「論争」に投稿させて頂きました。
「9条の臨界」と題したコラム(「風速計」本誌1001号2014年7月25日)で、中島岳志氏が以下の様に述べている。「私は憲法9条に『他国防衛を旨とする集団的自衛権は行使しない』と明記すべきだと考えている。憲法に自衛隊の存在を記載し、国民の側から軍事力に縛りをかけるべきだ」。本文の全体を通じての氏のあるべき社会像や思想の本質には当然に共感している。しかし、如上の記載に対しては、やはり若干の違和感を抱かざるを得ない。議論を深めるために、筆を執ることにした。
たとえば、私は社会福祉実践家である。実践家が実践をなすには、その思想的な拠り所が必要である。また、その実践家が組織に所属している場合は、組織の共通理解(common sense)としての組織理念が最も重要であると日々考えている。なぜならば、実践家は日々現場の中で、その時々に起きている目の前の困難を克服すべく現実的な判断を迫られることが多く、その現実的な判断は、社会福祉実践家が拠り所とすべき価値・道徳的な判断とは齟齬が生じていることが往々にしてあるからだ。現場には、最低限定型化してやらざるを得ない業務があり、また現実的な関係や環境におけるしがらみがある。であればこそ、原理原則論や共通理解の確認が実践家には絶えず求められているのだと思う。
以上の様に、市井には、自らが置かれている現状・現実の中で、可能な実践を模索する経験的判断と、目的・未来に向けて私たちは何をすべきか・どうあるべきかを模索する価値・道徳的判断がある。特に実践家においてはその双方共に重要であるが、上記の如く、現場は、様々なしがらみに流されやすいので、時折立ち止まって価値・道徳的判断で自らの立ち位置を確認する作業が必要となる。
さて、憲法についてであるが、この2つの判断の内、経験的判断というよりは、価値・道徳的判断に依拠している様に思われる。社会福祉実践家が重要視すべき13条と25条はいまや瀕死の状態である。条文と現実のあいだには、かつて経験して事の無い大きな乖離が生じようとしている。であるならば、これらを現状に即して、実現可能なものに変えた方が良いのだろうか。そうはならないはずだ。
人々は今、画一化と多様性の喪失を基盤としながら、他者に対する関わりを忌避し、他者に対する慮りを喪失している。そこから、他者に対する無理解・不安・恐怖・軋轢・対立が生じ、加速度的に、他者に対する関わりに煩わしさを強めている。この負の循環の下にある現在の社会に求められていることは、人々の信頼の関係を再構築することであり、そのためには、あるべき社会に対する議論と模索が必要であると考える。あるべき社会とは何か。人々にその共通理解を促進する為に憲法は重要な役割を果たし得るはずだ。
9条に臨界が来ているのではない。人々の信頼の関係にこそ、臨界が生じているのである。その信頼の絆を取り戻すために、この社会の臨界を乗り越えるために、むしろ9条は有効な手段となり得ると私は認識している。
社会福祉実践は政治運動ではない。しかし、社会福祉実践家が、その専門的価値に基づいて政治活動をすることは忌避されるべきではありません。ましてや、人々の暮らしと人権が軽視されている今の世にあって、その人々の暮らしを守るべき立場にある私たちが、あるべき社会への接近のために、その手段としての政治に関与することはむしろ避けては通れないものと考えます。
特定秘密保護法も然る事ながら、政府による集団的自衛権の行使は、社会福祉実践家にとって、人々の暮らしを最も悪化させる私たちの実践理念の対極にある行動であることを自覚せねばなりますまい。であるならば、社会福祉実践家こそが、この政府の体たらくに対して強く異議を申し立てるべきだと私は思います。以下、社会福祉実践家の立場から、この集団的自衛権についての問題提起を試みておきたいと思います。
社会福祉実践家の使命は、人々の権利を擁護することであると言われて久しい。権利を擁護することにおいて一つ重要なことは、権利の侵害から人々を守るということにあります。もしくは、そのことを予防するということでしょうか。現代の戦争では、周知の通り、兵士よりも圧倒的に一般人がより多く命を落とす傾向にあります。集団的自衛権の行使は、自衛隊員に死を求めるということに帰結するが、その覚悟が政府にあるのか否か、という問いがよく巷で成されていますが、これはある意味間違った見解であると私は考えます。もちろん、自衛隊員が命を落とす確率は高まりますが、それと同時に、私たち自身が命を落とす可能性をより高めるものであることが明示されていないからです。
