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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

2014年 年頭の辞

2013/12/31 22:21:37  社会福祉

 毎年この時期に何が有り難いのか、「おめでとう」の挨拶をさせられます。このような事を冒頭に述べては元も子もありませんが、福島第一原発事故後の状況や特定秘密保護法の成立、アジア近隣諸国との不毛な軋轢、普天間基地の移設問題、TPPへの妥結に向けたお話、生活保護法の改悪等々。我が国においてかつて斯様な課題が山積した時があるのでしょうか。私の知る限りにおいて、史上最悪の年末とはこのことを指すのでしょう。この様な年末を過ごした直後の年頭の辞とあって、斯くの如き思いをぶつけるものとなってしまいました。深くお詫び申し上げます。

 題目に2014年とキリスト暦を用いましたが、イスラム暦では1435年、ヒンズー暦は1936年、仏暦では2557年となります。和暦を用いれば、平成26年となる訳です。また、中国の知人がfacebookにも書いていた様に、中国や台湾、モンゴル、ベトナム、韓国等では旧正月を祝う習慣があり、我が国も昔はそうだったはずです。よって、今日が何年の始まりなのか、また今日が年の始まりであるのかなどは、その民族や文化、社会構造によって数多考え方があることを毎年この日に確認をするようにしております。だから、この時期の何が「おめでとう」なのか自身にはあまり実感が無いのです。

 しかしながら、私の親族を含めて、なぜこの日が「めでたい」のか等如上の問題意識を持つ人が非常に少ないことも一方で自覚をさせられる日でもあります。過日のクリスマスでは、アメリカの友人のクリスマスについての書き込みが同じくfacebook上に見受けられましたが、日本人には全く縁も所縁もないクリスマスをなぜ我々は祝うのか。

 実はこの「行為」に対する「理由」についての議論や慮りが全くないことが、冒頭昨年末に立て続けて起こされた事故へと帰結するのでしょう。いわゆるthinkではなく、feelで物事を判断する帰結として。人々が考えなくなった理由は様々でしょう。やはりこれは教育制度の問題が大きいと自身は考えますし、この問題は我々から見た問題であり、他方特定秘密保護法などを成立させたい側から見れば問題である所か、成功裡にある事象であるとも言えます。つまり、物事を深く掘り下げて考えないオトナを教育しているのが、我が国の教育制度なのかも知れません。物事のインプットとアウトプットを繰り返すこと、そして、複数の選択肢から適切なものを選択する力を高めることに重きが置かれた教育。しかし、社会において最も大事なことは、自身の意見と他者との意見の相違や、その双方を大切に取り扱うこと、多様性や共生の在り方を学ぶことにありますし、選択肢の中から妥当なものを探すのではなく、選択肢を自らが創造する創造性や開拓性にあります。これらの教育制度が一因として、冒頭の事故が連発していることをもって見れば、これは明らかに国益を損ねている教育制度であると自身は考えます。

 そして、ソーシャルワーカーとしても、この社会にある多様性の理解無くして、クライエントの権利擁護は成し得ないと日々考えています。多様性とは、多様な思想の理解のみならず、多様な立場を理解することまで含まれると自身は解釈しています。アジア近隣諸国には、その人たちの立場があります。その立場を理解できぬ人間に、自らの立場を守ることは出来ないでしょう。ソーシャルワーカーは、クライエントの権利を中心に据えながらも、人々の多様な立場を理解する必要があります。その理解が、社会をあるべき姿に変革するのだと日々思って生きています。この世に、唯一無二の正義など存在しません。真実も決して一つではありません。正しいことによる支配と信仰を時に揺さぶり、その唯我独尊を緩和するのは、まさに多様性なのだと実感します。クライエントの権利が金科玉条であると思えば思うほど、その社会変革が遠のくように、ありもしない正義や真実を振りかざすたびに社会は閉塞していくのでしょう。

 今年は、多様性の尊重をテーマに過ごしてみようと丁度今決意したところです。



信頼を喪失した社会でこそテロやデモは起こる

2013/12/03 18:15:41  社会全般


 かつて中東で日本人がテロの被害に遭うことは考えられませんでした。2004年頃から顕在化してきたイラク日本人人質事件からアルジェリア人質拘束事件まで、これらの経緯は、中東における日本に対する信頼が失われた帰結であると言えるでしょう。その信頼を喪失した大きなきっかけは、2003年からのイラク戦争であり、アメリカのそれを支持した我が国の姿勢にありました。その後、事の発端たる大量破壊兵器が最終的には確認できなかったことを受け、現在検証を重ねているイギリスに比べ、何の反省も、その検証すら行わない日本。リスクマネジメント論から言っても、この様な集団は同じ過ちを繰り返すことになるのは目に見えています。これも民主主義のあるべき姿を捉える際の重要な“教材”となることでしょう。

