ストレス過多の我が国においては、癒し系のアートが流行っているように見受けられます。音楽や文学、美術の分野ですら癒し系のものが数多見られます。当然ながら、アートの質を測る指標は一つではないばかりか、人の数だけその指標があると言えます。ですので、どのアートが優れているかなどと考えることは不毛であり、創造性のない営みと言えるでしょう。
では、流行っている、即ち、「売れている」アートはなぜ売れているのでしょうか。私には一つの指標が大きく見えてきます。取っ付きやすく、即効性のあるものがやはり求められているように見受けられます。つまり、直ぐに理解が出来て、使えることが重要視されているように思われるのです。例えば、自身をあまり追い詰めることなく、深く考えることを求められるでもない。それでいて、癒された感覚を直ぐに甘受できるものなどが求められているのではないでしょうか。
アートの質を測る物差しは、数多あって当然良いのですが、「売れる」アートとは如上の指標に乗ったものが多い様に思われます。実は、本日東京へ移動中に目にした新聞から、優れたアートを測る一つの指標を見つけることが出来ました。
音楽家の坂本龍一氏は、原発再稼働に対して次の様に述べています。「原理や原則についてきちんと議論がなされないまま、『論理』ではなく『空気』で物事が決まっていく。そんなこの国のありように、ずっと違和を感じてきました。(中略)『国を預かるものとして、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄できない』。野田さんは再稼働に関する記者会見で『国民生活を守る』を繰り返していましたが、この『国民』っていったい誰のことなのでしょうか。私には『「原子力ムラ」に住んでいる人たちを守る』と言っているようにしか聞こえません。大飯原発を再稼働させなければ関西で15%電力が足りなくなるというのは、一種の脅しです。私たちには検証のしようがないんですから。電力会社が地域を独占していて競争原理が働かないから、そんな脅しが効果を持ってしまう。世論調査では依然として原発に懐疑的な人が多いのに、こんなやり方で再稼働が決まってしまうとしたら、この国の民主主義はとても成熟しているとは言えません。(中略)欧米では有名無名を問わず、社会的な問題に意見を言うのは当たり前です。日本だって1960年代末から70年代くらいまでは、ロックミュージシャンが政治的な発言をしていた時代もあったんですよ。それがいつしか、チャリティーですら『偽善だ』という批判に強くさらされるようになり、とてもやりにくい時代が続いた。音楽家は音楽だけやっておけ、政治的な言動はとるなと。(中略)声を上げる。上げ続ける。あきらめないで、がっかりしないで、根気よく。社会を変えるには結局、それしかないのだと思っています」※。
優れたアートを測る一つの指標とは、社会に対するメッセージ性にあるのだと理解しました。坂本氏の様に、その活動を通して社会にメッセージを発信するのがアーティストであると私は認識しています。メッセージを発するということは、社会に対して何らかの問題意識を有しているということに他ならない。つまり、私の中では、真のアーティストとは社会に対して問題意識を有しているということがその十分条件であり、また必要条件であると理解しています。
今社会に何が求められているのか、そして何が足りないのか。その様な問題意識をもって表現することがアートであると自身は理解するに至りました。つまり、真なるアートとは社会に対する問題意識とメッセージ性を有するものでなければならない。この様に勝手な定義をしたならば、如上の「売れる」アートとは、その多くがアートに値しない産物に該当します。
今流行りの小説の多くや、音楽にしても、社会に対してどうでもよいことを謳っているものが多く、その意味において、彼らはアーティストとは言えないのではないかと勝手に思うことにしました。
また、坂本龍一氏はその意において、真なるアーティストであることが確認されます。
※「耕論 再稼働、それでも」『朝日新聞』2012年6月15日
昨日の朝刊のトップに「野田首相が大飯原発再稼働判断、『国民生活守るため必要』」の記事。「野田佳彦首相は8日、首相官邸で記者会見し、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)について『国民の生活を守るために再起動すべきというのが私の判断』と述べ、国論を二分したこの問題に関する政治判断を示した。首相は、政府の最終決定に向け『立地自治体のご理解を改めてお願いしたい』と福井県に呼びかけた」※とあります。
どうやら「首相は会見で『全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を止めたままでは日本の社会は立ち行かない。計画停電がなされうる事態になれば、実際に行われるか否かに関わらず日常生活や経済活動は大きく混乱する』と強調した」※らしい。この件に関しましては、明らかに研究者の意見が分かれている所です。つまり、今すぐに原発を止めても電力供給に支障は出ないとの見解がある訳です。また、嘘に嘘を塗り固めて促進されてきたその促進力と力学を考えれば、どの情報が優位に普遍化してくのかは社会学を少しかじったことのある者であれば自明の理の如く理解が出来ます。いや、社会構造を少し考えれば誰にでもわかることではないでしょうか。
「首相は『化石燃料への依存を増やして電力価格が高騰すれば、小売り店や中小企業、家庭にも影響する。石油資源の7割を頼る中東からの輸入に支障が生じれば、かつての石油ショックのような痛みも覚悟しないといけない』などと語り、経済とエネルギー安全保障の観点からも原発は重要との認識し示した」※。もうお分かりですね。この首相が何を指標に動いているのか?国民一人一人の安全や安心でしょうか?福島で被災されている県民に対する支援でしょうか?
