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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

ソーシャルワークと特定秘密保護法案

2013/11/25 21:54:11  社会福祉


 外国に出て現地の人々の生活様式や会話に触れる度に改めて思いを馳せることがあります。日本人のメダカ意識に。自身の意見を直截的に表明しないことが美しいとされる文化において※1、場の空気や他者の思いに気遣い、それらを察して立ち振る舞うことが出来る能力。これらの悪い側面だけを取り上げてメダカ社会と捉えるものですが、もちろん、これらの能力は例えば社会福祉専門職がクライエントの支援を行う際にも重要な能力であると言えるでしょう。特に、十分な社会サービスが保障されていないがために、ある種社会から排他・排斥されている人々の諦めさせられている思いや意思を察して知ることは、ソーシャルワーカーがクライエントに対して絶えず意図しておかねばならぬ重要な営みと言えます。これらの能力は、クライエントの権利擁護の実践の際はとても有効に機能することでしょうし、福祉先進国と言われる北欧のソーシャルワーカーなどには見られぬ才能であるとも認識します。

 斯様に人々の能力などは、着眼点によって、それが無能と評価されたり有能と称賛されるものなのでしょう。効率性と生産性といったたった一つの指標で全ての人々の能力を推し量ることの愚劣さも併せて彷彿させられるものです。この日本人特有の“優れた”能力は見方を変えると、「お上」に非常に統制されやすい危うさを有していると言えます。たしか丸山眞男氏であったと思われますが、江戸時代初期鎖国を契機にキリシタンが激減した驚くべき国民性についての指摘もあったと記憶しています。他者の思いや場の空気を重んじる社会において、そこでは圧倒的に権力側に対する異議申し立ての機能が低下します。結果として、権力に統制されやすい土壌が生まれることになります。そのような、元々「お上」に対する異議申し立ての最も少ない、先進国の中にあって極めて稀有な存在たる我が国では、権力統制は権力を有する側にとっては思いのほか順調に進んでいると日々認識しているところです。国家を治める人々にとって、誠にやりやすく、これほど楽なことはありますまい。無論残念ながら、権力の側が、やりやすく、楽な体制と言うのは民主主義の本来の姿からは乖離したものであると言えるのですが…。

 さて、斯様な国民性のあるところに、政府は特定秘密保護法案を可決しようと目論んでいます。私は、NPO法人の代表者として、ソーシャルワーカーとして、そして、ひとりの人間としてこの法案を廃案とすることを主張します。最大の問題は、国民の生命・生活に直結する重大な情報を国民自身が知ることが出来なくなることにあります。言うまでもなく事実は一つではありません。着眼点によって、いくつもの事実があることこそが真実であり、私たちはその多様な事実からあるべき社会の姿を模索する必要があります。その多様な事実を画一化へと導くことは、国民の意識や能力の退廃を招き、やがて国力を低下させ、よって国益を損なうことに帰結することとなるでしょう。ここで述べる国益とは、文字通り全ての国民にとっての利益を指し、いわゆる為政者の振りかざす国益、即ち、一部の国民のための利益を言っているものではありません。国民が考えなくなれば、統制がしやすくなるなどという考えは、明らかに国益に反した思想と言えます。

 私は10代の頃より反原発論者でしたが、その知見も、一部の真なる知識人やジャーナリストから得ることが出来たもので、本法案が通過した際、この様なまともな情報を後の子どもたちが獲得することは困難となり、暗澹たる社会でその人生を送ることとなるのでしょう。また、私が得てきた知見も、決して社会の主流ではなく飽く迄も非主流であり、いわゆる少数派から発せられたものでしたので、そこに接近することは容易ではない状況だったと記憶します。これからの子どもたちには、その僅かな非主流・少数派の知見すら届かなくなる恐れがあるのです。何度も述べますが、事実は一つではありません。よって、多数派・主流派の流す情報も一つの事実でしかありません。むしろ、彼らの情報は社会構造の力学によって、あたかもそれが真実・真理であるかのように世間に知らしめることが出来るものです。であれば、そのバランスを取るためにも、私たちはむしろ少数派・非主流の情報にこそ耳を傾ける必要があります。そのバランスを取ることこそが、民主主義のあるべき姿であり、厳密には存在し得ない真実に接近する唯一の方法であると信じるのです。

