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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

「進歩」への近道

2013/10/30 22:44:16  社会全般

2008年8月9日某週刊誌の投書欄に投稿しましたが、掲載されなかったものです。

 新自由主義の名のもと、市場競争の中で、忙しく人類の科学技術は進歩を遂げた。数年前には想像もつかない便利なシステムや製品が世に生まれ続けている。これはひとえに、人類が競争原理のもと切磋琢磨と仕事をしてきた結果であると私は思う。

 競争原理は適度な緊張感を生み出し、人間の才能を最大限に引き出す効果がある。「勝つか負けるか」目前の一勝を勝ち取るために、多くの人は日々闘っているのである。

 人類の進歩を考えた時、科学の進歩とそれは、反比例の関係にあるように思う。科学が目まぐるしく進歩していく一方、人の心はどんどんと貧困化している。便利な生活を享受している一方で、何か大切なものを失っているようである。

 余裕がなくなるためか、競争原理社会の住人は、近視眼で非俯瞰的になりやすく、広い視野を持って長期の展望を考える視点が持てないでいる。

 今社会に最も必要なのは、長期的で、俯瞰的な視点ではないだろうか。目の前の一勝を絶えず求められる競争社会では、生まれにくい視点である。

 そのためには、競争原理における一見非効率で、無駄に思える取り組みが不可欠だと思う。目的地へ一直線と歩まずに、意図して遠回りをして目的地へと到達する。人々の心に、今まで自分では気付き得なかった新たな思いが芽生えるかもしれない。

 その遠回りこそが、実は、人類進歩の最短の近道である気がしてならない。

義なくして利なし

2013/10/25 18:40:33  社会福祉


 「『サ高住』とともに、政府の成長戦略や競争力会議で議論されている『ヘルスケアリート』の創設でも、役所の思惑が先行する。
 『高齢者住宅にこんなにお金に群がる人がいるのか。ヘルスケア施設とは何か。国交省が考えたのか。厚労省は認めているのか』
 『REIT(リート)(不動産投資信託)』と呼ばれる金融商品をつかって施設整備の資金を投資家から集めようという『ヘルスケア施設供給促進のための不動産証券化手法活用の検討委員会』の昨秋の初会合。委員の一人で、医療法人博愛会の菅間博理事長の発言に、室内の空気がピンと張った」※1。

 社会保障の領域にも市場原理の波が瀰漫的に広がりつつある昨今。税金や社会保険料を主たる財源とした事業の利益が、法人や職員ではなく株主や投資家に行き渡りつつある象徴的な記事に目を留めました。人々の生活と生命に係る領域を公的責任ではなく、何処まで自助・互助そして、市場に頼ろうというのでしょうか。今まさに社会保障制度の本質・根幹を揺るがす事態が起こっているのではないでしょうか。

 中国・韓国・スウェーデンの福祉や介護に昨今触れてきましたが、その国の福祉や介護の様相は、当然にその社会構造の在り方に依るものです。つまり、国民が有する普遍的な価値規範に大きくその内容が規定されているということであって、その価値規範は社会構造や文化によって構築されているものです。これは尤も自明のことではありますが、それでも改めて考えれば、我が国における現下の社会保障の在り方ははやり社会構造全般における課題としてあることが確認できます。

 1974年11月。私が生まれた丁度翌年に書かれた論文を引用しよう。「今のところ、空気はまだ完全には買い占められていない。たとえば、ある地域の空間に巨大なガラスかビニールが張られ、中の空気を『これはみんな俺のものだ』と主張する奴は現れていない。しかし、これは決して空想次元のものではないだろう。水や土地については、同じことが非常なスピードですすんでいるからだ」※2。今から40年前に書かれた本文の“予言”は見事に的中してしまいました。二酸化炭素は売買の対象となり、飲料水や浄水器に係る水も当然の如くお金で買わねばならぬものとなってしまいました。そもそも、土地や空、河川や海は一体誰のものなのでしょうか。福島第一原発事故で汚染されたそれらは、そこに住む住民や働く人々にすら十分な補償が成されぬままではありますが、万が一、その補償が成されていたとしてもそれで済む話ではないと自身は考えます。これらは、そこで暮らす人々だけのものではない。つまり、土地や空、海はやはり誰のものでもないのだと自身は考えます。事実、環境ホルモン然り、放射能汚染も潮の流れに乗り、生物の生態系と相俟って今後果てしなく蔓延していくことでしょう。やはり、誰のモノとも定義できぬモノなのでしょう。であるならば、それらは本来売買の対象とはなり得ぬはずです。所有者が明らかではないのですから。