戦争は、非人間的・反人権的な行為であり、暴力行為そのものであることは自明の理です。そのような状況に巻き込まれて、もっとも人権の蹂躙を受けるのは一体誰でしょうか。それは、女性と子ども、そして、自らの暮らしにおいて誰かの支援を必要としている人々、私たちのクライエントの生命と暮らしが最も侵害されることは言うまでもありません。だとすれば、戦争は、私たち社会福祉実践家の実践理念とはやはり真逆の位置にあることが理解されます。自らの暮らしに課題を有し、社会から排他・排斥されている人々の権利と暮らしを守る私たちの実践は、戦争と正反対の位置にあり、それは平和維持への貢献に繋がっていることに私たちはもっと誇りを有するべきだと思います。
そもそも、戦争は権力の暴走に起因してなされます。丁度今の日本社会がそれに当てはまるのではないでしょうか。権力の暴走は、人々の人権が軽視され、あらゆる自由が喪失されていく中で起こり得るものです。言論・信教・表現・教育等のあらゆる自由が人々から簒奪されて初めて権力は暴走を果たします。これらは、特に、生存権と幸福追求権の侵害によって促進されて行くと言えるでしょう。よって、人々のこの生存権と幸福追求権を守っている私たち社会福祉実践家が各地で織り成す営みは、人々の権利を守ることに終始しているのではなく、その先にある権力の暴走への歯止めをかけていることになります。まさに、戦争を防ぎ、平和を維持しているのです。
先の権利擁護の件に戻りましょう。権利擁護の実践は、人々を権利侵害から守り、それを防ぐことにあると述べました。今一つ重要なことは、人々の自己決定の尊重にあります。この度の集団的自衛権行使は、憲法解釈の変更という手続きを取ることによって、国民の意見を度外視した上で、政府が独善的な決定を行っていることになります。まさに、国民の自己決定を黙殺した手法であると言えるでしょう。よって、これも、社会福祉実践とは対極にある行動と言わざるを得ません。
かてて加えて、とても重要な視点が抜け落ちていると思います。仮に、選挙で選出された国会議員がその帰結を経て、集団的自衛権の行使を画策している、よって、これはある種の国民の自己決定によるものだとの論理が成り立ったとしても、それだけでは済まされない問題があるのです。
それは、例えばこの憲法解釈の変更がなされたとして、この変更を容認した国会議員が、その結果に責任を果たすことがあり得るのだろうかという問題です。つまり、このことによって将来、我が国が戦争に巻き込まれたとして、そこで命を落とす可能性が彼らにあるのかという問題提起です。恐らく、彼らの多くは、その頃、寿命を全うしているのではないでしょうか。つまり、この集団的自衛権の問題は、「私たち」がその責任を直接的に負う立場にはない問題なのです。
言わずもがな、今の子どもたちがその災禍に巻き込まれる可能性がある。であればこそ、この決定は子どもたちの視点を代弁し、子どもたちを巻き込んだ議論を経て行うべきです。それ程までに、丁寧で慎慮な議論が求められている事柄であると言えます。現在の私たちの愚行に対する責任が、私たち自身に降りかかってくるのであれば百歩譲って文句は言いますまい。しかし、その責任と結果を、次の世代に押し付けることが本問題のもっとも愚劣で破廉恥な部分であり、これこそが、この度の政府の行動の本質であると私は捉えています。
つまり、今の子どもたちが大人になり、今のオトナたちの選択の帰結として、戦争に巻き込まれそうな事態に見舞われた時、それに抗う方法がなければ、それは彼らの自己決定とは到底言えないのです。この事においても、人々の自己決定を尊重する社会福祉実践家としては、当然看過するわけにはいかないのです。
権力は暴走すると述べました。その歯止めとなる憲法そのものを、権力の側が、その改正手続きを黙殺し、解釈の上で改めようとしています。そして、そこに異を唱える勢力が衰退の一途を辿っている現状を鑑みれば、これは戦後70年の歩みの中で今現在を迎えていると言えなくもありません。この現在の体たらくを70年の歳月をかけて堆積してきたのだとも言えるでしょう。つまり、過去70年の歩みは今現在のこの社会の様相に向かっていたということです。この理の中にこそ、今から70年未来の人々の暮らしに対する今現在の私たちの責任があることが、はっきりと見てとれるのではないでしょうか。個人の寿命に比べて、社会の寿命はとてつもなく長い。であればこそ、次世代・次々世代を担う彼らの“自己決定”を慮りながら、それを代弁しながら現在の決定を図って行っていく責任が私たちにはあるのです。
そして、更に気になることがあります。それは、この様な多くの人々の生命と暮らしについて、それが大きな危険に晒される可能性を高める決定を政府が意図的に、そして、感情的に推し進めていることにあります。言うまでもなく、人の生き死にかかる重要な決断を決して感情論で行ってはなりません。