 冒頭申し述べたように、日本人は察する力の高い民族です。周囲の尺度に順応し、適応する能力に長けています。その“優れた”能力をもってすれば、この法律が国民の言動に与える影響は計り知れないと推察できます。戦前の軍機保護法下で朝日新聞記者であったむのたけじ氏も以下の様に述べています。「直接の取り締まりよりも国民の自己規制が大きかったと指摘する。『怖そうな法律ができた、ひどいめにあうかもしれないと思うだけで効果は十分なのです』」※2。斯様に、事実が隠されることによって、人々の思想と意識の多様性が欠如し、延いてはそれが民主主義の退廃に帰結することに先ずもって警鐘を鳴らすべきと思います。

 多様な事実を認めないと言うことは、多様な思想を認めないと言うことに繋がります。斯くして、表現の自由・言論の自由の形骸化が促進されるでしょう。先に述べた一番声の小さい、「持たざる者たち」の声は顕著に制限されていくことでしょう。当然に、我々のクライエントの声を代弁するべき立場にあるソーシャルワーカーの実践にも多分な影を落とすこととなります。社会の歪や軋轢は、その構成員の内最も弱い立場の人々に顕著に表れることは言うまでもありません。だからこそ、ジャーナリストの基本的態度は、立場の最も弱い人々の取材から入るのだと書籍で教示を受けたことがありました。「アイヌとか在日朝鮮人とか、そういう人の生活がどうなっているかということをみると、その国の社会がうまくいっているかどうかが実によく出ている。だいたい少数民族が幸福な暮らしをしておれば、その国はうまくいっている、という大きな目安になるようです。アメリカ合州国なんかだと、これが黒人とか先住民とかプエルトリコとか、そういうことになってくるんですが、もし少数民族が不幸であれば、その国が表面的にはどういうきれいごとをいっておっても、ダメな国だということがいえると思います。いろんな矛盾というのは、そういう少数民族みたいな弱いところにいちばんよく出てくるわけです。これが、私の一つの原則的な態度です」※3。斯くの如くして、意思決定・自己決定に支援を要する人々の表現の自由や言論の自由は真っ先に蹂躙されるのではないでしょうか。これはまさに、ソーシャルワークにおける危機に直面しているとも言える事態ではありませんか。ソーシャルワーカーとして本法案の廃案を訴える意義はここにあります。

 最後にもう一つ、社会福祉専門職は平和の担い手であると以前から考えてきました。この度の法案は与党自民党から発案されたものです。自民党は憲法改正をその政権公約に掲げており、その憲法草案において、第二章では、「戦争の放棄」を削除して「安全保障」と名乗り、同じく第9条では「国防軍」を明記しています。この法案と、憲法草案が同じ政党から主張されていることを鑑みれば、これはこの国が戦争へと巻き込まれる、否、戦争を引き起こしかねない事態に急接近することを意味します。こんなことは、子どもでも考えれば気がつくことではないでしょうか。

 歴史を振り返っても、国家が戦争に突入するには必ずその地均しがありました。国民の言論・思想・表現・信教の自由が奪われたのち、権力の暴走が起こって帰結する訳です。であれば、私たちの仕事は、その中でも最もその自由が奪われやすいクライエントのそれを守っていると言う意味において、我々の行為は一方で戦争を防いでいるということになります。当法人の理念に平和主義を掲げる理由はここにあるのです。平和主義を掲げる当法人の代表者としても、この法案の成立及びその後の流れは看過できぬものと言えます。

 最も恐れるべきは、法律が変わることではなく、人々の意識が変わることにあります。法律には人々の行動を規定し、そして意識を変える力があることは、例えば、日本の法律婚と事実婚の関係を諸外国のそれと比較しても良く理解が出来ることでしょう。元来従順で統制されやすい「奥ゆかしい」「美しい」国民性の上に、斯くの如く法律を制定し、政府は一体何を目指しているのか。私たち国民ひとり一人が自分の頭で考える事こそが今求められているのでしょう。

