本日はNHKの収録に参加させて頂きました。6月3日は広島ホームテレビ『Jステーション』で、地域の絆の実践を取り上げて頂きましたし、取材を受ける形では幾度とテレビには出演させて頂いたことはあるのですが、スタジオ収録は生まれて初めての試みでした。
エネルギーに関する討論番組でしたが、多くの参加者がいらっしゃる中、毎回挙手をしても発言の機会は中々回って来ませんでした。仕方がないですね。
それでも、以下の考えを吐露することが出来ました。
�仝胸厠枠�電の推進には、反対である。なぜなら、一部の犠牲の中で“発展”する社会構造に依拠したものだからである。東京という大都市の電力の供給を行うために、福島の住民の危険を冒し、現在事故の収束作業を最前線で行っている労働者の犠牲の上に、福島原発は何とか安定している。この様に、多少の犠牲はやむを得ない社会から、多少の犠牲も許さない社会構築へと舵を切るべきである。
��研究職によって、非常に大きく見解が分かれている。今日の両先生も同様に。研究職によっては、今すぐに原発を停止しても国民の生活基盤に影響を与えない電力量の確保が出来るという方もいらっしゃる。つまり、計画停電そのものが不要だったのではないかとも言われている。政府や電力会社に取って都合の良い情報が流れ、情報操作を受けていることも十分に考えられるので、我々は猜疑心をもって情報を吟味する必要がある。
�B斥杆�発電はなぜ普及しないのか?原子力推進ありきの政策の中で、売電料が低く設定されているのではないか?だから設備投資費用が容易に回収できない構造になっている。政策的に太陽光発電を促進するのであれば、売電価格を高く設定する必要がある。
�ち�択肢としては、自然エネルギーの技術開発を促進して脱原発を図るのか、自然エネルギーの開発が促進される政策に切り替えることで脱原発を目指すのかにある。私はもちろん後者に依拠する。現在、電力の開発費用の9割以上が原子力発電に費やされており、自然エネルギーの開発には数%の費用しか投入されていない。普通に競争すれば、原子力の推進力の方が強いに決まっている。そのバランスをまずは、政策的に変革するべきではないだろうか。その意味において、原子力政策と自然エネルギー促進の関係は表裏一体の関係と見るべきである。
�タ篆頁匹犯紳佛匹領称�した第三者機関で今後の方向性を決めるのは良いことのように見えるが、バランスの良い配置であれば、結局は現状維持で終わってしまうのではないだろうか?現に原発を維持しているわけだから、原発を維持した状況のまま収まってしまうのではないか。つまり、この問題は原発をやるのか、やめるのかを明確にしなければ解決しないのだと思っている。それは、政治的リーダーシップの中で行うべきことである。
��私は学生の頃から反原発の立場であった。震災前までは、反原発を唱えるだけで村八分になりそうな社会情勢があったが、今ではNHKの番組でこの様な自由闊達な議論が出来るようになっている。正しい情報をもとに、この様な民主的な議論が担保されれば、この国は正しい方向に動いていくはずだ。期待を寄せている。
思い出すことが出来るのは如上の発言でした。収録番組ですから、状況に応じて発言はカットされることでしょう。さて、どれとどれがカットされるのやら。
放映は6月17日(金)19:30〜20:43に行われる予定です。
6月8日(水)の22時25分〜22時50分放送のNHK『仕事学のすすめ』(出演:川口淳一郎氏(「はやぶさ」プロジェクトマネージャー)・聞き手:勝間和代氏)を拝見しました。
ビールを片手にほろ酔い状態で、テレビのチャンネルをクルクル回していた際、終盤を拝見したのですが、そこではオリジナリティについての議論が展開されていました。
川口氏によれば、オリジナリティは文献等の他者からの情報からは生まれないのだそうです。オリジナリティを発揮させるためには、最低3ヵ月間他者の文献等に目を通さずに、他者の意見を聞かずに、自分の内にある思考を絞り出して構築する作業が必要なのだとか。入社したての若者にもそのことをまずは求めるのだそうです。
そこで一つの疑問が湧き上がってきました。では、文部科学省のカリキュラムに則った大学までの勉強は一体何だったのでしょうか?そもそも学びとは、社会をより良くするために、あらゆる人々が幸せになるために、そのための方策や理論を学ぶべきものでしょう。そこには一つの答えなどなく、創造性と独創性がその過程において、必要不可欠なのは自明の理です。つまり、創造性や独創性の無い学びなど、全く不毛なものだと私は認識しています。
