衆議院解散後、津々浦々で激しい選挙戦が繰り広げられています。この度の衆議院選は、12月4日公示、同16日の投票。違憲状態とされている衆議院「1票の格差」は是正されぬまま、この度は今の区割りで実施されるのだとか。
細かな点を鑑みれば際限がありませんが、この度の選挙に関して、大きく2つのことを今考えています。
第一に、「全ての国民を守る」視点がそこにあるのか否か。ここでは特に「全ての」の部分に拘りたいと考えます。政治の存在意義とは、自助努力では自身の生活を守れない人々を守ることにあると自身は信じています。経済・競争至上主義の現下の社会において、自助によって十分に自身の生活を守ることが出来ている人々ではなく、むしろそうではない人々に焦点を当てた実践が求められているのだとそれを信念として持っているわけです。それが出来なければ、政治は要らないと。であれば、医療・福祉等の社会保障は、その大きな切り札となるはずですから、そこを抑制・減退させることは政党・政治家としてはあり得ない提言であると認識致します。この視点で見れば、選挙前に合従連衡の如く政党が再編されているようですが、明らかに大きく二つに仕分けをすることが可能となります。福祉専門職としては、どちらに投票行動を起こすべきかは然程難しくは無いはずです。
因みに、野党第一党の政権公約をホームページで拝見いたしました。「生活保護制度については、真に必要な人に生活保護が行きわたるとともに、納税者の理解の得られる公正な制度に改善し、国民の信頼と安心感を取り戻します。そのため、自助努力による生計の維持ができない者に対する措置ということを原点に、不正受給への厳格な対処とともに、生活保護水準や医療費扶助の適正化、自治体における現金給付と現物給付の選択的実施、自立や就労の促進など必要な見直しを早急に実施します。生活保護水準については、勤労者の所得水準、物価、年金とのバランスを踏まえ、生活保護の給付水準を10%引き下げます」。
不正受給の取り締まりを強化するあまり、この生活保護制度の本質を見失っている様にも見受けられます。いや、不正受給を理由にこの制度を骨抜きにする狙いがあるのではと疑ってみたりもします。この「政権公約」は、「(案)」と付記されていますので、公示までの間に書き換えられることを切に願います。
二つ目は、投票行動の基本は、消去法であるとの見解です。よく、今がもうドン底だから、これ以上は悪くはならないだろうという言葉が聞かれますが、そんなことは断じてないと思っています。民主党政権においてもそこには功罪の功もあったはずです。誠に残念なのは、政権交代を果した理由の第一義たるマニフェストを反故にしたことでしょう。当時の民主党のマニフェストからは、確かに「全ての国民を守る」気概が読み取れました。しかし、現民主党のマニフェストは27日に発表されるそうですが、内容を聞かずともそこからは大きく乖離したものとなるでしょう。
ここで申し上げたいことは、今よりも更に悪化することを前提に、支持政党及び候補者を考えるべきだということです。ベストではなくベターで選択するという見解もよく耳にしますが、ベストもベターも中々見当たらないのが今の政治ではないでしょうか。であれば、もう少し現実的に、これ以上悪化させないためにどの政党及び候補者を支持するべきかとの視点も重要です。
その際のこの「悪化」の指標は、先ほどから申し上げております。自助では、自身の生活を十分に守ることが出来ない人々を守ろうとしているか否かにあります。エンパワメントやストレングスモデルの視点で考えれば、「守る」という表現は受動的で適切ではないとのご指摘もあるかも知れませんが、福祉専門職としてではなく、政治の役割としてはまさに「守る」べきだと認識しています。極論、それすら出来ない、しないのであれば、この世は全て自由競争で良いわけで、政治も行政も不在に等しいわけですから、その存在意義すら疑わざるを得ません。