 友と呼べる尊敬すべき偉大な研究者に教えて頂いたことがあります。社会は大変長い期間をかけて変革する。イギリスの産業革命ですら70年の歳月をかけて成されたものだと。そして、その長い変革の期間を歴史家が後世においてあの時こうだったと総括するに過ぎないと。そのことに照らして考えてみましょう。社会は良くも悪くも変革します。仮に、今この社会が悪い方向に舵が切られているとして、今から100年先の歴史家はこの今をどのように評価するのでしょうか。先の大戦において、私たちは隣国の人々を蹂躙し、また私たち自身も酷く傷つきました。では、先の大戦を止められなかったかと言えばそうではないでしょう。戦時に突入するかなり前の時点において、人々の言論・表現の自由が保障されていたその時に、その方向性を変えることは出来たのではないでしょうか。今の世代でやっておかねば、後の世代にはどうにもならないことがあります。私は、子や孫の世代に、どうにもならない社会を残したくはありません。それがひとりの人間として、この法案に反対するべき理由となります。戦前直前になって、その流れを阻止することが出来なかったように、抜き差しならぬ状況下での方針転換は恐らく不可能でしょう。であれば、その更に少し前の時代に、その世代が成すべき役割があるはずです。そう、まさに今がその時である。


※1 例えば、最近拝読した、榎本博明『「すみません」の国』日本経済新聞社2012年4月、によれば、日本人のコミュニケーションに「わかりにくさ」と「奥ゆかしさ」が顕著な理由が心理学の視点で描写されています。
※2 「社説 秘密保護法案 自己規制の歴史に学ぶ」『朝日新聞』2013年11月24日
※3 本多勝一「海外取材の旅」『本多勝一集18』朝日新聞社 P.75 1995年12月



社会福祉と平和の関係

2013/11/22 21:02:31  社会福祉

当法人は経営理念に平和主義を謳っています。定款にもその行があり、当時の県担当課より文章で説明を求められました。2005年11月3日に回答したのが以下の文となります。


 平和主義とは言うまでもなく、反戦争の思想です。この世のあらゆる出来事の中で、人権を最も蹂躙する行為が戦争である事は自明の理でありましょう。その観点から、平和主義と基本的人権の尊重は切っても切り離せない関係にあると言えます。また、過去の歴史を振り返った時、多くは突然に戦時に突入するのではなく、民衆の思想・言論の自由が奪われ人権が軽視され、そういった土壌の上に、戦争が始まっているのです。

 「人権」と「福祉」の関係性は説明するまでもありませんが、ノーマライゼーション・生存権の観点から、両者にとって、社会的弱者の権利擁護がその大きな仕事となるため、両者は両輪の関係にあります。つまり、いかなる障害を有して生活されている方にも、健常者と同じ人権がある事を自明に、その人権の尊厳を行為として行っていく事が、社会福祉の基本的なあり方であると思っております。

 私一人の個人的見解と思われてもいけないので、介護老人福祉施設・あしや喜楽苑総施設長(当時)市川禮子氏の見解を追記しておきます(98年兵庫県連女性協総会での記念講演録から抜粋)。

 「福祉というのは平和な社会があって初めて築けるわけです。私たちが毎日やっている『人の尊厳を守ること』や『地域と結び付くこと』は、そこで、一人ずつの人間の尊厳が守られ、人権が守られるという闘いが広まっていけば、それがやがて日本の国の意志になって、戦争に巻き込まれない国になっていく、そういう重要な仕事なのだということを、市民的自由の尊重ということをこのように平和の問題に結び付けて語り合っているわけです。実は、ノーマライゼーションを提唱されたデンマークのバンク=ミケルソンは、やはりナチスに抵抗して、第二次世界大戦中にデンマークでレジスタンス運動をしていた人です。(中略)彼は収容所に送られましたが、戦後無事に復帰されました。そして彼は、知的障害の仕事をするようになったわけです。日本の厚生省のようなところで仕事をされて、(中略)(知的障害者施設を見た時に)これは自分のいた強制収容所の姿になんと似ていることか。それで彼はどんなに重い障害を持っていても、ごく普通の当たり前の生活をキチッと保障するべきだということで、ノーマライゼーション思想を、1958年にデンマークの社会福祉の理念に入れられたのです。ノーマライゼーションの思想が、戦争のいろんな経験の中から生まれてきているということもまた大きな今日的な意味があるのではないかと私は思っています」。

