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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

「当事者性」を「ひらく」仕事※

2014/04/06 17:49:24  社会福祉


 法人職員のために大学の恩師に過日講義を頂く機会がありました。私たちの法人の職員に拘わらず、福祉・介護分野で働く人々に対する問題意識として、社会の構造やその価値規範といったマクロ領域の視点や、人権とは何か・社会福祉とは何か、といった本質論を検討する視座が希薄化しているように思えます。要するに、我々は一体何のためにこの仕事をしているのかを深く捉えずに、目の前のクライエントと向き合い、それを業としてこなしている感が否めないわけです。もう少しはっきり言えば、専門職ではなく、単なる技術屋さんに凋落してはいないかとの問題提起の意味を含めての課題であると言えます。これらの課題を少しでも克服すべく、私たちの法人では今後、介護・福祉とは直接関係のない領域の研修(講義)も設定する予定です。いみじくも、私の尊敬する経済学者にも一役買っていただけることを一昨日確認したところです。

 さて、恩師の講義は、部落差別問題や優生思想批判、医療分野の経済至上主義批判における具体的な事例を扱いながらも、一貫して「当事者性」とは何か、を問うたお話であったと認識しています。私たち社会福祉実践家、特に私の場合はソーシャルワークが重要になってくる訳ですが、これらのなすべき仕事を一言で言及すれば、クライエントの権利擁護の実践を通して、すべての人々の尊厳ある暮らしが成される社会を構築することがその根底にあると言えます。

 ここには二つの視点があることは言うまでもありません。ひとりの人の支援たる「クライエントの権利擁護」と、その延長線上に繋がっている「すべての人々の尊厳ある暮らし」の構築。ソーシャルワークの基本的な考え方として、また現在なされている実践の在り方としては、前者が圧倒的に優位であり、後者はあまり意識されていないか、等閑に付されている感は否めません。しかし、これからのソーシャルワークでは、この二つの視点を同様に重視した実践が求められていると私は考えています。

 「当事者性」を検討するにあたって、ソーシャルワークのこの端的な二つの視点に思いを巡らせておくことはきっと不毛な作業ではないと自身は考えます。今の思いを以下少し吐露しておきます。

 例えば、クライエントの「当事者性」を考えてみます。認知症のある人の「当事者性」という捉え方もあるかも知れませんが、それは飽く迄も理念的なお話であって、実践論的には、やはりそこに個別性が存在するのではないでしょか。同じ認知症のある人であっても、AさんとBさんの「当事者性」は異なるわけです。また、AさんとBさんの「当事者性」が対立構造に陥っていることもあるでしょう。このように考えれば、認知症のある人の「当事者性」という概念ははやり揺らいでくると言えます。認知症のある人の「当事者性」が、存在するのではなく、AさんとBさんの「当事者性」が存在しているに過ぎないのです。

 そのような認識の上においてでも、認知症のある人々や、障害のある人々、少数派やその他排他・排斥されている人々における運動の在り方として、仮の「当事者性」を用いることに自身は否定する立場を取りません。なぜなら、ソーシャルワークの使命としては、「すべての人々の尊厳ある暮らし」を目指すべく、ソーシャルアクションを起こすことの重要性も一方で強く認識しているからです。しかし、この場合の、集団毎の「当事者性」は、一定の個別性を排した仮のものであるとの認識が不可欠です。被差別部落の人々の中にあっても、在日韓国・朝鮮の人々の中においても、多様な個別性のある立場や思想が存在すると言うことです。そこを度外視した運動は、おそらく、その後の広がりを見せることはないでしょう。

 広がりのある運動を成すためには、少なくともその集団内に個々に存在する「当事者性」が一定程度共有される作業が成されていなければならないと思うのです。例えば、同じ「障害のある人」との位置づけであっても、そこには置かれた状況や思いに個別性が存在します。そこを互いの個別性を重んじながらも、大局観を持って共通理解を促進していく過程が、後の運動への広がりを見せるのであろうと認識するのです。また、こうして構築された共通理解こそが、集団における仮の「当事者性」であると言えるのかも知れません。また、異なる立場の人々が共通理解を構築していく作業は、煩雑なれど、非常に尊く、重要であるとも認識します。

 これまでは、集団の内部における「当事者性」の共有のお話をしてきましたが、ソーシャルワークの要諦は、この集団の内部にある「当事者性」を、その外部に如何に「ひらいて」行くかににあることは言うまでもないでしょう。集団の内部にある個人の「当事者性」を集団内で「ひらいて」一定程度共有することが可能である以上(それを否定するのであれば、あらゆる運動は不毛であると断言できます)、集団としての仮の「当事者性」や内部にある個々の「当事者性」を集団外部に「ひらいて」行くことも不可能ではないはずです。

 「他人の痛みは我慢できる」という言葉があるようですが、自身は10代の頃より「他人の痛みが我慢できない」人間になりたいと思って生きてきました。そこには、「他人」の「痛み」は、その「他人」と全く等しくは理解できないけれども、その一部は理解することができるとの信念が厳然と存在していたと言えます。もし、「他人」の思いが全く理解できないとしたら、巷にあふれる映画やドラマ、あらゆる書籍、そしてあらゆる議論は全く意味をなさない代物であると言うことになります。私たち人間は、体験や想像力を駆使して、「他人」の思いの一部は理解することが出来るとても優れた能力を持ち備えていることに強い誇りを抱くべきでしょう。

 友人と深夜まで痛飲して語り合い、そこで交わした言葉を翌朝ふと振り返り、彼の伝えたかった思いを考えてみる。このような関わりの過程を通して、人々は、「他人」の思いを一定程度は共有することができるはずです。もちろん、「他人」の思いの全てを理解できる事などはあり得ない訳ですから、この点に対する畏敬の念は堪えず持ち続ける必要はあります。クライエントの思いも然りで、私が対人援助の要諦は、クライエントの思いを「決めつけない」ことと、理解することを「諦めない」ことの双方が重要であると説くのはこのことから端を発していると言えます。

 経済至上主義とそれに連動した教育制度が相俟って、私たちは、自らの利益と他者の利益が切っても切れない関係であることを忘却しているように見受けられます。他者の悲しみはやがて、自らの悲しみに繋がり、自らの喜びは他者の喜びへと連鎖している事実を私たちはどこかで見失っている様相があります。誰かを排除する社会を放置することによって、また誰かを排除することによって、そのことが、やがて自らの排除へと繋がることに対する想像力が欠如しているのが現下の社会なのかも知れません。

 私たちソーシャルワーカーの仕事は、その人々の繋がりを、可視化し、社会に共通理解を促進していくことにあると私は考えています。本来であれば、教育によって直接接点の無い他者に対する理解もある程度は人間のなせる能力の範疇であると言えますが、今の教育はそうなってはいませんので、このことは大きな課題であるとも言えます。多くの人々にとって、直接接点のない沖縄や福島、生活保護に係る問題が、人々の間で広く共通理解が成されていないことを顧みればこれは明白な事実であると断じることが可能です。

 斯様な状況下において、ソーシャルワーカーがとるべき実践は、地域の中で、多様な他者の存在を可視化と体験を通して共有し、その共通理解を促進することにあるのではないでしょうか。他者の支援を必要としている人々の存在と暮らしを、そしてその人々を支援している私たちの仕事を地域に「ひらいて」、可視化し、体験的な関わりを促進することこそが、自身の利益と他者の利益が繋がり得ることの理解を全ての地域住民に促進し、「他人の痛みが我慢できない」地域社会の構築へと繋げることが出来るのです。このような地域社会を構築することが出来れば、恐らくそこに暮らす人々は、今度は直接接点を有さない他者への慮りを始めるのかも知れません。こう考えれば、ソーシャルワークの実践論には、社会教育や成人教育分野の知見にも触れておく必要性を考えざるを得ません。また、これらの営みは、多くの人々が子どもから大人になるまでの間に経験してきたことを、地域の中で、今度は真逆の体験として促進する過程であるとも言えるでしょう。

 福島の不幸の上に、東京の幸福があり、沖縄の被害の上に、国民の幸福がある。除染作業員の苦悩の上に、私たちの安全があり、最前線で生死をかける兵士の上に、人々の安全保障がある。このような社会は決して健全な社会とは言えず、他者の不幸を礎とした幸福などは、しょせん幻想に過ぎず、それに気が付かないこと自体が人々の不幸であると断言できます。

 自身の暮らしと他者の暮らしはどこかで必ず繋がっている。であるにも拘わらず、その事が誤魔化され、曖昧模糊とされているその人々の繋がりを敢えて可視化し、体験的な学習の機会をもって共通理解を促進し、再度人々をしっかりと繋いでいく。このことを地域の中で展開していくことこそが、私たちの仕事なのです。

 ここまで議論を拡散させておきながらも再び「当事者性」の議論に戻します。繰り返しになるかも知れませんが、如上のことからも、「当事者性」を地域に「ひらいて」行くことこそが私たちの仕事であると言えます。「ひらいて」可視化し、共通理解を促進するために、「当事者」の暮らしや支援者の仕事に直接関わってもらう体験的学習の機会を数多設けていくことがその有効な一つの方法であると私は理解しています。この実践を積み重ねることによって、地域住民は、直接接点を持たない他地域・分野の人々に対する共通理解を可能とし、延いては、この社会を構成する全ての人々の尊厳ある暮らしへと帰結することを信じているのです。