ソーシャルワークのmissionとも言われている権利擁護。そこには大きく二つのことが言われています。端的に申し上げますと、�仝⇒�侵害から守ること、そして、防ぐこと、�⊆�己決定を最大限尊重することです。これらは多く専門書にも、教科書にも書かれていることです。しかし、最も大事な事は、社会変革にあります。そうです。ソーシャルアクション。自助で自らの生活を守ることが出来ない人々の、�,鉢△鮃圓Δ燭瓩砲蓮△修陵佑兵匆餞超�を整える必要があるはずです。そのためには、ソーシャルアクション及び結果としての社会変革が成されなければ、権利擁護は画餅に帰してしまうのではないでしょうか。こんなことは、小学生でも真剣に考えれば分かる事です。でも、パーソンセンタードケアの書物にもそのようなことは残念ながら書かれていません。私は、ここにケアワークの限界があると認識しています。これからのケアワークには、地域包括ケアが求められている訳ですから、そこにはソーシャルワークの視点がやはり必要になるものと思われます。
少し本論から逸れてしまいましたが、これから10年かけて、私たち福祉専門職は倍増することになります。労働者人口が倍増すると言うことは、選挙権も倍増する訳です。今後ますます私たちは力を有するようになります。その有する力を誰のために使うべきなのか。今から10年先を視野に入れながら今まさに熟慮するべきです。自助では自らの生活を守れない人々の一番近くにいる私たちが、その代弁者として声をあげるべき時が近付いている、そのような思いを胸に今これを書いています。
「強い日本、豊かな日本をつくっていくことが私に課せられた使命」。野党第一党の党首が語ります。愛国心や愛民族心を自負する私です。言葉の意味において、それは異論のないところです。問題なのは、その内実にあるようです。
さて、「強い」そして「豊か」な国とは、どのような社会構造を有するものでしょうか。今朝目にした朝刊には「男女の平等、日本101位に下落」の記事がありました。ダボス会議を主催する世界経済フォーラムが、政治・経済・健康・教育の4分野で評価したものですが、我が国は135か国中101位に位置付けられているらしい。特に、女性の議員や企業幹部が少なく、政治の項目では110位であったとあります※1。この様な不名誉な烙印を押され、若輩の愛国心は満身創痍の思いに駆られてしまいます。権力の中枢にいらっしゃる政治家諸氏もきっと同じ思いであることでしょう。
また、過日見かけた記事には、「富裕層:日本360万人で世界2位 スイスの金融大手発表」の文字が。「スイスの金融大手クレディ・スイスが22日発表した12年の世界の富裕層件数ランキングによると、純資産100万ドル(約8000万円)以上を持つ富裕層件は日本に約360万人おり、米国に次いで2位だった。前年より約8万3000人増え、17年には540万人に拡大すると予測している」※2らしい。普遍的経済状況は衰退し、若者は就職難に喘ぎ、生活保護受給者は年々増加、自殺者や孤独死の絶えない我が国において、富裕層は増加の一途を辿っています。また、今後もさらに増え続けるであろうと推計されているのです。個人の所得格差は年々増加し、いわゆる勝ち組は“勝ち”続け、負け組は“負け”た後の支援も希薄な中、更に転落を強いられるという構造。そこに、格差を増長する逆進性の強い消費税が導入されるわけです。そして、更にフェアでないのは、勝ち組が“勝つ”理由が個人の資質や能力によるものだけではないことであり、また負け組が“負け”る理由も同様である点にあります。もちろん、資本主義社会の力学の中にあって、全ての人が“勝つ”ことなどありえないことやも知れません。であればこそ、勝ち組は時代の趨勢や社会構造の中で優位に立ち振る舞った結果、“勝って”いる訳ですから、その利益を社会に還元することが大前提として必要になろうかと思います。年収3億円の経営者と、年収300万円のサラリーマンに、収入格差ほどの能力格差があるとは私には到底思えません。であれば、年収3億円の高額所得者は、より多くの納税を積極的に実施してこそ、その利益が社会的に認められると考えるべきものでしょう。それが、累進課税の考えであり、税の基本的な考え方であると若輩は認識しています。勝ち組と負け組が生れること自体は、現下の社会では仕方の無い事かも知れません。しかし、その代わりに、“勝った側”は、時代の趨勢に助けられて“勝った”のであって、“負けた”側を支援する義務が生じるのです。その為に、より多くを社会に還元すべきであり、それが、格差を是正し、結果“勝った”側にとっても暮らしやすい社会構築に繋がるものと理解できます。