 昨今「デザイナーベビー」の報道を耳にしました。遺伝子解析技術を駆使して、親が望む特徴をもつ赤ちゃんをつくることの特許がアメリカで認められたのだとか。「青い目で足が速く、乳がんになるリスクが低い子ども」の“選別”が可能になるのだそうです※3。このまま定向進化すれば、人の個性や性格までも、生前に選別することが出来るようになるのではないでしょうか。科学技術の発展と市場化が相俟った帰結として、人々の生命や生活の領域にまで、優位的価値基準に基づいた画一化・効率化が望まれているのです。

 話は変わって、インターネット販売大手企業が、書籍の定価をポイント還元することによって、再販売価格維持制度が揺らいでいる模様です。ご存知の通り、本制度は、出版物の多様性と、知へのアクセス保障、言論・表現の自由であったり、その個人・地域格差の是正を行うための最後の砦であり、そこが、市場原理によって崩壊することはあってはならぬことでしょう。学校教育現場においても、企業が望むべき人材の育成が中核的な位置を占めつつあります。本来の学校教育とは、多様性を認め、自らと価値観の異なる人々とどのように社会を構築していくのかを学ぶべきものであって、それは、企業が求める人材とは概ね相容れないものであったとしてもです。

 同じように国家も企業とは異なります。こんなことを改めて叙述せねばならぬほどに市場原理はあらゆる分野に蔓延しているのではないでしょうか。政治における市場化も顕著な様相です。政治こそ、市場原理とは相まみえぬものなのでしょうが。先の参院選結果の主な要因として、「スピード感」と「効率化」を優先した有権者の意識を内田樹氏は挙げられています。「国民国家はおよそ孫子までの3代、『寿命百年』の生物を基準としておのれのふるまいの適否を判断する。『国家百年の計』とはそのことである。一方、株式会社の平均寿命ははるかに短い。今ある会社で20年後に存在するものがいくつあるかは、すでに私たちの想像の埒外である。だが、経営者はその短命生物の寿命を基準にして企業活動の適否を判断する。『短期的には持ち出しだが、長期的に見れば孫子の代に見返りがある』という政策は、国民国家にとっては十分な適切性を持っているが、株式会社にとってはそうではない」※4。

 斯くの如き科学技術と市場原理が強調され、人文学などが衰退の一途にある均衡を欠いた構造下に我々の社会はあるのでしょう。その社会構造の影響を強く受けながら、私たちソーシャルワーカーの仕事があることを私たち自らがしっかりと認識をする必要があります。でなければ、地域包括ケアは、恐らく誤った形に発展していくことになりそうです。なぜなら、社会保障制度の本質が守られず、セーフティーネットの無い中で展開される互助や共助においては、そこに厳然とある格差を前に、社会保障を切望する人々とそうでは無い人々との間で対立の構造を生むことが想定されるからです。真なる地域包括ケアを推進するために、また、真に堅実な経済運営を行うためにも、社会保障制度は必要不可欠なものであり、それを市場に委ねることが、100年先の危機に直結することは誰もが分かっているはずです。

 表題の「義なくして利なし」とは、恐らく古くから産業界の経営者の間で語られていたものなのでしょう。今ほど「義」が顧みられない時代だからこそ、立ち止まってこの「義」について考えてみたいと思いますし、市場原理が蔓延する構造下にて揺さぶられながらも、自らがそこから解放されずにいながらも、この「義」について考え抜きたいと切望する毎日です。