まさに経済至上主義。その物差しでしか動いていらっしゃらないことがはっきりと理解できます。マズローのヒューマンニーズの階層にあるように人には、生理的な欲求や、安全・安心の欲求がまずその大前提にある訳です。それを等閑にし、経済の停滞防止を最優先に対応されているのではないでしょうか。
また、「国民の生活を守るために」とおっしゃっていますが、この場合の「国民」とは誰のことを指すのでしょうか?原発周辺地域で不安に震えていらっしゃるその「国民」ですか?福島で被災されもう二度と原発の安全性は信じないと心に誓った「国民」ですか?おそらくは、電力会社及びその利権に纏わる立場にある「国民」のためだけに、その彼らの生活を守るためだけに、原発を再稼働しようとしているとしか私には思えません。
「国民」と言っても、人口は一億八千万人存在します。全ての「国民」のための行動などこの世には存在しないこともまた自明の理。そのバランスを取っていくことが政治には求められています。しかし、日本は資本主義社会であり、経済至上主義社会です。その社会において政治が成すべきことは、力学的に弱い立場にある人々をまずは守る事にあるはずです。総理はそうではなく、力学的に強い立場にいらっしゃる「国民の生活を守るために再起動」決めたのでしょう。そして、彼らにとってこそ「社会は立ち行かない」と断じるのです。
このように「国民」と言えばまるで皆のためにと捉えられてしまうかも知れませんが、斯様な抽象的な表現の中にはレトリックが潜んでいることを私たちはまず自覚しておく必要があります。政府の側が「国民」と名指しで訴える際は、その「国民」のどの層の方々のためであるのかまで慮って話を聞く必要があります。政府が言う「国民」とはいったい誰なのか?具体的な顔を思い浮かべて話を聞いてみることをお勧めします。これを書きながら、いま私には数名の方々の顔が脳裏に浮かびあがっています。
民主党は「国民の生活が第一」というマニフェストを打ち出して、政権交代を果しました。その時の「国民」はおそらく如上の社会的に弱い立場にある「国民」を指していたのではないでしょうか。当時の小沢 一郎氏の談話等を読む限り私はそのように受け止めています。その姿勢に私自身も一瞬大きな期待を寄せていたのですが、今やその精神は雲散霧消の状況にあるようです。
権力を有する側が斯様に「国民」なる抽象的な言葉を扱う際には、注視が必要であることを改めて強調しておきたいと思います。自身がいつも気を付けているその他の言葉として、「国」と言う言葉があります。「国」と言う言葉も概念が広く、時には一般市民としての国民もその範疇に入ることがあります。ですので、私はその言葉をなるべく使うことなく、政府と言ったり、行政と言う具体的な表現を常に心がけている所です。
「また、『20カ国・地域(G20)首脳会議に行き、世界経済が不透明な状況の中で日本としての立場を明確に打ち出さないといけない』と述べ、18日からメキシコで開かれるG20首脳会議への出席に意欲を示した」※。斯くの如き首相が、諸外国から尊敬の念を得て、リーダーシップなど図れることは全く持って期待できない。これもまた自明の理です。
※『朝日新聞』2012年6月9日
昨日今日の2日間、日本社会福祉士会の全国大会が岡山市内で開催されました。この2日間で様々な論議が俎上に載せられていましたが、その中に、生活保護制度に対するバッシングに社会福祉士としてどのように向き合うべきかが取り上げられました。つまり、このまま静観していて良いのか、何らかの行動を起こすべきではないのか、といったお話です。
実は以前から、大なり小なり、このような世論は存在しましたし、日常的に私たちの身近な議論としても存在し続けていました。若輩浅学ながら、私見をここでご披瀝しておきたいと思います。
タイトルの括弧書きの「贅沢保護」とは、野党第一党の女性議員が述べた言葉をそのまま引用しているわけですが、これは論じるまでもなく事実誤認であり、理論的にも破綻している発言であると認識しております。つまり、根本的には、相手にする必要のない発言なのではないでしょうか。
生活保護基準以下の生活状況にある方の内、生活保護を実際に受給されている方の割合として捕捉率という言葉があります。日本のその捕捉率は、20%以下であると言われています。即ち、日本の場合は、生活保護のセーフティーネットから漏れ落ちている人が現受給者の4倍もいらっしゃると推察できます。因みに、ドイツやイギリスの捕捉率は80%を上回っているとの報告があります。憲法上国が認める最低限度の生活が保障されていない多くの国民がいることを私たちはまず認識しておく必要があるでしょう。
