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NPO法人 地域の絆

NPO法人 地域の絆

中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

暮らしと生活

2014/11/14 15:36:26  社会福祉

 社会福祉専門職の職務は、クライエントの生活支援であると言われて久しいと認識しています。ですから、「生活」という言葉は、私たちの専門領域や職場では沢山溢れているようです。また、「生活」に似た言葉に「暮らし」があります。私は、「生活」よりも「暮らし」の方が幅広い概念を有していると考えています。辞書を引いて捉えても、生活は、生計を立てるための活動という意味合いが強い言葉に思えます。一方、暮らしは、「一日一日を過ごすこと」の意味が色濃く、何かのために活動をしていなくとも、そこにいるだけで、ぼーっと過ごすだけでもよい印象を抱くことができます。だから、生活よりも暮らしの方が、より幅が広いのだと解釈しているのです。

 暉峻淑子氏によれば、「私の祖母や母の時代には『生活』という言葉はあまり使われていませんでした。(中略)庶民の生活は、ふつう「暮らし」と言われていたようです」※1とあります。また、「人間もまた自然の一部であり、自然に寄り添って、自然の恵みや脅威の中で生きてきた人達の暮らしぶりが『暮らし』という言葉にこめられているようで、私はこの言葉がとても好きです」※1とも感想を述べています。

 その日暮らしと言う言葉がありますが、この言葉に照らして鑑みれば、「生計を立てるための活動」という心証はあまり抱きません。ただのんびり、そこにいるだけ、という印象の方が強くあります。そこにいるだけ、そこに存在するだけでも良いという、人々の存在に対する肯定感の強いこの暮らしと言う言葉を私も好んで使っています。生きているだけで、そこにいるだけでよい。そのような肯定感を醸し出す言葉だからです。

 また、「およそ室町時代から、『暮らす』という言葉は、時を過ごすことから、しだいに『生計を立てる』意味に変わってきたと言われ」、「明治時代になると、生計という漢字を暮らしと読ませて、ほぼ現在と同じように、暮らしとは生計・生活の意味で使われて」いたと暉峻氏は叙述しています※1。社会構造に経済が色濃く導入されて以降、「暮らし」が「生活」に変わったとも見て取れます。技術革新や競争、効率化に象徴される経済の原理と人々の「暮らし」には相容れないものがあるのかも知れません。

 よって、昨今のブログでは、専門用語に近い意味においては「生活」を、その他の意味では専ら「暮らし」を用いています。あとは文脈に応じて使い分けていますが、どちらでもよい場合はなるべく「暮らし」を用いる事としました。生きているだけで、そこにいるだけでいい。この様な価値観を地域に広げて行ければと思ってのことです。


※1 暉峻淑子『豊かさへ もうひとつの道』かもがわ出版P.73-76 2009年4月


責任追及社会の顛末

2014/10/28 12:19:20  社会福祉


 少し長いのですが、2014年10月26日付けの東京新聞から以下の行りを引用します。

 「高齢化を受け国が整備を進める『サービス付き高齢者向け住宅』(サ高住)など老後の住まいで、運営事業者が不必要な介護保険サービスを提供したり、自社の介護利用を入居の条件にしたりといった事態が横行し、監督する自治体の50%強が問題視していることが二十五日、厚生労働省の初の全国調査で分かった。
 これらの手法は『介護漬け』や『囲い込み』と呼ばれ、関連法令に触れる行為に当たる。介護サービスの種類や量は本来、利用者が自由に選べるが、運営事業者による利益優先が背景にある。
 厚労省は改善命令などを積極的に出すよう自治体に促しており、サ高住を共に所管する国土交通省も九月に検討会を設置し、悪質事業者の是正に乗り出す構え。介護保険の財源を無駄に使っているとして、財務省が介護報酬の引き下げ圧力を強める可能性もありそうだ」※

 かつて、我が国の高齢者介護は、施設ケアと在宅ケアの二分化が顕著でした。そこから、北欧をはじめ欧米を模倣し、施設とも在宅とも言えない高齢者住宅におけるケアを取り込んだ帰結として今のサ高住が存在します。つまり、施設ケアにおける居住サービスを介護保険サービスから分離させることがその目的であり、そのことで施設サービスと在宅サービスの利用者負担の公平性を担保し、施設サービス利用を制限することに連ねることがその本質であったと理解しています。