 その意味において、「当事者性」を社会に「ひらいて」共有するということは、全ての人々が「当事者性」を有するということにも繋がります。そして、すべての人々の尊厳ある暮らしを目指す以上、そこに「当事者性」は意味をなさなくなるのではないでしょうか。なぜなら、「すべての人々」こそが「当事者」となるはずだからです。であれば、この「当事者性」という言葉そのものの意味を失効させることこそが、私たちソーシャルワーカーの目指すべき到達点なのかも知れません。


※ 友人から教わった事ですが、ここでは、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記しています。



ソーシャルワーカーからみたアベノミクス

2014/03/29 16:59:45  社会福祉
 新聞紙面によれば「菅義偉官房長官は28日午後の記者会見で、同日発表の2月の全国の消費者物価指数(2010年=100)が、生鮮食品を除いたベースで前年同月比1.3%上昇し、9カ月連続でプラスとなったことについて『デフレではなくなってきていることが確認される内容だ』と評価した」※1とあります。当文では、このことが真に「評価」に値するべきものなのか、ソーシャルワーカーの視点で検証してみることにします。

 円安による輸入価格の上昇に伴って食材費や燃料費は高騰の一途を辿っています。目標物価上昇率(2%)とそれが相俟って、消費増税後の4月以降の物価上昇率は前年比3%以上になることが報じられています。一方で、労働者の賃金は、「連合の3月24日時点の集計では、勤続年数などに応じてあがる定期昇給を含めた企業の賃上げ率は2.23%(1187組合)。中小の交渉が今後まとまれば、賃上げ率は低下する見込み」※2と分析が成されている訳ですから、物価の上昇に人々の賃金の上昇が追いついて行かない現実を窺い知ることとが出来るでしょう。

 また、企業の賃上げ率2.23%も実態を反映していない数字であると私は捉えています。そもそも給与や賞与の増減が事前に提示される企業は、労働組合が整備されている大手企業であることは言うまでもありません。よって、2.23%の上昇は一部の大手企業の賃上げを示すものでしかないのです。中小企業のそれは下手をすれば支給日まで分かりませんので、これらの数字に反映されることなど有り得ないのです。また、地方銀行の支店長や行員と話をすれば、少なくとも地方における中小企業の景気は上昇していないことが理解されます。

 つまり、一部の人々の所得が上昇していく中、多くの人々の所得は停滞傾向にあるということです。そこにあって、「バブル期以降、国内では体験していない物価高に、家計が直面する」※2のです。つまり、その帰結として想定されるのは、経済格差の更なる増大であり、経済的困窮者の増加であることは言うまでもありません。そこに加えた形で、生活保護費の引き下げ(2013年8月から)や生活保護法の改悪(2014年7月)が成されて行けばこの増加する人々の安全網すらも危うい状況となります。このことだけを捉えても、4月以降の状況は、ソーシャルワーカーにとっては暗澹たるものになることが決定的と言えるでしょう。「評価」するなど、とんでもないお話です。

 これら人々の暮らしの課題のみならず、医療・社会福祉経営においても危機的状況に直面することが確定的です。特に介護分野においては、要介護高齢者の増加によって事業拡大が求められている訳ですが、事業展開をなそうにも、設備投資費の高騰によってそれが難しくなっています。

 一般的な物価上昇の中でも、建設工事費は、公共事業の拡大と相俟って、異常な程の高騰ぶりを見せています。建設資材と人件費の高騰が主な要因ですが、資材だけでも以下の様な需要の拡大が認められます。セメント21.4%増・生コンクリート18.8%増・木材12.4%増・普通鋼鋼材13.5%増・形鋼14.6%増・小形棒鋼7.8%増・アスファルト17.6%増(いずれも前年比)※3。

 如上のアベノミクスで恩恵を受けた、もしくは受けることの予測される大手企業などは、この状況下でも更なる設備投資が可能なのかも知れませんが、中小企業であったり、収入の上限に定めのある医療・福祉分野においては大きな痛手となっています。実は、大手企業であっても、小売業などは出店計画の見直しを行っている訳ですから、医療・福祉分野におけるそれは今後更に顕著となることでしょう※4。診療・介護報酬では、消費増税分に係る一部諸経費に対する上乗せが成されましたが、本税分と目標物価上昇率(2%)分に対応すべき職員の賃金上昇を想定した上乗せは成されていません。このことによって、職員の賃上げが成されることは難しくなっています。もともと既に厚労省のデータにもある様、一般産業界と比べ、男性で年収が150万円程度減収傾向にある福祉・介護分野においてこの実態は以後大きな禍根を残すことになるでしょう。福祉・介護人材の確保と定着に更なる困難が生じることが確定的となるのですから。

 そもそも、自然環境の著しい破壊と“投資回収率”の悪さに起因する反省から、公共事業の見直しが成されて来たにも拘らず、この時代錯誤の政策に回帰すること自体理解に苦しみます。また、今求められているのは、新しいものをゼロから建設することではなく、学校の耐震化不足に代表されるような既存の建物の耐震強化や維持する為の改修こそをその中核に据えるべきではないでしょうか。そう考えれば、新規建設などは、未来に対する投資であるとは決して言えず、むしろいずれそれを維持するために膨大な再投資を行うべき“債務”と言えるかもしれません。事実、地震が少ないなどの理由があるものの欧州には驚くほど古い建物が存在し、またそれを現在でも活用していることに誇りすら抱いている向きがあります。

 都市部に出張していつも思うことなのですが、老朽化した膨大な建造物群をどの様に建替え・維持していくべきかは、またこれら建造物とどのように向き合っていくべきかも含めて、我が国の社会構造や価値規範といったマクロな視点で整理すべき事項だろうと考えるのです。しかし、今の公共事業の拡大に、このことに応え得る大義は見受けられません。その意味において、確たる理念や方針なき公共事業の拡大こそが、アベノミクスの特徴であるとも言えます。

 既知の通り、視点を変えれば物事の捉え方は変わります。その意味において、報道機関の立ち位置によってアベノミクスの捉え方も様々です。大手企業の躍進や賃上げばかりを囃し立てる報道機関は、冒頭の官房長官と等しくアベノミクスを「評価」しているのでしょう。その意味において、この様な報道機関は、ジャーナリズムからは乖離・凋落している存在であると判断が出来ます。つまり、アベノミクス報道は、各報道機関におけるジャーナリズムのあり方を測る絶好の評価指標になり得ると思うのです。

 それは、ソーシャルワークから捉えた際も同様のことが言えるでしょう。ソーシャルワーカーから見たアベノミクスは、多くの人々の暮らしの質を貶め、私たちの所属組織を衰退させ、私たちや仲間の暮らしをも危ぶませていると言えるからです。そして、社会構造に働きかけるべきソーシャルワーカーにとって、これからのあるべき社会を問う大義不在の代物であるとも言えるでしょう。いずれにせよ、アベノミクスの成果などは、ソーシャルワーカーにとっては、その逆機能を果たすべき障壁に過ぎないことが確認できます。


※1 2014年3月28日『日本経済新聞』
※2 2014年3月29日『朝日新聞』
※3 「主要建設資材月別需要予測2014年3月分」2014年2月10日 国土交通省
※4 『日本経済新聞』2014年3月9日「小売り・外食企業が2014年度の出店計画を見直す。建築資材の値上がりに建設技能者の不足が重なり、商業施設の建設費は5割近くも上昇。イオンは大型ショッピングセンターの出店数を従来計画より2〜3割抑え、セブン&アイ・ホールディングス傘下のスーパー、ヨークベニマルは半分にする。入札の不調が相次ぐ公共工事に続き、民間企業にも建設費高騰の影響が広がってきた」。




経営と教育

2014/03/18 01:15:04  社会福祉
 昨今取り沙汰されている「STAP(スタップ)細胞」の論文に多数の疑問が指摘されている問題。これらを私たちはどの様に捉えるべきなのでしょうか。正直なところ、仮に研究者個人の見識や行為に問題があったとしても、それを個人の責任に帰して問題解決を図る方法は最も愚策であると認識しています。いみじくも、高血圧治療薬ディオバンの臨床研究では、データ操作があったと調査機関からの公表があり、論文も取り下げられたところです。また、別の報道では、「山崎茂明・愛知淑徳大教授の調査によると、医学・生命科学分野で撤回された論文のうち日本からの論文は約10%を占める」※1とあります。

 実は、そもそも、iPSやSTAP細胞そのもの及びその後の研究が、本当に人々の暮らしをより豊かにするのかについて私自身は一定の猜疑心を抱いています。自然(宇宙)の摂理の中で生かされてきた人間にその摂理に“対抗”し得るだけの能力が備わっているとは到底思えません。むしろ、この“対抗”の中で、我われの手に負えない新たな問題が噴出することが推測されます。少なくとも、副作用や倫理的課題と言う障壁ははっきりと見て取れるのではないでしょうか。

