毎年この時期に何が有り難いのか、「おめでとう」の挨拶をさせられます。このような事を冒頭に述べては元も子もありませんが、福島第一原発事故後の状況や特定秘密保護法の成立、アジア近隣諸国との不毛な軋轢、普天間基地の移設問題、TPPへの妥結に向けたお話、生活保護法の改悪等々。我が国においてかつて斯様な課題が山積した時があるのでしょうか。私の知る限りにおいて、史上最悪の年末とはこのことを指すのでしょう。この様な年末を過ごした直後の年頭の辞とあって、斯くの如き思いをぶつけるものとなってしまいました。深くお詫び申し上げます。
題目に2014年とキリスト暦を用いましたが、イスラム暦では1435年、ヒンズー暦は1936年、仏暦では2557年となります。和暦を用いれば、平成26年となる訳です。また、中国の知人がfacebookにも書いていた様に、中国や台湾、モンゴル、ベトナム、韓国等では旧正月を祝う習慣があり、我が国も昔はそうだったはずです。よって、今日が何年の始まりなのか、また今日が年の始まりであるのかなどは、その民族や文化、社会構造によって数多考え方があることを毎年この日に確認をするようにしております。だから、この時期の何が「おめでとう」なのか自身にはあまり実感が無いのです。
しかしながら、私の親族を含めて、なぜこの日が「めでたい」のか等如上の問題意識を持つ人が非常に少ないことも一方で自覚をさせられる日でもあります。過日のクリスマスでは、アメリカの友人のクリスマスについての書き込みが同じくfacebook上に見受けられましたが、日本人には全く縁も所縁もないクリスマスをなぜ我々は祝うのか。
実はこの「行為」に対する「理由」についての議論や慮りが全くないことが、冒頭昨年末に立て続けて起こされた事故へと帰結するのでしょう。いわゆるthinkではなく、feelで物事を判断する帰結として。人々が考えなくなった理由は様々でしょう。やはりこれは教育制度の問題が大きいと自身は考えますし、この問題は我々から見た問題であり、他方特定秘密保護法などを成立させたい側から見れば問題である所か、成功裡にある事象であるとも言えます。つまり、物事を深く掘り下げて考えないオトナを教育しているのが、我が国の教育制度なのかも知れません。物事のインプットとアウトプットを繰り返すこと、そして、複数の選択肢から適切なものを選択する力を高めることに重きが置かれた教育。しかし、社会において最も大事なことは、自身の意見と他者との意見の相違や、その双方を大切に取り扱うこと、多様性や共生の在り方を学ぶことにありますし、選択肢の中から妥当なものを探すのではなく、選択肢を自らが創造する創造性や開拓性にあります。これらの教育制度が一因として、冒頭の事故が連発していることをもって見れば、これは明らかに国益を損ねている教育制度であると自身は考えます。
そして、ソーシャルワーカーとしても、この社会にある多様性の理解無くして、クライエントの権利擁護は成し得ないと日々考えています。多様性とは、多様な思想の理解のみならず、多様な立場を理解することまで含まれると自身は解釈しています。アジア近隣諸国には、その人たちの立場があります。その立場を理解できぬ人間に、自らの立場を守ることは出来ないでしょう。ソーシャルワーカーは、クライエントの権利を中心に据えながらも、人々の多様な立場を理解する必要があります。その理解が、社会をあるべき姿に変革するのだと日々思って生きています。この世に、唯一無二の正義など存在しません。真実も決して一つではありません。正しいことによる支配と信仰を時に揺さぶり、その唯我独尊を緩和するのは、まさに多様性なのだと実感します。クライエントの権利が金科玉条であると思えば思うほど、その社会変革が遠のくように、ありもしない正義や真実を振りかざすたびに社会は閉塞していくのでしょう。
今年は、多様性の尊重をテーマに過ごしてみようと丁度今決意したところです。
かつて中東で日本人がテロの被害に遭うことは考えられませんでした。2004年頃から顕在化してきたイラク日本人人質事件からアルジェリア人質拘束事件まで、これらの経緯は、中東における日本に対する信頼が失われた帰結であると言えるでしょう。その信頼を喪失した大きなきっかけは、2003年からのイラク戦争であり、アメリカのそれを支持した我が国の姿勢にありました。その後、事の発端たる大量破壊兵器が最終的には確認できなかったことを受け、現在検証を重ねているイギリスに比べ、何の反省も、その検証すら行わない日本。リスクマネジメント論から言っても、この様な集団は同じ過ちを繰り返すことになるのは目に見えています。これも民主主義のあるべき姿を捉える際の重要な“教材”となることでしょう。
