参議院選挙(7月4日公示・7月21日投開票)を前に、各党の公約が漸次発せられている昨今です。先の都議選の結果から察するに、衆参議院ねじれ解消による安定政権が成立することは避けられない事態となってきました。であれば、我われ民衆は、本党の公約には目を曝す必要があります。
内容を全て拝見してみましたが、要するに「政権半年の実績を強調しながら経済政策を前面に出す内容」※1となっているようです。特に、「今後10年間の国内総生産(GDP)の平均成長率を名目3%程度、実質2%程度とする目標を定めた」上、「『世界で一番企業が活動しやすい国』の実現を掲げ、成長戦略の追加策の柱である設備投資減税を行うことを明記。設備投資を3年間で7兆円増やし、年間70兆円の水準を回復する目標も示し」、「安倍晋三首相の強い意向で、企業の設備投資を促すため『法人税の大胆な引き下げを実行する』と加えた」所に特徴がある様に思われます※1。「経済再生と財政健全化の両立」※2とある様に、政治と財政に市場原理を色濃く注入した内容であると若輩は理解します。
しかしながら、本来政治や財政はもとより、人々の生存権に係るような分野、即ち、社会保障・教育・環境分野等においては、その性格上、市場原理とは相容れないものが本質として含まれているはずです。その意において、国や自治体を始め、医療機関や福祉施設、教育機関等は厳密に企業ではないと言えます。井手英策氏によれば、そもそも市場の原理と財政の原理はその目的を異にしていると言う。「私たちは、市場原理を活かして政府の効率化を図り、ムダをなくすという議論を何度も耳にしてきた。だが、家族の原理を基盤とする財政と、市場の原理を基盤とする企業とでは属する領域が異なる。(中略)市場の領域では私たちは経済的な富を追求する。つまり、利潤動機に基づいて行動する。これに対し、家族の領域では、親や兄弟よりも裕福になることではなく、教育、会話、思いやり等を通じて『人間として望ましい状態』を実現することに本源的な目的がある。また、市場の領域では、経済的な富に応じて社会的な地位は変化するが、家族はむしろメンバーを等しく、時には強制力さえ用いてあつかうことに本質がある。(中略)財政の原理は、競争がある程度の富の偏在を生んだ場合に、その格差を許容できる社会、いわば『勝者に惜しみない拍手を送れる社会』の基礎を作ることにある。家族の幸福を願わないものはいない。生存を支え、人間に共通する生活の必要を満たし、公正な競争のための基盤を作ること、これが財政の使命なのである」※3。また、井手氏は「財政学の伝統的な考え方として『量出制入』原則」があると述べています。「支出を量って収入を制する、つまり、人々のニーズをはじめに考え、そのために求められる財源を、みんなで負担し合うと言う意味」※4があるのだとか。これを見る限り、財政の原理は市場のそれと真逆に機能させなければならない側面を有していると言えます。
無論これは政治や財政だけに言える事ではありません。規制緩和の名のもとに、民間企業やそれにかかる人材が教育分野に参入していることは周知の事実です。しかし予てから私は、学校は会社ではないので、市場の原理が強く導入されることに違和感を抱いていました。つまり、学校が育成するべき人材と、企業が求める人材は本質的には異なっているものだと認識しております。義務教育を筆頭に学校が子どもたちに伝えるべき教育は、多様化が認められた社会の在り方であり、自身と異なる思想や文化を有する人々との共生の方法について、考えや気づきを深めることにあると自身は考えています。他方、企業が求める人材とは、まさに企業の利益に貢献する人材であり、企業の方針に従って行動することができ、高い効率性と効果の帰結を叩きだすことの出来る者を指すのでしょう。昨今手にした新聞から次の件を引用します。「『世界で勝つ』。先月、成長戦略第2弾について安倍首相がスピーチしたときのキーワードがこれ。その文脈で、大学改革などを打ち出した。期待されているのは、日本が『勝つ』ための人材、つまり� 聞餘廚魍諒櫃垢襦砲里茲Δ澄�(中略)しかし、それが国という社会に役立つ人材育成につながるだろうか。そう問いかけるのは、先月訪日したパリ西大学のクリスチアン・ラバル教授。教育問題で活発に発言している社会学者だ。『18世紀以降、教育とは基本的に国民の共同体で生きる人を育てることだった。公教育、国民教育だ。それが近年、新経済自由主義的なグローバル化が進むにつれて変容している』。今、国境を超えるビジネス界の求めに応えて、各国が懸命に育てようとしているのは結局、『共同体のメンバーではなく、市場で競争に勝つための経済的な人的資源だ』。本来、教育は『市場ではなく共同体のため』だったのに逆転したという。そこで育つのは、たとえば多国籍企業が『勝つ』ために能力を発揮する個人。たしかに、もうけに貢献した社員が日本人であっても、それが日本という国の『勝ち』にはならない(括弧内は中島)」※5。「経済的な人的資源」を確保するための教育が、我が国の真なる国益に寄与したり、国民を幸せに機能させるとは到底思えません。
人々の人間としての尊厳を守ったり、生存権を保障する営みと、市場原理はそもそも相容れない目的を有しています。それを混同させているのが今の政治であり、社会であると自身は考えます。「量出制入原則」で言えば、人々の生存権にかかる分野への支出は、国益のための必要不可欠な支出としてしっかりと確保した上で、その財源をどこから確保すべきかを検討するということになります。収入を先に考え、その限られた財源から支出を計算し、真の国益のために必要不可欠な社会保障や教育、環境分野にかかる費用を削減すべきではありません。
