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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

社会関係の臨界

2014/08/24 21:18:06  社会全般

「論争」に投稿させて頂きました。



 「9条の臨界」と題したコラム(「風速計」本誌1001号2014年7月25日)で、中島岳志氏が以下の様に述べている。「私は憲法9条に『他国防衛を旨とする集団的自衛権は行使しない』と明記すべきだと考えている。憲法に自衛隊の存在を記載し、国民の側から軍事力に縛りをかけるべきだ」。本文の全体を通じての氏のあるべき社会像や思想の本質には当然に共感している。しかし、如上の記載に対しては、やはり若干の違和感を抱かざるを得ない。議論を深めるために、筆を執ることにした。

 たとえば、私は社会福祉実践家である。実践家が実践をなすには、その思想的な拠り所が必要である。また、その実践家が組織に所属している場合は、組織の共通理解(common sense)としての組織理念が最も重要であると日々考えている。なぜならば、実践家は日々現場の中で、その時々に起きている目の前の困難を克服すべく現実的な判断を迫られることが多く、その現実的な判断は、社会福祉実践家が拠り所とすべき価値・道徳的な判断とは齟齬が生じていることが往々にしてあるからだ。現場には、最低限定型化してやらざるを得ない業務があり、また現実的な関係や環境におけるしがらみがある。であればこそ、原理原則論や共通理解の確認が実践家には絶えず求められているのだと思う。

 以上の様に、市井には、自らが置かれている現状・現実の中で、可能な実践を模索する経験的判断と、目的・未来に向けて私たちは何をすべきか・どうあるべきかを模索する価値・道徳的判断がある。特に実践家においてはその双方共に重要であるが、上記の如く、現場は、様々なしがらみに流されやすいので、時折立ち止まって価値・道徳的判断で自らの立ち位置を確認する作業が必要となる。

 さて、憲法についてであるが、この2つの判断の内、経験的判断というよりは、価値・道徳的判断に依拠している様に思われる。社会福祉実践家が重要視すべき13条と25条はいまや瀕死の状態である。条文と現実のあいだには、かつて経験して事の無い大きな乖離が生じようとしている。であるならば、これらを現状に即して、実現可能なものに変えた方が良いのだろうか。そうはならないはずだ。

 人々は今、画一化と多様性の喪失を基盤としながら、他者に対する関わりを忌避し、他者に対する慮りを喪失している。そこから、他者に対する無理解・不安・恐怖・軋轢・対立が生じ、加速度的に、他者に対する関わりに煩わしさを強めている。この負の循環の下にある現在の社会に求められていることは、人々の信頼の関係を再構築することであり、そのためには、あるべき社会に対する議論と模索が必要であると考える。あるべき社会とは何か。人々にその共通理解を促進する為に憲法は重要な役割を果たし得るはずだ。

 9条に臨界が来ているのではない。人々の信頼の関係にこそ、臨界が生じているのである。その信頼の絆を取り戻すために、この社会の臨界を乗り越えるために、むしろ9条は有効な手段となり得ると私は認識している。




「荒廃する世界のなかで」の社会福祉

2014/08/13 17:40:36  社会福祉


 我が国の社会福祉施策はいま一つの岐路に立っている。私がこの様に考える理由は、生活保護法の改悪と生活困窮者自立支援法の創設・医療介護総合推進法の成立・社会福祉法人制度の改革等、これらは社会福祉制度と実践の双方を漸次あるべき方向へと揺り動かす変革であると認識するからです。私たち社会福祉実践家は、今その時々、目の前の制度の変更にだけに目を奪われていてよいものではありません。政府が、このひとつ一つの変革を堆積し、人々をどのような社会へと誘っているのかを検証する必要があるのです。なぜならば、現下の社会がどのような趨勢・構造にあるのか、その事を理解することなしに、真の社会福祉実践など成し得ないからです。政府がどのような社会をめざし、そして、いま私たちの社会がどのような構造下にあるのか、少し饒舌感はありますが、ソーシャルワーカーの立場から検証を試みます。

 著書『荒廃する世界のなかで』を記した故トニー=ジャット氏によれば、公的部門の民営化は、納税者たる国民全体からみれば非効率であると断じています※1。赤字経営の状態にある公的部門を民間に委託するためには、政府による「法外な値引き」やリスクの除去・軽減が不可欠であり、その結果として「国家が安く売れば、損をするのは国民全体」という構図になるからです。また、氏によれば、民営化それ自体が経済の長期成長の刺激となっていることを確認しながらも、そこで得られた富の分配は、納税者・消費者から民間企業の株式所有者へと逆累進的に再分配が進んでいると指摘しています。

 巷間でよく見かける例で言えば、佐賀県武雄市の図書館業務のTSUTAYAとスターバックスへの委託、同市における小学校の一部業務をさいたま市の学習塾花まる学習会に委託することなどはその代表例として挙げることが出来るでしょう。この武雄市の取り組みなどは、マスコミも先駆的な実践として賛意を持って報道しているのですが、実は、これらの実践が蔓延していけば、国民全体にとっては不利益に帰結することへの理解が必要です。

 更に氏は、政府は、これら事業の「所有権」を民間部門に移行することで、道徳的責任を放棄することができるとも述べています。イギリスを例に挙げ、政府から民間部門に委託された事業の内、最も急激に上昇したのが、高齢者・子ども・精神障がい者向けの施設ケアであり、その結果、企業の利益や配当を増やすためにサービスの質が最低限度まで下げられたと結論づけているのです。社会福祉実践において、この公的責任の所在の問題ははるかに重要です。例えば、横浜市介護支援専門員連絡協議会の調査によると、「地域包括支援センターに併設されていない居宅介護支援事業所の半数以上が、新規利用者の獲得に苦慮している」と報じられています※2。同協議会の意見にもあるように、問題なのは、地域包括支援センターの多くが自治体から民間事業者に委託されているという事実であり、「結果的に市が特定の民間事業者を優遇してしまっている形になっている点」にあります。民間は公益よりも、組織の利益を優先する。そこから連なるように、公平性を欠いた判断をすることになるという典型例としてこれは分かりやすい調査結果ではないでしょうか。そもそも長きに渡って公的部門で成されていた事業は、それなりの理由があって、その役割を公的機関に委ねてきたはずです。そこには、公的な責任の固守であり、公正なる統制の機能があったことを忘却すべきではありません。