 社会福祉の実践は人権擁護であり、その実践は平和主義に結びつく、そのことを念頭に社会福祉を実践していくべきであると考え、「平和主義」も理念に併記いたします。
また、社会福祉施設を運営する社会福祉法人等において、「平和主義」をその理念に掲げている法人は多く存在します。これは、決して珍しい・特異な事ではないのです。

「すべての人間」の安心・安全を

2013/11/16 23:21:55  社会福祉

 司法関係者は無論、一部の社会福祉専門職の間では自明となっている刑務所の「福祉施設化」にかかる報道に目を留めました。報道紙面によれば、「女子刑務所の入所者がこの20年で倍増し、65歳以上の高齢者では10倍になった」ことを取り上げ、身体機能の低下した高齢者や認知症高齢者の介護を行う刑務官の姿が描かれています※1。実は、刑務所の「福祉施設化」は、高齢化のみが顕著なのではなく、以前から知的障がい者や精神障がい者が多数入所していることが報じられていました※2。斯様な結果に陥る要因としては、社会福祉サービスの対象者に対する不十分な支援の在り方や、社会的排除、司法と福祉の連携不足などが挙げられることでしょう。つまり、本来は生存権の保障たる福祉サービスに繋がるべき人々が、そのセーフティーネットから“零れ落ち”、社会的排除の帰結として、刑務所がその受け皿となっていると単純に推察が出来得るわけです。

 冒頭の紙面の中で、自身としては日々問題意識を有しながらも、やはりそうかと再確認させられる件があります。「国は2007年以降、社会福祉士を各刑務所に順次配置。栃木刑務所の社会福祉士の女性は、刑期を終えた人が介護施設に入る手続きに携わるが現状は厳しいという。『「元受刑者」というレッテルもあり、簡単に入所できない。福祉が受け入れたら、再び刑務所に来ずに済む人は多いのではないでしょうか』」※1。福祉施設が、福祉専門職が出所者を拒んでいる事実。これこそが、思わず目を逸らしてしまいたくなる問題意識の内実でした。もちろん、これは福祉施設や福祉専門職だけがその責を負うべきものでは無く、そうせざるを得ない様々な要因がその社会的背景としてそこにあることは推して知るべきでしょう。しかし、と自身は思います。元来社会福祉専門職は、「すべての人間」をその対象としており、そして言わずもがな「すべての人間」を「かけがえのない存在として尊重する」責務があるはずだと※3。であるならば、社会福祉専門職は、あらゆる偏見や差別と対峙する姿勢を自らが有しておらねばならず、そのためには、偏見や差別を生み出す社会構造にも敏感に反応する知見が求められているはずです。認知症高齢者や障がい者に対しては差別意識を有していないが、「元受刑者」には偏見を抱いているというのであれば、そもそも社会福祉専門職としてはその資質が問われてしまうと思うのです。

 5・6年ほど前から、自治体の人権学習会の講師としてお招きいただく機会が増えています。昨今の傾向としては、「誰もが安心して暮らせる…」「誰もが自分らしく生きていける…」といった主題が多いように記憶しています。若輩は語ります。主題の中で最も尊い重要なキーワードは「誰もが」であるということだと。「私たちの」や「地域住民の」などといった限定された人々にとっての安心・安全ではいけないと。認知症高齢者や障がい者、要保護児童、生活保護受給者、そして、「元受刑者」を当然に含めた文字通り「誰も」でなければならないと訴えるのです。仲良しグループは排除の理論で成り立っていると大学時代恩師から教わったことを記憶しているのですが、斯様な閉ざされた社会ではなく、開かれた社会を我々は構築すべきであると強く認識します。

 社会福祉制度は、旧来に比べれば、その種類は遥かに充実してきた感があります。介護保険事業の種別も20種類以上存在し、恐らくこの種類の多さは世界に比類無い位置に君臨するものと思われます。一方、その縦割り化された制度下で働き続けてきた社会福祉専門職の意識に選別主義が蔓延っているようにも見受けられます。今一度、私たちは「すべての人間」を対象にする実践を再確認し、本来の普遍主義たる社会福祉実践を取り戻さねばなりますまい。如上、私が日々有していた問題意識はこの事に帰結するものと思われます。