冒頭の女性に対する課題や、沖縄や岩国の問題、そして、原発事故に曝された福島の問題。これらの問題は全て、女性の問題でも、沖縄の問題でも、福島の問題でもなく、我が国における問題であるはずです。いや、むしろ、当事者(「被害者」)以外の、その状況を構築している人々こそが取り組むべき問題であるとも言えます。私の考える「強い」そして、「豊かな」日本とは、如上の人々をしっかりと支えることが出来る国体を指すと認識しております。いつも吐露させて頂いております通り、真に成熟した社会とは、多少の犠牲も許さない社会であり、全ての人々が幸せに暮らせることを目指して作られている社会と言えます。その為に行うのが、学問であり、教育、そして政治であると強く理解をしているところです。
またタイトルで「犠牲」と書かずに「被害」と書いているのは、今まさに「犠牲」になっている人々は、自ら好んで身を挺している訳では全くなく、それを強いているのは当事者(「被害者」)以外の人々でありその人々から見れば「犠牲」という表現がしっくりと来るのかも知れませんが、当事者視点から言えばこれは明らかに「被害」以外の何ものでもない訳です。斯様に、視点が変われば、物事の捉え方も合わせて変じることは、成熟した社会の構築において理解しておくべき大切な視点となるでしょう。
多様な価値観を認め、誰かを排他・排斥することなく、誰かを蹴落とすことなく、多少の「犠牲」も許さない社会を目指していくこと、その営みが根強く担保されている国こそが、「強く」そして、「豊かな」他国に誇り得る国であると言えます。またそのような国こそが、世界のリーダーたり得ると私は強く認識します。
この度は久しぶりに、私なりの愛国心・愛民族心を吐露させて頂きましたが、今朝の「天声人語」の冒頭の行を最後に引用しておきましょう。
「『知るものは言わず、言うものは知らず』という。物事を深く理解する人は軽々に語らない、との戒めだ」※1。つまり、愛国心や愛民族心を日々声高に言わない人々の心にも、その思いは存在するし、その逆もまた然りであると言うことでしょう。
※1 2012年10月25日『朝日新聞』
※2 2012年10月22日『毎日新聞』
「今ほど息苦しく、世知辛い社会情勢は未だ嘗てない。だからこそ、人々に『笑い』が必要なんだ!」。出張先の東京で一人昼食をとっていると、他のテーブルから繰り返し聞こえてきました。話を聞いていると、どうもテレビ会社の番組制作にかかるお話の様です。世相を捉えることがその仕事であるテレビ会社でお勤めの方のご発言。やっぱりそうなのか、と改めて感慨深く思い始めました。
生まれた病院は広島ですが、間違いなく私は大阪で育ちました。生後間もない時期から、27歳まで大阪で暮らし育ちましたので、大阪文化の影響を多分に受けて現在の生き方が構築されていると言えます。15年ほど前に比べると大阪の様相も随分と変わりました。キタもミナミも更に高層ビル化が進み、今も尚発展途上の「進化」を遂げているように見受けられます。しかし、それでも、東京の目覚ましい「進化」には追いつくどころか、ますます突き放されているようにも見受けられます。なぜなら、15年ほど前は大阪の人間が東京に行っても今ほどの格差を感じなかったからです。それほど、東京は一極集中して巨大化を果たしていると言えそうです。
我が故郷広島県福山市はどうでしょうか。市町村合併を繰り返し肥大化してきた人口47万の中核市は今や停滞の一途を辿っています。今後大きな「進化」などまず望めますまい。当法人が事業所を開設させて頂いている島嶼部広島県江田島市はどうでしょうか。人口2万7千のこの基礎自治体では、負債が膨らみ、労働者人口の流出が顕著な状況で、「進化」の真逆の「退化」の一途を辿っているように見受けられます。
まちづくりにおいても、基礎自治体の自己責任論を宛がおうとしているのかも知れませんが、如上の自治体格差は、必ずしもそれぞれの基礎自治体の責任ではないように思われます。つまり、大都市に有利な社会政策が根本的な要因としてあるわけです。財力の乏しい基礎自治体に十分に手厚い配分を行わず、その結果として、地域格差が広がっているように思われます。
もちろんこれは、個人における格差にも全く同じことが言えるわけです。大企業の内部留保金は年々増大し、高額所得者も同様に増加を続けている一方、年収250万円以下の人々が増え続ける社会。個人においても、そして自治体間においても格差が急速に広がっています。
もちろん、「進化」と鍵カッコを付けている意味はお分かりでしょう。それが人類にとって、人々の生活にとって真なる進化となっているのかは甚だ疑問であるという意を含んでのことです。「退化」の意味も同様に。狭い地上に敷地いっぱいに高層ビルが立ち並び、地下にも同様に街が広がるこの空間を、豊かな空間として見ることが出来ないのは私だけでしょうか。私には、江田島市の空と海とそして、人々の関わりの方がより豊かに思えてなりません。