 さて、政府が目指す、そして、現下の社会構造の一つの特徴が民営化・市場化であることは言うまでもないでしょう。しかし、ここで問題にしているのは、長年公的部門で運営されてきた事業を次々に民間部門へと移行することの弊害です。民間部門は、自らの存続をかけて、常に利益を追求し続ける組織です。仮に、赤字になれば、事業の撤退・撤廃を検討するのが自然の流れでしょう。しかし、従来公的部門で担われているものの殆どが、たとえ赤字になったとしても、その事業の運営を継続しなければならないものなのです。消防や警察が赤字になるから撤廃すべきだという人はいないでしょう。福島第一原発のいつ終焉するのかさえ、誰も分からない最重大事故の処理を、膨大な経費の垂れ流しに繋がるので今すぐやめた方が良いという人も当然いないはずです。この様に、教育や医療、福祉、防犯・防災、環境などの人々の生命と暮らしにかかる分野は、収益の見込みがなくとも政府がその責任において取り組むべき範疇にあります。ここまで読めばお分かりでしょうが…、この社会における大前提となる基を失して議論がなされていることが、現下の社会福祉制度と実践の大いなる課題であるし、この流れが加速度化する分岐点に私たちは立っているとの認識が冒頭の発言に繋がるのです。

 であればこそ、目下議論の渦中にある社会福祉法人制度改革についてもこの視座によって論点を整理すべきであると考えています。社会福祉法人が収益を目的化する傾向が強まったのは、2000年の社会福祉基礎構造改革を淵源としていることは当時現場にいた者の皮膚感覚として強く理解しているところです。それ以前は、自治体直営の施設・事業所と社会福祉法人がほぼ対等な形で、各地における社会福祉の発展のため協働体制がとられていました。「対等」というのは、例えば、公立の社会福祉施設と同等の待遇を確保する観点から職員の給与や退職金(社会福祉施設退職手当共済)について公務員水準を確保すべく公的資金が補填されていたことを指します。

 しかし、社会福祉基礎構造改革以後、特に介護保険制度の創設によって、民間部門の参入を政府が促進し、社会福祉法人と営利法人の競争が始まると、競争における公平性の議論が喚起されることになります。その結果、イコールフッティングという名のもとに、社会福祉法人が今まで受けていた如上の“恩恵”は全て廃止されて来たのです。イコールフッティングというのであれば、別に、優遇されていない側を優遇されている側に合わせるという発想があっても良いものだと思いますが、政府の方針には公的負担の軽減が根底にある訳ですから、そうはならなかったわけです。

 また、地域に根差した互いに顔の見える中小規模の社会福祉法人と自治体の関係も、基礎構造改革以前は、凭れ合い・馴れ合いの関係であるとの批判を有しながらも、しかし、そこには一定の信頼関係が成立していた様に感じていました。顔と顔の見える関係を地域に構築し、両者の関わりの機会が多分にあった当時は、その信頼関係こそが双方の活動においてより重要であったのだと認識しています。当時は、自治体とサービス提供機関には、信頼の関係に基づいた指導・監督と運営があったのだと考えるのです。それが、大手の営利法人や多種多様な法人の参入によって、自治体とサービス提供機関は上記の信頼関係を逸していきます。この結果、自治体は信頼に基づく指導・監督ではなく、不審を前提としたものにその方法を転換せざるを得なくなりました。

 斯くして、サービス提供機関に対する自治体のチェック機能は強化されてきたのです。この様に民営化と市場化は、行政に膨大なるチェック機能を強いる結果となり、更にその帰結として、社会的コストが高じることや、自治体とサービス提供機関における信頼関係に悪影響を及ぼしていることにも注視が必要です。であればこそ、本来は自主性・創造性の重んじられる社会福祉法人の社会貢献活動についても、政府が義務化を図る対象とせざるを得ないのでしょう。

 しかし、いくら自治体がチェック機能を強化したとしても、民間に委託している以上、細部に渡るまでその機能を敷衍していくことは不可能です。その例は、いま巷を騒がしている未届・有料老人ホームや泊りデイサービスの実態把握及び指導・監督の難しさにも見てとれます。以上の様に、民営化と市場化は、自治体とサービス提供機関との信頼関係をも揺るがし、この瑕疵を基盤としながら、自治体のチェック機能の強化とそれを忌避するサービス提供機関との軋轢や対立を一部招いているようにも見受けられます。

 かてて加えてもう一つ、論じておくべきことがあります。先のトニー=ジャット氏によれば、「公共セクター崩壊がもたらす衝撃的な結果の一つは、私たちは自分と他者との共通点を理解することが次第に困難になってしまった、ということ」だと述べています※3。つまり、民営化と市場化そして、グローバル化によって、公益と私益が繋がっているという人々の共通理解が形骸化していることに警鐘を鳴らしているのです。私たちが皆社会化されている以上、他者との関係の中で各々の暮らしが成り立っていることは自明の理でしょう。自らの喜びは誰かの喜びに連なり、誰かの悲しみはやがて自らの悲しみへと繋がっていることが、公益と私益が相互作用の関係にあると捉える所以であると認識しています。そして氏は、この共通理解の希薄化が、例えとして、バスや電車、駅等の街並みにおける色とデザインの統一化を妨げるに至った現状についても論じています。このことは、まちづくりや地域福祉実践においてはとても重要なことで、民営化と市場化が、これら私たちの実践の妨げになっていると受け止めることができるのです。民営化と市場化が、人々の共通理解の稀釈を図るものであれば、現下の社会福祉実践における地域福祉や地域包括ケアが困難を極めている現実の理由についてもおおよそ納得がいくのではないでしょうか。