 私たち社会福祉専門職は、クライエントの視点で社会と対峙し、時にはその変革を促進する専門職です。その上で、差別や偏見に対する対峙、時には闘いは避けては通れないと自身は考えております。しかし、一方で、「すべての人間」を対象にした実践を絶えず意識する必要があるのでしょう。極論すれば、クライエントに差別意識や偏見を有する「人間」も、私たちの実践の対象であると言うことです。地域の絆における地域福祉実践において、いつも留意しているのはまさにこの点にあります。生活課題を抱えている人々を対象とするだけでなく、この人々を排他・排斥している人々をも対象に捉えて実践をするのだと。逆に、批難し排他・排斥するものでは断じてあり得ません。その大局観を持った連帯と連携こそが、私たち社会福祉専門職の考える社会変革を真に促進していくものと信じている訳です。


※1 森本美紀「『まるで福祉施設』女子刑務所で高齢者急増」『朝日新聞』2013年11月16日
※2 矯正統計(2012年度)によれば、2012年度の「新受刑者の罪名別能力検査値」で知能指数69以下の方の割合は、21.1%となっている(テスト不能者を含めれば24.4%)。
※3 カギ括弧内は「社会福祉士の倫理綱領」の「価値と原則」より抜粋。


「公益」を顧みない福祉施設の末路

2013/11/12 00:03:54  社会福祉

2005年11月28日某週刊誌の投書欄に投稿しましたが、掲載されなかったものです。


 市井では、介護保険制度の導入も相まって普通法人から公益法人まで、様々な経営主体が福祉施設を運営している。そうした中、競争を意識してか、公益事業を行わない法人が増えてきている。

 言うまでもなく殆どの福祉事業はビジネスではない。支援費制度はもちろん介護保険制度においても、一定の公的資金が報酬に含有されているからだ。そういった意味では、収支バランスだけを考えれば、「儲かる」仕組みにはなっている。しかしそれは、直接収入に結びつかない、例えば制度外の社会的ニーズに応えるための活動を展開することへの「報酬」でもある。

 今日こうした直接収入に結びつかないいわゆる公益事業を展開している福祉施設はいかほど存在するのか?社会福祉法人が税制上の圧倒的優遇措置を受けているのは、このような公益事業を使命的に行うことが前提であるが、社会福祉法人は公益事業を積極的に行っているのか?昨今の、公益法人制度改革の意図は別のところにあるのだか、社会福祉法人の多くが公益事業・活動を行っていない組織であるならば、件の優遇措置を絡め取られたとしてもそれは仕方の無いことかも知れぬ。

 介護保険施設の利益率が、民間病院の約五倍である事が最近厚労省から発表された。「儲ける」だけの視点で経営を続けていると、「報酬単価」は必然的に下げられる。財政破綻寸前の行政も、まだ「余力」があるのならと、喜んで支出を抑えよう。これからの私達の仕事は、その付加価値として、いかに公益事業を仕事として地域に根付かせて行けるかに懸かっている。


サンタバーバラでの学び

2013/11/08 13:21:52  日常

 世界的研究者に教えを乞いに来たここサンタバーバラとも明日でお別れです。彼の専門分野は社会福祉ではありませんでした。しかし、こちらに伺う前からの予想通り、いやそれ以上の社会福祉実践における薫陶を受けることが出来ました。細やかな学びについては、別途個人的に纏めておくとして、ここでは発信でき得る3つのことについて叙述しておきたいと思います。

 1つは、熟慮の不足する社会に対する憂い。ジョン=ロックや、アダム=スミスといった伝統的哲学や経済学の原書を読まないその道の実践家が増えているとのお話でした。斯様な原書を手に取って、時間をかけて熟読し、自らの人生や現下の社会に思いをはせながら熟慮する必要があるのだと。確かに、現下の社会は熟慮の必要の無い、ある種自身にとって“負担”の少ない音楽や書籍が流行っているとも思われます。私たちは、深く考えることをいつから止めてしまったのでしょうか。また、そうさせているものは一体何なのか。