地域や組織、そして個人間で、いま急速に格差が広がっているのです。その帰結として、冒頭のテレビ局の方のご発言が生れているのだと私は考えます。帰りの新幹線の車中、如上の事を考え今これを打っています。車窓からは、我が故郷広島のまちが見えてきました。
あれだけ事故の危険性が高いとされるオスプレイが、我が国沖縄の普天間基地に配備されました。「米新型輸送機オスプレイの配備を前に、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の周辺では9月30日も、配備に反対する市民と沖縄県警がにらみ合った。市民がゲート4カ所を封鎖していたが、機動隊はこのうち2カ所で門をふさぐ車や座り込む市民を強制排除した。
県警が最初に実力行使に踏み切ったのは、基地西側の通称『大山ゲート』。市民が28日から路上に座り込み、29日に車12台を門の前に並べていた。
30日午後1時前、100人余が座り込むゲート前に、盾を持った機動隊員約100人が横一列に整列した。『ただちに移動しなさい。従わない場合、強制的に排除します』と警告し、排除を開始。『やめろ』『同じ沖縄県民だろう』と訴える市民を数人がかりで担ぎ出した」※1。
アメリカにおいては、斯様な住宅密集地で飛行を許可していない危険な代物が、我が国の領土で飛行を続けています。恐らく普遍的な論理としては、「国益のためには多少の犠牲はやむを得ない」との思想が根底にあるものと思われます。また、この場合は、「犠牲」というよりも、「被害」と言った方が現実には即しているようにも思われます。
政治に関しては全くの素人の私ではありますが、この沖縄県民の姿と、原発被害を受けている福島の人々、そして、私たちが支援をさせて頂いているクライエント姿が被って見えるのは私だけでしょうか。
素人の私には、右や左の定義がよく分かりません。しかし、素人ながらも、今ほど革新や保守の定義が曖昧模糊としている時代は無いものと認識しているところです。であれば、右も左も本来の機能を果していないのが我が国の政治状況であると思っております。
「国益のための一部の犠牲」。これって本当なのでしょうか。そもそも、国益とは何か?古い辞書には書かれていませんでしたが、昨今の辞書には明記されているこの言葉。国益、「国家の利益」※2、とあります。では国家、「1 くに。2 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる」※3。つまり、どうにでも捉えることが出来る便利な言葉の様です。若輩は考えます。国益とは、即ち、「全ての国民の利益」であると。
如上の定義に異論の無い方にお尋ねしたいと思います。沖縄県民や福島県民、そして私たちの支援をさせて頂いているクライエントは国民ではないのでしょうか。このような酷い状況を、私たち福祉専門職はソーシャルエクスクルージョンと言っています。つまり、少数派や弱者が切り捨てられている、排他・排斥されている状況を言うのですが、クライエントのみならず、沖縄や福島県民もまさにその状況にあると言えないでしょうか。つまり、沖縄県民や福島県民も私たち福祉専門職のクライエントになり得るのではないかと感じずにはいられません。なぜならば、私たち福祉専門職は、ソーシャルインクルージョンを目指して、社会変革を実践する専門職だからです。
誰かが排他・排斥されている社会では、誰もがその立場に置かれる可能性を有する社会であると言えます。事実、皆様の地域でも、オスプレイが飛ぶことだって、原発の建設計画が始まることもあり得るのです。私たち福祉専門職は、誰かを排除する仕組みそのものを問題にしなければなりません。
一部の犠牲、いや被害を容認し、強要する社会は、常に誰かをエクスクルージョンして成り立つ社会と言えます。このような社会が、国益を生み出すことなどありますまい。「情けは人の為ならず」と言います。私益と公益は必ずどこかで繋がっているものです。国益を、全国民の利益と捉えて鑑みたとき、誰かの被害は、巡り巡って必ずや皆さんの所へ到達するはずです。
※1 『朝日新聞』2012年10月1日
※2 『デジタル大辞泉』
※3 『デジタル大辞泉』
