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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

「私が思う私」考

2012/09/14 20:04:23  社会全般
さあ、これから広島へ移動です。
 東京の白銀高輪で2日間、FFS理論の研修を受講しました。大変多くの示唆と学びが得られたこと深く感謝致しております。

 受講に際して、事前課題として「私が思う私」と題したレポートを提出させられました。実は事前提出を失念しており、慌てて思いのまま書き起こしたものです。人の個性は容易には変わらないのですが、人生において得られた経験や習得した内容によって、その人の生き様は大きく変わるのだそうです。振り返って考えると、私の周囲には常に意味ある経験を与えて下さる他者がいたようです。その方々の御蔭で、今の自分があることを改めて振り返ることが出来ました。

 以下の様に、私は「拡散性」の強い、天邪鬼な個性の持ち主です。しかし、であればこそ、身につけることが出来た視点や理論があります。私の個性を守り、その強みを大切に引き出して下さった多くの方々に感謝をすると共に、誰かにとっても、その様な自分でありたいと思う私です。


 物心がついた時から、人と違ったことをするようになった。小学生の折、授業の開始と終了の起立から着席までの行動をいつもテンポをずらしてやっていた。音楽の笛吹きテストでは、一人だけ真後ろを向いて吹いた為零点を付けられた。他者と同じことをすることに理由がなかったので、同じ行動は極力避けた。と同時に、なぜ人は「普通」であろうとするのか、「常識」に自ら媚びへつらうのか、疑問を持つようになった。
 その様な人間は日本社会には適応しづらく、ご多分に漏れず、排他・排斥の経験を持つ。何も間違ったことをしていないのに、「普通」「常識」といった多数派の価値規範から外れた人間が排除される社会に違和感を覚え、その社会構造を学ぶために専門書を読み漁った。そこで学んだのは、100人いれば100通りの普通があるという自明の理だ。であれば、巷で言われている「普通」や「常識」は大いに偏向した存在であることが理解される。そこに統制されること自体に不毛感を抱いていた。
 その後、私は、「普通」や「常識」から排他・排斥されている方々の側に立った仕事を志した。ソーシャルワーカーという仕事である(それ以前はジャーナリストであるのだが)。ソーシャルワークの要諦は、クライエントの皮膚の内だけに問題点を見出さず、社会システム自身の問題や、社会システムとクライエントとの関係性の問題に着目することにある。いじめの問題もこの様な視点で介入を行う。つまり、被害児童と加害児童の皮膚の内にある問題、そして、家庭・学校・文科省の方針といった社会システムの問題、そして、それぞれの関係性に対してもその実践を行うのである。
 社会構造や価値規範といったマクロ、所属機関や分野、地域といったメゾ、そして個人の皮膚の内にある課題としてのミクロ、それぞれの領域で変化を促進するのがソーシャルワークであると理解している。個人が幸せになるためには、個人の努力のみならず、社会システムの変革が不可欠である。その様なところに拠って立つことに私の面目躍如たるものがあると認識する。
 社会変革はソーシャルワークの重要なテーマであるが、それは容易なことでは無い。少しずつ、身近なところで、小さな変化を促すことが重要であるし、時には多くの妥協が必要である。1を通すために10を妥協する戦略も不可欠だ。また、人それぞれに立場がある故に、時に曖昧に、そして柔軟に立ち振る舞わなければ社会変革は実現し得ない。
 グレーのままでいい。その中で如何に変化を促進することが出来るのか。そのことばかりを考える毎日だ。グレーで行くにせよ、自身の信念は決めて実践する。つまり、白と信念を持てば、その状況でグレーの実践を行うが、限りなく黒に近いグレーには乗れない。その際は、反論し、即座にテーブルを降りるであろう。しかし、曖昧性・柔軟性を重んじてグレーで行くことを重要視しているのである。信念を持ちながらも、柔軟性と曖昧性を抱きながら、緩やかに社会変革が出来るソーシャルワーカーを目指している私である。



柔軟性と曖昧性のあるソーシャルアクションを!