 本論に戻るとして、例えば、法務官僚の講演や職員との対話の中でも聴かれるのは、犯罪を行った人々の多くは「普通の人」だと彼らが認識しているというものでした。この様な話を聴きながら自身も考えます。罪を犯した人々と同じ社会環境下に置かれていても、自身は犯罪者になり得ないと言い切れるのか。同様の生活歴を有していて、その行為の機会が目の前にあったとしても、自身も犯罪に手を染めないと言い切れるのだろうか、と。社会環境、他者との関係の中で形成された価値規範によって人々は行動を起こす。こう考えれば、人々が罪を犯したとして、それを単に個人的な問題として処理することが妥当な方法であると言えるのでしょうか。もう少し掘り下げて考えれば、彼らの“加害”は、同じ社会を構成している私たちが創造しているのかも知れないのです。その想像力こそを、私たちは共有すべきではないでしょうか。

 先ほど認知症の市民講座を担当してきたのですが、大事な事は、認知症の問題は、誰が取り組むべき問題なのかという事です。「当事者」とされている認知症のある人々が取り組むべき問題なのでしょうか。むしろ、そうではなく、認知症のない人々こそが取り組むべき問題ではないだろうかと投げ掛けるのです。そう考えれば、認知症の問題に対する「当事者」は、認知症のある人も含めた全ての人々を指すのではないかと問題提起を行ってきたところです。もちろん、世の中のあらゆる問題に個人の責任は全くないとは自身は考えていませんが、個人の責任に帰して問題解決することによって、その背景にある社会の課題を度外視することにそれが繋がり、延いては社会の損失に帰結すると私は考えています。

 またしても少し余談にはなりますが、当時のマスコミは、むしろSTAP細胞それよりも、その研究者の若手女性を好奇な目で追っているように伺えました。この様に時代の寵児の扱いをしておきながら、その後、研究に疑義が生じた途端手の平を返すかのような報道の展開になることも、一方では、「好奇な目」で注目すべき我が国のジャーナリズムの特性を物語っています。

 先の報道では、「日本からの(医学・生命科学分野の論文)撤回は2001年ごろから増加傾向にある」(括弧内は中島)※1とあります。産業分野における規制緩和が促進され出した直後から、市場原理や競争原理にそぐわない分野にまで経済至上主義が加速度的に蔓延してきました。2000年の介護保険制度創設を皮切りに、介護分野を起点とし、社会福祉全分野にもこれら原理が包摂されて今に至ります。丁度この時期に、教育や研究分野にもこの原理が流入して来たのでしょう。その潮流の末流に本STAP細胞問題は位置づけられると私は考えます。

 これらに加えて、2005年11月頃発覚した構造計算書偽造問題を始め、昨今の食品(食材)偽装事件は、個別の案件としては昔もあった事象かも知れませんが、社会における普遍的課題として、組織的に成されていたという点においては“現代の社会病理”の特徴と言えるでしょう。この間、性善説から性悪説で物事を捉えるべきだとの議論もありました。この様な難問に判断を下す気はことさらありませんが、一つ言い得ることは、現下の社会構造は、人々の「悪い」部分を引き出す効果を強く含み持っているということです。

 人々の暮らしの安全や豊かさを目的とし、最低限の暮らしの質を守るべき活動分野にも、市場原理が導入された帰結として如上の問題は生じているのではないでしょうか。今や教育分野においても、市場原理の導入が顕著です。公教育では、企業における人材マネジメントが常に想定されていて、効率性と生産性が高く、理解力のある人材の育成がなされています。そこで多くの子どもたちは、いや、子どもたちの親は、自らの子どもだけが、将来の暮らしの保障されることに熱中し、この競争原理に嵌まっていく訳です。しかし、人々が、自らの事だけを第一義と考えて生きていくことを教えることが公教育ではありますまい。そうではなく、多様な人々と共に社会を構築し、全ての人々の尊厳が守られることを考え、議論し、行動できる人間を育てることが公教育の役割であるはずです。それが完全に欠如してしまっているのが現下の教育なのです。

 いま社会に求められているのは、社会構造を含めた物事の本質を協議し学ぶ真なる公教育の確立ではないでしょうか。高齢者ケアでよく取り上げられることが多いスウェーデンですが、それでも実は高齢者にはあまり“投資”がなされていない実態があります。その多くは子どもにこそ“投資”されているのです。市場原理によらない公教育の確立こそが喫緊の課題であると考えます。

 斯くの如く、現下の社会では、教育が2つの範疇に分別されているように思います。社会や共同体のための教育としての公教育と、企業・法人に所属し、市場で勝つための人材育成(職業教育)となるのでしょうか。一つは、資本主義社会を選択している我が国において、この双方が重要であるとの認識が必要です。その上で、それぞれの目的に照らして、その導入の機会を検討すべきでしょう。でなければ、上記のように、義務教育や高等学校、大学においても、公教育では無く、経済的な人的資源を育成する活動が蔓延ってしまうのです。他方、派遣労働に象徴されるように、我が国においてはその双方が欠如していると言えます。派遣労働の最大の瑕疵は、人材育成(職業教育)を想定していないことにあります。企業が最後まで労働者と向き合う気が無い訳ですから、人材育成(職業教育)は労働者個人が担うべき課題となります。

 もう一度整理し直せば、公教育では、社会の全ての構成員の尊厳ある暮らしをどの様に構築すべきかを学ぶべき所であり、職業教育では、組織人として、職業人としての組織性と専門性を高めていく場であると認識します。これら双方は重要な役割を担っているものの、対象者に応じた役割分担を明確にしていくべきだと認識します。また、そうでありながらも、公教育において職業教育の要素が強く蔓延している事、そして、双方ともに現下の社会では減退化の傾向にあることが課題となることを確認しておきます。

 そのことを踏まえた上で、社会福祉経営において、これら事象から何が考えられるのかを少し吐露してみたいと思います。まずは、社会福祉専門職としての人材育成を行うことが私たちには求められています。これを否定する人はまず何処にもいないでしょう。産業界でいう所の、“製品”や“商品”“サービス”はその殆どが職員の内部に宿るものですから、当分野においてこの育成をしなければ経営は成り立たないはずです。確かに、巷間で言われているように、他業種に比べ、福祉介護職は低所得かも知れません。であるからこそ、私は福祉経営者として、この人材育成に力を入れたいと思っています。仮に、高い給与の支給が出来なくても、我われ福祉経営者には出来ることがあるのだと思うのです。この人材育成を続けて行けば、職員は仮に低所得であっても仕事を継続することは必ず出来ます。また、人材育成によって専門性(価値・知識・技術)が高まれば、職員ひとり一人の暮らしの安定にそれが繋がることは勿論、それが社会全体の発展に寄与する視点は欠かせません。この人材育成を粘り強く継続していくことが、職員の暮らしを守り、延いては、クライエントと家族、地域に対する貢献へと繋がるからです。

 私たちの法人が創設以来、人材の確保が難しい折でさえ、派遣労働を断固として拒否し続けてきた理由はここにあります。言うまでも無く、人はモノではありません。“使い捨て”になど出来ないのです。経営理念に共感を覚え入職した職員とは、長い歳月をかけて向き合い、この人材育成を行っていくことが重要だと考えています。その為には、派遣労働の受け入れは忌避されるべきです。また、企業・法人が人材育成に労力と時間を割り当てなくなれば、労働者の暮らしは不安定となり、延いては、社会に多様な問題を生じさせることとなるでしょう。そう考えれば、人材育成は企業の社会的責務と言えるのです。たとえ無自覚であれ、派遣労働の実態を甘受している企業は、企業の社会的責任を果たしていないと言えるのではないでしょうか。

 そして、冒頭のSTAP細胞の件、医学・生命科学分野における論文問題にある様に、企業や法人における人材育成の場でも、公教育の導入があっても良いと考えています。実は、私たちの法人でも福祉や介護に直接関係のない研修体系を検討している所です。過日は、差別論や人権についての講義を企画しました。組織人・職業人として、企業や法人の利益に役立つ人材育成のみならず、社会や共同体、延いては全ての人々の為に役立つ人間を育てることもまた経営者の役割ではないかと考えるに至ったためです。

 公教育が希釈化されているこの時代であるからこそ、企業や法人においても公教育の導入や促進があっても良いと自身は考えます。また、企業・法人の目的を基準に考えれば、公教育は決して即効性のあるものでは無いでしょうが、遅効性であってもやがて必ずや組織に成果を及ぼすものと認識しています。今の人材育成(職業教育)は、即効性のある目先の成果ばかりを求めており、それが却って組織人・職業人としての成長を妨げているようにも伺えます。このことと、STAP細胞問題は決して無関係ではないと思うのです。組織人・職業人の人材育成で成果を上げるためにも、やはり公教育の実践が欠かせないと再認識したところです。

 以上の事からも、福祉経営に拘わらず、あらゆる経営の要諦は教育であると昨今強く考えるようになりました。経営者は、その組織の構成員に対して、教育の機会を一貫して提供し続け、構成員ひとり一人の成長を促進していく過程そのものがその仕事であり、教育こそが経営であると言えるのかも知れません。そして、その先にこそ経営理念への接近と、あるべき社会の構築が成されるものと信じています。