過日衆議院で可決された特定秘密保護法案に反対する市民の街頭デモに対して、与党・自民党幹事長がテロに譬えてブログで批判をした問題。その後発言の一部が撤回されたものの、以下の報道にある様にその本質は撤回されていないようです。「その後《ブログ発言謝罪後》、石破氏は記者団に『いつどこで、誰が誰から、なぜどのようにして攻撃を受けるかわからないのがテロだ』と指摘。『それ(街頭デモ)をテロと同じとみた、と受け取られる部分があれば、そこは撤回させていただく』と、デモとテロを同一視した部分を撤回した。それでも、『一般の方に大音量という有形の圧力を加えるという点で、(街頭デモは)民主主義と相いれない部分があり、(テロと)相通ずるものがある』と強弁した」(《 》内は中島)※1。当然の如く「謝罪」に匹敵する様に、テロとデモには、全く次元の異なる峻別されるべき違いがあることは言うまでもありません。しかし、そのことを前提に、フィクションやおとぎ話の世界で考えて、仮に、テロとデモに共通項があるとすればそれは一体何なのかとここでは考えてみることにしました。例えば、夜間当法人で仕事をしている折、強盗目的の侵入者に施設利用者や職員が襲われそうになる場面を見かけたら、自身は躊躇わず“武器”をもって侵入者に立ち向かうでしょう。もちろん110番等の最低限の措置は行いますが、そうしなければ大切なものを失うのであれば、自身で“武器”をもって立ち向かうしかありますまい。もし私が、テロの様は破壊的行為をするかも知れない場面を想像すれば、斯様な状況が想定されます。当然この想像上の行為は、やはりテロではなく、単なる正当防衛に過ぎない訳ですが、人々が他者に対して声高に主義主張を行う動機には、その人々なりの守るべき何かがあるからなのではないかと考えてしまう訳です。テロとデモが唯一共通することは、その行為の起点に社会に対する異議申し立てがあると言うことではないでしょうか。特に、その異議申し立てを受け入れる寛容さの無い社会において、その声と行為は益々力強く尖ったものになってしまいます。テロとデモの決定的な違いは、言わずもがな、その異議申し立ての主張の仕方にあるのでしょう。本来のデモは、その行為において他者の、特に社会的に弱い立場の人々の人権を侵害するものではありますまい。ところがテロは、他者の人権を決定的に、取り返しがつかぬ程に蹂躙してしまうのです。テロ行為自体は、いかなる理由があれども許されざる行為と言えます。
今回の幹事長発言を受けて、有難く再認識させて頂いたことは、テロやデモが起こる原因にこそ、その社会の本質があると言うことです。人々の異議申し立ての多い社会。もちろん、異議申し立ては民主主義の礎である訳ですから、それ自体は喜ばしいことかも知れません。しかし、その申し立てが既存の手続きでは到底受理されない社会環境や構造があるからこそ、人々は行動を起こすのではないでしょうか。バリ島で起こった爆破テロを受けて、2005年に週刊誌に投稿した以下の文を引用してみます。
「三年前に続き、バリ島南部の繁華街クタでまた爆破テロが起きた。この爆破テロ、五年前観光客として現地を訪れた人間としては、起こるべくして起こった感が強い。当時、現地で私が記した日記の一部から引用してみる。
『(バリと欧米・日本の)経済格差は揺ぎ無く存在し、その格差の狭間で、日本人・欧米人のリゾート地として発展してきたのだろう。揺ぎ無い経済格差、問題はそこに訪れた外国人ひとり一人がそれをどう捉えるかにある。「安く遊べる!」ただ単にそう思う人も多くいると思う。また、人権感覚の希薄な人は発展途上国の人を馬鹿にしたり、差別意識を持って来る。(中略)1ヶ月9000円程度の給与で生活している人々の前で、何万円ものお金をばら撒いて平気で遊べるこの感覚。それが全てを物語っている。欧米人もこれに同じだと思う。クタの少し裏通りで、欧米人が音楽に乗ってダンスを踊り飲み食いしているそのお店の横には、行き場のないかのような現地の子どもが座り込んでいる。どっちがその土地の「主人公」なのか分からない。人の地で、我が物顔でそのような振る舞いの出来る欧米人には“頭が下がる”。日本人もそれと同様の有り様だ』。
当時の外国為替は一円=約75ルピア、現在は一円=90ルピアである。依然として根強い経済格差は現在も存在する。現地を訪れる観光客の、人権感覚は果たして変わっているのか?」※2。
先の幹事長と異なり、若輩は、テロとデモを同列に扱う気は毛頭ありません。両者には、人権尊重と反人権という真逆の行為がその前提としてある訳ですから、同列に捉えて良いはずがありません。そのことを大前提としながら、その共通項を探ったとき、現下の社会に対する異議申し立てがその根底にあることは一つの事実として私たちは真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。