 施設ケアにおける居住費を介護保険の対象外とすることは、我が国においては、施設サービスにおける居住費の自己負担化、つまり、公的負担の削減化を意味するものでした。この点、「お手本」にしたはずの欧米の多くの国々では、住宅保障という別枠での公費負担がなされているのに対して、我が国にでは、そのような住宅保障の手当てが成されぬまま、単に介護保険の対象外へと居住費の移行がなされたのです。

 このような事を書きながら、いつも彷彿されることですが、我が国の制度・政策では、しばしば、欧米のそれをそのまま模倣することがあるようです。しかし特に注視すべきは、その殆どが、全体性を捉えることなく、ごく一部だけを切り取って導入するという遣り口が顕著であるということです。因みに、病院ではなく高齢者住宅での看取りが圧倒的に多いと言われている北欧を例に挙げ、我が国でも、施設や在宅での看取りが推奨されています。根底には、医療費の削減がある訳ですが、この場合でも、北欧の極端に一部の側面だけを切り取って、それを政府が意図的に取り入れている傾向が見られます。なぜなら、例えば、スウェーデンの高齢者住宅の従事者のうち約90%は看護師で占められているからです(准看護師が約85%で正看護師が約5%でしょうか)。日本の施設ケアや高齢者住宅における従事者割合では、看護師は精々5%〜15%の範囲ではないでしょうか。つまり、医療従事者の割合が、日本とスウェーデンでは真逆の比率で構成されているのです。その中にあって、スウェーデンにおける高齢者住宅や在宅での看取りの多さだけを取り上げ、我が国は、まさにそこだけを模倣しようとしているのです。

 話をもとに戻しますが、全体性を鑑みた上で、サ高住の置かれた状況を捉えてみれば、つまり、人々の住宅保障がとても貧困であることを基盤とした我が国の高齢者住宅施策を捕捉すれば、サ高住の賃料や共益費、サービス費などは、入居者負担をかなり押さえた価格帯の設定を行わなければ、平均月額5万円強の国民年金や平均月額15万円弱の厚生年金(男性17万円強・女性10万円強)では、サ高住の入居と、それに加えた形での医療・介護サービス費の自己負担が不可能であることが理解できます。

 であるならば、サ高住の運営事業者の多くは、サ高住の価格帯を極力下げることがまず求められており、その帰結として、サ高住単体での収支は相償か赤字であるものも少なくはないと認識しています。その結果、運営事業者の多くは、併設する介護保険事業の収益でその赤字を補填する傾向が強いように思うのです。なぜならば、介護保険事業は利用者の負担額が、今は一割となっていますので、その方が、否、そうでなければ、利用者の負担を極力抑えた形でサ高住を利用してもらうことが難しいからではないでしょうか。

 以上の様な制度・政策上の瑕疵を棚に上げ、事業者側に責任の転嫁を図り、悪質事業者を探して叩くという論法には大いに違和感を抱くところです。たしかに、悪質な事業者は存在すると思われますし、その様な事態を放置するわけにはいきません。しかし、そもそもその本質的要因は何処にあるのかにも留意が必要であり、事業者の全体傾向として冒頭の指摘の通りとなっているというのであれば、それは個別具体的な事業者の正否問題ではなく、その背景にある制度・政策問題であると捉えるべきです。

 私たちは、社会構造と環境の全体性を冷静に捉え、“犯人捜し”たる責任の追及を促進するのではなく、むしろ、その行動の背景にある原因の究明にこそ力を注ぐべきではないでしょうか。この視点のもとでこそ、真に人々の権利を守り、暮らしの質を高めるうる社会を構築することができるのです。



※「介護漬け横行 高齢者住宅 自治体の半数問題視」『東京新聞』2014年10月26日 朝刊



今こそ大同連合の秋 ��

2014/10/20 14:17:29  社会福祉


 厚生労働省(以下厚労省)は、介護保険にかかる施設・在宅サービス事業所の「経営実態調査」の結果をさる3日発表しました。同結果を踏まえて、財務省の諮問機関たる財政制度等審議会は、介護報酬を2015年度に全体で6%以上引き下げるよう10月8日提言しました。

