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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

社会福祉実践家こそが、集団的自衛権行使に抗議せよ!

2014/06/28 01:41:41  社会全般
 社会福祉実践は政治運動ではない。しかし、社会福祉実践家が、その専門的価値に基づいて政治活動をすることは忌避されるべきではありません。ましてや、人々の暮らしと人権が軽視されている今の世にあって、その人々の暮らしを守るべき立場にある私たちが、あるべき社会への接近のために、その手段としての政治に関与することはむしろ避けては通れないものと考えます。

 特定秘密保護法も然る事ながら、政府による集団的自衛権の行使は、社会福祉実践家にとって、人々の暮らしを最も悪化させる私たちの実践理念の対極にある行動であることを自覚せねばなりますまい。であるならば、社会福祉実践家こそが、この政府の体たらくに対して強く異議を申し立てるべきだと私は思います。以下、社会福祉実践家の立場から、この集団的自衛権についての問題提起を試みておきたいと思います。

 社会福祉実践家の使命は、人々の権利を擁護することであると言われて久しい。権利を擁護することにおいて一つ重要なことは、権利の侵害から人々を守るということにあります。もしくは、そのことを予防するということでしょうか。現代の戦争では、周知の通り、兵士よりも圧倒的に一般人がより多く命を落とす傾向にあります。集団的自衛権の行使は、自衛隊員に死を求めるということに帰結するが、その覚悟が政府にあるのか否か、という問いがよく巷で成されていますが、これはある意味間違った見解であると私は考えます。もちろん、自衛隊員が命を落とす確率は高まりますが、それと同時に、私たち自身が命を落とす可能性をより高めるものであることが明示されていないからです。

 戦争は、非人間的・反人権的な行為であり、暴力行為そのものであることは自明の理です。そのような状況に巻き込まれて、もっとも人権の蹂躙を受けるのは一体誰でしょうか。それは、女性と子ども、そして、自らの暮らしにおいて誰かの支援を必要としている人々、私たちのクライエントの生命と暮らしが最も侵害されることは言うまでもありません。だとすれば、戦争は、私たち社会福祉実践家の実践理念とはやはり真逆の位置にあることが理解されます。自らの暮らしに課題を有し、社会から排他・排斥されている人々の権利と暮らしを守る私たちの実践は、戦争と正反対の位置にあり、それは平和維持への貢献に繋がっていることに私たちはもっと誇りを有するべきだと思います。

 そもそも、戦争は権力の暴走に起因してなされます。丁度今の日本社会がそれに当てはまるのではないでしょうか。権力の暴走は、人々の人権が軽視され、あらゆる自由が喪失されていく中で起こり得るものです。言論・信教・表現・教育等のあらゆる自由が人々から簒奪されて初めて権力は暴走を果たします。これらは、特に、生存権と幸福追求権の侵害によって促進されて行くと言えるでしょう。よって、人々のこの生存権と幸福追求権を守っている私たち社会福祉実践家が各地で織り成す営みは、人々の権利を守ることに終始しているのではなく、その先にある権力の暴走への歯止めをかけていることになります。まさに、戦争を防ぎ、平和を維持しているのです。

 先の権利擁護の件に戻りましょう。権利擁護の実践は、人々を権利侵害から守り、それを防ぐことにあると述べました。今一つ重要なことは、人々の自己決定の尊重にあります。この度の集団的自衛権行使は、憲法解釈の変更という手続きを取ることによって、国民の意見を度外視した上で、政府が独善的な決定を行っていることになります。まさに、国民の自己決定を黙殺した手法であると言えるでしょう。よって、これも、社会福祉実践とは対極にある行動と言わざるを得ません。

 かてて加えて、とても重要な視点が抜け落ちていると思います。仮に、選挙で選出された国会議員がその帰結を経て、集団的自衛権の行使を画策している、よって、これはある種の国民の自己決定によるものだとの論理が成り立ったとしても、それだけでは済まされない問題があるのです。

 それは、例えばこの憲法解釈の変更がなされたとして、この変更を容認した国会議員が、その結果に責任を果たすことがあり得るのだろうかという問題です。つまり、このことによって将来、我が国が戦争に巻き込まれたとして、そこで命を落とす可能性が彼らにあるのかという問題提起です。恐らく、彼らの多くは、その頃、寿命を全うしているのではないでしょうか。つまり、この集団的自衛権の問題は、「私たち」がその責任を直接的に負う立場にはない問題なのです。

 言わずもがな、今の子どもたちがその災禍に巻き込まれる可能性がある。であればこそ、この決定は子どもたちの視点を代弁し、子どもたちを巻き込んだ議論を経て行うべきです。それ程までに、丁寧で慎慮な議論が求められている事柄であると言えます。現在の私たちの愚行に対する責任が、私たち自身に降りかかってくるのであれば百歩譲って文句は言いますまい。しかし、その責任と結果を、次の世代に押し付けることが本問題のもっとも愚劣で破廉恥な部分であり、これこそが、この度の政府の行動の本質であると私は捉えています。

 つまり、今の子どもたちが大人になり、今のオトナたちの選択の帰結として、戦争に巻き込まれそうな事態に見舞われた時、それに抗う方法がなければ、それは彼らの自己決定とは到底言えないのです。この事においても、人々の自己決定を尊重する社会福祉実践家としては、当然看過するわけにはいかないのです。