原発再稼働や、特定秘密保護法に対してなぜこれ程までに人々は行動を起こし続けるのか。その人々の行動の背景にこそ私たちは目を向けるべきなのでしょう。少数派を排他・排斥する社会。少数派の意見を度外視・黙殺する社会。斯くの如き、不寛容な社会においてこそ、デモは必要不可欠な行為となり、別の次元においてテロも起こりやすくなるのではないでしょうか。そして、不寛容な社会は斯様な対立を醸成し、人々の信頼を挫くように作用する。まさに、冒頭の行は、信頼を喪失した社会がテロを発生させている事を暗に示すために用いたものでした。
不寛容に誰かを排他・排斥することで、人々の信頼を著しく損ねる社会。この非民主主義社会においてこそ、人々は異議申し立ての行動を起こすことは今更言うまでもないでしょう。そして、その非民主主義社会において、権力が更にデモを抑制し、その抵抗すら許容しなくなれば、これらの行為そのものが未来のテロを引き起こす契機を与えていると言えなくもありません。
昨今自身は考えています。諦めずに対話を続ける事、そこに信頼を僅かでも構築する努力が不可欠であると。斯様な、忍耐とある種妥協の連続、その煩わしく手間のかかる営みの中にこそ、私たちは民主主義を見出すことが出来るのかも知れません。問題の本質は、テロであったり、デモ自体にあるのではなく、これらを起こし得る現下の社会の在り方にこそあるのです。
※1 『朝日新聞』2013年12月2日
※2 「投書 二度も起きた爆破テロは」『週刊金曜日』2005年10月21日
過日とある地域の公民館長と地域課題について議論をさせて頂く機会がありました。ここで紹介すべき要旨は以下の通りです。
―――基礎自治体の補助金をもらって、週に3日ほど住民主体で「何でも相談・支援」を行っている。ある高齢者から電話が入り、自宅の敷地から公道に飛び出して生えている植栽の剪定を頼まれた。頼まれる際、「幾らでやってもらえるのか?」と尋ねられた。これは自治体の補助金でやっていることなので、「無料でいいですよ。電動鋸の電気はそちらのコンセントから取らせてもらいますがね」と答えた。次の住民からは、自宅の電球を変えてもらいたいと依頼があった。電球の種類が多く、どの電球が適合するのか分からずに多くを買い込んでいる様子。数部屋分の電球が切れていたので、全て取り替えて家を出ようとすると、「幾ら払えば良いのか?」と尋ねられる。「無料でいいんですよ」と返答した。また、ある相談では、雨漏りがすると言われ自宅に伺うと、屋根の瓦がズレていたので早速直した。帰り際、「幾らですか」と聞かれたので、これに対しても「無料ですよ」と答えた。―――
もう何が言いたいのか、お分かりでしょう。社会のあらゆる分野に市場原理が導入されて以来、私たちの生活の営みの多くは全て金銭で解決できるかの如き様相を帯びています。例えば、地域連帯・連携の中で営まれた冠婚葬祭ですら、その全てが金銭で対応可能な世の中になっています。コンビニエンスストアに行けば、深夜でも弁当を買うことが出来ますし、また昨今では、店舗までわざわざ足を運ばずともインターネットで商品を注文すれば配送のサービスを受けることも可能です。
お金を払って買うものが多すぎる。若輩は思います。どんなことでもお金を払って済ませれば良い。斯様な社会の価値規範が、如上の地域住民の「幾らですか?」の精神に直結している様に思えるのです。でも、どうでしょうか。道路にはみ出した植栽の剪定や、電球の交換など、この様なことは少し昔であれば、隣近所の声掛けですぐに解決を果たしたことではないのでしょうか。地域住民同士の日々の会話や、その継続の上に培われてきた信頼関係があった時代。その関係性を礎に、斯くの如く些細な問題はお互いに声を掛け合うだけで解消されてきたのでしょう。その信頼に裏打ちされた支え合いを、お金で買おうとしているのが今の私たちの暮らしの有り様なのです。
科学の発展と利便性を甘受した私たちは、社会の市場原理化とそれが相俟って、信頼を礎にした暮らしではなく、金銭に依拠した暮らしを無意識のうちに選択してきました。金銭を支払えば何でも買えるという幻想が、人々の連帯・連携を阻んでいると改めて認識し得るお話ではないでしょうか。市場に過度なる依存をすることが、人間同士の信頼を阻害している。自身の目にはそう映ってなりません。
であるならば、金銭で購入すべき範囲をより限定的に捉えていくことが、人々に信頼と連携を醸成することにそれが繋がるのかも知れません。社会保障が現金給付であるよりは、現物給付の方が望ましいと若輩が考えるのもこの事と関連しています。また、社会保障に係る社会サービスを国民が自己負担(「応益負担」という名の現金)で購入することに異を唱えるのもこのためです。
今一度、自身の暮らしを見直してみようと思います。金銭で購入すべきものの範囲と、金銭を用いるべきではないその領域を。そこに、私たちが目指すべき地域や社会の在り方があるのかも知れません。