2012/08/21 01:18:18  社会福祉

 昨日まで2日間、東京都内でブランド・マネージャーの研修を受けてきました。平素より福祉経営に携わる中、産業界の経営の在り方に昨今興味を持っての参加でした。福祉経営のフィールドは、市場ではなく準市場であると言われています。よって、市場の荒波に揉まれることの少ない守られた市場であるとの見方が可能です。一方で、どれだけ質の高いサービスを提供してもその報酬に上限設定がある事や、十分な収入額が担保されていない中で、職員の育成や定着を図る事及びサービスの質を高めることは容易ではなく、高い理念をもって当たれば当たるほど、福祉経営と言うのは場合によっては市場の原理下にある産業界のそれよりも高い知識と技術を要するものと言えるのかも知れません。そんな中にあって、少しでも優れた経営が出来ればと、昨今では産業界のセミナー等にも時間が許す限り顔を出している訳です。

 福祉経営において、当法人が最も大事にしているのは、経営理念の内外に渡る浸透にあります。言わずもがなではありますが、経営理念は法人の存在意義そのものであり、どうあるべきか、何を目指すのか、何が正しいと考えるのか、といった価値判断(道徳的判断)を示すものです。つまり、私たち法人の職員はどうあるべきか、またどうありたいのか、それを如実に物語っているのです。

 一方、産業界で言うところのブランド戦略におけるブランドとは、「消費者が特定の商品やサービスを識別できているとき、その商品やサービス」※のことを言うのだそうです。また、ここで言う「識別」とは差別化の要素が含まれているようです。つまり、ブランド戦略やブランド・マネージメントは、「消費者」に法人やその提供するサービスが、どう思われたいのか、どう見られたいのか、それをマネジメントしていくことがその仕事であるようです。

 当法人の実践に拘わらず、福祉経営の中においては、如上の利用者にどう思われたいか、見られたいか、などはあまり重要視されてこなかったのではないかと認識しております。もちろん、利用者のニーズに個別性をもってしっかりと対応していくことは永らく求められてきたことですし、利用者や地域におけるニーズ調査も一定程度は成されてきたはずです。であっても、利用者や家族にどのように思われたいのか、見られたいのかまでは関心の領域ではなかったのではないでしょうか。そもそも、社会福祉とは、社会からの要請に対して、専門的価値に則って貢献していくことがその仕事であるとされてきました。即ち、どのように見られたいか、思われたいのかはむしろどうでも良くって、自らが社会のために何ができるのかが最優先されてきたのではないかと思われます。

 社会福祉におけるソーシャルアクションのみならず、市民運動等における運動論は、周囲からどう思われるのかなど考えては出来ないものであるとされてきました。周りからどう思われているのかなどと深く考えていては、運動的な行動は出来ないと言うことでしょう。1920年代から70年代にかけて、確かに不当に対する「怒り」は、ソーシャルアクションやあらゆる運動には欠かせない要素であったと理解しております。世の中には確かに不当にも排他・排斥されていた人々が多く存在し、その支援のためには、周囲からどう思われたいのかと言った発想は不毛であったと想像できなくはありません。

 時代は移り変わり、現在の社会情勢において、そこには如何なるソーシャルアクションや運動の在り方が求められているのでしょうか。首相官邸前で毎週行われている原発反対デモの実践の中にその手がかりがあるようです。音楽家等のアーティストや芸能人、特定層ではない市民の参画が見られるこの運動の在り方には、旧来のものと比べそこに柔軟性と曖昧性を感じずにはいられません。

 ソーシャルアクションや運動において今最も求められていることは、たとえ僅かであったとしても変化と言う結果を残すことにあるのではないでしょうか。であれば、多少の違和感は含有しつつも、考え方の異なる人々を緩やかに束ね、常に大局を意識しながら、あるべき方向に導いていく、促進していくことが重要になってくるはずです。「君、地獄への道には善意が敷き詰められている」(サミュエル=ジョンソン)は、有名な言葉ですが、これからのソーシャルアクションには結果を出すことが求められているのだと自身は認識している所です。であれば、周囲からどう思われても良い、自身の信念だけを貫き通せばよいという、運動の在り方は終末期に来ていると認識できます。

