ領域を想定した実践を行っていない場合が多く、結果として、それがクライエントの権利擁護に繋がっていない事象も散見されます。やはり、個別支援を実践しているソーシャルワーカーには②と④を常に頭の中に抱きながら、その取り組みを促進して頂きたいものです。敢えて、執拗に付言しておきますが、社会福祉士がソーシャルワーカーであるためには、この倫理綱領が要諦であり、その理解と実践こそが生命線であると言うことです。

 最後に、社会正義とは何か?と言う問題が残っています。ここを曖昧模糊とさせながら実践するのも忌避されるべきでしょう。なぜなら、またもや正義の名の下に、アメリカのシリアに対する武力行使が成されるかも知れないことに想像力を及ぼす必要があるからです。正義とは何か?この問題を十二分に議論せずして、ソーシャルワーカーに社会正義の実践は成し得ないでしょう。

「おろしたての戦車でブッ飛ばしてみたい
 おろしたての戦車でブッ放してみたい
 何かの理由がなければ 正義の意味にゃなれない
 誰かの敵討ちをして カッコ良くやりたいから

 君 ちょっと行ってくれないか
 すてごまになってくれないか
 いざこざにまきこまれて
 泣いてくれないか」※4

 ソーシャルワークの社会正義にとって何がその「何かの理由」になり得るのか。醒めた頭による熟慮の機会が今求められています。


※1 社会福祉士及び介護福祉士法 (定義)第二条第一項
※2 社会福祉士及び介護福祉士法(誠実義務) 第四十四条の二
※3 社会福祉士及び介護福祉士法(連携) 第四十七条第一項
※4  THE BLUE HEARTS「すてごま」作詞・作曲:甲本ヒロト



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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