地元福山市の依頼を受けて「男性のための介護セミナー」の講師をさせて頂きました。先月終わりから今月頭にかけての2週連続の講座です。「男性のための…」つまり男性だけを対象にした非常に珍しいセミナーでした。主催は福山市男女共同参画センターですので、その意図を踏まえて講義に臨みました。本セミナーを担当させて頂くにあたって多くの気づきと学びがありましたので、ここで少し叙述しておきたいと思います。
男性介護者の現状
在宅介護者の特徴として言われ続けているのは高齢化の問題です。老老介護は今や普遍化しつつあり、そこに認知症の方が認知症の方を介護する「認認介護」の問題が生じています。在宅介護者の内、70歳以上の占める割合は3割を超えていると言われています※1。そこに、男性介護者の問題が加わってくるわけです。NHKによれば、「ケアメン」は全国で120万人に迫ると言われています。そこでは、在宅介護者の3人に1人は男性であるとのデーターが示されています※2。つまり、在宅介護者の高齢化と同時に、男性化が顕著に進んでいるとの認識が必要なのです。我らが福山市の人口をもとに単純に按分すると、約4,400人の男性介護者が市内に在住している計算になります。
「イクメン」も「ケアメン」もどうやら広島県が発祥の地だそうですが、そもそも、なぜに特殊なこととして固有名詞化する必要があるのでしょうか。穿った見方をさせてもらえば、それだけ介護も育児も女性に押し付けてきた社会構造が未だ普遍化していることの現れであると言えるのかも知れません。「イクウーマン」や「ケアウーマン」とは言わないでしょう。それは、至極当たり前のことであって、であれば特に固有名詞化する必要がないということです。そこに、育児・介護・家事は女性が担うべきであるというジェンダーが存在することが見て取れます。
※1 「家族間で介護する世帯のうち、高齢者が高齢者を世話する70歳以上の「老老介護」世帯の割合が初めて3割を超えたことが、厚生労働省が9日公表した07年国民生活基礎調査で分かった」。 毎日新聞 2008年9月9日
※2 NHKニュース おはよう日本 2012年6月25日(月)
男性介護者の課題
本セミナーは平日の日中に開催されました。地元のブロック紙でも取り上げられましたが、参加者数は思ったより伸びませんでした。男性限定で、日中の昼間ですから参加が難しかったのかも知れませんし、講師の知名度が希薄だったこともあるでしょう。しかし、この様な場に対する参加者が少ないことも男性介護者の特徴であると捉えた文献も見受けられます。2006年の内閣府の調査によれば、「親しい友人がいない男性の単身高齢者は41%と、女性の2倍である。近所づきあいがない男性の単身高齢者は25%、これは女性の3倍以上である」とされています※3。
また、ある調査結果では、「加藤によれば、1998年から2003年までの介護保険導入前後の6年間に起こった介護殺人の件数は198件、死亡者数は201人である。加害・被害の関係をみてゆくと、息子が加害者の場合が最も多く全件数の37.4%、次いで夫が加害者の場合であった(34.3%)。加害者199人中、男性は151人、女性は48人で、男性が加害者の4分の3を占めた」※4とあります。全体で3分の1の男性介護者が、介護殺人の加害者として全体の4分の3を占めているわけですから、いかに男性介護者が加害者になり易いのかが理解されます。2010年度の養護者による虐待の内訳も、加害者は「息子」が42.6%で最も多く、次いで「夫」が16.9%でした※5。また、本文献では、孤独死と自殺の発生率も男性の方がより高いことが示されています※6。
セミナー開始の2週間前いみじくも宇都宮市内で起こった介護殺人の概要は以下の通りでした。
「宇都宮市宮の内のアパートなどで15日夕、50〜60歳代の兄弟3人の遺体が見つかった事件で、自ら首をつって死亡したとみられ、最も重い『要介護5』の障害を持つ2人を介護していた男性は、今年5月末に36年間深夜勤務のトラック運転手として勤務していた運送会社を退職していた。職を失った中、病院、施設への送り迎えや料理、洗濯などをこなし、献身的に介護していた生活実態が浮かび上がってきた。
県警によると、3人はこの部屋に住む宇賀地美知男さん(55)、同市鶴田町、正二さん(67)、同市雀の宮、保夫さん(57)。美知男さんは室内から、正二さんは車内からそれぞれ首を絞められた状態で見つかり、保夫さんはベランダの物干しざおに掛けたロープを室内に引き込み、首をつった状態で死んでいた。司法解剖の結果、死因は3人とも頸(けい)部圧迫による窒息死。