そして、その上で、この最低水準の生活が「贅沢」だとおっしゃるのであれば、まずそのご発言をされている方の生活は驕奢・放蕩以外の何物でもないということになります。また彼女以外の同様のお考えをお持ちの方にも、是非とも提唱しておきたいことがあります。それほどまでに「贅沢」であるとおっしゃるのであれば、自らが受給者として生活してみられてはどうでしょうか。多くはそのような気もないくせに、「贅沢」だとおっしゃっているのではありませんか。自らがその立場にある場合の、その想像力の欠如した非常に無責任は発言と言わざるを得ない所以です。
マズローのヒューマンニーズの階層を鑑みても分かるように、所属や自尊、自己実現の欲求が人間には必要です。それが無い生活は、決して豊かな生活であるとは言えません。生活保護を受給している以上、これらの欲求を満たすことは然程容易なことではありません。残念ながら我が国の生活保護制度は、依然としてスティグマが払拭されないまま斯くの如き状況にある訳です。
その十分なセーフティーネットとして全ての方を掬いきれていない状況と、受給者に対するスティグマが依然として根強く存在する現状を鑑みれば、「贅沢保護」なる発言は、国民に対する冒涜以外の何物でもないことは安易に理解されるべきことです。また憲法は、権力の側が国民にその義務を果たすべきことが謳われているわけですから、この生存権は国民のと言うよりは、政府や権力の側が守るべき義務であるはずです。政治家の見識としても疑わざるを得ません。
しかしながら、「嘘も100回言えば本当になる」という言葉があるように、たとえそれが取るに足らない妄言であっても、それに対しては何らかの反論を加えるべきかと認識しております。だだし、そこに明らかな論理的思考レベルに格差のある場合は、あまり対等な議論を交わす必要は無いでしょう。同じ土俵に乗ることの陥穽があることも付言しておきます。
過日参加させて頂いた東京のセミナーでは、サービス付き高齢者向け住宅の整備において、そこには「自治体ごとの解釈の相違」があるとのご発表がありました。そして、そのことによって、事業者としての整備に支障が生じ、事業者にとってもクライエントにとってもマイナスになるものが多くあるとのご指摘でした。
さて、地域福祉を実践する者として少し整理をさせて頂きたいと思います。結論を問えば、ローカルルールは果たして悪か?と言うことになりますが、私自身はローカルルールなるものは、自治体が責任を持ってやる限りは、積極的に定めればよいと考えております。これだけ地域性が異なる状況下で、画一的なルールで物事を進めること自体に問題があると唱えます。
ただし、自治体が主体的・自律的に結果にまで責任を持つことがその根底にあります。たまに(?)見受けられるものとして、担当者の不勉強・無知によって、その独り善がりなルールが振りかざされることがありますが、これなどは真の意味におけるローカルルールとは言えますまい。
介護保険事業者と異なり、サービス付き高齢者向け住宅の設置者の殆どは営利法人であると聞きます。その際に留意しなければならないのは、地域共同体や、まちづくりをしっかりと担保した実践をして頂きたいことにあります。私の存じ上げる大手の営利法人はその点をしっかりとご理解されていらっしゃるのですが、それはまだまだ主流のお考えとは言えないようです。
新自由主義や経済至上主義によって、地域コミュニティは破綻した側面があると自身は認識しております。次の件を添えて、警鐘を鳴らしておきたいと思います。
「際限なく拡大するグローバル企業にとってもっとも邪魔なのは、歴史や伝統に根ざした地域共同体であるという。独自の規制をもち、結束が固いからだ」※。
地域共同体や地域コミュニティを逆に強化するサービス付き高齢者向け住宅の運営を切に要望していきたいと思います。
※田中 優子氏「風速計」『週刊金曜日』P.9 2012年5月11日号(894号)。
今日は東京(品川)でセミナーに参加させて頂きました。以前から尊敬の念を抱いております経営者がご登壇されると耳にし、自身の勉強のためにお話をお伺いするのが主な目的です。