さて、少し本論からそれますが、必要な支出を確保するための収入をどこから集めるのかという議論も同時に成されているようです。その一つが消費税の増税であります。消費税は、税本来の在り方としての累進課税の課税方式ではなく、所得に拘わらず全ての人に等しく課税される性質を有しており、その逆進性が指摘されているものです。端的に言えば、年収700万以上の国民は所得税を引き上げられれば負担が重くなり、年収700万円未満の国民は消費税の引き上げによってその負担を強くすることになります。そのような逆進性に歯止めをかけるには、所得税と相続税、資本所得税等の引き上げを同時に行うべきかと存じますが、そのようにはなっていないのが現状です。また、そこで2%の目標物価上昇率(インフレターゲット)が導入されれば、年収700万円未満の国民負担は更に上昇することになるでしょう。収入が公的に定められている生活保護受給者の生活はもとより、医療・福祉機関の経営も強く圧迫することになりそうです。
一方で、同党の公約には「法人税の大胆な引き下げを実行する」という件があります。「消費税については全額、社会保障に使います」との表記もあるものの、基本的にお金に色は付けられませんので、総量的にみれば、消費税の増税分は、法人税の減税に当てられることになるものと思われます。法人税については、我が国の税負担は重いと言われてきました。しかしながら、企業の負担という視点によって立てば、即ち従業者の社会保険料の負担を含めて試算すれば、先進諸国の平均以下の水準となっているのは周知の事実です。また、井手氏が述べるに、「政府税調の専門家委員会資料では、減税で得た資金の使途として、内部留保と借入金の返済を掲げた企業は、それぞれ全体の25.6%、16.8%であったが、給与の増額を掲げた企業は、15.5%にとどまった。(中略)企業が海外に事業展開した理由として見た場合、人件費や販路拡大がその動機であり、公的負担の影響は、ほとんど無視できる程度にしか考慮されていない。また、同じ調査によると、実効税率を現在の40.69%から30%に引き下げたとしても、日本に回帰しないと回答した企業は、77%に達している。ようするに、法人税の引き下げを経済成長のエンジンと捉えるとすると、それは明らかに過剰な期待なのである」※6とされています。
以上のように見てくれば、政治や財政、社会保障、教育、環境分野といった本来は相容れない分野にまで、市場の原理が根強く浸透しつつあることが伺えます。そこにソーシャルワーカーとしては警鐘を鳴らすべきであると自戒の念も込めて思うわけです。
著書『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』でイアン=ファーガスン氏は、新自由主義の台頭によってイギリスにおけるソーシャルワークに危機的状況が訪れていることを告発しています。生活格差が増幅し、福祉サービスの市場化が促進された結果、ソーシャルワーカーが本来の価値規範に則った実践が出来なくなっている状況に警鐘を鳴らしているのです。例えば、本書からイングランド地方当局に所属するベテランソーシャルワーカーの声を引用してみます。「素早くケースを取り替えて、できるだけ多くの対象に当たることを望むマネジャーによって、ソーシャルワークは、ますます数字の世界となりつつある。彼ら/彼女らはケースを取り込み、処理し、ときにはそれを排除していく。私たちは、割り当てられていない多くのケースを抱えており、みんな最大限のケースを担当し、市民にサービスを与えていると思わせなければならないという、大きなプレシャーを感じている。しかし、実際には、私たちは何も与えていないし、与えるべきものを何も持っていない」※7。イギリスのソーシャルワーク現状に対する不満は、「1990年代前半からの競争と市場原理に主導されたマネジメント主義体制によって、ソーシャルワークの知的基盤や技術や価値が歪曲され、切り崩されてきたことに起因する」とされ、「国民保健サービスとコミュニティケアに関する1990年法がもたらした影響の一つは、ソーシャルワーカーが、サービス利用者と直接的に関わる時間を引き受ける機会が大きく縮小したことである」と断じています※8。
これが「対岸の火事」であるわけがありません。我が国においても、イギリス同様の方針で政権が舵を取り続けて今日に至っているのです。正直申し上げて、政治のことはよく分かりませんが、ソーシャルワーカーの視点から眺めた我が国の政治状況は、斯くの如き危機的状況にあると若輩は認識しています。かてて加えて問題なのは、我が国のソーシャルワーカー及びその研究職者の中に、イアン=ファーガスン氏の様な存在がほぼ皆無の状況にあることではないでしょうか。もちろん、我が国の先進的研究者が本書を翻訳されているのですが、この国の危機的状況を直裁的に論じる論者を私は知りません。