 世界第3位の経済大国でありながら、人々の暮らしの質が決して高くは無い、この不可解な現象の要因は一体何処にあるのかを含め、人々が自らが構成する社会の現状と課題について熟慮し、そしてあるべき社会の姿を模索するためにも教育は最も欠かせぬ要素であると言えます。私が、再び大学院にて教育学研究科を専攻した理由はまさにここにある訳です。


※1 『朝日新聞』2014年3月15日


ソーシャルワーカーの捉える障害者差別解消法

2014/03/03 23:55:43  社会福祉

障害者差別解消法の概要



 2013年12月4日、参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立を経て、国内の法律が障害者権利条約の求める水準に達したとして条約の批准を承認しました。日本の批准は2014年1月20日付けで国際連合事務局に承認され、2014年2月19日からその効力が生じています。我が国の批准は世界141番目でした。世界141番目の批准が、世界第3位の経済大国や先進国という立場に相応しい態度と言えるかは甚だ疑問ですが、全ての人々の尊厳ある暮らしに向けた一里塚としては、一定の評価をせざるを得ない所です。

 「評価をせざるを得ない」。つまり、この事にもろ手を挙げて喜んでいる場合ではないと私は考えています。それは本条約批准の契機となっている国内法、障害者差別解消法の内実に一定の不満を有しているからです。

 障害者差別解消法は、2013年6月26日に公布され、2016年4月1日施行されることとなっています。施行に至るまでの期間、より具体的な「基本方針」や「ガイドライン」が定められることになっており、現在はその過渡期にあると言えます。

 詳細は今後詰められるにしても、現時点における本法の課題をここでは精査しておきたいと思います。障害者差別解消法は、如上の障害者権利条約と障害者基本法と密接な関係にあります。障がい者に対する差別という件で鑑みれば、本条約・法律からは以下の部分を取り上げることが出来ます。


 「『障害を理由とする差別』とは、障害を理由とするあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう。障害を理由とする差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む。『合理的配慮』とは、障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」※1
 「第四条  何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。 2  社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによって前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない」※2。


 双方とも、�〆絞未鰺�由とした不当な差別的取扱いと��合理的配慮不提供を禁じたものになっています。これらと関連し、かつ具現化したものが障害者差別解消法となっていますので、この法律においてもこの2つの禁止事項が謳われています。



「不当な差別的取扱い」をどの様に捉えるべきか



 この法律における「不当な差別的取扱い」の要件として、東俊裕氏は以下の3点を挙げています。「�〜蠎衒�の事務や事業を『行うに当たり』なされたものであること�⊂祿下圓任覆ぜ圓箸梁佝罎砲�いて『障害』を理由とした『差別的取扱い』といえること��『不当』であること(正当な理由に基づくものでないこととされている)�し覯未箸靴鴇祿下圓痢惴⇒�利益』を侵害したこと」※3。この要件は、国・地方公共団体・民間事業者には、法的義務を課しているものです。一方、差別は関係性や構造によって、直接差別・間接差別・関連差別に分別が可能です。直接差別は、障がいを理由とした差別であり、間接差別は、障がいに付随する別の理由による差別を言い、関連差別では、家族に障がい者がいるといった形で被る差別の事を指します。

 この法律では、このうち直接差別は明らかな対象と読めますが、間接差別や、特に関連差別が対象となるのか否かについては曖昧模糊となっています。差別の範囲が曖昧であり過ぎれば、実際の運用が始まってからの解釈でどうにでも活用されてしまい兼ねませんのでこれは大きな課題であると言えます。

 この「差別的扱い」の具体例としては、以下の数点を挙げることが出来ます。


�〇覲弌δ鯵弌κ盥堙�の障がいを理由に排除・制限する例
例:今まで勤めていた職場で、精神障害があると分かった途端解雇になった。
例:聴覚障がい者が病院受診の際、筆談に時間がかかるとの理由で、受診を拒否された。
�⊆屬い垢篳篩�具、盲導犬、介助者など、障がいに関連することを理由に排除・制限すること
例:電動車いすを理由に、博覧会の入場を拒否する。
例:車いすを理由に交通機関の乗車を拒否する。


 高齢者分野に長年携わってきた者からすれば、これを書きながら、また新たな気づきを得ることが出来ました。上記の筆談に時間がかかるからと言う理由で聴覚障がい者の受診を拒否するとの事例を取ってみても、高齢者分野においても現実問題として、認知症高齢者が一人で医療機関に受診をしても、拒否されることがあるのではないでしょうか。“判断のできる”“話のできる”家族等の立ち合いが求められることは珍しくはありません。しかし、私たちはこれを当たり前の事だと無意識の内に受け入れているのではないでしょうか。本法に照らして鑑みれば、これは当たり前の事などではなく、「差別的扱い」に該当することが理解できるのです。他分野との連携を促進することによって、自らの実践領域における実践の質を高めることにそれが確実に繋がることを丁度いま体感したところです。

 �ぞ磴�い者の差別を動機や過程ではなく、権利侵害という結果として見るところは、国内における4つの虐待防止法と整合性のある捉え方があると思います。意図的・非意図的の如何にかかわらず、その行為と結果をもって虐待・差別と判断するというものです。

 私は、虐待と差別は非常に近い概念として捉えることが出来ると考えていますが、異なる点があるのだろうとも認識しています。実は、差別は、虐待よりもより概念が広いのではないかと思うのです。なぜなら、虐待を捉える場合、その行為の背景にある動機や思いよりも、むしろ、その行為そのものに対する比重が大きく、その行為に対する評価が判別の指標となると言えます。行為だけで判断するのであれば、これらは、一般化されやすく、共通理解もされやすい。よって、法律の定義に基づく虐待か否かの判別はつけ難くとも(各虐待防止法の虐待の定義は抽象的表現となっています)、これは放置できない虐待の範疇であり、権利侵害が起こっていると認定することは難しいことではありません。

 一方差別は、その行為のみならず、その背景にある動機や思いにも評価の対象を広げるべきものではないかと思うのです。八木晃介氏によれば、差別は「行動的次元」のものであり、その行為の背景とも言える偏見(態度・意見・信念等)は差別とは言えないとしつつも、「両者がまったく無関係であるなどということはできません。時に差別を『行為を姿にかえた偏見』として定義することがあるのはそのためです」としています。しかしそうであっても、糺弾の対象は差別であって、偏見は教育や啓発で対応すべきものだとも論じています※4。

 よって、行為とうい結果を持って判断する差別と虐待には共通性が見られるものの、その行為の背景にある動機や思いをより差別は重要視している点において、両者には一定の差異があることが理解されます。この様に考えると、偏見のない行為は差別と言えるのか、という疑問が湧いてきます。つまり、偏見を全く含有しない差別は存在するのかと言うことです。これに対して、八木氏は次のように論じています。


 「私が本稿で問題化させたかったことのひとつは、『非意図的差別』(ことに個人的非意図的差別)をもまた差別の範疇にぞくするというべきか否かという点でした。(中略)意図的差別が主体的に差別を選択することによってなされるものであるのにたいし、非意図的差別は差別選択の主体性をもたないタイプの差別です。差別が構造的にうめこまれている場合など、それに気づかないで(つまり、非主体的に)差別してしまうことはじゅうぶんにありうることでしょう。しかし、このようなタイプの差別の場合、はたして糺弾という実践は成立するのでしょうか。私が、非意図的な差別や無意識的な差別を糺弾することは可能かどうかと問題を提起したのはこの点にかかわっています。差別の枠組みを主体的に選択していない無意識的な差別者に差別の責任をおわせる(責任をとらせる)というのは、理論的にみてもいささか無理があるのではないか、というのが私のさしあたっての感じ方です」※5


 八木氏の述べるように、偏見の無い(非意図的・無意識的)行為は差別とは言えないという立場を取るならば、即ち、差別の判別は行為に依拠するものの、その背景にある偏見を重要視するのであれば、行為の結果だけを見て差別であると判断することには一定の疑問が生じることになります。もちろんこれは、偏見が無ければ、不見識や無知からくる問題となる行為を放置するということではありません。偏見のない(無知や不見識からくる)行為の場合は、差別の責任を取らせることや糺弾することで解決するよりも、教育や啓発によって改善を図る領域に該当するものと捉えるのです。差別解消法を虐待防止法と同じ土俵で政府は考えているのかも知れませんが、実は、差別と虐待には斯くの如き差異があることを見落としているのではないかと思うのです。安易に、「差別」を使ってしまったなと言う心証です。この心証の裏付けとなる証左は後段で更に論じることとします。

 確かに、上記の様に差別を捉えることは難しい。しかしながら、斯様な課題があるにせよ、不当な差別的扱いによって障がい者の権利を侵害することを禁じる本要件は、次に示す「合理的配慮の不提供」の要件よりは、より捉えやすい(分かりやすい)と言えます。



合理的配慮とは何か?