 以上、私たちがいま、社会福祉施策の岐路に立っている旨論じてきました。私たちの社会は、公的部門が公的責任において担うべき事業についても民営化・市場化が顕著であり、その結果として、国民の全体性からみた非効率化を招いていると結論づけることができます。この「非効率化」は、経済的な非効率性も然る事ながら、人々の信頼関係やそれに纏わる共通理解の喪失、まちづくりにおける弊害に至るまで多岐に渡って悪影響を及ぼしているのです。これら社会構造を大局観を持って捉えた上で、社会福祉の制度や実践を今一度捉えなおす必要性を感じています。なぜ、このような自明の理を執拗に論じなければならないのかと言いますと、社会福祉分野の研究者と実践家は、この社会構造をとらえる力や視点を度外視ていている傾向が強いように感じているからです。

 もちろん、実践家である私たちは、如上の構造に注視しながらも日々目の前の困難と向き合う必要があります。実践家はその実践をとどめる訳にはいきません。では、私たちがこの流れの中にあって今できることは何でしょうか。

 私たちの社会では今、人々は他者との関わりに忌避感を抱いています。例えば、高い塀に囲われた保育園。これらは、不審者の侵入を防ぐためであり、子どもたちの遊び声たる“騒音”で地域住民に迷惑をかけないための設えです。地域で挨拶をしても黙殺され、大学の学食ではカウンター式の“お一人様席”が流行しているのだとか。この様に他者との関わりの機会を減退させて行けば、他者に対する無関心化が進みます。無関心で留まっておればまだ救われるのですが、これが定向進化すると、人々は、他者に対する不安や恐怖を抱くことになります。障がいのある人にどう接してよいか分からない、といったことや、認知症のある人が地域で問題を起こさないだろうか、といった疑問や不安を住民が提示することもあります。不安と恐怖が更に深化すれば、言わずもがな、そこには軋轢や対立が生じてきます。障がい者の施設開設に反対する住民運動などを耳にすることもまだまだ珍しくはないのです。これら一見面倒な他者との関わりを横目に、人々は他者との接点を更に忌避するようになるという悪循環の中に私たちの社会はあります。そして、このことは社会における民営化・市場化の仕組みと密接な関係があると私は捉えています。

 そのことを前提に、私たち実践家が成すべきことは、この負の循環を正の循環に戻していくことにあると言えるのではないでしょうか。それは、限定された空間たる地域の中で、多様な人々同士の直接的な関わり合いや接点を創出していく取り組みであるとも言えます。中でも重要なことは、地域から排他・排斥されている傾向にある私たちのクライエントと、地域住民との関わりと接点の機会を積極的に創り出していく実践であると確信しています。先ほどの例で言えば、保育園の外壁を敢えて取っ払い、子どもたちの暮らしと存在、職員の仕事ぶりを地域にひらいていくことこそが重要なのです。このことは、子どもたちと私たちの職務を、地域住民に対して潜在化させるのではなく、意図して可視化・顕在化させていく活動であるとも言えます。もちろん、その地域にひらく過程での地域住民との対話の堆積は不可欠ですが…。

 私は人間を信じています。多様な他者との関わりの体験を通して、人々は他者への理解と慮りができるようになるものと信じるのです。障がいのある人との直接的な関わりを通して、認知症のある人に対する支援への体験を通じて、障がいや認知症の問題を身近なものとして、延いては、自らの事として捉える力を人間は有しているのだと信じています。

 また、この様な体験的な学習こそが、人々の意識と行動を変えるものと理解しています。人々は体験を通じて、自らの意識を構成しているのです。であればこそ、体験こそがその社会と時代を構築しているとも言えるでしょう。戦争体験の希薄化したこの社会の様相を見れば、これはとても分かりやすいことではないでしょうか。そこから転じて、これら直接接点を有する他者への慮りを始めた人々は、直接関わりを持たない他者への理解を獲得することができるとも考えています。例えば、空間的に離れた沖縄や福島の人々に対して、また、時間的に巡り逢うことのできない次世代の子どもたちへと。

 もちろん、これら他者との関わりは容易なことではありません。私たちも様々な他者と向き合いながら、共通理解が中々進まないことがあります。無関心や無理解のみならず、時には対立や軋轢を感じる場面に遭遇する事も決して珍しくはありません。しかし、この様な“煩わしさ”を乗り越えなければ、私たちは他者との共通理解に近づくことはできないでしょう。この他者との関わりにおける忌避感と煩わしさこそが、私たち社会福祉実践家が乗り越えなければならない第一の障壁であると言えるし、この忌避感と煩わしさの中にこそ、冒頭より叙述してきた人々が嵌まりつつある陥穽からの出口が見えるはずです。

 上記のことからもやはり、私たちの実践は常に地域にひらかれたものでなければならないと言えます。クライエントの暮らしと存在、そして私たちの仕事を地域にひらいていく実践こそが、民営化と市場化に代表される社会福祉制度と実践の過ちを少しは緩和してくれるのではないかと信じているのです。


※1 著トニー=ジャット・訳森本醇『荒廃する世界のなかで-これからの「社会民主主義」を語ろう』みすず書房2011年2月PP.124-138
※2 『週刊高齢者住宅新聞』2014年5月28日
※3 著トニー=ジャット・訳森本醇『荒廃する世界のなかで-これからの「社会民主主義」を語ろう』みすず書房2011年2月PP.138-154



社会福祉実践家こそが、集団的自衛権行使に抗議せよ!