なぜ、この国のソーシャルワークがこのような状況下にあるのか、それはマクロ領域の専門性の弱さであり、社会構造を捉える力の希薄化にあると自身は考えます。つまり、現下のソーシャルワーカーに最も求められているのは、社会構造を捉えることのできる社会学の知見を有するソーシャルアクションの担い手なのです。再びイアン=ファーガスン氏の次の一文を引用します。「1970年代のラディカル・ソーシャルワーク運動の主要な功績の一つは、社会学をソーシャルワーク課程に組み込むことによって、全てのソーシャルワーク課程の学生の専門教育の構成要素として、構造的な要素が持つ影響力の理解を確保したことであった。しかし、近年、この構造的な要素が持つ影響力の理解は希薄化している。その理由として指摘できるのは、まず、ソーシャルワークのカリキュラムにおける知識を犠牲にし、技術や職務を強調するカリキュラムの変化にある」※9。
斯くの如き、市場原理主義が、ソーシャルワークの衰退を招いていることは自明の理かと存じます。そして更に問題なのは、そのこと自体にソーシャルワーカーの多くは気づいていない事実であると認識します。ソーシャルワークとは何か、社会福祉の本質とは何かを大きく取り上げ、議論する機会と存在が今まさに切望されているのです。
最後に若輩浅学の修士論文の終りの件を用いて、本章を閉じたいと思います。
「ここ20年で格差社会は進捗し、ソーシャルワークを必要とする状況は深化・拡大しているが、そうした増え続けるニーズに対応が困難な状況が続いている。こうした状況にありながら、新政権は、生活保護費の10%削減を目論んでいる。こんな時代だからこそ、この社会にソーシャルワークが希求されている。そして、今求められているソーシャルワークは、社会構造を捉える社会学の知見を有したソーシャルアクションの担い手である。ソーシャルワークやケアワークの世界においても、科学的根拠のある実践が叫ばれて久しい。技術革新はもちろん大切な視点である。しかしながら、その技術を私たちはどこに向かって、誰のために用いるのかを理解しておく必要があるはずだ。その“刀”はクライエントのために振り下ろされるべきであり、クライエントを傷つける為にあってはならない。ソーシャルワークとは一体何か、また、ソーシャルワークの拠り所は何なのか、といったソーシャルワークの本質について立ち止まって考え、大いに議論することがこの今こそ求められている。『技術はどんなに高まろうと、目的の下にある』※10のだから」。
※1 『朝日新聞』2013年06月20日
※2 自由民主党『参議院選挙公約2013』2013年6月20日
※3 井手英策『日本財政 転換の指針』岩波新書 P.146-147 2013年1月
※4 井手英策『日本財政 転換の指針』岩波新書 P.145-146 2013年1月
※5 大野 博人「日曜に想う グローバル人材ってだれ?」『朝日新聞』2013年6月16日
※6 井手英策『日本財政 転換の指針』岩波新書 P.189 2013年1月
※7 イアン=ファーガスン著 石倉康次・市井吉興監訳『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』クリエイツかもがわ P.89 2012年5月
※8 イアン=ファーガスン著 石倉康次・市井吉興監訳『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』クリエイツかもがわ P.231 2012年5月
※9 イアン=ファーガスン著 石倉康次・市井吉興監訳『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』クリエイツかもがわ P.238-239 2012年5月
※10 むのたけじ『詞集 たいまつ』評論社 P.13 1997年6月
予てから、プランドハプンスタンス(計画された偶発性)理論に興味があり、昨今漸くその関連書籍を読むことが叶いました。本理論の要点を列挙した箇所を引用すれば以下の事が描かれています。
「※将来何になるか、決める必要はない。
その時々で目標はつくってもよいが、目標はあなたの成長や学習、環境の変化に伴って常に変化する可能性があるものです。常に目と心をオープンにしておきましょう。
※想定外の出来事があなたのキャリアに影響を及ぼすことは避けられない。
想定外の出来事が起こったときにはいつでもそれを利用できるように常に注意を怠らないでいましょう。
※現実は、あなたが考える以上の選択肢を提供しているかもしれない。
夢を追求するときは、夢を見つつ、しっかり目を開けておくということを忘れないでください。
※色々な活動に参加して、好きなこと・嫌いなことを発見する。
どんな活動にも積極的に取り組んで、ベストを尽くしましょう。
※間違いを犯し、失敗を経験しよう。
間違いや失敗は重要な学びの経験となり、それが予想以上によい結果に結びつくこともあります。
※想定外の幸運な出来事をつくりだそう。
人の手伝いをしたり、組織に所属したり、講座を受講したり、友達や見知らぬ人と話をしてみたり、ネットサーフィンをしてみたり、本や雑誌を読んだり・・・・つまりは、積極的に人生を送ることで、想定外の幸運な出来事をつくりだすことができます。
※どんな経験も学びへの道。
新しい仕事は常に新たな学びの経験です。その仕事に就く前に、仕事のやり方を知っている必要はあり ません。
※仕事以外でも満足感を得られる活動に携わる。
雇用されていなくても、そのような活動を通じて、従来とは異なる方法で、他者に貢献することができます。人生の後半では、それはむしろ老後への健全なアプローチです。
※内面的な障害を克服するために、新しい考えや経験にオープンであり続ける。
人生を豊かで満足感のあるものにする考え方や行動を取り入れましょう。ブッカ―・T・ワシントンの言葉を借りれば、『成功とは、たどり着いた地位よりも、むしろ成功を目指して克服してきた困難で測るべきだ』」※1。
