今の司法は一体何処を向いているのか。そのことを大変わかりやすく物語っている判決が出ました。
愛知県大府市の認知症の男性(当時91歳)が、列車にはねられ死亡した事故に対して、JR東海が損害賠償請求訴訟を起こした一審と二審の判決についてです。名古屋地裁の一審判決では、介護者たる妻と別居中の長男に請求通り約720万円の支払いが命じられていました。その愚劣さについては、過日のブログでも吐露した通りです。
あまりの傍若無人な判決に対して、世論は大勢批判と非難を浴びせていましたし、私の周囲にいる司法関係者も当然にこの結果はおかしいと言っていました。そのことを踏まえて、私は、この一審判決は大変特異な判決なのだと受け止め、二審ではこの判決が覆るだろうと高を括くっていたわけです。結果はしかし、この思いの方を大きく覆すものとなりました。二審では、その請求金額が半減し、別居中であった長男への請求を棄却したのみの“改善”であって、本質的には何の変化も見られないものが示されたわけですから。こうなってきますと、これは、決して「特異」な判決ではなく、現在の司法における普遍的な判断と捉えるべきなのでしょう。
この判決が、何処に問題を有しているのかを説明するのは簡単なことです。単純に二つの観点で説明がつくのではないでしょうか。�仝朕夕腟舛魴攣襪靴寝搬下腟舛糧�想、�⊆匆駟歉磴篌匆駟〇磴紡个垢詼楴舛療抒飴襦0焚爾房禊馨椶靴�叙述を試みます。
まず、�,砲弔い董�新聞紙面では以下の様に報じられています。
「相当前から長男は男性と別々に暮らしていて、経済的な扶養義務があったに過ぎず、介護の責任を負う立場になかったとして、男性への請求を退けた。一方、妻については配偶者として男性を見守る民法上の監督義務があったと判断。高齢だった(当時85歳)ものの、家族の助けを受けていて、男性を介護する義務を果たせないとは認められないと判断した」(括弧内は中島)※1。
認知症高齢者と同居する家族介護者には、介護や監督をする義務があるというのですね。もちろん、その認知症高齢者が同居家族などから虐待や拘束等の権利侵害を受けることは許されず、この様な権利侵害を防ぐ義務は、すべての人々と等しく同居家族にもあると言えるでしょう。しかし、その認知症高齢者が地域社会で起こした過失の責任に対してまでその同居家族が負わなければならないとの判決は次の点において行き過ぎたものであると断じることができます。
一つは憲法13条で示されているように、私たちは、ひとり一人が個人としての尊厳を有していることが社会の共通理解としてあるはずです。であるならば、個人が犯した罪は原則個人がその対応を迫られるべきです。もちろん、その個人が少年であったり、障がいのある人である場合などはその責任能力に応じて断罪する必要はあるでしょう。また、その個人の罪への要因は、社会環境との相互作用によって起こっていることを考えれば、その社会全体の課題や責務についても考えざるを得ないところです。しかし、それは、飽く迄も「社会全体の」を指しており、以下に示していくように、ごく一部の「家族」に押し付けるべきものではありません。それら「配慮」を行った結果、「罪」への対応が、処罰から教育や指導に転換されたり、場合によっては処罰の軽減に繋がることもあるのです。しかし、以上は全くそれだけの話であって、個人が犯した罪は、その個人に帰結することの本質には変わりがないはずです。
しかし、その一方で、特に我が国においては、時折おかしな事象を見聞することがあります。罪を犯した人のその家族のプライバシーを暴露したり、その責任を問うような報道が成されることは珍しくはありませんし、まだ罪を犯したことが法的にも未確定の時点たる「容疑者」の段階でも、これらの事は至極当然の如く成されているのではないでしょうか。罪を犯した本人のみではなく、その家族に対してまでその責任を問う価値規範が蔓延しているのが我が国の社会の一つの特徴であると私は捉えています。そして、まだ罪が確定していない、責任の所在が明らかではない段階においても、その「責任」は家族にまで及ぶ構造があるのです。
これらの事を考えると、いわゆる自助・互助・共助・公助の範疇の内、司法と世論が自助に重きを置いていることを窺い知ることが出来ますし、その自助の範疇に家族までを位置付けていることも強く認識するに至ります。しかしこれらは、介護を個人的な暮らしの課題と位置づけず、社会全体で取り組むべきものだと謳っている介護保険制度や、2012年度から本制度の目玉とされているそれを地域全体で支え合う地域包括ケアの概念からも逸脱したものであると言えます。
そして、ここで�△墨辰和海�わけです。そもそも人々の暮らしの課題の全てはその本人や家族のみで克服すべきものなのでしょうか。個人の責任は個人に帰する。もしくは、家族が被ぶればよいというのであれば、政府や行政は元来不要であるということになります。これは、ソーシャルワーカーでなくとも理解できることだと思いますが、個人の暮らしは、その周囲にある社会環境との相互作用によって成されていることがその大前提ですし、であるならば、自己責任論などという論理はそもそも成り立たない代物であると論じることもできます。ここに、社会保障や社会福祉の必要性が主張されるようになるのです。