 例えば、「変革」や「発展」の定義についても原書を基にした解説を頂きました。そこに、従来からの自身の捉え方とは異なる示唆がある訳です。私たちは、職務を含んだ日常の暮らしの中で、如何に物事の意味を考えずに生きているのか、斯様な熟慮の機会を逸して生活しているのか、幾度か自問自答せずにはいられませんでした。と同時に、脳裏に浮かんだことは、「尊厳の保持」「利用者本位」「その人らしさ」「自立支援」といった当分野におけるその一見美しい言葉の数々でした。これらは、真に何を意味する言葉なのか。その理解無くしてその実践は不可能であるにもかかわらず、その熟慮の機会を私たちは有していないのではないでしょうか。まさに、言葉の遊びを重ねつつ、自己満足に浸る実践が津々浦々で展開されつつあるのではないでしょうか。

 こんな時代だからこそ、私たちは率先して、一見面倒臭い事や、回りくどいとも思われる熟慮の機会を忌避せず取り込んでいかなければなりません。もちろん、これらの取り組みが、私たちの実践に即効性ある形で成果として現れることは期待できないでしょう。しかし、比較的長い人生において、その実践の幅と深さを押し広げ、やがて実践における大いなるそれが糧となることは誰もが否定するものではありますまい。また、斯くの如く熟慮の過程においてのみ人間は成長していくものなのかも知れません。容易に手に入る知識や技術による実践では、やはり先駆性や卓越性は期待できないものと再認識することが出来ました。人生や社会に係る伝統的書物や「意味ある他者」との出逢いを通じて、自らが頭を使い、足で稼いだ熟慮の結果にこそ、私たちが人間として、また、社会が「発展」することにそれが繋がるのでしょう。

 2つ目は、やはり、他分野から学ぶことの大切さにありました。ご教示頂いた彼の専門分野は社会福祉ではない旨叙述しましたが、それに加えて、彼は研究者としての実践家であり、分野と実践形態の異なる世界でその名を轟かせておられる方です。思想的には近くとも、その視点が異なれば、従来全く気づき得なかった学びが生成されるものだと改めて気づかされました。例えば、ソーシャルワークの援助過程やソーシャルワーク定義における一般的図式の「間違い」を指摘したり、当分野において自明に用いられている「その人らしさの支援」や「自己決定支援」における「違和感」についておっしゃられていました。援助過程においては、時々に変化する利用者のニーズに対応することを考えれば、矢印の在り方は螺旋形が相応しいことや、「自己決定」や「その人らしさ」はクライエントが決める事であるため、それを他者が支援することに些か違和感を有するとのことでした。ご指摘は尤もだと認識します。今まで、当たり前に思っていたことがそうではないと改めて気づかされた次第です。また、会話の中では、他分野の知見を援用して自らの実践に用いることは勿論なのですが、こちらの実践や理論を他分野に活用してもらうことを念頭に置いた実践やその発表の重要性も示唆されました。今後斯くの如き視点で、実践を展開していこう決意しました。

 そして、最後は、今ここの拠り所となる信念とそれに対する情熱を携えることの重要性にあります。とっても、情熱的な方でした。そして、その信念が実践に対する尊さを醸成されているようにも見受けられました。予てから、人間を説得させる要素は、理論・データ・情動性であると理解をしてきました。良くも悪くも、人々は情動性により、その行動を左右するのだと彷彿されました。またこの信念は、社会に対する視座そのものであり、社会に対する問題意識の在り方であること。社会に対する“あるべき姿”に向けての提言及びその実践が人と人とを強く結びつけるのだと強烈に感じることが出来ました。

 サンタバーバラの時間は19時を回ったところ。この度の学びを文書に纏めつつ、明日出立するための荷造りをしています。出逢いとは、人と人とが自らの思いに導かれた行動の帰結として成されるものだと学んだ記憶があります。つまり、出逢いは、運命ではないと。確かその様に、恩師の講義の中で語られていた覚えがあります。この度の斯様な出逢いに、深く感謝しながらも明日帰国の途に就きます。



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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