やるべきことを決めない。オープンマインドであること。好奇心を有して、積極的に学び・挑戦すること。これらの大切さが強く謳われているようです。因みに、あるべき目標を目指して実践を重ねて行くキャリアアンカー理論と、人材マネジメントの分野においては対比されることのある理論だとか。いずれにせよ、キャリアアンカー理論もプランドハプンスタンス理論もキャリア形成における成功を目指した理論であると言えるでしょう。そしてそのキャリアゴールを当初から定めておく方法と、そうではない方法の違いがここでは見ることができます。
そこで素朴な疑問が湧いてきました。そもそも「成功」とは何を指すのかと。有り体に言えば、物事を目的どおりに成し遂げること、またそのことを通して、社会的地位や名声などを得ることとされています。要するに、自らが定めた目的を達成することがその要諦であると言えそうです。であれば、仕事上の業務目標の達成も成功と言えますし、目標の学校に入学することも成功と言えるのかも知れません。しかし、人生における成功において、最も重要な視点は、後悔のない人生を送ることにあると自身は考えています。それこそが人生の目的であると。後悔のない人生とは、自身の信念を貫いたとまで行かずとも、少なくとも大切にして生きてきたというものではないでしょうか。自身の信念に基づいて、如何に多くの重要な決断を行ってきたのかが問われているように思えます。
実は、プランドハプンスタンス理論に触れながら、物足りなさを感じた理由はここにありました。それは、自身の信念なくして成功と言う結果を得ることが果たして出来るのかと言う問題意識にあります。信念を貫くことは、これを真なる夢と置き換えて考えることもできるのではないでしょうか。同じく昨今手にした本から以下の件を引用しておきます。「ときどき手段と夢を間違えている人がいます。手段と夢というものは、間違えてはいけません。自分が今持っている夢というものが、手段なのか本当の夢なのかを判定する簡単は方法があります。それはその夢をかなえるためのプランBがあるかどうかです。プランがひとつだけで、プランBがない夢は、きっと手段です。夢を達成するにはいろんな方法があるんです。プランBが持てない、他の手段を考えつかない夢というのは、手段のうちのひとつにすぎません」※2。つまり、「手段」ではない真なる夢とは、最も遠くにある人生の目的そのものであり、その目的に到達すべき経路は数多あるということなのでしょう。そして、人生の目的を設定することに欠かせないのが信念であると自身は考えています。人生の目的とは、信念を貫いた結果であり、それこそが真なる夢であると。
引用させて頂いた植松努氏は、飛行機やロケットが大好きでその開発をされているようですが、その真の目的は、「『どうせ無理』という言葉をこの世からなくすこと」※3なのだそうです。であれば、植松氏の真なる夢はロケット開発ではなく、その様な社会を構築することこそがその信念であり真なる夢であると言えるでしょう。例えば、売れる本を書きたい小説家の真なる夢は、本をたくさん売ることではなく、その本を読んでくれた多くの人々に伝えたい何かがあるからではないでしょうか。また、企業家の真なる夢は、起業することや会社を大きくすることではなく、その実践を通して社会に貢献したい何かがあるからなのでしょう。金儲けだけを真なる目的として、活動しているのではなく、芸術を通じて伝えたい何かがあるからこそアーティストは活動を重ねているのではないでしょうか。もちろん、そうではない事例が数多あることは周知の事実です。数多あるばかりか、多くは「手段」と「夢」を本末転倒の如く取り違えた実践が主流であり、如上の信念及び真なる夢に基づいた実践の方が遥かに例外的存在であることも理解している所です。
しかし、人生における成功とはそんなものでは無いはずです。
私たちは「手段」と「夢」をはき違えてはいけません。信念たる夢をもって、それこそを中心に据えて実践を重ねる必要があります。以前NHKのある番組で、科学者たちが、科学者は科学技術の革新を行うことこそがその使命であり、その発展された技術をどのように活用するのかは社会に委ねるべきだと語っていたことがあります。自身は、その無責任さと、信念の無さに驚愕しながらその話を聞いていました。原子力技術は将来社会にどのような影響を与えるのか。その未来構想を描きながら開発されたのでしょうか。遺伝子組み換え作物技術やクローン技術なども、それが社会にどのような影響を与えて行くのかまで、知識人としての信念を持って開発が進められたのかは甚だ疑問に思うところです。
世界初の科学技術の開発をすればそれが人生における成功なのでしょうか。私にはそうは思えません。自身の正しいと信じる道を探りながら、それを信じて進む人生を送っているのか如何にそれはよるのではないでしょうか。確たる信念を有して、それを抱き生きることこそが、人生における唯一成功への第一歩である気がしてなりません。
しかし、と自身は考えます。また、植松氏の著書を拝読してその思いは確信に変わっても行きました。私の経験則で言えば、自身の信念や目的を持つこと。それは、日々の生活の中で、自身が感じたこと考えたことに耳を傾けることから始まると考えています。そのためには、周囲の「常識」や「普通」を黙殺し、自身と向き合うことからその断片を知ることが出来るのではないでしょうか。そして、自身の思いや考えを持って、日々の生活及び社会情勢を捉えたとき、自身を含めた社会の課題を認識することができる。それが、問題意識となり、それが信念を構成していくように思われます。