 このことは、社会福祉法人を対象にした社会保障費の削減案とも言えますので、高齢者福祉の分野に留まらず障がい者福祉、児童福祉の分野にまで波及してくることが想定されます。いまこの社会における社会保障は減退と退廃の一途を辿っております。人々の経済格差を広げ、信頼の関係を稀釈化させ、本来市場原理にそぐわない領域にまでこの原理が侵食することで人々の暮らしの質を貶めています。

 今私たちに求められているのは、多少の思想や立場の違いを超えて、幅広い人々が、人々の暮らしと権利を守るために実に広範な連携と連帯の行動を起こすことにあると考えます。当事者・家族・支援者、そして、福祉経営者や議員、行政職員とが幅広い連携のもと大きな動きを起こすべく準備をはじめるべきだと考えるのです。

 いま社会福祉従事者は分野や職種を問わねば400万人は下らないと認識しています。今後介護人材の増加を踏まえると、この数は20年先には500万人を前後すると推察されます。そこに、当事者・家族を含めるとその数は更に倍増するのです。非常に残念なことは、人々の社会福祉の向上のために本来連携するべきこれらの人々が、分散・分割した実践を行っていることにあります。そして、中には、この“仲間”同士が対立している事象すら見受けられるのです。権力が民衆を統制する際の常套手段は、「分割支配」であると言われて久しい※。私たちは、分割・分断の中で活動を続けるのではなく、人々の社会福祉の向上、権利擁護といった大局観をもって連帯と連携へと向かうべきではないでしょうか。

 当然にこれは容易なことではありません。微妙な立場の違いからも、これらの人々は対立を起こす傾向にあるからです。しかし方法はあると私は考えています。なぜならば、これらの人々は本来対立すべき立場にはないからです。まずは、多少の違いを乗り越えるために、私たち自身が対話を重ねることから始めるべきだと考えます。その根気のいる対話の先にこそ、私たちが目指すべきあるべき社会の姿が見えるのです。


※ 著・パウロ=フレイレ、訳・三砂ちづる『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房2014年1月P.229 「少数者が多数者を支配するとき、抑圧するときのやり方は、多数者を分割して、それを維持するようにすることである。これが少数者の権力を継続させるために不可欠の条件となる」。



介護報酬マイナス6%改定論から透けて見える国民の暮らしに対する政府の姿勢

2014/10/09 12:08:36  社会福祉
 厚生労働省(以下厚労省)は、施設・在宅サービス事業所の「経営実態調査」の結果をさる3日発表しました。同結果を踏まえて、財務省の諮問機関たる財政制度等審議会は、介護報酬を2015年度に全体で6%以上引き下げるよう本日(2014年10月8日)提言すると各紙で報じられています。

 各紙による上記の根拠としては、「特養の利益率は8.7%で、一般の中小企業(2〜3%)を大きく上回っている。1施設あたりの内部留保は最大3億2300万円と試算され、見直しの必要性が指摘されている」ことや、「特別養護老人ホーム(特養)を独占的に運営している社会福祉法人の利益率を中小企業並みに下げ、税金と保険料、自己負担分から成る介護報酬(年間約10兆円)を6000億円以上圧縮したい考え」などと報じられています※1。

 これら要旨の一つは、特養を運営する社会福祉法人の利益率が中小企業に比べて高率であること、内部留保が一施設当たり最大約3億円で総額2兆円にのぼることがその根拠とされていること。そして、今一つは、これらが非課税法人である社会福祉法人を対象化した方針であるということです。

 アベノミクスに始まり、特に地方の中小企業はその低迷化が顕著であります。その中小企業と、人々の生存権を司る社会福祉法人のそれが同じであって良いのでしょうか。もちろん私は何も、中小企業はどうでも良いと言うつもりはありません。大企業優先の現在の政策に警鐘を鳴らしながらも、中小企業の経営安定化に対して政府は強い責任を有するべきだと述べておきたいと思います。