予てから社会福祉実践家は、死刑廃止論者であるべきだと考えてきました。死刑についても、被害者側の感情論でその議論が成されている傾向がありますが、これは社会をより危険な状況に貶めることに繋がると私は考えます。被害者側の心境は、当然共感に値しますし、その暮らしに対する支援は怠るべきではありません。その事を前提として、この事を、加害者の死刑に結び付けることはやはり感情論であると私は認識するものです。
人権や生命に例外を設けてはいけないと私は考えていますし、このこと自体には、多くの人々の賛同が得られるものと認識します。であるならば、重大な罪を犯した人々の人権と生命も同様に考えるべきだというのが、私の社会福祉実践家としての立ち位置であります。特に一時の感情によって、失われてよい人権や生命などこの世に存在しない。この原則こそが、社会福祉実践における権利擁護や社会正義、平等主義とも平仄の合う思想であると言えます。社会福祉実践家も、クライエントの人生の岐路に立つ支援を行う場面がありますが、そのような重要な分岐点でこそ、感情優位ではなく、冷静に覚めた頭でクライエントと向き合うことが求められているのです。
以上の様に重要な政策ほど、感情論で推し進めてはなりません。ましてや、今議論の渦の中にあるのは、個人の生死のみならず、自国他国の如何を問わない多くの人々の生死に敷衍していく問題な訳ですからこれは当然の事です。
また、人々の生命を守る哲学は、抑止力だけではありません。少し前に、拳銃を家庭で保持しないことを決めたアメリカ人の論文を読んだことがあります。拳銃を所持していると暴発して命を落としたり、他者に誤解を与えることで不要に家族の生命が危険に晒される可能性が高まると考え、この家庭では幾世代にわたって拳銃を保持していないといった内容でした。個人レベルであれば、拳銃でしょうが、国家レベルになればこれは大量破壊兵器を用いることになります。抑止力に頼る前に、他にやるべきことがあるその叡智を示唆する事例ではないでしょうか。
我が国の武力行使の範疇を広げることで想定されるのは、可能性の極めて低い政府が示す事例において国益を守ることなどでは断じてなく、人々の殺し合いの負の連鎖に国民が巻き込まれることにあります。前者の在りもしない国益を守るために、後者の大変大きな危険を国民が請け負うことになるのです。しかも、それを実際に背負わされるのは、現在閣議決定に奔走している人たちではなく、現在選挙権すら持たない子どもたちであることを忘れてはなりません。
かつて中東のイスラーム諸国で日本人がテロに合うことなどありませんでした。それを、小泉政権がイラクに自衛隊を派兵した帰結として、その信頼関係が悪化し、複数の日本人が生命の危機に晒され、そして、幾人かの方は実際に命を落としています(2004年4月〜2005年5月)。つまり、それは、アメリカの侵略を支持した我が国が、正式にはその政権が支持したのであっても、すべての国民が支持をしたわけではないのだが…そうであっても、反アメリカ勢力にとっては、アメリカと同じ“敵”と見なされた瞬間でもあったのです。
そう考えれば、この度の集団的自衛権の行使は、この負の連鎖を周辺地域に創出し、周辺地域の不安定化に大いに“貢献する”こととなるでしょう。斯くして、我が国の危機はかつてない高まりを見せることになります。その結果、国民の暮らしは不安定極まりないものへと化して行くのでしょう。
そもそもこの度の集団的自衛権にかかる政府の議論は感情論以前に理論的に破綻しています。個別的自衛権で対応できることを、わざわざ集団的自衛権を引合いに出し、それで対応しようとする点。自衛権の限定的行使と言いながらも、その中身が極めて曖昧模糊としており、時の政府の恣意性・裁量性の高いものとなっている事。斯様な支離滅裂な説明と論理的な不整合において、この重要な憲法解釈の変更を推し進めようとしているのです。
言うまでもなく、組織におけるトップとは、その組織を守る最終責任者を言います。この場合、国民の生命と暮らしを守る最終責任者が内閣総理大臣でありましょう。であれば、トップには、あらゆる私信を捨てて、国民の生命と暮らしを守る責務があります。残念なことですが、今の彼に、その資質があるとは到底思えません。そして、その資質の無いトップが支離滅裂な議論を押し通す背景には、国民の暮らしと存在に対する軽視があります。彼らが思うほど、私たちが決して無能では無い事を示せるかどうか。今現在の私たちの資質も同時に問われているのです。
最後に、国益とは、全ての国民の利益を指します。国民の利益とは、国民の生命を守り、暮らしの質を高めることにあるはずです。であればこそ、社会福祉実践家は、この真なる国益を意図した実践を行うことにその面目躍如があります。一方でこのトップの言う国益とは、真なるそれで無いばかりか、むしろ私たちのいう国益とは対極の位置にあることを改めて検証する必要があります。