 これからのソーシャルアクションは、グレーを貫き通して行うものであると朧げながら理解しております。白か黒かを敢えてはっきりさせることなく、清濁併せ呑んで進んでいくことが重要であると。そして、併せて重要になってくるのが、そうでありながらも自身の立ち位置は白なのか黒なのかをはっきりと信念として持ち合わせておくことです。そのことによって、グレーのまま運動を行うのは良いのですが、どうしても妥協できない領域は認識しながら実践することが可能になります。つまり、自身は白の立場であり、そのことを踏まえてグレーの実践に参画している場合は、限りなく黒に近いグレーには乗れないはずです。その場合は、信念を貫き通して、そのテーブルからは降りるべきでしょう。

 今回のブランド・マネージャーの研修カリキュラムの中には、ご想像の通り、如上のお話は全く入っていません。しかし、2日間の研修を通して、私が最も考えたことはこのことでした。いつも私の周囲にいらっしゃる方と異なる活動や、違ったモノの見方が出来る方と接点を持つことはとっても有意義なことであるとつくづく思う昨今です。

 産業界における経営や、福祉経営と言う分別した書き方を行いましたが、それこそが無用な分別なのかも知れません。ある程度成熟した社会においては、一刀両断に判断できる物事は少なくなっているはずです。その意味においては、歯切れよく敵を攻撃するタイプのリーダー像はそのうち流行らなくなるでしょう。相手には相手の立場がある。そこへ慮りながらも信念を持って対話を重ね、妥協点を見つける作業を繰り返すことで変化いう結果を出すこと。このような実践のできるリーダーを社会は求めているはずですし、その様なソーシャルアクションや運動の在り方が今の社会には相応しいのではないでしょうか。信念を貫く勇気と同時に、柔軟性と曖昧性の持てる自身でありたいと思う昨今です。


※一般財団法人 ブランド・マネージャー認定協会『Brand Manager Basic Course』P.7 2010年



時間軸を超えたビジョンの共有を!

2012/07/27 16:17:41  社会全般
過日訪れた三原市本郷町の夏祭り。花火と演奏のコラボレーションは感動的でした。

 心の安らぎの一つ。それは、大学の恩師が発行されている新聞を読むことです。「試行社通信」と銘打たれたその新聞は、文章がぎっしり詰まったとても読み応えのある新聞です。どちらかと言えば私自身も書くことが好きなタイプですが、先生はまさに書くことが“異常”なまでにお好きなのだと新聞を見ては思う毎日です。

 未だに先生の文章にアンダーラインを引きながら、また余白にコメントを書き込みながら拝読しておりますが、本日目を留めたのは次の条でした。

 「早い話が、福島原発事故に関して責任をとった人間がただの一人でもいたのでしょうか。責任のなすりつけあいは盛大におこなわれる一方、誰一人、自らの責任に言及することさえしなかったではありませんか。(中略)実をいえば、原発事故といったタイプの大参事の場合、誰も責任のとりようがないのです。(中略)まして放射能汚染は短期間で消滅するものではなく、数十年から数百年単位、もしかするとそれよりも長期にわたって持続するものである以上、その意味でも最後の最後まで事態の推移を見守れる人間自体が存在しないわけです」。

 至極当たり前のことが書かれています。先生に言わせれば、おいおい、こんなところに着目するのかね?、とおしかりを受ける箇所かもしれません。しかし、私はこの部分が気になるのです。考えてみて下さい。世の中には如上のように責任の取れない、いや、取らなくても済む出来事が数多あるではありませんか。本放射能の人体に対する影響も然り、携帯電話やリニアモーターカーによる電磁波等の影響、食品に関連する化学物質や、合成洗剤の影響などが思い起こされます。

 如上の問題は、動物実験においては“許容”の範囲と判断され実用化が図られているのですが、実は人体にどの様な影響が及ぶのかは不明瞭なままです。恐らく今後、実質的な“人体実験”が20年〜50年かけて行われた末、各地で訴訟等が起こり、「誰か」が責任を取ることになるのでしょう。しかし、当時その決断をした責任者は第一線をとっくに退いており、実質的には誰も責任を取らないばかりか、仮に訴訟に敗れ損害賠償を履行したとしても、長期に渡ってそのことで利益を上げてきた企業等は勝ち逃げの状況に帰結するように思われます。つまり、誰も責任を取らないばかりか、その問題となる活動をした側がトクをすると言う現象が起こり得るわけです。