保夫さんが勤めていた運送会社によると、1976年に同社に入社。深夜勤務のドライバーとして働き、近年はグループ長や新人の指導役なども任されていた。しかし、3年ほど前から物損事故を繰り返すようになり、今年5月にも物損事故を起こした。『運転手出来ないな。おれもダメかな』などと、上司に打ち明けたという。結局、事故後『倉庫の作業員でもあれば考えてくれませんか』と配置換えを申し出たが、会社側から『仕事が無い』と告げられ、自ら退職した。上司は『今考えると、頻繁な自己は介護の疲れがあったのかと思う。かなり追いつめられていたんだろう』と声を落とした。
また、関係者らによると、保夫さんは97年、現在住んでいるマンションに引っ越し、しばらくすると母親と正二さんを呼び3人暮らしになったという。ところが99年頃、正二さんが脳梗塞を患った。数年前には母親が死亡し、2010年に正二さんを市内の特別養護老人ホームに入所させたという。
同ホームによると、正二さんには左半身のまひのほか、言語障害があり、高血圧と糖尿病も併発していたという。月1、2回の見舞いには保夫さん以外が来たことはなく、保夫さんは月7、8万円の施設使用料を支払っていた。15日は、午前中に保夫さん『病院に連れて行く』と正二さんを連れ出したが、病院から午後1時過ぎに『まだ来ていない』と問い合わせがあり、携帯に電話しても電源が切られた状態となった。
同じく要介護5の認定を受け、ほぼ寝たきりの状態だった美知男さん宅には、日に3回ヘルパーを頼んでいたが、保夫さんも週末には必ず料理や洗濯、掃除などをしに通っていた。美知男さんのアパートのオーナー男性によると、保夫さんはスーパーの買い物袋などを持って一人で訪れていたという。男性は『家賃の滞納やトラブルも一度もなかった。兄弟も多かったと聞くが、一人で頑張っていたんだろう』と肩を落としていた。
県警は現場の状況などから無理心中の可能性が高いとみて調べを進めている」※7。
この記事を読むだけでもここには次の登場人物(機関)が存在します。ざっと挙げて、職場(運送会社)・特別養護老人ホーム・アパート大家・病院・ホームヘルパー事業所・居宅介護支援事業所ぐらいでしょうか。これらの登場人物はなぜ、加害男性を支援できなかったのか?また、加害男性はなぜ、助けを求めなかったのでしょうか?後悔が残る事件であると認識します。
上野千鶴子氏によれば、介護とは、「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」であり、であればこそ「ケアされる者とケアする者双方の満足を含まなければならない」※8と述べています。介護は行為であるのみならず、そこには関係性が存在するとのことです。狭義で言えば、「介護をする側」と「介護をされる側」の関係でしょうか。つまり、良い介護とは、「介護をされる側」のみならず、「介護をする側」も幸せでなければならないと説きます。であれば、「介護をする側」が幸せになれる介護とは、「介護する側」が誰かに支えられている介護であると言えそうです。介護は一人でするものではない、出来ないことはもはや自明の理となっています。であれば、周囲のサービスや社会資源に支えられなければ良質な介護は成立しないとも言えます。皆さんの周囲には、その様な支えがあるのでしょうか。
※3 津止正敏氏・斎藤真緒氏『男性介護者白書 家族介護者支援への提言』かもがわ出版P. 24 2007年9月
※4 津止正敏氏・斎藤真緒氏『男性介護者白書 家族介護者支援への提言』かもがわ出版P.14 2007年9月
※5 厚労省「平成22年度 高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律に基づく対応状況等に関する調査結果」平成23年12月6日
※6 一人暮らしの高齢者は女性が8割以上と多いが、大阪の泉北ニュータウンでは、2003年から2006年までの孤独死110人中、男性が73人(66%)を占めるという報告。
1998年以降、毎年3万人を超える自殺者人口問題でも男性の課題がある。2005年には、男性の自殺者は2万3540人と、女性の9012人の2.7倍。うつ病の有病率は女性が高いにもかかわらず。
津止正敏氏・斎藤真緒氏『男性介護者白書 家族介護者支援への提言』かもがわ出版P.23 2007年9月
※7 2012年8月17日 読売新聞