 私が言いたいことは、人々の最低限度の生命と暮らしを守る仕事をしている法人経営が決して脆弱であってはならないということです。そうでなければ、社会福祉法人といえども、彼らは、生き残りをかけて効率性と生産性を優先して、人々の生存権と尊厳の保障という本来の仕事から逸脱した道をとることになる恐れがあるからです。この様な、市場原理とは相容れない分野をそうでない業界と比較対照すること自体に強い違和感を抱かざるを得ません。

 当然に当の社会福祉法人自体にも問題はありました。多くの社会福祉法人が本来の存在意義を離れ、営利法人と同等に同じ土俵で相撲を取りだしたことにも大きな問題があったのです。もちろん、これは政策的誘導によって、乗ってはいけない土俵に引き出されてしまったと捉えることもできます。しかし、長年社会福祉実践に携わってきた実践家として、社会福祉経営者として、人々の尊厳と暮らしの「モノ化」に繋がる市場原理化に対峙することなく、むしろ、この流れにどっぷりと浸かって共に流されてしまったことに対しては、多くの社会福祉法人が猛省すべきことではないかと私は考えます。

 これら多くの社会福祉法人の責任を踏まえながらも、「乗ってはいけない土俵に引き出された」政策要因もここで示しておく必要があります。いみじくも、つい先日開催された厚労省の第5回社会保障審議会福祉部会において、公益社団法人全国老人福祉施設協議会参事の福間勉委員が示した資料から興味深い調査結果が目に飛び込んできました。社会福祉法人の社会貢献活動は、2001年以降に設立された法人の方がその実施率が明らかに低いというものです。本調査結果では、「生活困窮者等(何らかの支援を必要とする人々)への支援の実施状況」におけるほぼ全ての項目において、2000年以前に設立された社会福祉法人の方が、2001年以降に開設のものよりも、支援の実施率が高いことが示されています。特に、「社会福祉法人減免」や「利用者負担の軽減」といった経済的な支援や、「定期的な訪問」、「家事援助サービス」、「配食サービス」、「緊急時にかけつけるサービス」といったきめ細やかな暮らしの支援、そして、「福祉・介護相談」、「子供に対する学習の援助」、「家計収支等の相談・助言」、「福祉・介護機器の斡旋・貸出」、「日用品・被服の支給」、「宿泊施設の供与・食事の提供」という幅広い人々を対象にした支援に大きな“有意差”が見られています※2。これらは一体何を物語っているのでしょうか。2000年と言えば、社会福祉基礎構造改革と介護保険制度の創設の時期です。これらは、社会福祉制度に、市場原理が色濃く注入された時代であると言えます。つまり、この折、社会福祉分野に営利法人が本格的に参入し、その市場化と競争のもとに晒された社会福祉法人は、本来の職務を逸脱するべく、その流れに巻き込まれて行ったことが窺えるのです。実は、社会福祉分野の市場化こそが、社会福祉法人の本来の職務を逸脱させ、社会福祉法人の存在意義をも貶めることに帰結したと言えるのです。

 この様な状況下において、政府はイコールフッティングという名のもとに、民間事業者との公平な競争を担保するために、社会福祉法人の“優遇された”職員の賃金体系や退職金(社会福祉施設退職手当共済)を切り詰めてきました。何度も言うのですが、民間事業者を社会福祉法人並みに“優遇する”ことでも公平性の保持は可能なのですが、その様な議論は皆無でしたし、全くそうはならなかったのです。これらの出来事を通じて、私たちは、この「イコールフッティング」の真意を見抜くこともできます。

 以上の様に加速度的に、市場の構造に押し込められた社会福祉法人は本来の社会的責任を益々稀釈してきたのだと考えられます。この様な負の定向進化を経て、今度はその財政状況を一般企業と比較検討する段階に至っているのが、この度の財務省の提言であると私は捉えています。そして、これは、社会福祉法人にのみかかる問題ではなく、社会福祉分野に何処まで市場原理を導入すべきであるのか、その最終判断に関係する重要な議論となると思います。既に飛び越えた“一線”を、更にもう一歩飛び越える段階に来ているのです。これはおそらく、私たちの社会福祉分野が、市場化における最終段階、終末期に差し掛かったとものと認識すべきでしょう。