 過日衆議院で可決された特定秘密保護法案に反対する市民の街頭デモに対して、与党・自民党幹事長がテロに譬えてブログで批判をした問題。その後発言の一部が撤回されたものの、以下の報道にある様にその本質は撤回されていないようです。「その後《ブログ発言謝罪後》、石破氏は記者団に『いつどこで、誰が誰から、なぜどのようにして攻撃を受けるかわからないのがテロだ』と指摘。『それ(街頭デモ)をテロと同じとみた、と受け取られる部分があれば、そこは撤回させていただく』と、デモとテロを同一視した部分を撤回した。それでも、『一般の方に大音量という有形の圧力を加えるという点で、(街頭デモは)民主主義と相いれない部分があり、(テロと)相通ずるものがある』と強弁した」(《 》内は中島)※1。当然の如く「謝罪」に匹敵する様に、テロとデモには、全く次元の異なる峻別されるべき違いがあることは言うまでもありません。しかし、そのことを前提に、フィクションやおとぎ話の世界で考えて、仮に、テロとデモに共通項があるとすればそれは一体何なのかとここでは考えてみることにしました。例えば、夜間当法人で仕事をしている折、強盗目的の侵入者に施設利用者や職員が襲われそうになる場面を見かけたら、自身は躊躇わず“武器”をもって侵入者に立ち向かうでしょう。もちろん110番等の最低限の措置は行いますが、そうしなければ大切なものを失うのであれば、自身で“武器”をもって立ち向かうしかありますまい。もし私が、テロの様は破壊的行為をするかも知れない場面を想像すれば、斯様な状況が想定されます。当然この想像上の行為は、やはりテロではなく、単なる正当防衛に過ぎない訳ですが、人々が他者に対して声高に主義主張を行う動機には、その人々なりの守るべき何かがあるからなのではないかと考えてしまう訳です。テロとデモが唯一共通することは、その行為の起点に社会に対する異議申し立てがあると言うことではないでしょうか。特に、その異議申し立てを受け入れる寛容さの無い社会において、その声と行為は益々力強く尖ったものになってしまいます。テロとデモの決定的な違いは、言わずもがな、その異議申し立ての主張の仕方にあるのでしょう。本来のデモは、その行為において他者の、特に社会的に弱い立場の人々の人権を侵害するものではありますまい。ところがテロは、他者の人権を決定的に、取り返しがつかぬ程に蹂躙してしまうのです。テロ行為自体は、いかなる理由があれども許されざる行為と言えます。

 今回の幹事長発言を受けて、有難く再認識させて頂いたことは、テロやデモが起こる原因にこそ、その社会の本質があると言うことです。人々の異議申し立ての多い社会。もちろん、異議申し立ては民主主義の礎である訳ですから、それ自体は喜ばしいことかも知れません。しかし、その申し立てが既存の手続きでは到底受理されない社会環境や構造があるからこそ、人々は行動を起こすのではないでしょうか。バリ島で起こった爆破テロを受けて、2005年に週刊誌に投稿した以下の文を引用してみます。

 「三年前に続き、バリ島南部の繁華街クタでまた爆破テロが起きた。この爆破テロ、五年前観光客として現地を訪れた人間としては、起こるべくして起こった感が強い。当時、現地で私が記した日記の一部から引用してみる。
 『(バリと欧米・日本の)経済格差は揺ぎ無く存在し、その格差の狭間で、日本人・欧米人のリゾート地として発展してきたのだろう。揺ぎ無い経済格差、問題はそこに訪れた外国人ひとり一人がそれをどう捉えるかにある。「安く遊べる!」ただ単にそう思う人も多くいると思う。また、人権感覚の希薄な人は発展途上国の人を馬鹿にしたり、差別意識を持って来る。(中略)1ヶ月9000円程度の給与で生活している人々の前で、何万円ものお金をばら撒いて平気で遊べるこの感覚。それが全てを物語っている。欧米人もこれに同じだと思う。クタの少し裏通りで、欧米人が音楽に乗ってダンスを踊り飲み食いしているそのお店の横には、行き場のないかのような現地の子どもが座り込んでいる。どっちがその土地の「主人公」なのか分からない。人の地で、我が物顔でそのような振る舞いの出来る欧米人には“頭が下がる”。日本人もそれと同様の有り様だ』。
当時の外国為替は一円=約75ルピア、現在は一円=90ルピアである。依然として根強い経済格差は現在も存在する。現地を訪れる観光客の、人権感覚は果たして変わっているのか?」※2。