 「合理的配慮の不提供」の要件を東氏は以下の様にまとめています。「�‥�該障害者にとっての『社会的障壁』が、相手方が事務または事業を『行うに当たり』現に存在すること�⊂祿下圓�らその排除を必要としている旨『意思の表明』があること(本人によることが困難な場合はその家族等が本人を補佐して意思の表明をする場合も解釈上含み得るとされている)��その実施にともなう負担が『過重』でないこと�い砲發�かわらず、当該障害者の性別、年齢および障害の状態に応じた『必要かつ合理的な配慮』がなく、そのことによって障害者の『権利利益』が侵害されたこと」※6。また、本要件は、国・地方公共団体は法的義務であるものの、民間事業者は努力義務と規定されています。

 「社会的障壁」について明言されているということは、障がい者差別の問題を個人的な問題としてではなく、社会全体の問題と捉えている訳ですから、私たちソーシャルワーカーに求められるのは言わずもがな社会的活動(ソーシャルアクション)であることが理解されます。

 この事を踏まえながらも、詳細を見ていきたいと思います。「合理的配慮」を行うに当たっては、�桔椰佑砲茲覦媚廚良縮世�あること、�兇修亮損椶垢訛Δ良蘆瓦�過重でないことが、その要件となっているようです。�気砲弔い討蓮⊇飴歌承脹,良嫗啖莎弔砲�いて、本人の意思の表明が困難である場合は、家族等が補佐することが可能とされています※7。「家族等」の「等」は何を指すのかは不明瞭ですが、ここに私たちソーシャルワーカーが入るものと想定した実践が不可欠であると認識します。

 �兇砲弔い董�国・地方公共団体・民間事業者の負担が過重でない場合は、合理的配慮を行わなければならない、逆に過重であればこの限りではないというこの件が、本法の理念や目的が出し抜きにされかねない陥穽を有していると言えます。事実、参議院における付帯決議でも次の件が見受けられます。


 「合理的配慮に関する過重な負担の判断においては、その水準が本法の趣旨を不当にゆがめることのない合理的な範囲で設定されるべきであることを念頭に、事業者の事業規模、事業規模から見た負担の程度、事業者の財政状況、業務遂行に及ぼす影響等を総合的に考慮することとし、中小零細企業への影響に配慮すること」※7


 本法の趣旨を不当にゆがめることがない範囲で「過重な負担」の判断をすべしとなっているのです。ここで※1で挙げた障害者権利条約の合理的配慮の件を改めて見ておきたいと思います。


 「『合理的配慮』とは、障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」※1。


 本法との違いは、「均衡を失した又は…」の個所ではないでしょうか。「過重な負担」や「過度な負担」は、誰が判断するのかということを考えれば、国・地方公共団体・事業者の主観的なものに依拠せざるを得ない部分が多分にあることが想定されます。衆参両院による付帯決議でも、事業規模・財政状況・業務遂行を総合的に加味して判断するとなっていますので、その状況を最も理解しているのは当事者となるわけですから、国・地方公共団体・事業者等の事務・事業を行う側の主観的評価がその判別に大きな影響を与えることとなります。

 一方、そこに「均衡を失した」という文言が加わることで、合理的配慮の趣旨にニュアンスの変化が生じることになります。「均衡」とは言うまでもなく、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保する」ことを指します。「障害者と他の者」に対する平等を意図した表現となっているのです。であるならば本文が入ることによって、この合理的配慮の捉え方が、事務・事業を行う側の主観が含有されやすい「過重な負担」「過度な負担」といった視点に加えて、障がい者側の理論や論点が多少なりとも盛り込まれることとなりますので、本条約における表現の方が障がい者の視点をより大切にしていると言えます。よって、本法の合理的配慮の件にこの文言は盛り込むべきであったと認識します。他方、「障害者と他の者」との「均衡」の有無を持って差別を捉える点には異論がない訳ではありません。この考え方が恐らく、本法の名称通り、差別の「解消」という概念に繋がっているのだと思われます。この辺りは、後段で多少深く論述していくことにします。

 そこに加えて、この合理的配慮は、障がい者の個別特性を理解していなければその配慮が出来ない性質のものであると言えます。例えば、合理的配慮の具体例としては、以下の項目を挙げることが出来ます。


�〇�間や順番等のルールに対する配慮の例
例:入学試験や入社試験の時間の延長。点字試験の実施。
例:知的障がい者に対してルビをふった分かりやすい書類の資料を提示。
�∧�理的な配慮の例
例:車いすの職員に対する机の高さや配置、トイレ等に対する整備。
�J篏�手段を提供
例:発達障がい者に対して他者の目線を感じない空間における業務環境を整備。
例:音声読み上げソフトをPCに導入。


 例えば、車いすの職員に身障者用のトイレを整備することなどは、事務・事業を行う側からも比較的理解がしやすく配慮しやすい事柄かも知れません。しかし、精神障がいや発達障がい、高次機能障がいのある人々の合理的配慮を行うためには、まずそれぞれの障害の特性と個別特性を理解しなければその配慮を成すことが出来ません。

 であるならば、この合理的配慮を促進していくためには、社会の全ての構成員が障害の特性や人々の個性を十分に理解しておくことが基盤としてなければなりません。まさに、「社会的障壁」を除去するがごとく、全ての人々に対する福祉教育の実践が欠かせぬことを認識しておくべきでしょう。その為には、全ての人々が、障がいを身近なものとして考え、そして、自らのこととして捉える社会的学習(ソーシャルラーニング)を津々浦々で展開していく必要があります。社会にその基盤を備えて行く過程にこそ、この合理的配慮のあるべき姿とその意味を私たちは見出すことが出来るのです。



障がい者差別は何に利用されているのか?



 さて、ここまでは差別解消法そのものにおける課題について論じてきました。ここからは少し捉え方を広げて、差別とは何か?解消とは何を指すのか?合理的とはどういう意味か?について検討してみたいと思います。

 「解消」とはその名の通り、そこにある関係や状態が消えて無くなることを指します。つまり、差別が消えて無くなることを目指して命名されたことが理解されます。そこで一つの疑問が生じてきます。差別は果たして消えて無くなることがあるのだろうかという疑問です。

 先ず、栗原彬氏によれば、差別は無くならないと論じています。


 「ところが現実には差別はなくならない。それはなぜか。私はポイントは二つあると思う。第一に、政治権力にとって、差別はすぐれて政治的機能をもつが故に、権力のエコノミーとしての差別は保全される、ということである。政治権力が、特定の政治目的を達成しようとするとき、また社会統合を進める際、差別の効用はきわめて大きい。更に政治権力は、差別が競争型の市場において利益を上げる上で利用価値が高いことを見出してきた。第二に、近代化の啓蒙に伴ない、「差別は悪い」という言説が一般化したことである。タテマエになったこの言説は、人を差別の前で素通りさせる。(遮断するまなざし!)。差別意識は、ことばをもち、世界をカテゴリー化することなしには生きられない人間という種に根源的な意識である」※9。


 政治的・社会構造的そして、それと相互作用の関係にある人々の意識的にも差別は無くならないと論じているのです。私自身もこの考えに全く賛同の立場をとっています。つまり、差別は無くならないことを前提としながらも、無論そのことを良しとするのではなく、この差別という問題と対峙する姿勢や実践が求められているのです。

 また、差別が政治権力によって利用されていることは明白な事実であると私も受け止めています。昨今でも、北朝鮮の外交政策と連動する形で、「高校無償化法」から朝鮮高校の生徒を適用除外するなどを行った結果、それが在日朝鮮人の差別を助長していたことは記憶に新しい出来事でしょう。よって、差別を「解消」するためには、政治がその責務を果たす必要性があると言えるのです。この差別と政治の関係については、ここでは、原田伴彦氏と八木氏の以下の件を引用しておきます。


 「それはともかく、人種差別とか民族差別とかいうような不当な人間差別は、誰かがいつとはなしに考えはじめた結果、なんとなくできあがったという性質のものではありません。個人の場合、なんとなく虫が好かない、嫌いであるとか、あるいは本人にもよくわからないまったくいわれのない理由で、他人をみくだすというケースがあるいはあるかもしれませんが、これを民族間の多数の共通感覚にあてはめることはきわめて困難であるように思われます。すなわち民族的差別あるいは人種的差別については、それが発生すべき歴史的社会的な客観的条件、その帰するところは「政治」という問題があるわけです。そして「政治」によってつくられた問題は「政治」によって解決すべきであるし、また解決しなければならないと思うのであります」※9。
 「白人が黒人を差別するのは、黒人が、肌の色の黒い人種だからではありません。そうではなく、白人が黒人を侵略し、抑圧し、搾取する、その都合上、黒人差別をつくりあげたのです。差別を合理化する上で、黒人の肌の色が黒いという事実が、白人にとってはきわめて都合がよかったわけです。僕の考えでは、ほとんどすべての差別はこのような構造において成立していると思います」※10。


 一つの示唆は、やはり私たちソーシャルワーカーの仕事は、政治や社会を捉えるマクロな視点なくして、クライエントの権利擁護を成すことは出来ないことが確認できます。その上で、上記の二つの指摘に則って、政治権力や社会構造が、障がい者差別を利用していると考えた際、それは何を目的とした利用なのかを私たちは考え抜く必要があります。