最近発売されたばかりの『週刊東洋経済』(2014年5月17日号)を手にしています。「誤解だらけの介護職 もう3Kとは言わせない」と題した特集が組まれているからです。約40頁にも及ぶ大々的な特集となっています。人材マネジメントにおける具体的な実践例も示されており、そのこと自体は有意義であると思って読んでいましたが、本質論としては大きな問題を有する特集であると私は認識しました。つまり、ソーシャルワーカーとしては看過できない内容であると思われます。その理由を含め、以下叙述をしておきます。
まず大前提として、言わずもがな、福祉や介護の仕事の素晴らしさについては、日々強く私も認識している所です。特に産業界の仕事と比較すれば、社会的使命や役割、責任がより実感できる数少ない仕事であると言えます。市場原理や競争原理に強く晒されている産業界の仕事では、組織や個人の利益が最優先される傾向があり、社会的責任や使命感は希薄化される状況にあります。自社製品よりも他社製品の方が優れていると自覚しながらも、自社製品を顧客に勧めざるを得ない環境や、自社製品を用いて顧客が傷つくことも想定されるでしょう。一方、私たちの仕事は、専門性を踏まえた実践を展開する限りにおいて、不幸な人々を生み出しにくい構造下にあると言えます。クライエントの暮らしの質を高めることに焦点化した実践を行うことこそが主たる仕事と言えるのですから。
社会的責任や使命感の強い仕事。つまり、全ての人々の暮らしにおいて必要不可欠な仕事である以上、私たちの仕事は公益色の強い仕事であると言えますし、であればこそ、この仕事は、公的責任において維持・促進されるべき性格を有していると考えられます。北欧をはじめ、多くの欧州諸国では、社会保障の位置づけのもと、政府の責任においてこれらのサービスが提供されているのは周知の事実です。我が国においても、生存権や幸福追求権を鑑みれば、当然に、政府の責任においてこれらサービスの質は担保されることが大前提としてあるはずです。
これらの事を踏まえた上で、本特集について検討を行います。特集では、まず、「介護職の賃金水準がほかの職種と比べて際立って低いといえる統計的な材料はない」と論じます※1。厚生労働省の賃金構造基本統計調査を見れば、他職種と比べてその差は明らかではあるが、介護保険制度が始まってまだ14年であるので勤続年数の浅い人々のデータが殆どを占めていると言うのです。「そこで、勤続年数と年齢を考慮して賃金カーブを作成してみると、(中略)全産業計との差はぐっと縮まる」と結論づけています※2。経験年数の浅い人のデータが殆どであると論じながらも、如何にして、経験年数と年齢を考慮したデータを作成したのかがそもそも不明ですし、この「賃金カーブ」の作成根拠は全く示されていません。
加えて、「そもそも介護職の離職率は決して高くはない」と断じます※3。「確かに介護職の離職率は、全産業の平均と比べれば2〜3ポイント程度高い状況が続いている。しかし逆にいえば、数ポイントの差にすぎないともいえる。(中略)だがほかのサービス業と比べるとむしろ離職率は低く抑えられているとさえいえる」のだとか※4。学生アルバイト等の雇用形態が当てはまりにくい福祉・介護分野と、そうではない宿泊・飲食サービス業や娯楽業とを比較すること自体に問題があると思われますし、2〜3%の差が僅かであると断じる根拠もよく理解が出来ません。
他方、同じ報道機関であっても、例えば、毎日新聞では次のような件を引用することが出来ます。
「介護労働者の賃金は他業種に比べて低い。全国労働組合総連合のアンケート調査(昨年10月)では、手当を除く正規職の平均賃金は20万7795円。厚生労働省調査の全産業平均(29万5700円)を約9万円下回る。
長らく介護は主婦による家事労働とみなされてきた。職業としての確立が遅れ、低賃金から抜け出せない。介護労働安定センターによると、介護職の離職率は17.0%(2011〜12年)で、全産業平均(14.8%)を上回る。求職者1人に働き口がいくつあるかを示す2月の有効求人倍率は2.19倍。全産業平均(1.05倍)の2倍だ」※5。
また、本誌で示されているこれらが事実であるならば、今まで、いや、今現在も、政府や全国各地で議論を繰り広げている福祉・介護職員の低賃金や低定着率に対する取り組みは全く不要であると言えるでしょう。本当にそうなのでしょうか。この様な根拠の浅薄なデータや理論をもとに、介護職は低賃金ではなく、離職率も高くはないと報じられることに私は強い違和感を抱かざるを得ません。
そして、本特集では、全国の素晴らしい個人や組織の実践が数多描かれています。中には、「介護業界は賃金が低いといわれるが、私は20代で横浜に一戸建ての家を建てることができたし、仲間たちも30代で購入。年収700万〜800万クラスもいる。努力次第で収入はついてくる」といった実践家のコメントも載せられているのです※6。