2014/06/28 01:41:41  社会全般
 社会福祉実践は政治運動ではない。しかし、社会福祉実践家が、その専門的価値に基づいて政治活動をすることは忌避されるべきではありません。ましてや、人々の暮らしと人権が軽視されている今の世にあって、その人々の暮らしを守るべき立場にある私たちが、あるべき社会への接近のために、その手段としての政治に関与することはむしろ避けては通れないものと考えます。

 特定秘密保護法も然る事ながら、政府による集団的自衛権の行使は、社会福祉実践家にとって、人々の暮らしを最も悪化させる私たちの実践理念の対極にある行動であることを自覚せねばなりますまい。であるならば、社会福祉実践家こそが、この政府の体たらくに対して強く異議を申し立てるべきだと私は思います。以下、社会福祉実践家の立場から、この集団的自衛権についての問題提起を試みておきたいと思います。

 社会福祉実践家の使命は、人々の権利を擁護することであると言われて久しい。権利を擁護することにおいて一つ重要なことは、権利の侵害から人々を守るということにあります。もしくは、そのことを予防するということでしょうか。現代の戦争では、周知の通り、兵士よりも圧倒的に一般人がより多く命を落とす傾向にあります。集団的自衛権の行使は、自衛隊員に死を求めるということに帰結するが、その覚悟が政府にあるのか否か、という問いがよく巷で成されていますが、これはある意味間違った見解であると私は考えます。もちろん、自衛隊員が命を落とす確率は高まりますが、それと同時に、私たち自身が命を落とす可能性をより高めるものであることが明示されていないからです。

 戦争は、非人間的・反人権的な行為であり、暴力行為そのものであることは自明の理です。そのような状況に巻き込まれて、もっとも人権の蹂躙を受けるのは一体誰でしょうか。それは、女性と子ども、そして、自らの暮らしにおいて誰かの支援を必要としている人々、私たちのクライエントの生命と暮らしが最も侵害されることは言うまでもありません。だとすれば、戦争は、私たち社会福祉実践家の実践理念とはやはり真逆の位置にあることが理解されます。自らの暮らしに課題を有し、社会から排他・排斥されている人々の権利と暮らしを守る私たちの実践は、戦争と正反対の位置にあり、それは平和維持への貢献に繋がっていることに私たちはもっと誇りを有するべきだと思います。

 そもそも、戦争は権力の暴走に起因してなされます。丁度今の日本社会がそれに当てはまるのではないでしょうか。権力の暴走は、人々の人権が軽視され、あらゆる自由が喪失されていく中で起こり得るものです。言論・信教・表現・教育等のあらゆる自由が人々から簒奪されて初めて権力は暴走を果たします。これらは、特に、生存権と幸福追求権の侵害によって促進されて行くと言えるでしょう。よって、人々のこの生存権と幸福追求権を守っている私たち社会福祉実践家が各地で織り成す営みは、人々の権利を守ることに終始しているのではなく、その先にある権力の暴走への歯止めをかけていることになります。まさに、戦争を防ぎ、平和を維持しているのです。

 先の権利擁護の件に戻りましょう。権利擁護の実践は、人々を権利侵害から守り、それを防ぐことにあると述べました。今一つ重要なことは、人々の自己決定の尊重にあります。この度の集団的自衛権行使は、憲法解釈の変更という手続きを取ることによって、国民の意見を度外視した上で、政府が独善的な決定を行っていることになります。まさに、国民の自己決定を黙殺した手法であると言えるでしょう。よって、これも、社会福祉実践とは対極にある行動と言わざるを得ません。

 かてて加えて、とても重要な視点が抜け落ちていると思います。仮に、選挙で選出された国会議員がその帰結を経て、集団的自衛権の行使を画策している、よって、これはある種の国民の自己決定によるものだとの論理が成り立ったとしても、それだけでは済まされない問題があるのです。

 それは、例えばこの憲法解釈の変更がなされたとして、この変更を容認した国会議員が、その結果に責任を果たすことがあり得るのだろうかという問題です。つまり、このことによって将来、我が国が戦争に巻き込まれたとして、そこで命を落とす可能性が彼らにあるのかという問題提起です。恐らく、彼らの多くは、その頃、寿命を全うしているのではないでしょうか。つまり、この集団的自衛権の問題は、「私たち」がその責任を直接的に負う立場にはない問題なのです。

 言わずもがな、今の子どもたちがその災禍に巻き込まれる可能性がある。であればこそ、この決定は子どもたちの視点を代弁し、子どもたちを巻き込んだ議論を経て行うべきです。それ程までに、丁寧で慎慮な議論が求められている事柄であると言えます。現在の私たちの愚行に対する責任が、私たち自身に降りかかってくるのであれば百歩譲って文句は言いますまい。しかし、その責任と結果を、次の世代に押し付けることが本問題のもっとも愚劣で破廉恥な部分であり、これこそが、この度の政府の行動の本質であると私は捉えています。

 つまり、今の子どもたちが大人になり、今のオトナたちの選択の帰結として、戦争に巻き込まれそうな事態に見舞われた時、それに抗う方法がなければ、それは彼らの自己決定とは到底言えないのです。この事においても、人々の自己決定を尊重する社会福祉実践家としては、当然看過するわけにはいかないのです。

 権力は暴走すると述べました。その歯止めとなる憲法そのものを、権力の側が、その改正手続きを黙殺し、解釈の上で改めようとしています。そして、そこに異を唱える勢力が衰退の一途を辿っている現状を鑑みれば、これは戦後70年の歩みの中で今現在を迎えていると言えなくもありません。この現在の体たらくを70年の歳月をかけて堆積してきたのだとも言えるでしょう。つまり、過去70年の歩みは今現在のこの社会の様相に向かっていたということです。この理の中にこそ、今から70年未来の人々の暮らしに対する今現在の私たちの責任があることが、はっきりと見てとれるのではないでしょうか。個人の寿命に比べて、社会の寿命はとてつもなく長い。であればこそ、次世代・次々世代を担う彼らの“自己決定”を慮りながら、それを代弁しながら現在の決定を図って行っていく責任が私たちにはあるのです。