しかしながら、現在の教育は、自身の考えや気づきを大切にしない、言わば記憶をインプットしアウトプットすることに焦点化した詰込み型の代物となっています。真なる教育とは、自身の思いや考えを形成した上で、自身を含めた全ての他者の幸福のために考え行動できる人材を育てることにあると自身は考えます。多少の犠牲はやむを得ないのではなく、多少の犠牲も許さない。あらゆるすべての人々の幸福をめざし、粘り強く諦めずに知恵を絞ることが学問であり、それを伝えることが教育ではないかと思うのです。しかし、現下における我が国の教育制度は、単に記憶を正確にインプット・アウトプットする能力だけをその評価の指標に据えて、「エリート」と「落ちこぼれ」を選別していると言えます。人の能力を測る物差しは、数え切れない程あるにもかかわらず、如上の指標のみで子どもたちの能力を測り、そこで成績優秀な子どもたちが一流大学に入学し、一流企業に就職していく。しかし、彼らは、記憶のインプットとアウトプットにおいてのみその能力が証明されているに過ぎず、その他の能力例えば、討論力や独創性・創造性が必ずしも高いとは言えないのが現状ではないでしょうか。私の経験則では、エリートと言われる人たちの特徴として、特に独創性や創造性が希薄化していると実感しております。恐らく、適切な選択肢を選ぶ“選球眼”を鍛える勉強方法では、例えば、自らが新たな選択肢を創造することをそれが阻害しているのではないかと自身は考えております。となりますと、人生の成功において最も重要であると思われる信念の形成は、エリート諸氏にこそ難しい状況にあると言えるのではないでしょうか。その意において、人々が人生において成功する最も大きな障壁は我が国の教育制度にあるとも言えます。
植松氏の体験談はまさにそのことを物語っています。「この本(紙飛行機集)には、紙飛行機は本物の飛行機と同じ理論で飛んでいるから、紙飛行機の設計ができるようになったら本物の飛行機の設計ができると書いてありました。僕はもうそれに夢中になってしまいました。たくさんの計算式が出ていました。それはとても小学校三年生の筆算で解けるものではありませんでした。でも、家には電卓があったので、電卓を使いこなしたら計算できるようになりました。いつの間にか僕は、図鑑を開いてこの飛行機を飛ばしたいと思ったら、それを形にして飛ばすことができるようになっていました。でも、そのかわり筆算の能力は完全に失ってしまいました。だから、小学校の算数のテストはほぼ0点になってしまいます。でも、クラスの友だちは『紙飛行機のことだったら植松に聞け』と言ってくれました。(中略)ずっとやっていたら、やっぱり中学校でも成績が悪くなり、そして先生からも『おまえはこんなことやっているからダメなんだ』と言われてしまいます。でも、最終的にこれが僕に飛行機やロケットをつくる能力を与えてくれました。無駄なことでは全然ありませんでした(括弧内は中島)」※4。さて、飛行機の設計の計算能力を有する小学校三年生が、学校の算数テストでは0点しか取れない事実をどのように考えれば宜しいか。そして、その社会に役立つであろう真なる勉強をすればするほど、中学校における成績が落ちるという現実を私たちはどう捉えるべきでしょうか。つまり、現在を含めて文部科学省の教育システムは、真なる能力を伸ばすものでは無く、むしろそれを、潰すことにこそその“効能”があるようです。
オープンマインドであらゆることに挑戦することは大切なことです。しかし、そのことと同時に、自身の信念やこだわりといった拠り所も構築しておく必要性を感じます。100人いれば100通りの普通があるように、市井には多様な人々が共生しています。そこで、自身の信念を貫くことのいかに難しいことでしょうか。恐らくは、そこでは妥協点を見出しながらも如何に信念を貫けるのかといった戦略的対応が求められることでしょう。予てから私は、グレーの実践を提唱してきました。敢えて白黒をはっきりさせずに、大局観をもって物事を進めていくことの重要性を考えてのことです。しかし、その際も自身の信念のもとが白なのか黒であるのかをはっきりとさせた上で、グレーの実践に埋没することを説いています。つまり、自身の信念が白であれば、限りなく黒に近いグレーの実践には与することが出来ないということになります。それでも黒に近いグレーの実践に加担するとすれば、それは大局観を持った柔軟性ある実践を通り越して、人生における信念の変節に該当することになります。つまり、人生における成功ではなく、敗北を意味することになるでしょう。その意において、信念とは、多様な人々の集合体としての社会の中にあって、自身の言動の拠り所となる大きな指標ともなり得ます。その指標があればこそ、却って、世の中を上手く立ち回ることが出来る処世術としても有効なものになることでしょう。
若輩は思い考えます。信念なくして人生に成功はない。そして、その信念を構築する阻害要因が、教育制度をはじめとして我が国には数多あり過ぎることを。しかし、その様な状況下であるからこそ、今一度、「普通」や「常識」を度外視した自由な視点で、自身の思いや考えと向き合う営みが最も重要であることを。
※1 J.D.クランボルツ・A.S.レヴィン著 花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳 『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社P.221-222 2012年9月