※1 西井泰之・松浦新・松田史朗「限界にっぽん 第5部 アベノミクスと雇用4 医師や介護スタッフ来ない」『朝日新聞』2013年10月21日
※2 本多勝一「侵略としての『開発』」『殺される側の論理』朝日文庫P.254 1992年9月
※3 『朝日新聞』2013年10月20日
 「特許化されたのは、米国の個人向け遺伝子解析会社の大手「23アンドミー」(本社・米国カリフォルニア)の手法で、米特許商標庁が9月24日付で認めた。
 同社はIT大手グーグルの共同設立者らが出資。2007年から、唾液(だえき)に含まれるDNAの遺伝子配列のわずかな違い(SNP)を分析して、アルツハイマー病や糖尿病など約120の病気のリスクのほか、目の色や筋肉のタイプなど計250項目を判定する事業を展開している。価格は99ドル(約1万円)で、利用者は50カ国以上、日本人を含め40万人を超えている。
 今回、特許が認められたのは、これまでに得られた病気のリスクなど独自のデータや情報を利用する手法だ。具体的には、不妊クリニックや商業的バンクに保存されている精子や卵子の提供者と、利用者の遺伝情報をかけ合わせて解析する。利用者は『大腸がんリスクが低い』『青い目』など、望む子どもの特徴を示せば、提供者ごとに、子どもにそれぞれの特徴がどの程度表れるのか確率がはじき出される。利用者の希望を満たす度合いに基づき採点、点数の高い提供者を知ることができる。希望できる特徴には、身長や性格、寿命、酒の強さ、運動能力、病気の発症リスクなどがある」。
※4 内田 樹「寄稿 2013参院選 『複雑な解釈』」『朝日新聞』2013年7月23日



曖昧模糊と化す安全の定義

2013/10/16 00:55:34  社会全般


 危険が無く安心できることを「安全」と言う。子どもでも分かり得ることを敢えて冒頭で叙述したくなるほど、我が国における「安全」の定義が分からなくなってきました。

 自身の感覚がどうかしているのかと却って不安を抱いた出来事が、岐阜県可児市の小中学校のパンにクロバネキノコバエが付着していた「問題」でした。まず、自身は、なぜこの出来事が、ここまで大きな「問題」としてマスコミに取り上げられるのかが理解出来ませんでした。小中学校時の私の給食体験では、野菜に青虫がついていることは決して珍しくは無く、先生からも「虫がついていると言うことは、農薬が効いていない証拠なので『安全』な食べ物である証拠だ」と説明を受けた記憶があります。その様な経験の持ち主からすれば、なぜにこんなに大騒ぎになるのか、といった心証を抱いてしまうのでした。

 しかし、11日付の産経新聞の記事に目を留めた際、これは自身だけが疑問視しているものでは無い事に改めて気付かされ多少の安堵を感じた次第です。本紙によれば、可児市の小中学校給食「問題」において、「児童生徒や保護者から苦情はなかったが、対応を知った市議が市議会委員会で問題視した。市教委は『指導は間違いだった』と認め、早急にマニュアルを見直すとしている」ことに対する「食の安全・安心財団」理事長の唐木英明氏の問題提議のコメントを次の様に紹介しています。
「この問題は食品の安全性や廃棄の是非、世界の食料事情などを子供たちに考えさせる絶好の内容。『健康に影響がないと判断した場合は食べる』とのマニュアルも極めて妥当なもの」。
「もちろん、ハエを付着させたパンの納入業者に問題がある。しかし、この事故を業者やマニュアルの責任にして終わらせるべきだろうか」。
「食べられる食品を嫌だといって拒否することができるのは、今の豊かな日本だから許されること。それでいいのか。学校給食は教育の一環でもあり、世界の食料事情も伝え、子供たちと議論してほしい」※1。

 ヨーロッパにせよ、オセアニア、アジアにせよ、諸外国に訪れた際にハエを一匹も見なかったことはありませんでした。むしろ、我が国の生活よりもより身近にいることが多く、食事中もハエが飛んでいることは珍しくは無かったと記憶しています。そこに違和感を持って、ハエを手で払い除けてばかりいるのは私を含めた日本人だけでした。