 斯くの如く、現下の社会では、社会福祉法人も、企業化を進めなければその維持も発展も難しくなっています。その為には、民間並みの会計制度や財政状況の強化が不可欠となるでしょう。一般会計の教科書などによれば、常時留保すべき現預金の額は、最低でも1月の売上高の1.7〜2倍程度が目安であると言われています。一般的な「特養」規模の施設であれば、1施設だけでも、最低1億円前後は必要となるのではないでしょうか。また、これら内部留保の使い道は、原則、災害時や経営不安定時における職員の給与保障のためのものであるはずです。この様な意味合いにおける内部留保が担保されていない不安定な企業に誰が進んで入職するというのでしょうか。その意味においても、社会福祉法人の内部留保が高額でけしからんということにはならないと私は考えます。

 かてて加えて、私が問題視することは、「介護の現場は人手不足が深刻で処遇改善への加算は拡充するが、それ以外では平均で6%のマイナス改定を求める」※3とあるように、法人の収入を減らした上で、介護職員には処遇改善の加算を別途増額することにあります。ここには、法人会計における事業収入と職員給与の一体化を度外視した発想が根底にあると言わざるを得ません。法人会計における法人収入と職員給与は当然重要な位置づけであり、これらが不可分一体の体系をなすことは自明の理ではないのでしょうか。法人の収入たる介護報酬を上げ、それを職員給与に還元しない法人と、そうでない法人などは、それこそ、政府の求める市場原理下で十分に淘汰され得るものであり、法人収入と職員給与を政府が二分するような指針を出すこと自体が欺瞞であると私は思います。特に、労働者の“売り手”市場と言われている本分野において、職員給与を削減していけば、人材の育成どころか確保すら覚束なくなるのは目に見えています。むしろ、法人全体の売上と職員の給与を分離するこれら政府の施策によって、法人内における共通理解は阻害され、そして、組織内での連帯ではなく対立をより促進する結果へと導かれることになるでしょう。権力が民衆を統制する際の常套手段は、「分割支配」であると言われて久しい※4。これらの政府の方針は、少なくとも事業者と職員、そして、この波及効果として、サービス利用者や家族をも巻き込んだ再分断化に作用すると私は読んでいます。この様な政策の陥穽にはまってはなりません。私たちは、これら問題の本質を見抜く力をもっと身につけるべきです。

 併せて、各紙における“誤報”についても警鐘を鳴らしておきたいと思います。「調査結果は、政府が3年ごとに行う介護報酬改定の基礎データとなる。全体的に高めの利益率だった背景には、介護職員の処遇改善を主な目的とした前回プラス改定(2012年度)の効果があったとみられる」※5。「マイナス改定になれば06年度以来、9年ぶりとなる」※3。執筆した記者に問いたい。3年前の改定のどこがプラス改定なのですか。3年前の改定は、厚労省の発表によれば1.2%のプラス改定でした。しかし実際は、従来から介護報酬外に存在する「介護職員処遇改善加算の創設」が含まれてのことですので、実質的に大きなマイナス改定であったと言えます。この様に政府の発表をそのまま報じる報道機関は、既に本来のジャーナリズムから逸脱していることもここでは付言しておきたいと思います。

 以上に叙述したように、私たちの社会福祉分野では、人々の尊厳や暮らしの保障とは相容れない市場原理の浸食が顕著であります。その政策的誘導の下に、社会福祉法人をはじめとした社会福祉事業者は、本来の社会福祉の理念と使命を減退させてきました。特に、社会福祉法人の多くは、イコールフッティングという名目で、その“恩恵”を削り取られ、営利法人との激しい競争下に晒され続けてきました。その結果、数多の社会福祉法人では、人々の権利擁護や社会貢献にかかる活動を稀釈させざるを得なくなったのです。これらの要因は、もちろん多くの社会福祉法人自体にもあるものの、政策的要素が本質としてあったことは明らかです。そのような状況をつくり出しておいて政府は、社会福祉法人に対して社会貢献活動が少ないと攻勢を仕掛け、利益率や内部留保の問題を指摘しているのです。政策的になるべくしてなった今の社会福祉の状況を、その政策的責任を省みず、社会福祉法人の在り方にのみ焦点化して責任の所在を問うているのです。そして、この責任追及は、社会福祉分野における更なる市場化の促進を強めていくことになるでしょう。