 そして、更に気になることがあります。それは、この様な多くの人々の生命と暮らしについて、それが大きな危険に晒される可能性を高める決定を政府が意図的に、そして、感情的に推し進めていることにあります。言うまでもなく、人の生き死にかかる重要な決断を決して感情論で行ってはなりません。

 予てから社会福祉実践家は、死刑廃止論者であるべきだと考えてきました。死刑についても、被害者側の感情論でその議論が成されている傾向がありますが、これは社会をより危険な状況に貶めることに繋がると私は考えます。被害者側の心境は、当然共感に値しますし、その暮らしに対する支援は怠るべきではありません。その事を前提として、この事を、加害者の死刑に結び付けることはやはり感情論であると私は認識するものです。

 人権や生命に例外を設けてはいけないと私は考えていますし、このこと自体には、多くの人々の賛同が得られるものと認識します。であるならば、重大な罪を犯した人々の人権と生命も同様に考えるべきだというのが、私の社会福祉実践家としての立ち位置であります。特に一時の感情によって、失われてよい人権や生命などこの世に存在しない。この原則こそが、社会福祉実践における権利擁護や社会正義、平等主義とも平仄の合う思想であると言えます。社会福祉実践家も、クライエントの人生の岐路に立つ支援を行う場面がありますが、そのような重要な分岐点でこそ、感情優位ではなく、冷静に覚めた頭でクライエントと向き合うことが求められているのです。

 以上の様に重要な政策ほど、感情論で推し進めてはなりません。ましてや、今議論の渦の中にあるのは、個人の生死のみならず、自国他国の如何を問わない多くの人々の生死に敷衍していく問題な訳ですからこれは当然の事です。

 また、人々の生命を守る哲学は、抑止力だけではありません。少し前に、拳銃を家庭で保持しないことを決めたアメリカ人の論文を読んだことがあります。拳銃を所持していると暴発して命を落としたり、他者に誤解を与えることで不要に家族の生命が危険に晒される可能性が高まると考え、この家庭では幾世代にわたって拳銃を保持していないといった内容でした。個人レベルであれば、拳銃でしょうが、国家レベルになればこれは大量破壊兵器を用いることになります。抑止力に頼る前に、他にやるべきことがあるその叡智を示唆する事例ではないでしょうか。

 我が国の武力行使の範疇を広げることで想定されるのは、可能性の極めて低い政府が示す事例において国益を守ることなどでは断じてなく、人々の殺し合いの負の連鎖に国民が巻き込まれることにあります。前者の在りもしない国益を守るために、後者の大変大きな危険を国民が請け負うことになるのです。しかも、それを実際に背負わされるのは、現在閣議決定に奔走している人たちではなく、現在選挙権すら持たない子どもたちであることを忘れてはなりません。

 かつて中東のイスラーム諸国で日本人がテロに合うことなどありませんでした。それを、小泉政権がイラクに自衛隊を派兵した帰結として、その信頼関係が悪化し、複数の日本人が生命の危機に晒され、そして、幾人かの方は実際に命を落としています(2004年4月〜2005年5月)。つまり、それは、アメリカの侵略を支持した我が国が、正式にはその政権が支持したのであっても、すべての国民が支持をしたわけではないのだが…そうであっても、反アメリカ勢力にとっては、アメリカと同じ“敵”と見なされた瞬間でもあったのです。

 そう考えれば、この度の集団的自衛権の行使は、この負の連鎖を周辺地域に創出し、周辺地域の不安定化に大いに“貢献する”こととなるでしょう。斯くして、我が国の危機はかつてない高まりを見せることになります。その結果、国民の暮らしは不安定極まりないものへと化して行くのでしょう。

 そもそもこの度の集団的自衛権にかかる政府の議論は感情論以前に理論的に破綻しています。個別的自衛権で対応できることを、わざわざ集団的自衛権を引合いに出し、それで対応しようとする点。自衛権の限定的行使と言いながらも、その中身が極めて曖昧模糊としており、時の政府の恣意性・裁量性の高いものとなっている事。斯様な支離滅裂な説明と論理的な不整合において、この重要な憲法解釈の変更を推し進めようとしているのです。

 言うまでもなく、組織におけるトップとは、その組織を守る最終責任者を言います。この場合、国民の生命と暮らしを守る最終責任者が内閣総理大臣でありましょう。であれば、トップには、あらゆる私信を捨てて、国民の生命と暮らしを守る責務があります。残念なことですが、今の彼に、その資質があるとは到底思えません。そして、その資質の無いトップが支離滅裂な議論を押し通す背景には、国民の暮らしと存在に対する軽視があります。彼らが思うほど、私たちが決して無能では無い事を示せるかどうか。今現在の私たちの資質も同時に問われているのです。

 最後に、国益とは、全ての国民の利益を指します。国民の利益とは、国民の生命を守り、暮らしの質を高めることにあるはずです。であればこそ、社会福祉実践家は、この真なる国益を意図した実践を行うことにその面目躍如があります。一方でこのトップの言う国益とは、真なるそれで無いばかりか、むしろ私たちのいう国益とは対極の位置にあることを改めて検証する必要があります。



本質を失した「介護職」報道

2014/05/15 01:26:58  社会福祉
 最近発売されたばかりの『週刊東洋経済』(2014年5月17日号)を手にしています。「誤解だらけの介護職 もう3Kとは言わせない」と題した特集が組まれているからです。約40頁にも及ぶ大々的な特集となっています。人材マネジメントにおける具体的な実践例も示されており、そのこと自体は有意義であると思って読んでいましたが、本質論としては大きな問題を有する特集であると私は認識しました。つまり、ソーシャルワーカーとしては看過できない内容であると思われます。その理由を含め、以下叙述をしておきます。