 一方で、と私は感慨深く思います。巷に溢れる合成洗剤や無用な消毒剤・科学物質・電磁波等のことはどの様に考えるのだろうかと。これらは、如上のコバエに比較して安全と言い得るのでしょうか。前出の唐木氏の述べるようにパンに付着したコバエは「安全上、問題ない」と断言することは支持できます。しかしながら、合成洗剤・消毒剤・化学物質・電磁波等は真に「安全上、問題ない」とは断言できぬものです。安全が証明できないものは、危険と認識する「予防原則」の考えが定着していない我が国においては、致し方の無いことかも知れませんが、少なくとも安全証明は成されていないのが現状です。言わずもがな、他方「環境に影響ない」や「健康に影響ない」といった常套句が報じられてきた放射能汚染問題などはその最たるものでは無いでしょうか。「完全にブロックされている」「状況はコントロールされている」とは、まさにデマそのものであり、希望的観測であり、データーを追求すればそれが欺瞞であることは明らかでしょう。

 如上の様に「安全」について見てくれば、概ね次のような纏めを発することが出来るのではないかと思われます。自然に必然的にあるものを遠ざけてそれを「安全」と定義する傾向がある。また非自然なるものに“守られる”ことに「安全」を感じる向きもある。そこから、人々は、近視眼的で「煩わしくない」「熟慮の必要ない」ことを「安全」視する傾向がある。それに加えて、その事象が有するイメージにも大きく左右されている。このイメージは、資本主義社会の力学的必然の中から創造された偏向した情報に基づくのでしょう。イメージは飽く迄も、社会的に創造されたものであり、「黒猫は不吉である」というレベルのお話であって、理論やデーターとは大よそ関連の無い領域の産物であることは言うまでもありますまい。

 また、先進国内における安全とは、全ての人々にとってのもので無ければ成らないハズです。よって、福島第一原発の作業員の方々や、原発の周辺住民、強い電磁波の発生する建造物の周辺住民、沖縄の基地周辺の住民、全ての人々の安全を考えてのもので無ければ成らないハズです。

 斯様に欺瞞的なアンゼンが蔓延る現下の社会において、給食のコバエ事件で「安全」を指摘する報道に何ら説得力を感じないばかりか、強い違和感を覚えたのは以上の理由からでした。かてて加えて、最後にもう一言申し添えておきます。斯く如き教育現場は、子ども達のその後を、安全ではなく危険に晒すことに帰結するのではあるまいか。


※1 平沢裕子「『給食パンにハエ』除いて食べるよう指導… 食品廃棄の是非など考える好機」『産経新聞』2013年10月11日



ノーベル賞と多様性の関係

2013/10/14 01:12:10  社会全般
 さる10月14日、今年のノーベル賞の発表は終了しました。今年の受賞者には日本人該当者が皆無であり、それに応じて落胆の報道が成されているように見受けられます。毎年、この時期に若輩はいつも同様の疑念を抱くものです。それは、ノーベル賞とは如何なるものか?延いては、そもそも「賞」とは何なのか?という素朴な疑問から端を発するものであります。

 ノーベル賞は世界的権威のある賞として、巷でも、その注目度は世界随一であり、毎年世論もこの話で持ち切りとなります。若輩の様に大よそ「賞」とは縁遠い立場であるからこそ、感じることがあるのかも知れませんが、世界的権威として、また公の立場から発せられる「賞」に対しては、基本的にその趣旨が理解できずにいるものです。その理由を以下叙述してみたいと思います。

 例えば、当法人の就業規則においても「表彰」の規定があります。法人組織としては、そこに経営理念が描かれており、その共通理解を基に、これを実現するための方法・手段も組織の中では共有されているのが法人なり組織の一般的なあり方であると認識します。であれば、法人や組織が発する表彰なり賞は、その目的・目標を遂行するために、模範的な行動や実績に対して存在すると言えるのでしょう。法人や組織に、目指すべき・拠り所とすべき共通理念がある以上は、「表彰」や「賞」の発表はそれを実現する為の有効な手段と言えるのかも知れません。