 先の幹事長と異なり、若輩は、テロとデモを同列に扱う気は毛頭ありません。両者には、人権尊重と反人権という真逆の行為がその前提としてある訳ですから、同列に捉えて良いはずがありません。そのことを大前提としながら、その共通項を探ったとき、現下の社会に対する異議申し立てがその根底にあることは一つの事実として私たちは真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。

 原発再稼働や、特定秘密保護法に対してなぜこれ程までに人々は行動を起こし続けるのか。その人々の行動の背景にこそ私たちは目を向けるべきなのでしょう。少数派を排他・排斥する社会。少数派の意見を度外視・黙殺する社会。斯くの如き、不寛容な社会においてこそ、デモは必要不可欠な行為となり、別の次元においてテロも起こりやすくなるのではないでしょうか。そして、不寛容な社会は斯様な対立を醸成し、人々の信頼を挫くように作用する。まさに、冒頭の行は、信頼を喪失した社会がテロを発生させている事を暗に示すために用いたものでした。

 不寛容に誰かを排他・排斥することで、人々の信頼を著しく損ねる社会。この非民主主義社会においてこそ、人々は異議申し立ての行動を起こすことは今更言うまでもないでしょう。そして、その非民主主義社会において、権力が更にデモを抑制し、その抵抗すら許容しなくなれば、これらの行為そのものが未来のテロを引き起こす契機を与えていると言えなくもありません。

 昨今自身は考えています。諦めずに対話を続ける事、そこに信頼を僅かでも構築する努力が不可欠であると。斯様な、忍耐とある種妥協の連続、その煩わしく手間のかかる営みの中にこそ、私たちは民主主義を見出すことが出来るのかも知れません。問題の本質は、テロであったり、デモ自体にあるのではなく、これらを起こし得る現下の社会の在り方にこそあるのです。


※1 『朝日新聞』2013年12月2日
※2 「投書 二度も起きた爆破テロは」『週刊金曜日』2005年10月21日



市場化と連携の関係

2013/12/02 18:28:37  社会全般


 過日とある地域の公民館長と地域課題について議論をさせて頂く機会がありました。ここで紹介すべき要旨は以下の通りです。

 ―――基礎自治体の補助金をもらって、週に3日ほど住民主体で「何でも相談・支援」を行っている。ある高齢者から電話が入り、自宅の敷地から公道に飛び出して生えている植栽の剪定を頼まれた。頼まれる際、「幾らでやってもらえるのか?」と尋ねられた。これは自治体の補助金でやっていることなので、「無料でいいですよ。電動鋸の電気はそちらのコンセントから取らせてもらいますがね」と答えた。次の住民からは、自宅の電球を変えてもらいたいと依頼があった。電球の種類が多く、どの電球が適合するのか分からずに多くを買い込んでいる様子。数部屋分の電球が切れていたので、全て取り替えて家を出ようとすると、「幾ら払えば良いのか?」と尋ねられる。「無料でいいんですよ」と返答した。また、ある相談では、雨漏りがすると言われ自宅に伺うと、屋根の瓦がズレていたので早速直した。帰り際、「幾らですか」と聞かれたので、これに対しても「無料ですよ」と答えた。―――

 もう何が言いたいのか、お分かりでしょう。社会のあらゆる分野に市場原理が導入されて以来、私たちの生活の営みの多くは全て金銭で解決できるかの如き様相を帯びています。例えば、地域連帯・連携の中で営まれた冠婚葬祭ですら、その全てが金銭で対応可能な世の中になっています。コンビニエンスストアに行けば、深夜でも弁当を買うことが出来ますし、また昨今では、店舗までわざわざ足を運ばずともインターネットで商品を注文すれば配送のサービスを受けることも可能です。