サービス付き高齢者向け住宅と介護保険サービスの組み合わせについてのシンポジウムでしたが、内容が具体的で、実務的、かつ現実的なお話しばかりで大変勉強になりました。中でも、曖昧模糊としていた以下の点が、自身の中でも整理された点については有意義なことでした。
小規模多機能型居宅介護(以下、「小規模」)や、定期巡回・随時対応型訪問介護看護(以下、「24HH」)といった定額報酬制を取っているサービス形態と、その他出来高報酬制のサービス形態とでは、そのサービスの中身に違いが生じるという自明の理について、その背景やそのことが制度に与える影響について掘り下げて考えることが出来ました。
予てから、例えば、「小規模」の訪問サービスと訪問介護のサービス内容には、明らかな違いが生じていました。適切なインフォーマルや社会資源を発掘・創出しない限り、独居高齢者の利用者の場合、電球の交換や、庭の草取り、ペットの食事提供等の訪問介護では認められていないサービスを「小規模」の職員が提供する場合が見受けられました。それに対して、行政側は、対応しなくても良いとも言わず、対応しなければならないと指導することもありませんでした。つまり、定額制という報酬設定の中において、最低限のサービスの定義は行うが、それ以上のサービスについては際限の無い状況があり、そのことが等閑に付され続けていたことになります。このことから、定額制のサービスは、サービスの下限は決められてはいるものの、その上限が非常に曖昧模糊としていると言えます。
さて、本日のお話です。サービス付き高齢者向け住宅の「サービス」は何処まで入居者に対応すべきか。様々な議論がある中、「24HH」でその限界点を支援すればよいとのご意見がございました。ビジネスモデルとしては、利用者本位の素晴らしいご意見であると伺っておりました。一瞬鳥肌が立つほど、流石にと思って聞き入っておりました。
しかし、今まで「小規模」の運営に携わってきた者として、何時かここを整理する時期が来るし、またその必要に迫られるであろうとも思いを巡らせていました。同じ介護保険のサービスであっても、「やっても良いこと」、つまり、サービスの上限が異なることに改めて気が付きました。これは、すなわち、介護保険制度の根底を揺さぶる要素があるのではないかと。
例えば、定額制サービスが行っている生活支援を、出来高制の介護保険サービスでも認めていく方向性になれば、それは現在よりもサービス対象範囲の拡大路線を歩むことになります。また、その逆も然りで、定額制サービスの生活支援の内容に規制がかかることも考えられます。なぜなら、サービス対象範囲を拡げ、それが固定化されてしまえば、それに見合った人員配置の必要性が高まり、介護報酬を上げざるを得ない状況になると認識するからです。
同じ介護保険サービスでありながら、その報酬体制の在り方によって、サービスの内容が大きく変わりつつあります。いずれ、どこかの時期にその整理が迫られることになりそうです。また、それこそが、制度の限界点であり、制度としての社会福祉の課題でもあります。しかし、制度としての社会福祉は、実践としての社会福祉との相互作用によって、より時勢に見合った形に変えていくことで継続可能なものになるのでしょう。その意味において、本セミナーは非常に有意義なものであったと認識しております。むしろ、社会福祉士やソーシャルワーカー等のソーシャルアクションを行うべき専門職のセミナーの方が、如上の政策提言など殆ど見られていないことを寂しく実感した次第です。
兎にも角にも、制度は万能ではありません。恐らく、介護保険制度で全ての生活支援サービスを提供するには無理があるのでしょう。であればこそ、それを補填するもう一つの柔軟なシステムを構築する時期に差し掛かっているのではないでしょうか。過日訪れたスウェーデンでも、社会サービス法に基づく訪問介護では一定の硬直化・画一化が見られましたが、実は、それを補うLSS法に基づく、パーソナルアシスタント制度によって、柔軟な対応を行う仕組みが存在しました。スウェーデンの場合は、制度を補うシステムと言うよりは、制度を二重構造化し、制度を新たな別の制度で補っているようにも見受けられましたが…。
「小規模」や「24HH」といった定額報酬制サービスは、いま、制度の在り方を根底から問いかけ、そして、新たな仕組みづくりを呼びかけています。
そのことに気づけた意において、この度は東京に来て本当に良かったと思っております。