 インターネット等の普及によって、理念や情報のグローバル化が進んでいる昨今。私たちは、地球上のどの地域で何が行われ、そして、今人類に何が求められているのか、現在進行形の問題意識を共有することが可能となってきました。しかし、一方で今現在を生きている人々と、これから生まれてくるであろう子孫との理念の共有は、未だなされていないものと認識しております。私たちが屍となったそのあとに、残された、また生まれてくるであろう人々の生活の豊かさや平和を考える視点はまだまだ浅薄な状況にあるようです。

 随分前に目にしたある賞の募集要項が手元にあります。なぜこれが、今ここにあるのか経緯は忘れてしまいましたが、その中にかかれている文章に惹かれずっと手元に置いていたものです。

 「共生(ともいき)とは…
過去も未来も考えず、今が良ければいい。そのような考えでは、先の不安はつのり、後には後悔しか残りません。(中略)祖師や祖先から受け継がれてきた“いのち”をいただいていることに感謝し、今の世界の状況を見つめ、他の“いのち”の為にできることをよく考え、実践して後世に“いのち”を引き継ぐことこそ、“ともいき”なのです。
・きょうせい…自然や他の生物と共に生きること(共棲)
      =『自然との共生』etc… =横軸(同じ時間軸)のつながり
・ともいき…きょうせい+過去から未来へとつながる『いのち』と共に生きること。
      =横軸+縦軸(過去・現在・未来)のつながり」※1。

 若輩は宗教的なことはさっぱりわかりませんが、如上の定義で考えた際は、やはり「共生(ともいき)」を考えていくことが今人類に強く求められているのだと理解しております。昔から、「子どもは大人の父なり」(ワーズワース)と言います。子どもたちの視点で社会を点検し、そして、その構築を成していくことが「ともいき」への第一歩なのかも知れません。

 知識人や為政者に今最も求められている視点。また、その偉大さを測る指標。それは、100年、200年先の今を生きる人々に説得力のある実践が出来ているか否かにあるのではないでしょうか。まさに、「政治家の人生は歴史という法廷において裁かれることでのみ評価される」のです。


※1 浄土宗「平成23年度 浄土宗宗祖法然上人800年大遠忌記念事業 『共生(ともいき)・地域文化大賞』募集要項」P.2



「国民の生活が第一」の「国民」

2012/07/16 23:46:01  社会全般
過日法人研修室で開催したプレ発表会。今年度はもう一つ全国大会の発表に一丸となって挑戦します!
 シンガー=ソングライターの宇多田ヒカル氏が、ツイッターで「キラキラネーム」と評しているらしい「国民の生活が第一」と言う名の新党。報道によれば、宇多田氏自身はこのネーミングに「批判的な考えを持っているのは明らか」※1なのだとか。更にそのツイッターには多くの批判的な書き込みが寄せられているそうで、「宇多田さんの“発言”に多くのフォロアーが反応し、ブログなどでも『キラキラネームではないけど厚顔無恥』『国民をバカにしたネーミング』など多数の意見が書き込まれ、盛り上がりを見せている。コンサルタントで著述家の城繁幸さんは、同党名について『国民の生活が第一とは当たり前のことで中身がない。粗末なプレゼントに派手なラッピングをしたみたいな名前』とし、『宇多田さんの評価は適切』と話している」※1などと報じられています。

 確かにこの新党、国民の心は掴んでいない。「共同通信社が14、15両日に実施した全国電話世論調査によると、小沢一郎元民主党代表が結成した新党『国民の生活が第一』に期待していないとの回答が計81・8%に上った。期待しているとするのは計16・5%にとどまった」※2。