人々が尊厳ある自らの暮らしを自助によって担保することが出来ない場合は、公的な責任を遂行してその個人の暮らしを守っていくことが社会福祉の役割であると私は考えます。であるならば、本判決は、この社会福祉の本質を揺るがしかねないものであると断じることが出来るのです。この認知症のある方に対する公的支援にかかる責任は何処にも謳われていないからです。仮に、公的責任の言及については本裁判の主旨ではないにせよ、その責任を一方的に、同居する当時85歳の妻に求めている訳ですから、本判決は自己責任論と同一基底にあると断定できます。
認知症有病者数は2012年時点で462万人にのぼるとされています※2。2012年の労働者人口が6720万人と言われている訳ですから、その数の多さは社会問題として注視に値します。また、同年「徘徊」によって、行方不明届が警察に提出された数が9607名分であり、2013年末時点でその内180名の方が行方不明のままであるとの報道もなされています※3。
これらを鑑みれば、この認知症の問題というのは明らかに社会が取り組むべき問題であることが理解できるでしょう。であるならば、これらの問題を克服するためにはどのような規範と視点が重要となるのでしょうか。
一つは、この問題を個人の、家族の問題として整理するのではなく、社会全体の問題であるとの認識を広範で多様な人々と共有することが必要です。これが、人々の人間の尊厳にかかる問題である以上、ここには政府・行政の責務も認識されるべきでしょう。その上で、本課題を本人と家族に押し付けるのではなく、支援の補充・充実によって、これら問題が生じぬよう予防を促進していくべきです。
実は、先ほど、「個人が犯した罪は、その個人に帰結すること」について叙述しました。原則論として、これは否定されるべきものではないでしょう。しかし、社会構造のもとで暮らす人々の行動の影には必ずその社会的背景が存在します。であるならば、「個人が犯した罪」をその個人に帰結させることで、この罪の終結を図るのではなく、社会全体の課題として捉える姿勢も私たちには求められているはずです。認知症の問題に拘わらず、罪を犯した人々に対してもこの様な視点は重要です。つまり、加害者にも被害者性があることに想像を及ばせる必要があるのです。
話をもとに戻しますが、その上で、万が一冒頭の様な不幸な事故にそれが帰結したならば、その起こった事故に対しても、社会全体で支える仕組みが必要なのではないでしょうか。そもそも、暮らしに課題を抱える人々と共に暮らしていくためには、この様な問題はつきものです。これ程までに大きな事故でなくとも、誤って、警報機を鳴らしたり、菜園の作物を収穫したり、近所の家の敷地内に入ったり等々、枚挙に遑がないほどに小さな問題は各地で起こり得るものです。そして、これらの問題を完全に起こさぬようにする方法は一つしかないでしょう。それは、認知症のある人との共生を社会が断念することでしかありません。
しかし、そのような社会や国は、国際社会からは凋落した存在としてまず相手にされることは無いでしょう。また、誰かを排他・排斥する社会は、多様性を失した画一化した社会であり、全ての人々の尊厳が守られぬ社会であるとも言えます。その意味において、本判決は、真の共生社会の構築に向けた流れにも大きく水をさすものであると言えます。
いま我が国の政治は益々、格差を醸成し、社会的少数派や弱者に対する慮りを喪失しています。また、それを実に巧妙かつ潜在的に推し進めていることに誰も警鐘を鳴らさない様相を呈しているのではないでしょうか。こんな時こそ、三権分立における司法の役割が求められているはずです。その司法が本来の役割を果たせていない、その傾向をひとつ顕著に示したのが本判決であるとも私は受け止めています。
※1 久保田一道「認知症で徘徊し線路で事故、遺族の賠償減額 名古屋高裁」『朝日新聞』2014年4月24日
※2 「認知症、高齢者の15%に 厚労省調査、85年から倍増」『朝日新聞』2013年6月1日
※3 畑山敦子「認知症で行方不明届け出、延べ9607人に 2012年」『朝日新聞』2014年4月25日「認知症が原因で徘徊し、家族らが行方不明者として警察に届け出た人の数が、2012年に全国で延べ9607人に上ったことがわかった。9376人は同年中に居場所がわかり、大半は無事だったが、13年末時点で約180人が行方不明のままだ」。