 斯様に鑑みれば、「賞」の発表は、ある基準に照らして、その指標で測った帰結としてその優劣を選考して成されるものと言えそうです。戦時中の軍隊においては、敵を殲滅、即ちその多くを殺すことによって、賞を受賞したのと同様に、そこに何らかの基準が無ければ成り立たない代物なのでしょう。若輩は、何かを目的として集まった集団(会社・法人・学会・専門職団体・宗教等)内においては、その目的に照らした基準に拠る賞の発表は理解ができます。しかし、世界・国家といった公が発する賞にはその基準が不明瞭に思えるのです。ある目的をもって集まった集団とは異なり、多様な個性の共生する現下の社会において、ある基準に拠って、その優劣を判断することが果たして可能なのだろうかと。そもそも、社会においてその優劣を選別する基準などあるのでしょうか。例えば、ノーベル文学賞の選考にノミネートする条件としては、その著書なりがイギリス語に訳されていなければならないと聞いています(少し古い情報を基にした指摘ですので、異なっていれば訂正します)。また、昨今鳥取県の条例において、手話が言語であることが採択されましたが、恐らく、手話などはその対象にはされていないのでしょう。これだけを取り上げて顧みても、ここには言語間の優劣性や差別性を垣間見ることが出来るのです。

 今、世界の潮流は、明らかに個人の幸福を礎とした、多様性を認める社会構築へと流れていると見受けられます。その中にあって、何かの基準に基づいて発する賞は、その流れに逆行する要素を有しているのではないかと若輩は考えるのです。その賞が発せられる時、その選考の基準は、いったい何に、誰に、有利に作用しているのでしょうか。事実、その時々の権力に、公の賞は利用されてきたのではないかと勘繰りたくなる事象も散見されます。

 この度のノーベル賞報道を拝見し、賞による能力や思想の画一化よりも大切なものがある事について改めて考えさせられました。斯様な受賞の在り方よりも最も大切なことは、少数派と言われる人々の声を丁寧に掬い集め、その発表の場を設けることこそが重要であり、この多様性を構築する営みこそが、本賞の発表よりも社会により有意義な貢献をもたらすことをこの場をお借りして確信する次第です。



新自由主義の底が見えてきた介護

2013/10/08 19:53:47  社会福祉
 朝日新聞の「限界にっぽん」と言うコラムをご存知でしょうか。非正規労働者やホームレスの視点から現下の社会を捉えたという点では、優れたルポルタージュであると毎回拝見しております。その第5部からは、「アベノミクスと雇用」が掲載されていて、1回目と2回目は、我らが社会福祉分野を取り巻く情勢が描かれています。1回目の要旨は、「介護業界が熱いまなざしを送る大型M&A(企業合併・買収)の交渉が大詰めを迎えている」とし、破綻した大手介護事業者を「ファンド」等が安く買い取り、本来の価格に暖簾代(プレミアム)を上乗せて高く売るという実態を論じています。暖簾代の相場は、「年間のもうけの5〜6年分」から最近では「10年分」と言われているのだとか。その陰で、クライエントと介護職員の生活が不安定な状況に晒されていると報告するものです※1。2回目では、企業買収の結果、運営会社の変遷と共に混乱を来たす入居者の生活に焦点が当てられています。運営会社が変更すると共に、利用料の賃上げを強要されるケースや、入居者及び家族が反対すると事業の撤退を行うと切り返す運営事業者のやり取りを実例・実名を挙げて取り上げています※2。自身にとってこれらは、遂にここまで来たかと、実感を与えてくれる報告でした。無論、「ここまで」の道程は当初より予測が経っていたという意味であって、驚愕や落胆は若輩としては一切感じ得ないものです。社会保障に市場原理が導入された定向進化が“順調”に進んだ帰結として如上を捉えるからです。