 その結論を導き出すヒントが、この「合理的配慮」という言い回しの「合理的」に込められていると私は感じています。戦後の経済成長を促進し、その象徴するスローガンが「近代化」や「合理化」であったと認識します。特に、「合理化」が標榜され促進された結果、私たちは確かに経済成長を果たし、他方多くの代償を払ってきました。世界第三位の経済大国となった今でも、他国に比べて十分な社会福祉サービスの提供ができていない状況を鑑みれば、この「近代化」や「合理化」は誰にとってのそれなのかを今一度検証する必要があるのです。

 私が子どもたちに是非とも読んでもらいたい鎌田慧氏の書籍から引用をしてみます。


 「一九六七(昭和四二)年、東京では都電が姿をけしはじめていた。『モータリゼーション』ということばがさかんにもてはやされ、クルマがふえるようになった。道路のまんなかをはしる都電は、ドライバーたちの眼にいらだたしいものにうつるようになった。『チンチン電車』の愛称でよばれ、老人や子どもたちにとっての、気楽で安全な、しかも安いこの乗り物は、『ノロノロ電車』とばかにされるようになっていた。都電が風を切ってはしれなくなったのは、自動車工場のベルトコンベアから、一分単位でクルマがはきだされ、それが道にあふれたからなのだが、そのことは忘れられ、道路が混雑するのは、図体の大きな都電が路をふさいでいるからだ、とおもわれたのである。原因と結果が逆転いていたのだった。(中略)都電をなくすことにぼくは反対だった。都電は好きだったし、労働者の職場を強引になくすことに賛成できなかった。友だちにそういうと、その考え方は、『古い、近代的でない』と批判された。日本人は、『古い』といわれるとたじろぐ。それほどまでに『近代化』は強引にすすめられてきたのだった。編集の仕事のあいまに、あっちこっちの車庫をまわって、運転手や車掌たちの話をきいて歩いた。『合理化』とか『近代化』がけっしてバラ色のものでない、ということを具体的に知るようになったのは、この取材によってであった。都電撤去は、『都市の近代化』というスローガンによって、急スピードですすめられた。合理的でないものは悪いものだ、という意識がひとびとに根強いのだが、都電のように安全で安い、庶民の足をなくすことはけっして合理的なことではなかった。自己合理化(自分のことを正しいものに主張する)ということばがあるのだが、力の強いひとの理屈が正しいものとされてしまうことに、それは似ていた。運転手たちは、仕事がなくなって『困る』といいながらも、もうすでにあきらめているようだった。彼らも、合理的でない、といわれることをハネ返せなかったからである」※11。


 さて、障がい者差別は何を目的に利用され続けてきたのだろうか。恐らく、経済至上主義の下、効率性と生産性を第一義とした政策方針によって、障がい者差別は利用され、そして助長されてきたのでしょう。であるならば、クライエントの権利擁護を標榜し、その実践を担うソーシャルワーカーは、この経済至上主義の社会構造に対峙する視座を持たねばなりますまい。この社会構造に対する対峙と、その改善に対する関わりを持たずして障がい者の差別解消はもとより、全ての人々の権利擁護の実践は成されないものと思われます。そして、少なくとも、人間の暮らしや福祉に係る領域で、経済分野で用いられ、手垢のついた斯くなる「合理的」なる言葉は用いないでもらいたいというのが私の本音です。

 差別が政治権力によって利用されてきたことに一定の確認ができましたが、であるのみならずやはり差別が現下の社会から消えて無くなることは無いのだと思います。またしても八木氏の論文から引用します。


 「分子生物学者・柴谷篤弘氏(元京都精華大学学長)は、「差別の構造は、われわれの脳の中につくりつけになっており、機会あるたびに具現化してわれわれの差別的な言動を生成すると考えられる」と断定しました(『科学批判から差別批判へ』明石書店、 一九九一年、一三七頁)。(中略)思想史家、松本健一氏(麗澤大学教授)は、次のように記述していました。「共同体成員がアイデンティティをもっているということは、対内的に同一シンボルをもたなければならないと同時に、対外的に排除するところをもたなければならないということが組織のベクトルとしてはある」(『共同体の論理』、第三文明社、一九七八年、二五三頁)」※12。


 仲良しグループは、そのグループ外の人々の排除に基づいて形成されている。この事実を鑑みても、やはり我々は絶えず誰かを排除し続けなければ、その社会的活動が困難な生き物なのかも知れません。実は、本法の正式名称も、「「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」ですから、「解消」を促進する過程に重きを置いた目的ある表現を取っています。

 しかし、同じ社会に属する誰かが排他・排斥されている社会を共に形成していながら、困難だから仕方がないと居直るつもりは私にはありません。ゲオルク=ジンメル氏の言うところの「排除されていない者は(排除する側に)包括されている」(括弧内は中島)に則れば、同じ社会の構成員として、その社会で誰かが排除されていることを傍観することは、まさしく、「排除する側」への加担を意味するからです。「排除する側」からの脱却を諦めない為にも、この困難を傍観することなく、対峙を続ける姿勢と具体的行動が求められているのだと思います。八木氏も以下の様に述べています。


 「すなわち、差別が不可避的な関係構造であることが問題なのかどうかではなく、焦点は、差別という関係構造への私たちの立ち向かい方にあるというべきなのです」※14。
 「解放とは、達成された未来の『理想状態』なのではなく、それをもとめて悪戦苦闘をつづける『いま・ここ』のプロセスの中にこそありうるという点だ」※15。



「差別解消」とは何か?



 そして、差別を捉える際に、果たしてそれを「解消」するという理論で良いのかという点は検討するに値します。前述の通り、差別そのものがなくなることは無いことを前提に考えれば、この「解消」するという理論は、消えて無くなるという意味よりは、消えて無くなった様に分からなくしてしまうという意味に繋がる恐れがありますし、差別を潜在化・埋没化させる方向に人々の行動を促進する陥穽を抱いていると言えます。この様に考えれば、ここで言う「解消」という言葉には、消えてなくなるから転じて、分からなくするという意味合いが強くなります。

 また、多様性の相互理解を促進していくべき現下の社会にあって、この「解消」という問題解決の方法はその流れに逆行しているように思われます。なぜなら、消えて無くなる様に分からなくするためには、これらの問題を一定の基準に当てはめる必要があるからです。存在が消えて分からなくなると言う事は、その問題が何かと同化・融合することと強い結びつきがある様に私は捉えています。まさに、多様性を認める社会ではなく、画一化を認める社会へ凋落する危険を孕んでいるのです。再び、八木氏の論文を引用します。


 「この国の部落解放運動は、(中略)伝統的に〈同化〉モデルに対しては消極的であり、むしろ、多くの場合、それは解放の主体形成を阻害する融和主義であるとして拒否してきたと一応はいえる。(中略)要するに、部落解放運動は水平社以来、ともかく〈同化〉を拒否して少数者としての自立をめざし、近代的市民としての解消に対して否定的なスタンスを保ってきたことになり、その意味では、どちらかといえば〈文化的多元主義〉モデルに近い理想をもっていたことになるだろう」※16


 部落差別にかかる運動の多くが、一部を除いて、この「解消」ではなく「解放」というスタンスを取ってきたことには上記の意図がありました。

 障がい者差別においても同様に留意の必要があると思います。障がい者差別を消えて無くなる様に分からなくすると言うことは、それは障がい者以外の人々の論理において成されていく過程を指すのではないでしょうか。多数派の理論が普遍化した形で、社会の「常識」や「公理」「普通」が成り立っていることを鑑みても、障がい者以外の人々の論理から見て、消えて無くなる様に埋没化・潜在化して行く過程に陥るものと言えます。

 であれば、障がい者以外の人々の論理で、障がい者差別を論じ、働きかけることで社会は、私たちの目指すべき方向とは逆の方向へと導かれて行くことでしょう。このことにこそ、前段で少し触れた障害者権利条約における障がい者とそれ以外の者との「均衡」の有無を持って差別を判別することや、本法の、「障害者でない者との対比」においてこの差別を判別しようとする姿勢に強い違和感が生じてくるのです。健常者の理論に障がい者を当てはめて差別を「解消」させるのではなく、障がい者の理論を社会に「解放」していく活動や運動の在り方こそが求められていることを強調しておきたいと思います。



社会福祉実践家と差別の関係



 クライエントの権利擁護をその使命(ミッション)としている社会福祉実践家が、あらゆる差別と対峙し具体的な活動を行うことは、多くの実践家にとって異論の無いことでしょう。ここでは更に深めた形で、差別との対峙、解放に向けての実践を社会福祉実践家が担うべきその理由について確認しておきたいと思います。八木氏によれば、差別は排除の観念形態であると論じています。