法人職員のために大学の恩師に過日講義を頂く機会がありました。私たちの法人の職員に拘わらず、福祉・介護分野で働く人々に対する問題意識として、社会の構造やその価値規範といったマクロ領域の視点や、人権とは何か・社会福祉とは何か、といった本質論を検討する視座が希薄化しているように思えます。要するに、我々は一体何のためにこの仕事をしているのかを深く捉えずに、目の前のクライエントと向き合い、それを業としてこなしている感が否めないわけです。もう少しはっきり言えば、専門職ではなく、単なる技術屋さんに凋落してはいないかとの問題提起の意味を含めての課題であると言えます。これらの課題を少しでも克服すべく、私たちの法人では今後、介護・福祉とは直接関係のない領域の研修(講義)も設定する予定です。いみじくも、私の尊敬する経済学者にも一役買っていただけることを一昨日確認したところです。
さて、恩師の講義は、部落差別問題や優生思想批判、医療分野の経済至上主義批判における具体的な事例を扱いながらも、一貫して「当事者性」とは何か、を問うたお話であったと認識しています。私たち社会福祉実践家、特に私の場合はソーシャルワークが重要になってくる訳ですが、これらのなすべき仕事を一言で言及すれば、クライエントの権利擁護の実践を通して、すべての人々の尊厳ある暮らしが成される社会を構築することがその根底にあると言えます。
ここには二つの視点があることは言うまでもありません。ひとりの人の支援たる「クライエントの権利擁護」と、その延長線上に繋がっている「すべての人々の尊厳ある暮らし」の構築。ソーシャルワークの基本的な考え方として、また現在なされている実践の在り方としては、前者が圧倒的に優位であり、後者はあまり意識されていないか、等閑に付されている感は否めません。しかし、これからのソーシャルワークでは、この二つの視点を同様に重視した実践が求められていると私は考えています。
「当事者性」を検討するにあたって、ソーシャルワークのこの端的な二つの視点に思いを巡らせておくことはきっと不毛な作業ではないと自身は考えます。今の思いを以下少し吐露しておきます。
例えば、クライエントの「当事者性」を考えてみます。認知症のある人の「当事者性」という捉え方もあるかも知れませんが、それは飽く迄も理念的なお話であって、実践論的には、やはりそこに個別性が存在するのではないでしょか。同じ認知症のある人であっても、AさんとBさんの「当事者性」は異なるわけです。また、AさんとBさんの「当事者性」が対立構造に陥っていることもあるでしょう。このように考えれば、認知症のある人の「当事者性」という概念ははやり揺らいでくると言えます。認知症のある人の「当事者性」が、存在するのではなく、AさんとBさんの「当事者性」が存在しているに過ぎないのです。
そのような認識の上においてでも、認知症のある人々や、障害のある人々、少数派やその他排他・排斥されている人々における運動の在り方として、仮の「当事者性」を用いることに自身は否定する立場を取りません。なぜなら、ソーシャルワークの使命としては、「すべての人々の尊厳ある暮らし」を目指すべく、ソーシャルアクションを起こすことの重要性も一方で強く認識しているからです。しかし、この場合の、集団毎の「当事者性」は、一定の個別性を排した仮のものであるとの認識が不可欠です。被差別部落の人々の中にあっても、在日韓国・朝鮮の人々の中においても、多様な個別性のある立場や思想が存在すると言うことです。そこを度外視した運動は、おそらく、その後の広がりを見せることはないでしょう。
広がりのある運動を成すためには、少なくともその集団内に個々に存在する「当事者性」が一定程度共有される作業が成されていなければならないと思うのです。例えば、同じ「障害のある人」との位置づけであっても、そこには置かれた状況や思いに個別性が存在します。そこを互いの個別性を重んじながらも、大局観を持って共通理解を促進していく過程が、後の運動への広がりを見せるのであろうと認識するのです。また、こうして構築された共通理解こそが、集団における仮の「当事者性」であると言えるのかも知れません。また、異なる立場の人々が共通理解を構築していく作業は、煩雑なれど、非常に尊く、重要であるとも認識します。
これまでは、集団の内部における「当事者性」の共有のお話をしてきましたが、ソーシャルワークの要諦は、この集団の内部にある「当事者性」を、その外部に如何に「ひらいて」行くかににあることは言うまでもないでしょう。集団の内部にある個人の「当事者性」を集団内で「ひらいて」一定程度共有することが可能である以上(それを否定するのであれば、あらゆる運動は不毛であると断言できます)、集団としての仮の「当事者性」や内部にある個々の「当事者性」を集団外部に「ひらいて」行くことも不可能ではないはずです。
「他人の痛みは我慢できる」という言葉があるようですが、自身は10代の頃より「他人の痛みが我慢できない」人間になりたいと思って生きてきました。そこには、「他人」の「痛み」は、その「他人」と全く等しくは理解できないけれども、その一部は理解することができるとの信念が厳然と存在していたと言えます。もし、「他人」の思いが全く理解できないとしたら、巷にあふれる映画やドラマ、あらゆる書籍、そしてあらゆる議論は全く意味をなさない代物であると言うことになります。私たち人間は、体験や想像力を駆使して、「他人」の思いの一部は理解することが出来るとても優れた能力を持ち備えていることに強い誇りを抱くべきでしょう。