※2 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.177 2013年1月
※3 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.14 2013年1月
※4 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.14P.73-75 2013年1月
予てより、公私を混同させることこそが最も品位を貶める行為であると認識してきました。細かいところで言えば、公衆の場で、大声で私語を有することや、下の話や、性的な話は勿論忌避してきました。携帯電話の使用においても、食堂・レストラン等の公衆の場においては必ず店外に移動して通話をしています。公の場で、私的な行為を堂々とすることは下品なことであると理解しているからです。その意において、有名人が公にわが子を過保護に扱ったり、自らの権力を行使してわが子に便宜を図るなどは、最も愚劣な行為なのかも知れません。二世いや、三世議員の多く蔓延る政治の世界においてもこれはそっくりと当てはまる事象ではないでしょうか。
と、少し前置きをした上で、それでも本日だけは敢えて私的なお話をさせて頂くことをご宥恕頂ければと思っています。ブログとは、元来「個人の日記」の意が多く含まれていますので、自身にとっての未来からの振り返りにも使えるよう今の思いを記録しておきたいとも思うのです。
本日早朝、祖父・中島正が亡くなりました(享年92)。動機はよくは分かりませんが、長年社会福祉活動に人生を捧げてきた言わば、若輩にとっての先輩でもありました。民生委員活動に始まり、社会福祉法人の運営、特に地域福祉と児童福祉に興味を持っていたようでした。自らの田んぼに土を入れ、地域の広場を作ってまちづくりをしていましたし、子どもたちには自然環境との接点を多分に持たせる関わりをしていたように記憶します。生まれて間もなくから大阪で育った私にとっては特に、祖父の保育所に通ってくる園児たちの逞しさには毎度の様に圧倒させられていました。私が小学生のころ、祖父の下に帰省すれば、必ず決まって保育所に行き山羊・鶏・兎、時には狸もいましたが、の小屋の掃除と餌やりをさせられていました。その当時、保育園児を山羊の下に座らせて口を開けさせ、山羊の乳をそのまま飲ませていたことが思い起こされます。園児はみんな顔中を乳まみれにしながら、楽しそうに飲んでいました。
当時は全く理解できませんでしたが、今であれば如上の行為の大切さを説明することが出来ます。子どもの頃から自然環境に触れることこそが、子どもの発達においては最も重要であること、そして、それは腹を下したり、怪我をする近視眼的な子どものリスクには繋がるものの、中長期で見ればそれは子どもにとって最も大切な行為であることを。自然環境によって生かされていることを忘れ、我が物顔で地球を席捲している人類の在り方とは一線を画して、私たちが自然環境の摂理の中で生きていることを敢えて子どもたちには伝えて行く必要性を感じています。例えば、小動物や昆虫の生態に触れる中で、生きることや死ぬこと、傷つくことが学べるわけですし、自らが他者から生かされている存在であることも無意識の内に理解することが出来る様になるはずです。私たちは自然環境の中で、宇宙の摂理を学んでいるのです。その重要な機会を子どもたちから簒奪する権利を私たちは有していないはずです。
そして、例えば感染予防と言う名のもので、徹底的に消毒が施行され、“無菌”状態に近い環境下で育つことが、子どもにとっての中長期的なリスクにそれが繋がることも私たちは忘れている様に思われます。風邪をひかない・腹を下さない・怪我をしないことは、本当に子どもにとってのリスク回避になるのでしょうか。この様な馬鹿げた質問をしなければならない現状は、いったい誰のために成されているのでしょう。つまり、誰にとってのリスク回避を考えての行為なのか。言わずもがな、それはオトナにとってのリスクでしかなく、子どもにとってはむしろ、無用な消毒を極力控えた状況で、多くの菌を有する自然環境との接点を多分に設けることこそが、人生における一番のリスク回避となることでしょう。
よく言えば、“器”が大きい受容力のある祖父でしたので、敵は少なく味方の多い人生であったように思われます。私はその所が少し違っていて、「yes」と受容できる社会を構築するためには、「no」と言わなければならないことがあると理解していますし、その行為によって民主主義社会は辛うじて保たれていくであろうと信じている者の一人です。しかし、生まれ持った気質的には、祖父の様な生き方が向いているのかも知れません。
最後に、やはり人生は短いと思います。実は、自身は公の場における活動において、真なる思いは約3割程度しか披瀝をしておりません。それは、冒頭の公私混同に対する思いや、自身の年齢が若輩であったこととも関連します。しかし、祖父の死を前に、それを漸次5割程度までは吐露して行こうと考えています。自身も所詮いつかは死にます。その日を前に、言い残したことが数多あっては、その人生に決して満足できるものではありません。もう少し、思いの丈を今まで以上に吐露して行きます。