私は、これら先駆的な個別の実践自体は素晴らしいと心底感服していますし、今後もこれらの取り組みは広がっていくべきだと切望しています。そこのことを前提としながらも、頑張って成果を上げることのできた一部の成功例を取り上げて、これら福祉・介護人材の問題を、組織や個人の取り組むべき課題へと帰結させる論法に猜疑心を抱いてしまうのです。当然に頑張っている人々は称賛に値します。この中には、私の知っている人たちも多く取り上げられていますのでその事には全く以って異論はありません。
しかし、特別に頑張っていなくても、先駆性や開拓性を有さずとも、全ての福祉・介護職の暮らしを守っていくことが重要であると私は考えます。社会問題を捉える上で必要な視点は、ミクロ・メゾ・マクロ領域でそれぞれの要因を抽出することにあると認識しています。ましてや、前段で確認した通り、私たちの仕事は、公益性の高い営みであり、これらは政府の責任においてその質が担保されるべき前提を論じたところです。であるならば、マクロ領域たる政策や制度における課題の抽出と対策こそが急がれるはずです。この特集で最も欠けている視点は、まさにこのマクロ領域の分析であり、全ての要因を個人と組織に帰している点において、ミクロ・メゾ領域の議論に終始した論調であると断定できます。
執拗に確認しておきますが、個人の心の持ち方の工夫や事業所努力は当然にあってしかるべきです。しかし、その質の担保における本質的な責任は政府にあるはずだと言いたいのです。その視点が欠如しているという意味において、残念ながら本特集は本質を欠いた代物であると断言できます。
どのような人々がこの特集を編集したのかが少し気になり、「編集部から」の欄に目を向けました。すると、「来年度の報酬改定に向けた議論が始まったタイミングで、『介護職の給料は低くない』と書くことにためらいもありました」とあるではありませんか※7。つまり、この特集が介護報酬の引き下げに繋がる可能性があることを認識した上で、編集及び発表に踏み切ったと言うことです。尊敬すべき友人から教わった事があります。知識人は、講じた「状況」に対してではなく、その「結果」にこそその責任を有するべきであると。このことは、マスメディアの役割にもそっくり当てはまります。如上の報道が、何に利用され、どのような結論へと導かれるのか。その想像力こそが、特に、現下の報道機関には求められていると私は考えます。
いみじくも、福祉新聞の次の行を彷彿しました。
「麻生太郎・財務大臣は22日の経済財政諮問会議で、特別養護老人ホームの介護報酬を適正化する考えを明らかにした。収支差率が高く内部留保が多額な半面、常勤介護職員の賃金が低いとし、『この点は2015年度予算編成の重要課題だ』とも述べた。会議後の会見で甘利明・経済財政担当大臣が麻生大臣の発言を紹介し、『収益を賃金に還元すべきという提言だと思う』とした。介護報酬の引き下げ圧力が高まるのは必至。15年度の介護報酬改定に向けた厚生労働省の審議会は4月28日に始まる。それに先駆けて財務省が給付増をけん制する狙いがあると見られる。諮問会議は6月に経済財政運営の基本方針(骨太の方針)をまとめる」※8。
個人や組織の素晴らしい実践を称賛すること自体は忌避すべきことではありません。しかし、その「称賛」の影で、この「称賛」を隠れ蓑にして、大事な本質を捉える観点が稀釈されるのであればこれは大いに問題です。私たちは、ミクロ・メゾ領域の実践に終始することなく、マクロ領域の視点と実践をも意図する必要があります。この度の特集に対して、批判が顕在化していない現象を鑑みれば、まさに、このことこそが我われ福祉・介護人材の弱点であることが確認できます。
※1 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.48
※2 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.46
※3 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.51
※4 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.49
※5 「介護職 低い賃金で疲弊 相次ぐ離職『仕事夢ない』」『毎日新聞』2014年4月27日
※6 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.52
※7 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.117
※8 「介護報酬の引き下げ圧力高まる 麻生・甘利両大臣が言及」『福祉新聞』2014年4月28日