友人と深夜まで痛飲して語り合い、そこで交わした言葉を翌朝ふと振り返り、彼の伝えたかった思いを考えてみる。このような関わりの過程を通して、人々は、「他人」の思いを一定程度は共有することができるはずです。もちろん、「他人」の思いの全てを理解できる事などはあり得ない訳ですから、この点に対する畏敬の念は堪えず持ち続ける必要はあります。クライエントの思いも然りで、私が対人援助の要諦は、クライエントの思いを「決めつけない」ことと、理解することを「諦めない」ことの双方が重要であると説くのはこのことから端を発していると言えます。
経済至上主義とそれに連動した教育制度が相俟って、私たちは、自らの利益と他者の利益が切っても切れない関係であることを忘却しているように見受けられます。他者の悲しみはやがて、自らの悲しみに繋がり、自らの喜びは他者の喜びへと連鎖している事実を私たちはどこかで見失っている様相があります。誰かを排除する社会を放置することによって、また誰かを排除することによって、そのことが、やがて自らの排除へと繋がることに対する想像力が欠如しているのが現下の社会なのかも知れません。
私たちソーシャルワーカーの仕事は、その人々の繋がりを、可視化し、社会に共通理解を促進していくことにあると私は考えています。本来であれば、教育によって直接接点の無い他者に対する理解もある程度は人間のなせる能力の範疇であると言えますが、今の教育はそうなってはいませんので、このことは大きな課題であるとも言えます。多くの人々にとって、直接接点のない沖縄や福島、生活保護に係る問題が、人々の間で広く共通理解が成されていないことを顧みればこれは明白な事実であると断じることが可能です。
斯様な状況下において、ソーシャルワーカーがとるべき実践は、地域の中で、多様な他者の存在を可視化と体験を通して共有し、その共通理解を促進することにあるのではないでしょうか。他者の支援を必要としている人々の存在と暮らしを、そしてその人々を支援している私たちの仕事を地域に「ひらいて」、可視化し、体験的な関わりを促進することこそが、自身の利益と他者の利益が繋がり得ることの理解を全ての地域住民に促進し、「他人の痛みが我慢できない」地域社会の構築へと繋げることが出来るのです。このような地域社会を構築することが出来れば、恐らくそこに暮らす人々は、今度は直接接点を有さない他者への慮りを始めるのかも知れません。こう考えれば、ソーシャルワークの実践論には、社会教育や成人教育分野の知見にも触れておく必要性を考えざるを得ません。また、これらの営みは、多くの人々が子どもから大人になるまでの間に経験してきたことを、地域の中で、今度は真逆の体験として促進する過程であるとも言えるでしょう。
福島の不幸の上に、東京の幸福があり、沖縄の被害の上に、国民の幸福がある。除染作業員の苦悩の上に、私たちの安全があり、最前線で生死をかける兵士の上に、人々の安全保障がある。このような社会は決して健全な社会とは言えず、他者の不幸を礎とした幸福などは、しょせん幻想に過ぎず、それに気が付かないこと自体が人々の不幸であると断言できます。
自身の暮らしと他者の暮らしはどこかで必ず繋がっている。であるにも拘わらず、その事が誤魔化され、曖昧模糊とされているその人々の繋がりを敢えて可視化し、体験的な学習の機会をもって共通理解を促進し、再度人々をしっかりと繋いでいく。このことを地域の中で展開していくことこそが、私たちの仕事なのです。
ここまで議論を拡散させておきながらも再び「当事者性」の議論に戻します。繰り返しになるかも知れませんが、如上のことからも、「当事者性」を地域に「ひらいて」行くことこそが私たちの仕事であると言えます。「ひらいて」可視化し、共通理解を促進するために、「当事者」の暮らしや支援者の仕事に直接関わってもらう体験的学習の機会を数多設けていくことがその有効な一つの方法であると私は理解しています。この実践を積み重ねることによって、地域住民は、直接接点を持たない他地域・分野の人々に対する共通理解を可能とし、延いては、この社会を構成する全ての人々の尊厳ある暮らしへと帰結することを信じているのです。
その意味において、「当事者性」を社会に「ひらいて」共有するということは、全ての人々が「当事者性」を有するということにも繋がります。そして、すべての人々の尊厳ある暮らしを目指す以上、そこに「当事者性」は意味をなさなくなるのではないでしょうか。なぜなら、「すべての人々」こそが「当事者」となるはずだからです。であれば、この「当事者性」という言葉そのものの意味を失効させることこそが、私たちソーシャルワーカーの目指すべき到達点なのかも知れません。
※ 友人から教わった事ですが、ここでは、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記しています。