であるにも拘らず、大学を卒業したての新卒者に創造性や独創性を改めて教育せねばならぬとは全く解せません。私が受けたニュアンスとしては、むしろ大学までに受けてきた教育の在り方を改めさせるため、そこから脱却させるために、川口氏はその様な指導を行っているのではないでしょうか。
であれば、文部科学省の教育下では、真に「有能」な人材は育成されないことになります。創造性や独創性こそが国際競争社会で生き残れる重要な指標であると私は考えています。ゼロから物事を生み出すことのできる力、既存の選択肢を時に全て却下し、新たな選択肢を構築する力、この様な力が組織や社会を動かすためには必要不可欠となるはずです。独創性や創造性とは、「普通」や「常識」、「公理」から脱却した新たな考えや理論を構築することだと私は認識しています。その為には、「普通」や「常識」に捉われない自身の考えや思いに真摯に耳を傾ける時間と機会が不可欠であることは言うまでもありません。少なくとも大学においては、そのような真なる勉強が行われるべきだと私は考えます。
もちろん偏差値教育下では、独創性や創造性が培われないことは常識的に言われていることだと認識しています。記憶をインプットし、アウトプットする能力を高める学習方法でしか、好成績を修めることができない代物ではないでしょうか。しかし、その似非勉強は大学入学時に終焉するものだと私は思っていました。
この度問題だと強く感じたことは、川口氏のお話をお伺いするに、その似非勉強がどうも大学のカリキュラムにまで浸透しているかも知れぬという事実でした。
自民族の誇りを持ち、国際社会での立ち位置を確立するべく人材は、記憶のインプットとアウトプットではまず育成出来ません。その意味において、今後現在の偏差値教育の在り方は変革を強く求められることになるでしょう。少なくとも、大学での教育は、自身の考えや思いに耳を傾け、そのことを確立するためのものでなければなりませんし、自分の考えや思いを他者に吐露し、その理論に一定の責任を持つことまで出来て始めて最低限の学びが成されたことになります。
今になって菅直人首相の退陣論が激しく表出している世論。東日本大震災への対応の不備や、政治的リーダシップの不足において、マスコミからも退陣論一色の報道がなされています。この重要な局面で、またもやトップの交代、そして、ここ数年短期間でコロコロとトップが交代する国際的信用度の凋落。官僚が悪い。政治家が悪い。そして、政府が、首相の能力が不足している。全く好き勝手な議論が取り沙汰されています。
政治家、官僚、政府の要職についている人間と私たち一般市民の人権は異なります。これは民主主義の基本的な考え方に則れば、彼らに人権は狭く私たちに広いのは「常識」的な見解でしょう。つまり、現在の社会における閉塞感を生み出した直接の張本人は彼らであることは間違いありません。
そのことを大前提としながら、私は思うのです。この社会を構成しているのは彼らだけであって、私たちは全くそこに参画していないのか、と。官僚がいけない。政治家がいけない。政府がいけない。それは誰もが共感する事かも知れません。しかし、その社会を私たちひとり一人が構築していることを考えると、市民の責任も皆無では断じてないはずです。ましてや、政治家は選挙によって私たちが選択することができるのです。誰がこの政治家を選択したのでしょう。そして、非常に低い投票率の中、組織票で出来レースのように決まってしまう選挙に誰がしたのか。民主主義社会において、選挙に行かないことはその否定に繋がることは明らかですが、多くの国民は投票活動を拒否しています。
マザーテレサは言います。愛の反対は憎しみではなく無関心であると。そう鑑みれば、市民の無関心が、この国のトップの無能さを誘発しているとも言えるのではないでしょうか。
菅総理を挿げ替えれば、多くが上手くいくとは到底思えません。なぜなら、本質的な課題は、私たち市民自身が背負っていると私は考えるからです。その国の国民は、自らの民度を超える政府を持てないことは、もはや自明の理なのです。
第19回日本社会福祉士会全国大会・社会福祉士学会(京都大会)の二日目は、分科会から始まりました。私はD分科会「地域支援」に参加をさせて頂き、多くの実践事例に触れる中、気づきや学びを何点か頂くことができました。この様な場は自身の学びの場ですので、極力質問をさせて頂く中で、学びを深めるように心がけております。
まず一つの視点として、小規模多機能型居宅介護の現状と課題についてのご発表がありました。利用者にとって、慣れ親しんだ環境がつくれるか否かが、その運営の成否であることを認識することができました。また制度上の課題も浮き彫りになっており、この辺りも再認識させて頂いた次第です。