 現政権は消費税の増税と同時に法人税の減税を推し進めています。このことは、社会保障費の確保のための消費増税が全くの欺瞞であったことを示しています。そして、その流れの中にあって、この財務省の提言は、まさに、その姿を実に忠実に体現しているものとして捉えるべき現象なのです。


※1  『読売新聞』2014年10月7日
※2 公益社団法人 全国老人福祉施設協議会「社会福祉法人(老人福祉施設)における地域福祉活動について」 第5回社会保障審議会福祉部会 資料4 2014年10月7日
同P.7「<法人設立年別>
○ 法人の設立年と生活支援サービスの実施状況の関連については、ほぼすべての生活支援サービスについて、「介護保険施行前(2000 年以前)に設立された社会福祉法人」の方が、施行後(2001 年以降)に設立された法人に比べて、サービスを実施している割合が高かった。
○ 介護保険制度の導入を境に、法人の設立年によってサービス提供の実施状況に差が生じたことは、慈善・博愛と捉えていた福祉事業に対し、「措置から契約へ」と経営が質的に変化したことによって、社会福祉事業者のあり方が変容しているのではないか。設立年をはじめ、介護保険制度創設の影響による社会福祉法人の質の変化も勘案した議論が必要ではないか。
○ 2001 年以降に設立された介護事業行う法人は、介護事業以外の地域の福祉ニーズにも目を向け、生活支援サービスの提供によって地域福祉に寄与する社会福祉法人としての使命を果たすことが求められる。
○ 社会福祉法人ごとに歴史と理念が異なる中で、改めて社会貢献・地域支援事業に積極的に取り組む姿勢を育むことが重要である」。
※3 『日本経済新聞』2014年10月7日
※4 著・パウロ=フレイレ、訳・三砂ちづる『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房2014年1月P.229 「少数者が多数者を支配するとき、抑圧するときのやり方は、多数者を分割して、それを維持するようにすることである。これが少数者の権力を継続させるために不可欠の条件となる」。
※5 2014年10月3日『朝日新聞』




終末期にさしかかった信頼の絆

2014/09/21 17:40:17  社会福祉
 成長戦略のために、女性の社会進出と少子化対策を図ることが、第2次政権に改造しても、変わらぬ現政権の一丁目一番地であるようです。そんなさなか、地域住民と対立関係にあり、その開設や運営に支障を来している保育園の苦悩を報じる新聞紙面に目が留まりました。報道によれば、「子どもの声がうるさい」などとして、地域住民が近隣保育園を相手取り訴訟を起こしている事例や、住宅地に保育園を新設する際に、騒音や渋滞を理由に地域住民から反対運動に遭い計画が頓挫した出来事が描かれていました※1。

 また、同様の報道は、6月にも同紙で報じられており、これらの事象は全国津々浦々の普遍的な現象であると受け止めることができます※2。報じられた幾つかの事例で共通してみられることに、子どもたちの声を「騒音」に見立てた地域住民の訴えがあります。特にこの度の報道では、工場などを対象にした市の騒音規制基準を保育園にも適応すべきとの訴えが成されているようです。なるほど。確かに機械で測定した数値によって、それを「騒音」だと断じることは可能です。しかし、工場の騒音と、ここで言う子どもの声たる「騒音」には本質的な違いがあることを度外視するわけにはいきますまい。

 私は、工場や空港などにおける騒音と、保育園における子どもたちのそれは、本質的に異なるものであると認識しています。その理由は、保育園の「騒音」の発生源は、言わずもがな人であって、ましてや、子どもたちの発する言動は、その子どもたちの発達のために不可欠なものであり、それが認められなければ個人の権利としての発達が満たされなくなるという所にあります。つまり、この「騒音」が認められなければ、子どもたちにとっては、それは、尊厳と権利の侵害に直結すべきものであると言えるのです。また、市街地や住宅街での地域住民に対する「騒音」に気遣うあまり、郊外や過疎地域への保育園“移転”を考えた場合、保育園関係者以外の地域住民などの多様な人々との接点を子どもたちは奪われることになりますし、送迎にかかる負担を家族や保育園が強いられることにもなります。