※8 上野千鶴子氏『ケアの社会学』太田出版P.39・7 2011年8月
ジェンダー論
今回のセミナーは男女共同参画センターが主催でしたので、ジェンダーという視点を意図して資料を作成し、お話をさせて頂きました。登壇する側が、この際最も学んだ点は次の点にあります。―――我が国の社会一般的にはそれが女性に不利な社会構造になっているが、こと介護においては男性に不利に機能している―――。この世に万能な機能など存在しないのですから、これは当然の帰結であると言えます。そこから見えてくるのは、女性に介護を押し付けてきたしわ寄せが男性に跳ね返ってきているという現象でした。経済至上主義の自由競争社会の中で、ジェンダーは男性に優位に機能してきましたが、そうではない人の人権を守る行為としての介護の分野においては、男性機能はその強みを生かすことが出来ないようです。
やはり、ここで大事になってくるのは、「普通」や「常識」を疑う視点ではないでしょうか。「男はこうあるべきだ」、「女はこうだ」、「介護は素晴らしいものに決まっている」、「介護は身内がやるべきだ」と言った「常識」から解き放たれて、自分自身は個別にどうあるべきかと向き合うことから始めなければ男性介護者の苦悩は軽減しないものと思われます。育児・家事・介護は女性の仕事であると普遍化させることによって、結果としてそれは男性自身の自立をも妨げてきたと言えるのでしょう。
介護においては、望む望まざるとに拘わらず女性が担ってきた歴史と文化があります。よって、女性にadvantageがあると言えます。ある場面で、男性優位な構造をつくることで、ある場面で男性に不利な構造をつくることにそれが繋がることを、男性介護の現場は熱く語っているようにも見受けられました。
ケア論
良質なケアとは、「ケアする側」にとっても幸福感を感じ得るものでなければならない。まさにその通りではありますが、前出の上野氏によれば、そこには「非対称性」が存在すると言われています。
「ケアする側がケア関係から退出するという選択肢をつねに持っているのに対し、ケアされるニーズを持っているケアの受け手は、この関係から退出することができない(退出することは生命の危険を意味する)からである。(中略)
ケアは与え手と受け手の相互行為とはいえ、決して互酬的でも対等な交換でもない。互酬性を持たない交換は、その与え手と受け手とのあいだに債権・債務関係を発生させる。その結果、社会的にはケアの与え手よりも受け手の方が弱者となる。(中略)そのあいだに対等性を担保するのが、契約関係であり、金銭的な報酬である。ケアの有償制は、ケアする側とケアされる側の非対称性の緩和のために必要とされる。」※9。非対称性は同時に非対等性を意味するのだと考えます。この点には強く留意をする必要がありそうです。また、であればこそ、対価を得てそれを業としている専門職に介護を委ねることはやはり悪いことではありません。
※9 上野千鶴子氏『ケアの社会学』太田出版P.63 -64 2011年8月
まとめ
この度は、男性介護者セミナーの講師を仰せつかった際の気づきについて叙述させて頂きました。男性介護者に焦点化した学びを得る機会に恵まれたこと厚く御礼を申し上げたいと思います。と同時に、男性介護者、女性介護者、家族介護者、施設介護者等のカテゴリーに分けて考えることの不毛さも感じずにはいられません。介護者も幸せになることのできる介護が、すなわち良質な介護であるとするならば、そのような施策の充足が必要不可欠であると強く言及しておきたいと思います。上野氏によれば、女性が子育てによって機会損失を被る「ケアペナルティ」の経済的損出は「1億2000万円」※10であるとのことです。私たちは、男性だの女性だの、専門職だのを議論する前に、あらゆる介護者の幸せを一方では提唱すべきでしょう。
税と社会保障の一体改革。ただ単に消費税増税法に骨抜きにされたこの増税が、真なる社会保障の充足に結びつくことは当然の帰結としてあり得ないでしょう。しかし、であっても何とかしなければなりますまい。医療と同様に、福祉・介護も人の生活と命を守る社会構造の重要なファクターであることは言うまでもありません。その支え手を遺棄する社会構造があるとすれば、その構造を作っている人間が誰なのか。その姿が見えていなくては、ソーシャルワーカーとしての社会変革は実現し得ないものと考えます。
※10 上野千鶴子氏『ケアの社会学』太田出版P.63 2011年8月