 まず大前提として、言わずもがな、福祉や介護の仕事の素晴らしさについては、日々強く私も認識している所です。特に産業界の仕事と比較すれば、社会的使命や役割、責任がより実感できる数少ない仕事であると言えます。市場原理や競争原理に強く晒されている産業界の仕事では、組織や個人の利益が最優先される傾向があり、社会的責任や使命感は希薄化される状況にあります。自社製品よりも他社製品の方が優れていると自覚しながらも、自社製品を顧客に勧めざるを得ない環境や、自社製品を用いて顧客が傷つくことも想定されるでしょう。一方、私たちの仕事は、専門性を踏まえた実践を展開する限りにおいて、不幸な人々を生み出しにくい構造下にあると言えます。クライエントの暮らしの質を高めることに焦点化した実践を行うことこそが主たる仕事と言えるのですから。

 社会的責任や使命感の強い仕事。つまり、全ての人々の暮らしにおいて必要不可欠な仕事である以上、私たちの仕事は公益色の強い仕事であると言えますし、であればこそ、この仕事は、公的責任において維持・促進されるべき性格を有していると考えられます。北欧をはじめ、多くの欧州諸国では、社会保障の位置づけのもと、政府の責任においてこれらのサービスが提供されているのは周知の事実です。我が国においても、生存権や幸福追求権を鑑みれば、当然に、政府の責任においてこれらサービスの質は担保されることが大前提としてあるはずです。

 これらの事を踏まえた上で、本特集について検討を行います。特集では、まず、「介護職の賃金水準がほかの職種と比べて際立って低いといえる統計的な材料はない」と論じます※1。厚生労働省の賃金構造基本統計調査を見れば、他職種と比べてその差は明らかではあるが、介護保険制度が始まってまだ14年であるので勤続年数の浅い人々のデータが殆どを占めていると言うのです。「そこで、勤続年数と年齢を考慮して賃金カーブを作成してみると、(中略)全産業計との差はぐっと縮まる」と結論づけています※2。経験年数の浅い人のデータが殆どであると論じながらも、如何にして、経験年数と年齢を考慮したデータを作成したのかがそもそも不明ですし、この「賃金カーブ」の作成根拠は全く示されていません。

 加えて、「そもそも介護職の離職率は決して高くはない」と断じます※3。「確かに介護職の離職率は、全産業の平均と比べれば2〜3ポイント程度高い状況が続いている。しかし逆にいえば、数ポイントの差にすぎないともいえる。(中略)だがほかのサービス業と比べるとむしろ離職率は低く抑えられているとさえいえる」のだとか※4。学生アルバイト等の雇用形態が当てはまりにくい福祉・介護分野と、そうではない宿泊・飲食サービス業や娯楽業とを比較すること自体に問題があると思われますし、2〜3%の差が僅かであると断じる根拠もよく理解が出来ません。

 他方、同じ報道機関であっても、例えば、毎日新聞では次のような件を引用することが出来ます。


 「介護労働者の賃金は他業種に比べて低い。全国労働組合総連合のアンケート調査(昨年10月)では、手当を除く正規職の平均賃金は20万7795円。厚生労働省調査の全産業平均(29万5700円)を約9万円下回る。
 長らく介護は主婦による家事労働とみなされてきた。職業としての確立が遅れ、低賃金から抜け出せない。介護労働安定センターによると、介護職の離職率は17.0%(2011〜12年)で、全産業平均(14.8%)を上回る。求職者1人に働き口がいくつあるかを示す2月の有効求人倍率は2.19倍。全産業平均(1.05倍)の2倍だ」※5。


 また、本誌で示されているこれらが事実であるならば、今まで、いや、今現在も、政府や全国各地で議論を繰り広げている福祉・介護職員の低賃金や低定着率に対する取り組みは全く不要であると言えるでしょう。本当にそうなのでしょうか。この様な根拠の浅薄なデータや理論をもとに、介護職は低賃金ではなく、離職率も高くはないと報じられることに私は強い違和感を抱かざるを得ません。

 そして、本特集では、全国の素晴らしい個人や組織の実践が数多描かれています。中には、「介護業界は賃金が低いといわれるが、私は20代で横浜に一戸建ての家を建てることができたし、仲間たちも30代で購入。年収700万〜800万クラスもいる。努力次第で収入はついてくる」といった実践家のコメントも載せられているのです※6。

 私は、これら先駆的な個別の実践自体は素晴らしいと心底感服していますし、今後もこれらの取り組みは広がっていくべきだと切望しています。そこのことを前提としながらも、頑張って成果を上げることのできた一部の成功例を取り上げて、これら福祉・介護人材の問題を、組織や個人の取り組むべき課題へと帰結させる論法に猜疑心を抱いてしまうのです。当然に頑張っている人々は称賛に値します。この中には、私の知っている人たちも多く取り上げられていますのでその事には全く以って異論はありません。

 しかし、特別に頑張っていなくても、先駆性や開拓性を有さずとも、全ての福祉・介護職の暮らしを守っていくことが重要であると私は考えます。社会問題を捉える上で必要な視点は、ミクロ・メゾ・マクロ領域でそれぞれの要因を抽出することにあると認識しています。ましてや、前段で確認した通り、私たちの仕事は、公益性の高い営みであり、これらは政府の責任においてその質が担保されるべき前提を論じたところです。であるならば、マクロ領域たる政策や制度における課題の抽出と対策こそが急がれるはずです。この特集で最も欠けている視点は、まさにこのマクロ領域の分析であり、全ての要因を個人と組織に帰している点において、ミクロ・メゾ領域の議論に終始した論調であると断定できます。

 執拗に確認しておきますが、個人の心の持ち方の工夫や事業所努力は当然にあってしかるべきです。しかし、その質の担保における本質的な責任は政府にあるはずだと言いたいのです。その視点が欠如しているという意味において、残念ながら本特集は本質を欠いた代物であると断言できます。