 また、周囲の大人たちに気を遣いながら、その顔色ばかりを窺いながら育った子どもたちは、将来どのような大人へと成長を遂げるのでしょうか。こう考えれば、上記の大人たちのやり取りは、私たちの未来の社会に対する弊害を堆積しているとも断定できます。一方、工場や空港などにおける騒音はその発生源が、モノである以上、技術的な創意工夫や、場所の移転によって解決を図ればよいものと言えます。

 これらの本質的な問題を顧みず、両者を錯綜させた議論をしようという風潮に私は戸惑いを禁じ得ません。まるで、人間の権利や尊厳が、モノと同様に扱われているように感じてならないからです。このようなことに思い巡らせながら、私は一つの問題意識を抱くようになりました。人々の暮らしや生命、尊厳や権利の「モノ化」が著しく進んでいるのが、現下の社会ではあるまいかと。この様な「モノ化」が、人々の尊厳の対極にあるということは言うまでもありません。また、モノであるならば、市場による取引も可能となり得るのです。人々の尊厳と権利が、モノと同様に扱われてしまう斯様な社会が豊かであるとは誰も思わないでしょう。しかし、まさに、この社会はいまそういう秋(とき)を迎えているのです。

 今回取り上げた報道は専ら児童分野にかかるものですが、実は、高齢者分野においても酷似した事例は数多あると認識しています。例えば、私たちの法人が昨今開設した介護保険事業所の実に殆どが、近隣住民から“目隠し”の設置を求められています。どういうことかと言いますと、住民によれば、認知症の人から覗き見されたり、認知症の人と目が合うことや、こちらの姿を見られることが不安であり、苦痛であるというのです。私たちは、すぐにこの訴えを受け入れるのではなく、経営理念を説明し、地域にひらかれた実践を行いたいこと、そして、思われているような迷惑をかける可能性は然程ないこと、何かあった際は速やかに対応させてもらうことなどを説明するのですが、開設準備の僅かな期間では十分な信頼関係の構築が出来ていないことも相まって、結局は、“目隠し”のためのフェンスを設けなければならなくなることが幾度もありました。

 いま多くの人々は、他者への関わりに強い煩わしさを感じているように見受けられます。他者への関わりに、忌避感が募り、他者との関わりを避けているように思うのです。道端で倒れている人に誰も声をかけない光景に出会ったり、地域で挨拶をしても返事が返ってこない体験を通じて私はこのことを痛切に感じるのです。また、他者への関わりに対する忌避感は世代を超えても循環が見られます。例えば、関東の大学の学食では、カウンター式の“お一人様席”が流行し、学生が一人で食事をとることを好むようになっていることや、地域の子どもたちに挨拶をしても返事がないといった経験を重ねながら、これら他者に対する煩わしさは、子どもたちにも蔓延していることを知りました。

 他者に対する忌避感から、他者への関わりを避けることによって、人々は、他者に対する慮りを喪失していきます。そして、それが深化すれば、他者に対する無関心化が起こります。この無関心化のところで留まっておればまだ良いのですが、その先に、他者に対する不安と恐怖が蔓延していきます。障害のある方とどのように接してよいか分からないといったことや、如上の、認知症の人が何を仕出すか分からないといった不安もこれに当たります。そして、不安と恐怖の先には、他者との軋轢と対立の関係が待っています。冒頭の保育園の新設反対運動であったり、「騒音」に対して訴訟を起こすことなどはこの代表例と言えるでしょう。加えて、この様なもめごとに巻き込まれることを忌避するかのように、人々は他者との関わりを更に避けるようになっているのです。現下の社会は、この様な負の循環の中にあると私は日々感じています※図。

 しかし、人々が他者に対する忌避感を醸成するに至るには、そこには何らかの理由があったはずです。そうです。人々のこの行動の背景には、社会的要因が根底にあると私は考えています。その一つとして、如上で叙述した人々の生命や、暮らし、権利・尊厳の「モノ化」があり、今一つは、人々の暮らしの質が高まっていないばかりか、むしろ減退していることにこそこの要因があると捉えています。株価やGDPの数値は確かに高まってはいるものの、大多数の人々の暮らしの質はむしろ低下の一途を辿っている。私はこの様に現下の社会をとらまえています。であればこそ、人々は自らの暮らしを守ることに傾注し、その結果、他者への関わりや慮りを行う余裕が、精神的にも経済的にも低減しているのではないかと考えるのです。