 未だ不明瞭で暫定的な重点政策ポイントを見てみよう。「一、消費税増税の前に徹底した行財政改革。
一、財政出動で公共事業投資を積極的に進め、5年以内にデフレ脱却。
一、原発再稼働には慎重。再生可能エネルギー活用で原発ゼロを目指す。
一、環太平洋連携協定(TPP)反対。経済連携協定(EPA)や自由貿易協定(FTA)を推進」※3とあります。消費税反対・脱原発・TPP反対の方針は社会福祉専門職とは一致すべき内容ではないでしょうか。消費税の増税は年収700万円以下の国民には厳しく、所得税増税は年収700万円以上の国民に厳しいと言われています。また原発は一部の地域や一部の労働者の犠牲のもとに成り立つエネルギー政策ですから、「人間の尊厳」や「社会正義」におけるソーシャルワークの倫理に反します。TPPは、何処の国の「国民」のために行うのか、そこが見抜けていなければ我らが国民の権利は守れません。

 facebookにも記載しております通り、政治について若輩は「ベストよりベター」を考えます。つまり、選択においては消去法をより優位に考えるわけです。その際に、この新党の政策方針と、民主党のそれのどちらに賛同できるのかは然程難しい選択にはならないと考えます。今後の情勢によっては、不確定要素が非常に大きく判断に迷う部分もありますが、その不確定な部分を除けば、断じて新党に期待を寄せざるを得ません。

 なぜならば、以前申し申し上げました通り、「国民」のどの層の人々のための政党なのかと言う視点で捉えた際、その違いが明晰化されるのです。自身の言葉を使うまでもなく、「野田政権が重視しているのは『原発の運転』や『財政の再建』で、その背後には『官僚の意思』や『財界の意向』が『第一』の姿勢があるように感じます」※3ことは自明の理でしょう。つまり、現政権の守りたい「国民」とは、一部の利権を獲得した人々と、そして、富裕層の人々であって、それ以外の大多数の人々ではないことは明白な事実です。であれば、人気は無くとも、本新党は現政権よりはマシな存在であるということになります。

 「参院民主党は同日、このフレーズをちりばめた記者会見室の背景デザインを、ロゴマークと党名に切り替えたという。新会派『国民の生活が第一』の宣伝になることを嫌った苦肉の策とみられている」※4。この場合、民主党は「国民」のどの層の「第一」を放棄し、また包摂したのか。本ブログの読者には釈迦に説法でしょう。

 斯くの如き、「国民」なる言葉は、視点を変えればその解釈もその後の行動も全てが大きく変わってしまう取り扱い注意の用語なのでしょう。そもそも「国民」全員、すなわち「みんなの」政党などこの世に存在するのでしょうか。その意においては、この新党のネーミングを批判するのであれば、「みんなの…」の方がよほど理論的に間違っている様にも思われます。みんなの政党であるのか否かは、有権者ひとり一人が判断して決めるべきものですから。

 「国民の生活が第一とは当たり前のことで中身がない」とのことですが、その当たり前のことがここ20年ほど成されてこなかったことに最大の問題があるのではないでしょうか。

 如上のように、新党の「国民」と民主党の「国民」には、その対象者像が全く異なるという点において、同音異議の調和を成しているといえます。


※1 産経新聞 2012年7月14日
※2 北海道新聞2012年7月15日
※3 京都新聞 2012年7月10日
※4 中日新聞 2012年7月14日



不登校の何が悪いのか?

2012/07/11 18:37:56  社会福祉
過日開催された 地域福祉センター仁伍主催の 仁伍こい祭り 借り物競争はとっても盛り上がりました。


 昨年10月、大津市の中学2年の男子生徒が飛び降り自殺をした事件について世論が再燃を起こしているようです。

 大津市教育委員会及び学校の厚顔無恥な対応に世論の非難が集中しているようですが、そもそもこの事例は特殊なものとして取り上げるべきものなのでしょうか。つまり、このような市教委や学校組織の機能不全は随分と前から何人もの児童の命を犠牲にしてきたのではないでしょうか。今に始まった特異な事件では断じて有り得ません。