 「やはり、人間というものは差別する存在であり、その意味で排除や差別は『社会の常態』であるという点です。『排除や差別』と並列しましたが、ここでは『〈排除〉とはそもそも当該社会の〈正当な〉成員として認識しないということを意味する』(江原由美子『女性解放という思想』勁草書房、一九八五年、八四頁)を引用するにとどめ、深入りはしません。あえてつけくわえれば、当該社会の正当な成員として『認識しない』だけではなく、『処遇しない』をふくめるべきだという点です。すでにのべたように、私個人は、「差別」を「排除の観念形態」としてとらえています」※17。
 「もちろん、『排除』と『差別』とが完全に同一物だとまではいえないにしても、『差別』を『排除の観念形態』としてとらえれば(私自身は、この観点にたっています)、理論的には『排除』と『差別』の距離を無限小にまでちぢめることも不可能とはいえません」※18。


 差別と排除が同一とまでは言えないまでも、両者に強い相関性と関連性があることは認めてよいと思います。であるならば、権利擁護とも相関性と関連性の非常に強い社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の実践が求められている社会福祉実践家の領域と、差別解放への実践は、かなり密接な関係があることが理解されるのではないでしょうか。つまり、社会的排除(ソーシャルエクスクルージョン)に対峙した具体的な実践を行う中で、地域に社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)を促進していくことであらゆる差別は解放への接近を期待することが出来るのです。この意味において、社会福祉実践家は、差別解放の重要な担い手でもあると言えます。

 今回は比較的長きに渡って、障害者差別解消法を題材とした幅広い検討を行ってきました。差別や人権、そして排除にかかわる問題は、個人的な問題ではなく、社会的な問題として捉えるべき問題であること、その様な視点を浮き彫りにすることを試みた論考を手掛けてみました。障がい者の権利擁護の実践に尽力してきた毎日新聞の野沢和弘氏も以下の様に述べています。


 「集団主義や没個性の精神風土は、軍隊だけでなく、戦後の経済成長を推しすすめてきた合理化や効率化という原理にも共通する。高性能の工業製品を大量生産するためには、従業員に対して個性よりも均質さを要求し、労働力を育て供出する学校教育においても忍耐をともなう集団主義や横並びの協調性を求め、そこからはみ出す児童・生徒を排除してきた。障害のある子どもは普通学級から排除され、障がいのない子どもの世界でもほかの子と違う個性を少しでも嗅ぎ取られるといじめの標的にされ、不登校やひきこもりへと追い込まれた。異質なものを排除する無意識のシステムは、新しい時代を創造する感性を抹殺し続けてきたのである。それを変える可能性を秘めるのが合理的配慮義務という概念なのである。一人ひとりの違いを理解したうえで必要な配慮をすることを、社会や学校などに義務づけようという考えである。均質性より多様性、汎化性より希少性を重んじたり楽しんだりする成熟した社会の価値観を獲得するために、個々の特性に配慮し異質さを尊重する合理的配慮義務が重要な役割を演じることを期待したい」※19。


 まさに、社会構造やその価値規範の在り方こそが問われているのです。そのあり方を変容していかない限り、あらゆる差別は解放へと導かれることは無いのでしょう。そして、これは被差別者の為の運動・活動ではないことも一方で理解できるのではないでしょうか。そうです。全ての人々が自分らしく暮らしていける社会の構築へと間違いなく繋がる営みなのです。ですので、この差別解放への取り組みは、全ての人間の社会福祉の向上を目指す社会福祉実践家の主たる実践領域と言っても過言ではありません。

 では実際に、どのような形で、私たち実践家は具体的活動を展開し、社会のあるべき姿への接近を成すことが出来るのでしょうか。その手がかりを導き出すことこそが、私たち、今を生きる社会福祉実践家の使命であると言えます。私たちの法人が、そして、私自身が生涯をかけて検討を重ねるべき定立が今ここにあるのです。





※1 「障害者の権利に関する条約」第2条(定義)
※2 「障害者基本法」第4条(差別の禁止)
※3 東俊裕「障害者差別解消法の意義と課題」『月刊福祉』全社協 PP.12-20 2013年12月
※4 八木晃介『差別論研究』批評社PP.57-58 2010年1月「差別とは何であって何でないのかという問題を解明するのは簡単そうで、実は、それほど容易なことではありません。きわめて一般的に差別を定義するならば、公式的または非公式的に特定のクラスにグループ分けされる人々の差異的かつ不公平な処遇、ということになりましょうか。『不公平な処遇』というかぎりは、差別の行動的次元が強調されていることは明確であって、いかなる偏見(これは態度・信念・意見などのレベルにぞくします)も行動化され、しかも被差別者に具体的な不利益をおしつける段階にいたらないかぎり、差別とはいいきれないようにおもわれます」「もちろん、『差別』と『偏見』とは次元を異にするだけのことであって、両者がまったく無関係であるなどということはできません。時に差別を『行為を姿にかえた偏見』として定義することがあるのはそのためです。ただし、糺弾できるのは可視的な『差別』であって、不可視的な『偏見』をそれ自体として糺弾することは不可能です。他者の心の内や脳の中を透視することはできないからです。『偏見』の所在は、『差別』への変身を予測させるかもしれませんが、予測は教育や啓発に適合的ではあっても、糺弾にはなじみますまい」。
※5 八木晃介『差別論研究』批評社PP.60-61 2010年1月
※6 東俊裕「障害者差別解消法の意義と課題」『月刊福祉』全社協 PP.12-20 2013年12月
※7 衆議院付帯決議「4 合理的配慮に関する過重な負担の判断においては、事業者の事業規模、事業規模から見た負担の程度、事業者の財政状況、業務遂行に及ぼす影響等を総合的に考慮することとし、中小零細企業への影響に配慮すること。また、意思の表明について、障害者本人が自ら意思を表明することが困難な場合にはその家族等が本人を補佐して行うことも可能であることを周知すること。
5 国及び地方公共団体において、グループホームやケアホーム等を含む、障害者関連施設の認可等に際して周辺住民の同意を求めないことを徹底するとともに、住民の理解を得るために積極的な啓発活動を行うこと」。参議院付帯決議「1 また、同条約の趣旨に沿うよう、障害女性や障害児に対する複合的な差別の現状を認識し、障害女性や障害児の人権の擁護を図ること。4 合理的配慮に関する過重な負担の判断においては、その水準が本法の趣旨を不当にゆがめることのない合理的な範囲で設定されるべきであることを念頭に、事業者の事業規模、事業規模から見た負担の程度、事業者の財政状況、業務遂行に及ぼす影響等を総合的に考慮することとし、中小零細企業への影響に配慮すること。また、意思の表明について、障害者本人が自ら意思を表明することが困難な場合にはその家族等が本人を補佐して行うことも可能であることを周知すること。6 国及び地方公共団体において、グループホームやケアホーム等を含む、障害者関連施設の認可等に際して周辺住民の同意を求めないことを徹底するとともに、住民の理解を得るために積極的な啓発活動を行うこと」。
※8 栗原彬「差別とまなざし」『講座差別の社会学2 日本社会の差別構造』弘文堂P.26 1996年12月
※9 原田伴彦『被差別部落の歴史』朝日新聞社PP.44-45 1996年7月
※10 八木晃介『部落差別論 生き方の変革を求めて』批評社P.273 1996年5月
※11 鎌田慧『ぼくが世の中に学んだこと』ちくま文庫PP.93-95 1994年6月
※12 八木晃介『差別論研究』批評社P.40 2010年1月
※13 ゲオルク=ジンメル著 居安正訳 『社会学 社会化の諸形式についての研究(上)』白水社 P.409 1999年10月「あらゆる現実的な共同社会の実際の量的な限界づけにもかかわらず、重要な一連の限界づけが存在する。その内的な傾向は、排除されていない者は包括されているということである。一定の政治的、宗教的、身分的な円周内において各人は、たいていは自発的ではないにしても、彼の生存によってあたえられた一定の外的な諸条件を満足させ、ただちに『それに所属している』と考えられる。たとえば国家領域のなかに生まれた者は、特別な状態が彼を例外としないばあいは、幾重にも複雑な国家団体の成員である。一定の社会階級の所属者は、自発的あるいは非自発的に局外者とならないばあいは、もちろんその階級の社会的な因襲と結合形式のなかへ引き入れられる」。
※14 八木晃介『差別論研究』批評社PP.62 2010年1月
※15 八木晃介『部落差別のソシオロジー』批評社P.26 1994年11月
※16 八木晃介「部落問題の社会学」『講座差別の社会学2 日本社会の差別構造』弘文堂PP.73-74 1996年12月
※17 八木晃介『差別論研究』批評社PP.61-62 2010年1月
※18 八木晃介『差別論研究』批評社P.40 2010年1月
※19 野沢和弘「障害者差別解消法を活かすために」『月刊福祉』全社協 P.45 2013年12月



ジャーナリズムとNHKの関係

2014/02/07 23:46:30  社会全般
 仮に社会福祉にド素人の福祉経営者がいたとして、その経営者が「クライエントの人権などどうでも良い」と公然の場で発言したらどうなるだろうか。

 いわゆる組織のトップには色んなタイプがあります。現場からの叩き上げや、幹部候補からの昇進者、経営に精通した者の招聘など。つまり、これだけ企業の複合化が進捗した社会において、基幹業務のド素人が経営者になることは珍しくはありませんし、基幹業務の管理・責任を組織体制で担保できておれば、それは忌避すべきことでも無いように思います。しかし、幾らド素人とは言え、冒頭の様に、その原則論や本質、理念を否定し、蹂躙する様な視点を持っておれば話は全く変わってきます。言うまでもなく、如上の発言をした福祉経営者など即刻クビにすべきでしょう。そうしなければ、斯様なサービスを提供する組織などから、誰もサービスを利用しないことに帰結するだけです。早期に倒産の危機が訪れるでしょう。