祖父のおかげで、今この仕事に就くことが、誇りを有することができ、斯様に偉そうなことを叙述することが出来ていることは紛いもない事実であります。公私混同の謗りを敢えて受けつつも、この場をお借りして亡き祖父に感謝の意を捧げたいと思います。合掌。
旧日本軍の『慰安婦』制度にかかる橋下徹氏(日本維新の会共同代表・大阪市長)の一連の発言問題。当初の発言に対して橋本氏は、「戦場の性の問題は、旧日本軍だけが抱えた問題ではありません。『戦時においては』『世界各国の軍が』女性を必要としていたのではないかと発言したところ、『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報されてしまいました」と、あれはメディアの「誤報」であったと断じました※1。同じく『沖縄タイムス』の社説では以下の行が見受けられます。
「橋下発言の引き金になったのは歴史認識をめぐる安倍晋三首相の一連の発言である。
安倍首相はこの際、旧日本軍の関与と強制性を認めた1993年の『河野談話』に対する考えをあらためて国民に明らかにすべきである。
橋下氏が共同代表を務める日本維新の会の国会議員らからは元『慰安婦』に対する暴言がやまない。
来日中の韓国人の元『慰安婦』2人が橋下氏との面談を政治利用されることを懸念して取りやめた。中山成彬代議士会長はツイッターで『化けの皮が剥がれるところだったのに残念』と書き込んだ。
平沼赳夫代表代行は講演で『従軍慰安婦と言われている人たちは「戦地売春婦」だ』と述べた。
西村真悟衆院議員(除名処分)は『日本には韓国人の売春婦がうようよいる』と発言した。
共同代表の石原慎太郎氏は『橋下氏は間違ったことは言っていない』といち早く擁護に回った。
聞くに堪えないような言葉が党幹部の口から次々に飛び出す。人権感覚、国際感覚が欠けていると言わざるを得ない」※1。
皆さんは、如上の政治家諸氏の発言について、どう思われるでしょうか。これらは、単なる誤報・失言がその要因としてあるとは私には思えません。一体何が本質的な問題なのか。意見は様々あることでしょう。彼らの特徴としては、常にその信条に愛国心を掲げていることがその共通項としてあるようです。しかし、私にも愛国心や愛民族心がありますが、このような発言は容認しがたい訳です。では、一体どこに本質的問題が潜んでいるのか。
要するに「愛」の捉え方そのものに誤認があるのではないでしょうか。「愛する」とは、辞書などによれば「かけがえのないものとしてそれを心から大切にする」とあります。例えば、皆さんの会社に「愛社」精神旺盛な社員の方々がいて、その人たちがライバル企業に対してその人権を蹂躙するに相応しいほどの言論攻撃を公衆の面前で仕掛けたとしたらどう思われるでしょうか。それは、本当に会社を「愛する」言動なのか、疑わしく思うことでしょう。結果論から言えば、それはむしろ逆ではないでしょうか。つまり、会社の恥を世間に晒していることになる。
よって、「愛社」精神を対外に主張するには、自社の利益だけに先鋭化した言動ではなく、多くの他社の利益にも慮った言動を発することこそが最も有効であると言えます。つまり、我が物顔で仕事をするのではなく、社会全体の利益、即ち真の公益を念頭に置きながら行動できる社員こそが真の愛社精神を有していると言えるのでしょう。
「愛する」その言動が、独りよがりなものであればあるほど、それは、本来の意味とは逆に機能することになり、他者への尊敬の念を持つことによってこそ、本来の意味たる実践が出来るようになるということなのでしょう。
これら一連の無恥なる発言を契機に、「愛する」ことについて、少し照れくささはあるものの、考えてみるこれは丁度良い機会になるのではないでしょうか。
※1 「社説[橋下氏会見]『不快感』だけが残った」『沖縄タイムス』2013年5月28日
今から表記する内容は、大時代だと世間からは失笑を買うものかも知れません。しかし、私が屍になり、そしてその更に後世においては理解される話であってもらいたいとの淡い期待をもって叙述しておきたいと思います。
まず本日の朝日新聞の紙面から以下の部分を引用しておきます。「政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大総長)は22日、海外で働ける『グローバル人材』の育成を目指した第3次提言をまとめた。小学校での英語教育の強化▽外国語教育を充実させた指定高校づくり▽大学での外国人教員の積極採用――など。月内に安倍晋三首相に手渡す。(中略)小学校では、英語を正式な『教科』にしたり、現在は5〜6年生の実施学年を前倒ししたりする拡充策を提案。下村博文文部科学相は会議後、授業時数や教員の確保策、学習指導要領の改訂などについて中央教育審議会や省内で検討を始める考えを示した」※1。
なるほど。小学校4年生からのイギリス語教育を本格始動させようと言うのですね。若輩は、大きく次の3点においてその導入に真っ向から反駁しておきたいと思います。
まず一点目は、「グローバル人材」の本質とは何かを問うべきではないでしょうか。そもそもグローバル【global】とは直訳すれば、「世界規模である様・包括的な様」のことを言うのでしょう。その際の「世界規模」とは本来であれば、言わずもがなまさしく全世界・世界中のことを指すことは小学生にも理解できることではないでしょうか。ではなぜ、イギリス語=世界と言う考えに発展するのか理解に苦しみます。世界と言えば、我が国の所属するアジア地域をはじめ、アフリカやラテンアメリカもその世界の中に含まれるはずです。また、以前からの文部科学省の方針によれば、イギリス語教育は国際理解に繋がると言われて来ましたが、それも同様に反駁されるべきことでしょう。なぜ、イギリス語を理解すれば国際理解をすることにそれが繋がるのでしょうか。中国語や韓国語を学ぶことは国際理解に繋がらないのでしょうか。