 どのような人々がこの特集を編集したのかが少し気になり、「編集部から」の欄に目を向けました。すると、「来年度の報酬改定に向けた議論が始まったタイミングで、『介護職の給料は低くない』と書くことにためらいもありました」とあるではありませんか※7。つまり、この特集が介護報酬の引き下げに繋がる可能性があることを認識した上で、編集及び発表に踏み切ったと言うことです。尊敬すべき友人から教わった事があります。知識人は、講じた「状況」に対してではなく、その「結果」にこそその責任を有するべきであると。このことは、マスメディアの役割にもそっくり当てはまります。如上の報道が、何に利用され、どのような結論へと導かれるのか。その想像力こそが、特に、現下の報道機関には求められていると私は考えます。

 いみじくも、福祉新聞の次の行を彷彿しました。


 「麻生太郎・財務大臣は22日の経済財政諮問会議で、特別養護老人ホームの介護報酬を適正化する考えを明らかにした。収支差率が高く内部留保が多額な半面、常勤介護職員の賃金が低いとし、『この点は2015年度予算編成の重要課題だ』とも述べた。会議後の会見で甘利明・経済財政担当大臣が麻生大臣の発言を紹介し、『収益を賃金に還元すべきという提言だと思う』とした。介護報酬の引き下げ圧力が高まるのは必至。15年度の介護報酬改定に向けた厚生労働省の審議会は4月28日に始まる。それに先駆けて財務省が給付増をけん制する狙いがあると見られる。諮問会議は6月に経済財政運営の基本方針(骨太の方針)をまとめる」※8。


 個人や組織の素晴らしい実践を称賛すること自体は忌避すべきことではありません。しかし、その「称賛」の影で、この「称賛」を隠れ蓑にして、大事な本質を捉える観点が稀釈されるのであればこれは大いに問題です。私たちは、ミクロ・メゾ領域の実践に終始することなく、マクロ領域の視点と実践をも意図する必要があります。この度の特集に対して、批判が顕在化していない現象を鑑みれば、まさに、このことこそが我われ福祉・介護人材の弱点であることが確認できます。



※1 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.48
※2 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.46
※3 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.51
※4 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.49
※5 「介護職 低い賃金で疲弊 相次ぐ離職『仕事夢ない』」『毎日新聞』2014年4月27日
※6 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.52
※7 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.117
※8 「介護報酬の引き下げ圧力高まる 麻生・甘利両大臣が言及」『福祉新聞』2014年4月28日



社会の絆を壊した判決

2014/04/27 00:35:56  社会福祉
 今の司法は一体何処を向いているのか。そのことを大変わかりやすく物語っている判決が出ました。

 愛知県大府市の認知症の男性(当時91歳)が、列車にはねられ死亡した事故に対して、JR東海が損害賠償請求訴訟を起こした一審と二審の判決についてです。名古屋地裁の一審判決では、介護者たる妻と別居中の長男に請求通り約720万円の支払いが命じられていました。その愚劣さについては、過日のブログでも吐露した通りです。

 あまりの傍若無人な判決に対して、世論は大勢批判と非難を浴びせていましたし、私の周囲にいる司法関係者も当然にこの結果はおかしいと言っていました。そのことを踏まえて、私は、この一審判決は大変特異な判決なのだと受け止め、二審ではこの判決が覆るだろうと高を括くっていたわけです。結果はしかし、この思いの方を大きく覆すものとなりました。二審では、その請求金額が半減し、別居中であった長男への請求を棄却したのみの“改善”であって、本質的には何の変化も見られないものが示されたわけですから。こうなってきますと、これは、決して「特異」な判決ではなく、現在の司法における普遍的な判断と捉えるべきなのでしょう。

 この判決が、何処に問題を有しているのかを説明するのは簡単なことです。単純に二つの観点で説明がつくのではないでしょうか。�仝朕夕腟舛魴攣襪靴寝搬下腟舛糧�想、�⊆匆駟歉磴篌匆駟〇磴紡个垢詼楴舛療抒飴襦0焚爾房禊馨椶靴�叙述を試みます。

 まず、�,砲弔い董�新聞紙面では以下の様に報じられています。


 「相当前から長男は男性と別々に暮らしていて、経済的な扶養義務があったに過ぎず、介護の責任を負う立場になかったとして、男性への請求を退けた。一方、妻については配偶者として男性を見守る民法上の監督義務があったと判断。高齢だった(当時85歳)ものの、家族の助けを受けていて、男性を介護する義務を果たせないとは認められないと判断した」(括弧内は中島)※1。


 認知症高齢者と同居する家族介護者には、介護や監督をする義務があるというのですね。もちろん、その認知症高齢者が同居家族などから虐待や拘束等の権利侵害を受けることは許されず、この様な権利侵害を防ぐ義務は、すべての人々と等しく同居家族にもあると言えるでしょう。しかし、その認知症高齢者が地域社会で起こした過失の責任に対してまでその同居家族が負わなければならないとの判決は次の点において行き過ぎたものであると断じることができます。

 一つは憲法13条で示されているように、私たちは、ひとり一人が個人としての尊厳を有していることが社会の共通理解としてあるはずです。であるならば、個人が犯した罪は原則個人がその対応を迫られるべきです。もちろん、その個人が少年であったり、障がいのある人である場合などはその責任能力に応じて断罪する必要はあるでしょう。また、その個人の罪への要因は、社会環境との相互作用によって起こっていることを考えれば、その社会全体の課題や責務についても考えざるを得ないところです。しかし、それは、飽く迄も「社会全体の」を指しており、以下に示していくように、ごく一部の「家族」に押し付けるべきものではありません。それら「配慮」を行った結果、「罪」への対応が、処罰から教育や指導に転換されたり、場合によっては処罰の軽減に繋がることもあるのです。しかし、以上は全くそれだけの話であって、個人が犯した罪は、その個人に帰結することの本質には変わりがないはずです。