 権力は暴走すると述べました。その歯止めとなる憲法そのものを、権力の側が、その改正手続きを黙殺し、解釈の上で改めようとしています。そして、そこに異を唱える勢力が衰退の一途を辿っている現状を鑑みれば、これは戦後70年の歩みの中で今現在を迎えていると言えなくもありません。この現在の体たらくを70年の歳月をかけて堆積してきたのだとも言えるでしょう。つまり、過去70年の歩みは今現在のこの社会の様相に向かっていたということです。この理の中にこそ、今から70年未来の人々の暮らしに対する今現在の私たちの責任があることが、はっきりと見てとれるのではないでしょうか。個人の寿命に比べて、社会の寿命はとてつもなく長い。であればこそ、次世代・次々世代を担う彼らの“自己決定”を慮りながら、それを代弁しながら現在の決定を図って行っていく責任が私たちにはあるのです。

 そして、更に気になることがあります。それは、この様な多くの人々の生命と暮らしについて、それが大きな危険に晒される可能性を高める決定を政府が意図的に、そして、感情的に推し進めていることにあります。言うまでもなく、人の生き死にかかる重要な決断を決して感情論で行ってはなりません。

 予てから社会福祉実践家は、死刑廃止論者であるべきだと考えてきました。死刑についても、被害者側の感情論でその議論が成されている傾向がありますが、これは社会をより危険な状況に貶めることに繋がると私は考えます。被害者側の心境は、当然共感に値しますし、その暮らしに対する支援は怠るべきではありません。その事を前提として、この事を、加害者の死刑に結び付けることはやはり感情論であると私は認識するものです。

 人権や生命に例外を設けてはいけないと私は考えていますし、このこと自体には、多くの人々の賛同が得られるものと認識します。であるならば、重大な罪を犯した人々の人権と生命も同様に考えるべきだというのが、私の社会福祉実践家としての立ち位置であります。特に一時の感情によって、失われてよい人権や生命などこの世に存在しない。この原則こそが、社会福祉実践における権利擁護や社会正義、平等主義とも平仄の合う思想であると言えます。社会福祉実践家も、クライエントの人生の岐路に立つ支援を行う場面がありますが、そのような重要な分岐点でこそ、感情優位ではなく、冷静に覚めた頭でクライエントと向き合うことが求められているのです。

 以上の様に重要な政策ほど、感情論で推し進めてはなりません。ましてや、今議論の渦の中にあるのは、個人の生死のみならず、自国他国の如何を問わない多くの人々の生死に敷衍していく問題な訳ですからこれは当然の事です。

 また、人々の生命を守る哲学は、抑止力だけではありません。少し前に、拳銃を家庭で保持しないことを決めたアメリカ人の論文を読んだことがあります。拳銃を所持していると暴発して命を落としたり、他者に誤解を与えることで不要に家族の生命が危険に晒される可能性が高まると考え、この家庭では幾世代にわたって拳銃を保持していないといった内容でした。個人レベルであれば、拳銃でしょうが、国家レベルになればこれは大量破壊兵器を用いることになります。抑止力に頼る前に、他にやるべきことがあるその叡智を示唆する事例ではないでしょうか。

 我が国の武力行使の範疇を広げることで想定されるのは、可能性の極めて低い政府が示す事例において国益を守ることなどでは断じてなく、人々の殺し合いの負の連鎖に国民が巻き込まれることにあります。前者の在りもしない国益を守るために、後者の大変大きな危険を国民が請け負うことになるのです。しかも、それを実際に背負わされるのは、現在閣議決定に奔走している人たちではなく、現在選挙権すら持たない子どもたちであることを忘れてはなりません。

 かつて中東のイスラーム諸国で日本人がテロに合うことなどありませんでした。それを、小泉政権がイラクに自衛隊を派兵した帰結として、その信頼関係が悪化し、複数の日本人が生命の危機に晒され、そして、幾人かの方は実際に命を落としています(2004年4月〜2005年5月)。つまり、それは、アメリカの侵略を支持した我が国が、正式にはその政権が支持したのであっても、すべての国民が支持をしたわけではないのだが…そうであっても、反アメリカ勢力にとっては、アメリカと同じ“敵”と見なされた瞬間でもあったのです。

 そう考えれば、この度の集団的自衛権の行使は、この負の連鎖を周辺地域に創出し、周辺地域の不安定化に大いに“貢献する”こととなるでしょう。斯くして、我が国の危機はかつてない高まりを見せることになります。その結果、国民の暮らしは不安定極まりないものへと化して行くのでしょう。

 そもそもこの度の集団的自衛権にかかる政府の議論は感情論以前に理論的に破綻しています。個別的自衛権で対応できることを、わざわざ集団的自衛権を引合いに出し、それで対応しようとする点。自衛権の限定的行使と言いながらも、その中身が極めて曖昧模糊としており、時の政府の恣意性・裁量性の高いものとなっている事。斯様な支離滅裂な説明と論理的な不整合において、この重要な憲法解釈の変更を推し進めようとしているのです。

 言うまでもなく、組織におけるトップとは、その組織を守る最終責任者を言います。この場合、国民の生命と暮らしを守る最終責任者が内閣総理大臣でありましょう。であれば、トップには、あらゆる私信を捨てて、国民の生命と暮らしを守る責務があります。残念なことですが、今の彼に、その資質があるとは到底思えません。そして、その資質の無いトップが支離滅裂な議論を押し通す背景には、国民の暮らしと存在に対する軽視があります。彼らが思うほど、私たちが決して無能では無い事を示せるかどうか。今現在の私たちの資質も同時に問われているのです。

 最後に、国益とは、全ての国民の利益を指します。国民の利益とは、国民の生命を守り、暮らしの質を高めることにあるはずです。であればこそ、社会福祉実践家は、この真なる国益を意図した実践を行うことにその面目躍如があります。一方でこのトップの言う国益とは、真なるそれで無いばかりか、むしろ私たちのいう国益とは対極の位置にあることを改めて検証する必要があります。



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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