 我が国における社会福祉分野で新自由主義が導入された走りは、1997年11月より検討が行われた社会福祉基礎構造改革からでしょう。その後、2000年の介護保険制度の創設を皮切りに、サービス提供事業者の福祉多元主義化、つまり、株式会社等の営利法人の参入促進が始まりました。その後、介護保険制度を皮切りに、イコールフッティングと言う名の下に、社会福祉法人の既得権域が切り崩されて来たのです。例えば、社会福祉施設職員等退職手当共済制度における助成の見直し等はその顕著な例であろう。つまり、どんなに綺麗ごとを羅列しても、社会福祉基礎構造改革や介護保険制度の導入はコスト・コントロールこそが第一義であった事が結果論から見て判断でき得るわけです。

 例えば、スウェーデンでは、福祉サービスの提供者を民間委託をしてもそれはコスト・コントロールにならないとコミューン職員から聞いたことがありましたが、我が国の場合は、民間委託することによってそれが、まさにコスト・コントロールに繋がっているのです。どういう意味かは銘々説明するまでもありませんが、要するに、民間委託をすることによって、公務員の給与体系ではない安価で、非常勤・非正規といった“効率”の良い人件費の設定が可能となるためであるようです。つまり、公務員の給与水準では対応できないことを、民間に委託してより安価にやらせることが我が国における民間委託の本意であるのでしょう。

 「介護の社会化」や「措置から契約へ」と煌びやかな成句が前面に押し出される水面下で、安上がりの福祉は促進されてきました。競争原理によって、失ったものは、福祉理念と連携意識でした。競争原理によって、業務の効率化が強調され、“顧客獲得”のための競争意識が顕在化し連携の意識が希釈されていきます。得ることが出来たものは、社会福祉サービス利用者やクライエントたる対象者の消費者・顧客化が促進された結果、一部専門技術と接遇といったサービスの質(産業界における同様の意においてのつまり真の専門性とは齟齬あるもの)が高まったことではないだろうか。そう天秤にかけると、得られたものより失ったものの方がより大きいと総括することが可能であると若輩は考えます。

 競争原理において、質は担保されるとの見方が大方でありましたが、果たしてそうなったのでしょうか。無論、サービスの量が急速に整備され、一定のサービスの質も担保されるに至っています。しかし、それは、競争原理が導入された帰結としてあるのかは不明です。つまり、競争原理に因らずとも、福祉専門職教育を真摯に行っていけばその結果は、サービスの質の向上に帰結する訳であって、それが市場原理の導入に因るものかは判別できないのではないだろうか。例えば、介護報酬の設定では、質の高いサービスを行えば、その報酬が高まるわけでは全く無く、介護報酬の評価に反映されているのは、僅かに有資格者や常勤比率、専らサービス提供時間ぐらいのものでしょう。特に、サービス提供時間こそがその主たる評価となっているのが現状です。また、対人援助サービスにおけるその質を測る指標は設定が難しい。なぜなら、対人援助活動においては、とどのつまり、マニュアル化は不可能であるからです。マニュアル化出来ない領域の実践が出来る専門性の高い人材を育成するには、時間と労力とそして金がかかります。そこにそれだけの、投資をしても、介護報酬では評価を受けることは無い。ましてや、需要は右肩上がりの当業界において、供給側は選ばれるための努力を然程強いられることがない。介護報酬すなわち、売上高が変わらぬのに、人材育成のための経費を捻出して行けば、経費がかさむ。結果として、収益にそれが結びつかない。であれば、人材育成は程ほどにした方が、収益率がよいと民間企業が判断するのは自明の理であると言えるのではないでしょうか。

 また福祉多元主義化の一つの要所としては、株主の利益が想定される株式会社の参入を認めたことにありました。つまり、介護報酬と言う税金と社会保険料を財源としたその収入を株主に配当することが認められたわけです。会社で働く、介護職員等に還元されるのであればまだしも、それが株主に配当されるのです。自身は、介護保険事業がそこまで余力ある事業であるとは到底思えません。つまり、職員に十分な配分が成されない中、株主にその“配分”が配当されることになるのではないだろうか。その様な、危機感を本特集は駆り立ててくれるのです。もちろん、このことをもって株式会社批判を展開するのは最も愚劣な行為と言えるでしょう。大手株式会社の経営者に社会性の高いビジョンと実践を展開されている方が存在することはよく知るところです。社会福祉法人やNPO法人においても、社会性を度外視した実践を繰り返すところもある訳ですから、これらは、構造上の問題を指摘しているのであって、個別性を度外視したものではないことは付言されるべきでしょう。