 先月25日のNHKの会長就任会見における籾井勝人会長の発言は、この事と平仄の合う話ではないでしょうか。報道によれば、籾井氏の発言の要旨は以下の様に挙げられています。

・(国際放送では)政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない。
・(慰安婦問題について)戦争地域にはどこでもあった。ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。(韓国は)日韓条約ですべて解決していることをなぜ蒸し返すのか。おかしい。
・(尖閣諸島などは)日本の明確な領土。国民にきちっと理解してもらう必要がある。
・(靖国神社参拝について)総理が信念で行かれたということで、それはそれでよろしい。
・秘密法は政府が必要と説明しているので、様子を見るしかない※1。

 世の中に唯一無二の正義などありません。また、事実も一つではありません。100人いれば100通りの正義と事実があることこそが真理であると自身は考えてきました。その意味において、「公正中立や不偏不党、客観的な報道」は“言葉遊び”に過ぎず、この真理が分かっていないという事に帰結するのではないでしょうか。では、ジャーナリズムが担うべき役割とは何か。それは、社会の中で黙殺・度外視・抑圧・蹂躙され続けている人々の声をひとつ一つ丁寧に掬い上げて世に発表することにあるはずです。100人いれば100通りの正義と事実があるにもかかわらず、100の言い分は同等には取り扱われていないのが現下の社会の現状です。むしろ、一部の大きな声を発することのできる人々の見解が、社会を席捲し、それが唯一無二の正義であり、唯一の事実であると捉えられています。

 そして、重要なことは、その一部の「大きな声」の論理が、その他多くの人々の暮らしを蔑ろにしている事実にあります。3.11より以前。原発は安全だと叫ばれていましたし、その一部の「大きな声」に国民は騙されていました。「原発は安全」こそが、「正義」であり、「事実」であり、そして、「普通」や「常識」であったのです。しかし、一方で、原発の危険性を指摘し続けた一部の人々も存在したのです。例えば、昨今手にした舘野淳氏の『廃炉時代が始まった この原発はいらない』(リーダーズノート新書)を読めばこれは明らかです。本書は、11年前に朝日文庫から出版されていたものですが、殆ど売れることなく即刻廃版となっていました。時の、「正義」「事実」「普通」「常識」からかけ離れていたことが大きな要因です。つまり、その当時、本書は、「反正義」であり、「虚偽」であり、「異常」かつ「常識外れ」な存在であったと認識します。本書を読む限り、舘野氏はその当時から、福島第一原発の危険性を指摘していましたし、その具体的な事故の予見も成されていたようです。本書は3.11後に復刻した訳ですが、それ以前からこれらの黙殺・度外視・抑圧され続けていた少数派の理論をジャーナリズムが真摯に報道し、そして、人々が社会の在り方を考える熟慮の機会にそれを用いることが出来ていれば、今の福島の悲劇は生まれなかったと断言できます。その意味において、その一因ではあるものの、福島第一原発の事故は、ジャーナリズムの不在が起こした事故であるとも言えます。

 この様にしてみれば、仮に真実や真理なるものがあったとして、それに限りなく接近するためには、多様性を限りなく認めると言うことが前提条件としてなければならないと理解できます。しかし、そうであれば、1億2千万程もある国民の多様性を全て理解した上での報道など出来ないことも一方で浮き彫りになるはずです。やはり、「不偏不党」や「公正中立」な報道は幻想なのかも知れません。その中にあって、それでもこの不偏不党や公正中立そして、真実・真理への飽く無き接近を志すのならば、取るべき道は一つではないでしょうか。いわゆる社会的弱者や少数派と呼ばれている人々の論理と立場を率先・意図して取り上げていくことしかありますまい。

 100人いれば100通りの普通や常識がある訳ですが、この世の中には、それが一つしかないかの様相ではないでしょうか。そして、この場合の「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのかを見定める必要があります。一部の「大きな声」を発することのできる人々の理論を中心とした所謂多数派にとっての「普通」や「常識」であって、我われのクライエントのそれで無い事は明らかでしょう。この様な、権力の側や多数派に多分に偏向したものが、現下の社会における「常識」や「普通」であることは疑いの余地がありません。

 であれば、ジャーナリズムの担うべき役割は明白です。権力の側と多数派に偏向した「普通」や「常識」に対して、そうではないその他の事実を強調・意図して報じていくことで、全体の不均衡を是正していくことにあると私は思います。「その他の事実」とは、いわゆる社会的弱者や少数派、即ち、私たちのクライエントから見た事実であり、3.11前における反原発論者から見た事実を指します。原発の問題を見ても明らかなように、権力の側や多数派は、自ら見た事実を誇大・捏造する力を有しています。一見「不偏不党」「公正中立」に見える「常識」や「普通」も、既に彼らの側に大きく偏向していることは間違いありません。そこで、ジャーナリズムには、自らの事実を誇大・捏造する力を有していない社会的弱者や少数派の側に立った報道が求められることになります。つまり、社会的弱者や少数派の側に立った報道を行うことがジャーナリストの使命なのです。このことは、ソーシャルワーカーの使命とも親和性が強く、実践内容の違いこそあれ、マクロにおける着眼点は全く同じだと自身は考えてきました。

 話を戻しますが、如上の会長発言は、まさにこのジャーナリズムを粉砕・蹂躙するものであると言えます。本来、権力とは一定以上の距離を保ちながら、少数派の側に立った報道を行うべきジャーナリズムの立場とは、真逆の理論と立ち位置にあることが明らかにされたのですから。よって、社会福祉経営者が、クライエントの人権を蹂躙する発言を公然と行うことと整合性が合うのです。であれば、これはまさに「即刻クビ」になるべき問題です。

 いみじくも、その他「NHK経営委員2人の節度を欠いた言動や行き過ぎた主張が、問題になっている」そうです。報道によれば、「そのうち哲学者の長谷川三千子氏は、朝日新聞社で1993年に拳銃自殺した右翼団体の元幹部について、昨年10月にこの自殺を礼賛する追悼文を発表していた。メディアに対して暴力で圧力をかけた刑事事件の当事者を称賛していると読める文章だ。憲法が規定する象徴天皇制を否定するような記述も見られる。また、長谷川氏は今年1月に新聞で、少子化対策として女性が家庭で育児に専念し、男性が外で働くのが合理的という内容のコラムを発表して、議論を呼んだ。一方、やはり新しく経営委員になった作家の百田尚樹氏は都知事選で特定候補を応援する街頭演説で、南京大虐殺や真珠湾攻撃、東京裁判などについて持論を展開した。そして、『中国・韓国の顔色を見ながら政治をする人は不必要。彼らは売国奴』と言い、自分が応援する以外の候補を『人間のクズみたいなやつ』と呼んだ」※2。

 社会的弱者や少数派の人権を守る立場にあるジャーナリズムに真っ向から挑戦を挑む経営陣。このNHKという組織からジャーナリズムの灯が絶えるのはもう時間の問題かも知れません。そうでなくとも、NHKはドキュメンタリー番組にこそジャーナリズムの観点が色濃く表現されていたものの、ニュース番組においては政府寄りの報道が顕著でした。恐らく、現場ではジャーナリズムの誇りを有した人たちが、頑張って番組を制作しているのだと推察されます。そこに、この経営陣が居座ることになれば、最後の砦たる彼らの動きにも止めが刺される恐れがあります。そして、このNHKを筆頭に、その他の民放も同じ流れを辿って行くものと思われます。まさに戦前の様相を帯びてくるのではないでしょうか。それを断固阻止するためにも、自身は彼らを「即刻クビ」にすべきだと思います。

 「そんな力は私たちには無い?」。本当にそうでしょうか。先の報道で示されている通り、「NHKの2014年度予算の事業収入は6629億円で、その97%が受信料」とあります※1。もはや、この様な反ジャーナリズムの感覚を有する経営陣が整っているNHKなどに受信料を納める必要などありますまい。辞任をしないのならば、全国民を挙げて受信料の支払い拒否をすべきでしょう。そもそも、受信料を国民から徴収しておいて、その会長の任命に、国民が関われない過程があること自体が問題です。せめて、受信料を納めている国民の投票によって、経営委員や会長は選任されるべきではないでしょうか。

 特に、ニュース番組に政府寄りの偏向が顕著であること、受信料を納めても会長を選任できる権利等を含め何の権利も行使出来ないこと、NHKの番組を殆ど見ていなくても受信料が徴収されること、その他多くの理由がありますが、やはりNHKの受信料は納めるべきものではないのでしょう。




※1 「時時刻刻 経営委、進退は問わず『政治的中立、信頼揺らぐ』NHK会長の発言問題」『朝日新聞』2014年1月29日
※2 「社説 NHK経営委員 不適格なのは明らかだ」『毎日新聞』2014年02月06日



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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