私の方と致しましては、昨日の湯浅氏の言葉にならって、「制度の守り手」に甘んじるのではなく、行政と利用者と事業所でローカルルールを作っていく実践が求められているのだと認識し、そのような事例が無いかご質問させていただきました。小規模多機能型居宅介護の良いところは、厚生労働省令に細やかな守るべき基準が明示されていないことにあります。つまり、保険者と利用者、事業所が、市民にとって有益なシステムに変えていくことができる素地があるわけです。なので、既存のルールに縛られることで不満を表出するのではなく、ルールを守ることで機能不全に陥るのではなく、それを逆手にとって、ルールを変えていく、システムを変革する実践が求められていると思っております。それこそが、ソーシャルワークに基づいた組織運営に繋がるのではないでしょうか。質問させて頂いたからには、自らの実践の戒めとさせて頂きたく存じます。
また、社会資源の創出の実践についてもご教示いただけました。多様なニーズに多様な社会資源を創出した実践で、その実践内容に触れ感服致しました。これは、地域の絆でももがいていることであり、中々一筋縄ではいかない現状があります。
社会資源の創出をするためには、まず、クライエントや地域住民のニーズをもとに行わなければなりません。そこで、一つの課題は、地域住民のニーズをどのように把握するのか。その方法論が難しい点にあります。そして、もう一つの課題として、色んなニーズが抽出されていく中で、どのニーズを仮説的・暫定的に、ニーズと定めるのか、という問題があるのです。もちろん、やってみないと分からないところがあるのですが、仮説的に暫定的にニーズを特定しなければ、社会資源の発掘・開発・創出には繋がらないと考えております。この辺りの実践のヒントを頂けたと感謝しております。
地域福祉計画に基づいた個別支援と地域支援の実践研究では、個別支援と地域支援の実践の中から、地域福祉計画では挙げられていない地域課題を認識することができたとご報告がありました。素晴らしい実践であると感銘を受けました。
そのことについて、市町村全域の地域性と、その圏域内であっても管轄地域の地域性は異なるものだと認識していますので、地域福祉計画におけるニーズと、担当地域におけるニーズに齟齬があるのを前提として、その理由を質問させていただきました。�々埓�がより深くニーズを捉えることができていなかったのか?��行政と発表者の捉えている地域性に齟齬があったのか?
そのご回答は、地域福祉計画の策定委員の専門性によって、抽出されるニーズが異なっているのではないかとのことでした。なるほどまさに、ニーズは捉え方によって変化するということなのだと認識した次第です。捉える専門性によって、捉えるニーズは変わってくる。捉え方によって、ニーズの抽出精度は変化するということなのでしょう。やはり、実践の中においては意識化や意図した実践を展開しなければ、私たちの知りたい情報や思いは捉えることができないのだと認識致しました。
午後の基調講演では、大阪大学総長の鷲田 清一氏がご登壇されました。最も感銘を受けたのは、出来ることと出来ないことの関係性についてのお話しでした。
鷲田氏によれば――――今の社会では、何かが出来ないということは、マイナス点でしかない。出来る方から見たら、出来ないことはマイナスかも知れないが。出来ない方から、出来る方を見た場合。出来ない仕組みの方が見えてくるのではないか?出来ないことを出来ない方から考えることで、その仕組みの方が見えてくる。
援助は、出来ないことを出来るようにすることはもちろん重要なのだが、さらに重要なのは、出来ないことを出来ないことにさせないことではないか。出来ないことを出来ないことでなくすることではないか―――とのことです。
クライエントが生活課題を抱えている際、それはなぜできないのかをクライエントの側から見ることで、出来ている側(社会)の課題が見えてくるということでしょう。そして、出来ないことを出来ないことにさせないとは、そのように社会が条件整備をおこなうことで解消することが第一義であると自身は認識したところです。要するに、「出来る」「出来ない」は飽く迄「出来る」側の視点で分別されているので、「出来ない」側からの点検も必要であるとのご指摘ではないでしょうか。
また、―――出来ないことを出来ることに変える道と、出来なくなることで初めて出来るようになることのシーンが開けてくる道もあるのではないか?「出来る」を基準に考えると、出来ないことを欠損と捉えてしまう傾向がある。すると援助者は、出来ないことに対してしてあげるという視点になってしまう。“欠損”のある方に対して、援助者は、してあげる立場なのだろうか?出来る人が出来ない人を、強い人が弱い人を支援する立場で考えられがちだが、そのような一方的な関係は殆どない。ケアの反転が現実では沢山おこっているのではないか?―――ともおっしゃられます。