 例えば、西日本新聞の社説の一部をご紹介しましょう。「いじめやそれに伴う責任を容易に認めたがらない学校や教委の隠蔽体質は6年前、福岡県筑前町で中学2年の男子生徒が自殺した問題を思い起こさせる。当時も事実解明は後手に回り、町教委が設けた外部の調査委員会に委ねた。教育界の頑迷ぶりは変わっていないようである。最大の問題は筑前町の事例と同様、学校がいじめをいじめとしてしっかり受け止めていなかった節があることだ」※1。

 また、若輩浅学が、大学時代に書いた論文から引用するだけでも同様の紹介はごまんとあるわけです。
「学校側、生徒には口封じ(中略)清輝君の自殺の翌日、市教委に『突然死』と報告」(毎日新聞1994.12.6)、
「(前略)間宮校長は認識の甘さを認めながら『本人の申し出がない限りいじめとは確定できない』と述べた」(朝日新聞1994.12.9)、
「(前略)『自殺の原因は何か』という質問に対して、同校長は『いじめが主原因だったと思うが、引き金は、自殺当日午後の金銭要求や、前夜や当日の朝にお父さんが厳しくしかりつけたり、諭したことなど』と発言していた。しかし、すぐに『あ、すいません。行き過ぎました。調査中です。』と表現を和らげた」 (東京新聞1994.12.10)。
「(前略)加藤校長は十四日夜、同校内で記者会見し、『原因はいじめではなかったと思う』と語った。(中略)加藤校長は十三日、『今から思えば、いじめだった』と発言した。ところが、この夜は『落書きは一度だけで、単なるいたずら。いすを投げつけたことも、突発的なけんかだった』と前言を撤回した」 (朝日新聞1995.2.15)。

 この度大津市で自殺した男子生徒のご遺族は、生徒が亡くなったことの意味を無駄にはしたくないとの思いから、同級生3人と保護者・市を相手取り、損害賠償を求め大津地裁に提訴されているようですが、今まで亡くなってきた子どもたちの死を無にしてきた帰結としてこの度の自殺があるとも認識すべきでしょう。

 これはある特定の教育委員会や学校で起こった特殊な事件などではなく、普遍的に社会構造の中に存在する社会病理であると共通理解するべきでしょう。

 自殺の形態には多様なそこに至るまでの経緯が存在するのでしょうが、この場合の自殺は、同級生から権利侵害を受け続け、それを学校側に救済を求めたにもかかわらず黙殺されたことによる帰結であったならば、周囲の社会環境によって自殺へと追い込まれたのが事実であると言えそうです。であれば、これは単なる自殺ではなく、「学校」によって殺された殺人であるとも言えます。いや、敢えてこれは殺人であると断定すべきであると認識しています。でなければ、この度の男児の死も荼毘に付してしまうことになるのではないでしょうか。責任の所在を明らかにし、次の進歩に繋げていかなければ、今後ますますこの殺人による被害は増大するに違いありません。

 大津市教委やその学校の体質からは、この度の事件に関する反省の気配は微塵も感じられません。つまり、“失敗”、しかもこの場合は、単なる“失敗”ではなく殺人事件同様の重大な過失によるものであるにも拘らず、反省しない、改善しない組織体質であれば、この機関と学校は永遠に変革を遂げることは無いでしょう。そんな学校に皆さん、大切な子どもを預けたいとお思いでしょうか。少なくとも私はご免蒙りたい。

 当然のことではありますが、私は思います。命を削ってまで、命を賭してまで、通わなければならない学校はこの世に存在しない。命を懸けてまで働かなければならない職場もおんなじだ。

 如上で申し上げた通り、これは特定の地域に固有の問題ではなく、普遍的な問題として、市教委や学校に存在すると捉えるべきです。また、その問題は旧態依然として変革の余地がないように見受けられます。もちろん一部の例外の存在があることは、どの分野でも同じこととして言えるのですが…。

 今如上の生徒と同様の境遇に立たされている子どもたちは全国に数多いることでしょう。そして、そこで共に悩む両親も。その方々に本ブログを通して私は声高に言いたい。「もう、そんな学校に行かなくても良いですよ!」と。そして最後にもう一言、皆様が思っていらっしゃるほど今の学校は決して素晴らしい所ではないのですから。


※1 「社説」 西日本新聞 2012年7月11日



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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