 斯くの如く鑑みれば、社会福祉基礎構造改革や介護保険制度の創設は、そもそもサービスの質を高めることが目的ではなかったのでしょう。サービスの質を高める方法は、市場原理に依らずとも、他に方法が無い訳ではあるまい。所属組織内におけるOJTを中心に据えた人材育成に時間と労力を費やす事こそが、その近道であることは疑いの余地がありません。それが、制度的な動機づけが成されていないことを鑑みれば、やはり、コスト・コントロールが第一義であった事は紛れもない事実であります。社会福祉基礎構造改革その後15年が経過した「現在地」を確認すれば、やはり、介護報酬は年々低下の一途を辿っています。昨今興味深い論文を目にしました。介護保険制度導入前の措置制度下におけるサービス利用者が、2000年4月以降どのように介護保険サービスに繋がったのかを検証したものです。それによれば、「(措置制度下の)旧サービス利用者のうち、(要支援・要介護認定の)申請をした者は約半数であり、申請した者には、疾患を有する者やIADLが自立していない者がより多かった。このことから、措置制度下では要支援・要介護状態でなかった者が多く含まれていた可能性がある」「旧サービス利用者のうち、介護保険制度導入後も介護保険サービスを利用していた者は、3割程度に留まっていた」(括弧内は中島)※3との結論づけが成されています。つまり、措置制度下でサービスの利用者であった人々の内、約3割の人たちが介護保険制度下の利用者になっているという事実。直言すれば、約7割の利用者のサービス抑制が“成功裡”に終わったことを物語っているものです。

 今後かてて加えて、消費税増税とインフレターゲットが導入されます。その結果、事業所経営は益々圧迫されることになるでしょう。法人間競争は更に激化し、生き残りをかけて“薄利多売”を行うこと、経費の削減を実践することこそが唯一の生き残る道となります。その様なシナリオの帰結として、現場で斯様な現象が起きていたとしても、これはある意味当然の帰結として起こっていると言えるのです。

 さて、如上の動きに対して、どういう方策が考えられるのでしょう。皆さんはご存じでしょうか。私たちの仲間が全国に約400万人は存在することを。連合の組合員数は、675万人前後との報道が過日なされていました。国民の福祉の向上のために、一団結すれば、我々もそれなりの動きが出来るのでしょう。また、障がい者数は元より、要介護高齢者は今後2035年まで増加の一途を辿ることが予測されています。特に、介護分野における我々の仲間は確実に増加するのです。全労働者人口は減退の一途を辿るその中においてである。その際に、最も留意するべきことがあるでしょう。それは、全ての国民の福祉の向上、これこそがその旗印になると言うことです。業界の、専門職の利益を前面に掲げた運動なり活動は、恐らくもう大時代であり、斯様な活動や運動にはもはや夢や希望を抱くものではありますまい。


※1 西井泰之・松浦新・大鹿靖明・横枕嘉泰・松田史朗・西崎香・吉田拓史「限界にっぽん 第5部アベノミクスと雇用 1 老人ホームを青田買い」『朝日新聞』2013年9月29日
※2 西井泰之・松浦新・大鹿靖明・横枕嘉泰・松田史朗・西崎香・吉田拓史「限界にっぽん 第5部アベノミクスと雇用 2 『なぜ突然値上げするのか』」『朝日新聞』2013年10月7日
※3 松田智行・田宮菜奈子・柏木聖代・森山葉子「介護保険制度導入前後における在宅サービス利用の変化」『日本公衆衛生雑誌』第60巻・第9号 日本公衆衛生学会 P.586-594 2013年9月



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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