分刻みで多忙な職務の中で、グループホームの玄関でご利用者と顔を合わせることがあります。何気ない一声を掛けられ、そして、その緩やかな時間の流れの中で、自身が癒されているのを感じることが多々あります。ケアをする立場の者が、実は、ケアをされている現象がここにあるのです。その様な多様な関係性が存在する社会こそが、健全な社会と言えるのでしょう。
多くの志高い実践者の実践内容に触れ、古参の研究職の教えに触れる中で、また一つ二つの大きなヒントを得ることができたと感謝しております。本ブログは、時にはこのように自身のためのメモ書きとしても機能しております。今日感じたことをありのままに、吐露しておいて、少し時間を空けて再読する。同じ文脈を捉えていても、その文脈から取り出せる内容は、もちろん私の成長度に応じて異なります。ですので、数年たって本文を読んだ時、きっとまた違った内容を取り出すことができるのです。
もちろん、私が成長していればの話ですが…。
本日から第19回日本社会福祉士会全国大会が京都で開かれています。全国大会へは久しぶりの参加をさせて頂きましたが、その参加者数の多さに驚かされました。流石全国大会です。
多様な講師陣が登壇されましたが、最も印象に残ったのはやはり、湯浅誠氏の講演でした。湯浅氏の思想や立ち位置自体に元来共感を覚えている若輩ですので、お話の内容は全て腑に落ちるものでしたが、中でも以下の2点はなるほどと再認識をさせて頂くことができ、深く感謝しているところです。
一つ目は、夢を見るためには、頑張るためにはそのための条件の整備が必要であるというお話です。夢を見るためには、誰もが総じて、努力すれば夢や目標に到達できる可能性を担保する条件が必要なのだと言うことです。社会がそれをせずして、夢を見なさい、頑張りなさいと子どもに言うのは酷であるとおっしゃられていました。
いわゆる自己責任論に対する反論です。「女性が差別されるのは、女性の努力が足りないからだ。女性はもっと努力すべきだ」という理論をテレビで展開していた評論家が、厚生労働大臣になったことのある国です。自己責任論は、我が国の社会構造に根深く存在しているのではないでしょうか。障害者の生活の質が高まらないのは、障害者の努力が足りないからだ。母子家庭が生活苦なのは、簡単に離婚してしまったからだ。この様な少し頭を働かせば、その欺瞞性を見抜けることのできる理論が蔓延っているのではないでしょうか。
障害者や女性に圧倒的に不利な、社会構造を作っておいて、その生活の質が低いのは自らの努力が足りないからだと喝破する論理。そして、当事者及び社会全体がそのこと信じ、当事者のパワーレス状態が生じているのが社会福祉の現場なのだと私は認識しております。
もう一つは、制度の狭間にいる人たちの支援が出来ない現状に対して、その様な課題を解決していくことが社会福祉士の役割であること。制度の守り手だけになるのではなく、外を見て、ソーシャルワークの力を強め、社会に働きかけ、個人にも働きかける。ひとり一人の頑張れる条件をつくっていく役割が求められているのだとおっしゃられます。
そうです。私たちは、制度の守り手の立場を享受するのみがその使命ではないはずです。クライエントの側に立ち、その制度がクライエントの利益に繋がるよう適宜点検を行い、状況に応じて変更への提言を行うことがその仕事となるはずです。現実的には、基礎自治体等でなされているローカルルール程度のものは随時変更するよう提言することがその仕事となるのではないでしょうか。
法令遵守はもちろん重要ですが、そこに必要以上に縛られて硬直化した実践をするのではなく、時に制度やルールを変える提言を行っていくことが私たちにしか出来ぬ実践なのでしょう。その意味において、湯浅氏の実践はまさにソーシャルワークそのものでした。社会福祉士ではない、またその専門教育を受けていない湯浅氏がソーシャルワークの実践を行い、社会福祉士で、専門教育を受けている私たちがその実践を怠っているとするならば、これほど恥ずかしいことはありません。
問題なのは、その彼の話を聞いて、恥ずかしいと思えた参加者が何人いたのか、また、自らの実践とは少し違った分野の実践であると他人事に捉えてはいないか、にあるようです。話を聞いて、恥ずかしいと感じ、ソーシャルワークの役割に危機感を抱くことができなければ、私たちの実践に明日はありません。