 かてて加えて、経済至上主義のもと社会に競争原理が蔓延し、人々に大きな経済格差を生み出しています。そして、格差が更なる競争原理を生み出すというこちらも悪循環の中にあるように思います。この格差は、人々の健康や防犯等の安全にいたる暮らしの質を退廃させ、連帯や信頼の関係を稀釈することに作用しています。この経済格差も、間違いなく人々の信頼の絆を壊していると言えるでしょう。

 再び、先の紙面から引用しよう。「この地域で子育て中の主婦は『確かに幼児は騒々しい時もある。電車に乗ると周囲に嫌な顔をされることもある。息苦しさを感じるが、時代の流れなのでしょうか…』と漏らす」※1。人々の信頼の絆を喪失した終末期においては、子どもの尊厳や権利は侵されやすく、それを守るべき家庭の負担と不安は増大します。結果、大人たちは子育てに負担と不安を感じるようになり、これから生まれてくる子ども自身のためにも、子どもを産まない・育てない選択をするようになるのでしょう。斯くして、現政権の狙う成長戦略も成就せず、人々の信頼の絆は再生不可能なまでに漸次凋落していくことになります。

 しかし、この負の連鎖から脱却する方法は必ずあるはずです。一つの方法は上記で論じてきた通り、成長戦略ではない別の戦略をもって、経済格差と不平等を改め、人々の暮らしの質を高め、市場原理の対象範囲たる概念を整理し、市場化すべき領域とそうではない領域の峻別をはかることにあります。

 そして、今一つは、私たち実践家にも出来ることがあります。奥田知志は、「絆には『傷』が含まれている」といい、「絆とは傷つくという恵み」であるとまで開陳しています※3。この様に立場や思想の異なる人々同士が、お互いを理解し尊重するために必要なことは、関わりと対話の機会とその体験であり、この場合によっては「傷つけあう」体験を通じることにより、はじめて相互理解への接近が可能となるのです。この関わりの体験と過程を経由して、信頼の絆は少しずつ構成されて行くのです。そして、この貴重な体験ができる圏域は、まさに地域であり、地域こそが、他者との関わりと対話の体験を通して、立場や思想の異なる者同士の相互理解を促進していく豊潤な場所であると私は考えています。

 人々の体験の堆積が社会を構成し、この体験の如何がその時代をつくるのだと私は考えています。戦争を知らない世代が、つくっている今の時代は、まさにこの事を如実に現わしているのではないでしょうか。この重要な体験のできる豊かな場所たる地域において、多様な人々同士を繋ぎ、関わりの機会と体験の場を数多創出していくことが私たち社会福祉実践家の一つの仕事であると私は考えています。特に、地域から排他・排斥される傾向にある誰かの支援を必要としている人々を、地域に包摂していくことは、地域住民に対して非常に有用な体験を与えることが出来る実践となると思っています。この有用な体験を地域で数多創造し、負の循環を正の循環に変換させていくこと。地域の絆の実践は、まさに、このことを推し進めるための挑戦であり、多くの人々との連携のもと、この挑戦を更に増進していきたいと思いを新たにする昨今です。


※1 『朝日新聞』2014年9月17日
※2 『朝日新聞』2014年6月3日
※3 奥田知志『もう、ひとりにさせない』いのちのことば社P.209-211 2011年7月
「自己責任社会は、自分たちの『安心・安全』を最優先することで、リスクを回避した。そのために『自己責任』という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には『傷』が含まれているという事実だ。ランドセルを贈ることは容易ではない。費用がかかるし、何よりも勇気がいったと思う。本当にありがたく、温かい。ただ私は『タイガーマスクじゃあ、もったいないなあ』と思っている。タイガーマスクに申し上げたい。できるならば、あともう一歩踏み込んで、あと一つ傷を増やしてみませんかと。(中略)傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら『出会った責任』が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感や自己尊重意識にとって、他者性と『きず』はかくべからざるものなのだ。(中略)絆とは傷つくという恵みである」。



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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