 しかし、その一方で、特に我が国においては、時折おかしな事象を見聞することがあります。罪を犯した人のその家族のプライバシーを暴露したり、その責任を問うような報道が成されることは珍しくはありませんし、まだ罪を犯したことが法的にも未確定の時点たる「容疑者」の段階でも、これらの事は至極当然の如く成されているのではないでしょうか。罪を犯した本人のみではなく、その家族に対してまでその責任を問う価値規範が蔓延しているのが我が国の社会の一つの特徴であると私は捉えています。そして、まだ罪が確定していない、責任の所在が明らかではない段階においても、その「責任」は家族にまで及ぶ構造があるのです。

 これらの事を考えると、いわゆる自助・互助・共助・公助の範疇の内、司法と世論が自助に重きを置いていることを窺い知ることが出来ますし、その自助の範疇に家族までを位置付けていることも強く認識するに至ります。しかしこれらは、介護を個人的な暮らしの課題と位置づけず、社会全体で取り組むべきものだと謳っている介護保険制度や、2012年度から本制度の目玉とされているそれを地域全体で支え合う地域包括ケアの概念からも逸脱したものであると言えます。

 そして、ここで�△墨辰和海�わけです。そもそも人々の暮らしの課題の全てはその本人や家族のみで克服すべきものなのでしょうか。個人の責任は個人に帰する。もしくは、家族が被ぶればよいというのであれば、政府や行政は元来不要であるということになります。これは、ソーシャルワーカーでなくとも理解できることだと思いますが、個人の暮らしは、その周囲にある社会環境との相互作用によって成されていることがその大前提ですし、であるならば、自己責任論などという論理はそもそも成り立たない代物であると論じることもできます。ここに、社会保障や社会福祉の必要性が主張されるようになるのです。

 人々が尊厳ある自らの暮らしを自助によって担保することが出来ない場合は、公的な責任を遂行してその個人の暮らしを守っていくことが社会福祉の役割であると私は考えます。であるならば、本判決は、この社会福祉の本質を揺るがしかねないものであると断じることが出来るのです。この認知症のある方に対する公的支援にかかる責任は何処にも謳われていないからです。仮に、公的責任の言及については本裁判の主旨ではないにせよ、その責任を一方的に、同居する当時85歳の妻に求めている訳ですから、本判決は自己責任論と同一基底にあると断定できます。

 認知症有病者数は2012年時点で462万人にのぼるとされています※2。2012年の労働者人口が6720万人と言われている訳ですから、その数の多さは社会問題として注視に値します。また、同年「徘徊」によって、行方不明届が警察に提出された数が9607名分であり、2013年末時点でその内180名の方が行方不明のままであるとの報道もなされています※3。

 これらを鑑みれば、この認知症の問題というのは明らかに社会が取り組むべき問題であることが理解できるでしょう。であるならば、これらの問題を克服するためにはどのような規範と視点が重要となるのでしょうか。

 一つは、この問題を個人の、家族の問題として整理するのではなく、社会全体の問題であるとの認識を広範で多様な人々と共有することが必要です。これが、人々の人間の尊厳にかかる問題である以上、ここには政府・行政の責務も認識されるべきでしょう。その上で、本課題を本人と家族に押し付けるのではなく、支援の補充・充実によって、これら問題が生じぬよう予防を促進していくべきです。

 実は、先ほど、「個人が犯した罪は、その個人に帰結すること」について叙述しました。原則論として、これは否定されるべきものではないでしょう。しかし、社会構造のもとで暮らす人々の行動の影には必ずその社会的背景が存在します。であるならば、「個人が犯した罪」をその個人に帰結させることで、この罪の終結を図るのではなく、社会全体の課題として捉える姿勢も私たちには求められているはずです。認知症の問題に拘わらず、罪を犯した人々に対してもこの様な視点は重要です。つまり、加害者にも被害者性があることに想像を及ばせる必要があるのです。

 話をもとに戻しますが、その上で、万が一冒頭の様な不幸な事故にそれが帰結したならば、その起こった事故に対しても、社会全体で支える仕組みが必要なのではないでしょうか。そもそも、暮らしに課題を抱える人々と共に暮らしていくためには、この様な問題はつきものです。これ程までに大きな事故でなくとも、誤って、警報機を鳴らしたり、菜園の作物を収穫したり、近所の家の敷地内に入ったり等々、枚挙に遑がないほどに小さな問題は各地で起こり得るものです。そして、これらの問題を完全に起こさぬようにする方法は一つしかないでしょう。それは、認知症のある人との共生を社会が断念することでしかありません。

 しかし、そのような社会や国は、国際社会からは凋落した存在としてまず相手にされることは無いでしょう。また、誰かを排他・排斥する社会は、多様性を失した画一化した社会であり、全ての人々の尊厳が守られぬ社会であるとも言えます。その意味において、本判決は、真の共生社会の構築に向けた流れにも大きく水をさすものであると言えます。

 いま我が国の政治は益々、格差を醸成し、社会的少数派や弱者に対する慮りを喪失しています。また、それを実に巧妙かつ潜在的に推し進めていることに誰も警鐘を鳴らさない様相を呈しているのではないでしょうか。こんな時こそ、三権分立における司法の役割が求められているはずです。その司法が本来の役割を果たせていない、その傾向をひとつ顕著に示したのが本判決であるとも私は受け止めています。


※1 久保田一道「認知症で徘徊し線路で事故、遺族の賠償減額 名古屋高裁」『朝日新聞』2014年4月24日
※2 「認知症、高齢者の15%に 厚労省調査、85年から倍増」『朝日新聞』2013年6月1日
※3 畑山敦子「認知症で行方不明届け出、延べ9607人に 2012年」『朝日新聞』2014年4月25日「認知症が原因で徘徊し、家族らが行方不明者として警察に届け出た人の数が、2012年に全国で延べ9607人に上ったことがわかった。9376人は同年中に居場所がわかり、大半は無事だったが、13年末時点で約180人が行方不明のままだ」。



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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