二点目は、愛民族心・愛国心に繋がる重要な問題にあります。言語は文化であることは言われ続けている事です。いみじくも、若輩も現在仕事上の目的を有してイギリス語会話を毎日の様に聞いていますが、会話の内容そのものに西洋文化が鏤められています。日本語に訳しても、日本人であればまずもってこんな物の言い方はしない受け応えの場面が散見するのです。この今こそ、日本文化に触れ学ぶべきライフサイクル期において、西洋文化とその言語を学ぶ小学生が増えることによって、日本語とその文化はきっと近いうちに崩壊の憂き目にあうと断言できます。その様にして、我が国のアイヌ語を含めた世界中の言語は喪失されていったのですから。
三点目では、世界中における言語と文化の画一化が急速に進んでいることに対する警鐘の意を表しておきます。画一化とは、主流の言語と文化が、非主流のそれを駆逐することによって進められていることを意図しますから、これは、非主流言語と文化の排他・排斥状況を意味します。言語学を学んだわけではない素人の発言ですので、ここでは次の2点を引用しておきたいと思います。
「現在、英語の国際的地位により、日本語は英語と対等な地位になく、日米コミュニケーションは『英語支配』です。言語の不平等は、両国の不平等な関係につながっており、『対等なパートナーシップ』の障害になっています。『英語支配』では日本の考えは十分に伝わりませんし、母語を使う『言語権』も奪われています。また、日本国民が熱心に英語を学んでいるのとは対照的に、アメリカ政府・国民は英語の上にあぐらをかいて、『日本語が障壁だ』とさえいうほど傲慢です。これでは、相互理解は不可能です」※2。
如上にあるアメリカと我が国の関係。これは明白な差別関係であると若輩は認識します。また、これは「言語権」という我が国の権利侵害であるとのご指摘ではないでしょうか。わが国の政府は、自ら喜んでこの「言語権」を放棄しようと言うのでしょうか。
「R. フィリプソンは、『言語帝国主義、あるいは言語一極集中状況』という書物の中で、英語国を『中心国』と『周辺国』の二つのグループに分けて論じている。いうまでもないことだが、英米両国は前者に属する。アジア・アフリカ(そして日本も)後者だ。中心と周縁の関係は、フィリプソンのことばを使うと『非相称的、非対称的』である。つまり、両者の関係は、支配と被支配の関係で、相互性はない。それは資源・情報・(科学)技術など、現代社会のシステム(あるいは世界秩序)を維持していく基本的構成要素が中心国によって支配あるいは独占されていくことを意味する」※3。
言語帝国主義という言語間における如上の差別構造を等閑に付して、無関心のまま十代の頃より私はイギリス語を学ぶ気になれませんでした。今ようやくこの歳になり、西洋圏で仕事をする可能性が生じてきた為必要に迫られて初めてイギリス語を学んでいるのです。しかし、この歳からでも十分にイギリス語を一定程度は学ぶことが可能なはずです。だからこそ、学んでいるのですが…。なぜなら、私は「一定程度」つまり、会話が困らない程度に出来ればそれで良いと考えているからです。それ以上の特殊性のある専門性の高い話や、綿密な会話が必要な際は通訳を使えば宜しいと考えます。幼いころからイギリス語を学べば、通訳など使わずとも十二分に会話が成立するようになると言われる方もいらっしゃることでしょう。それでは例えば、私たちはどれだけ十分に日本語を用いる事が出来ているのでしょうか。よく私のブログを読んで、分からない漢字や日本語があるとのご指摘を受けることがあります。そして、書いている私ですら、まだまだ未知なる日本語が存在するのです。その様な状況下において、幼年期からイギリス語を学んだとしても、私たちの日本語同様に所詮限界はあるはずです。研究者や通訳・翻訳者等の特殊な職業人を除いて、その限界に挑戦するために多くの労力と歳月を用いる事は馬鹿げていると自身は考えています。何度も申します通り、大切なのは話す中身にあるのですから。幾ら流暢な日本語を話せたとしても、内容の無いことをペラペラしゃべられてもそこから多くのことは学べません。それと一緒で、他国・他民族の人々が思わず耳を傾けたくなる話すべき内容こそを研鑽して積み上げて行く必要があります。そのことにこそ、時間と労力を割いた方が必ずや素敵な人生を全うすることが出来るのではないでしょうか。
斯様に、小学校のイギリス語教育の本格的導入は、少数派の排他排斥を奨励するものであり、そして我が国の国益を大きく損ねるものであると断言できます。愛民族者及び愛国者である私の立場から言えば、これは看過できない体たらくではないでしょうか。
そして、小学校教育において最も大切なことは、国際社会で馬鹿にされないための、理論的思考力を高める事ことが求められており、その教材として、なぜこのような言語帝国主義の状況があるのかを教えることこそが真なる国際理解に繋がるのではないかと考えます。
※1 『朝日新聞』2013年5月23日
※2 津田幸男「私の視点 『日米言語協定』の締結を」『朝日新聞』2002年1月5日
※3 中村敬「この国を『米国ニホン州』にしないために」『週刊金曜日』1997年2月7日