 お金を払って買うものが多すぎる。若輩は思います。どんなことでもお金を払って済ませれば良い。斯様な社会の価値規範が、如上の地域住民の「幾らですか?」の精神に直結している様に思えるのです。でも、どうでしょうか。道路にはみ出した植栽の剪定や、電球の交換など、この様なことは少し昔であれば、隣近所の声掛けですぐに解決を果たしたことではないのでしょうか。地域住民同士の日々の会話や、その継続の上に培われてきた信頼関係があった時代。その関係性を礎に、斯くの如く些細な問題はお互いに声を掛け合うだけで解消されてきたのでしょう。その信頼に裏打ちされた支え合いを、お金で買おうとしているのが今の私たちの暮らしの有り様なのです。

 科学の発展と利便性を甘受した私たちは、社会の市場原理化とそれが相俟って、信頼を礎にした暮らしではなく、金銭に依拠した暮らしを無意識のうちに選択してきました。金銭を支払えば何でも買えるという幻想が、人々の連帯・連携を阻んでいると改めて認識し得るお話ではないでしょうか。市場に過度なる依存をすることが、人間同士の信頼を阻害している。自身の目にはそう映ってなりません。

 であるならば、金銭で購入すべき範囲をより限定的に捉えていくことが、人々に信頼と連携を醸成することにそれが繋がるのかも知れません。社会保障が現金給付であるよりは、現物給付の方が望ましいと若輩が考えるのもこの事と関連しています。また、社会保障に係る社会サービスを国民が自己負担(「応益負担」という名の現金)で購入することに異を唱えるのもこのためです。

 今一度、自身の暮らしを見直してみようと思います。金銭で購入すべきものの範囲と、金銭を用いるべきではないその領域を。そこに、私たちが目指すべき地域や社会の在り方があるのかも知れません。



ソーシャルワークと特定秘密保護法案

2013/11/25 21:54:11  社会福祉


 外国に出て現地の人々の生活様式や会話に触れる度に改めて思いを馳せることがあります。日本人のメダカ意識に。自身の意見を直截的に表明しないことが美しいとされる文化において※1、場の空気や他者の思いに気遣い、それらを察して立ち振る舞うことが出来る能力。これらの悪い側面だけを取り上げてメダカ社会と捉えるものですが、もちろん、これらの能力は例えば社会福祉専門職がクライエントの支援を行う際にも重要な能力であると言えるでしょう。特に、十分な社会サービスが保障されていないがために、ある種社会から排他・排斥されている人々の諦めさせられている思いや意思を察して知ることは、ソーシャルワーカーがクライエントに対して絶えず意図しておかねばならぬ重要な営みと言えます。これらの能力は、クライエントの権利擁護の実践の際はとても有効に機能することでしょうし、福祉先進国と言われる北欧のソーシャルワーカーなどには見られぬ才能であるとも認識します。

 斯様に人々の能力などは、着眼点によって、それが無能と評価されたり有能と称賛されるものなのでしょう。効率性と生産性といったたった一つの指標で全ての人々の能力を推し量ることの愚劣さも併せて彷彿させられるものです。この日本人特有の“優れた”能力は見方を変えると、「お上」に非常に統制されやすい危うさを有していると言えます。たしか丸山眞男氏であったと思われますが、江戸時代初期鎖国を契機にキリシタンが激減した驚くべき国民性についての指摘もあったと記憶しています。他者の思いや場の空気を重んじる社会において、そこでは圧倒的に権力側に対する異議申し立ての機能が低下します。結果として、権力に統制されやすい土壌が生まれることになります。そのような、元々「お上」に対する異議申し立ての最も少ない、先進国の中にあって極めて稀有な存在たる我が国では、権力統制は権力を有する側にとっては思いのほか順調に進んでいると日々認識しているところです。国家を治める人々にとって、誠にやりやすく、これほど楽なことはありますまい。無論残念ながら、権力の側が、やりやすく、楽な体制と言うのは民主主義の本来の姿からは乖離したものであると言えるのですが…。

 さて、斯様な国民性のあるところに、政府は特定秘密保護法案を可決しようと目論んでいます。私は、NPO法人の代表者として、ソーシャルワーカーとして、そして、ひとりの人間としてこの法案を廃案とすることを主張します。最大の問題は、国民の生命・生活に直結する重大な情報を国民自身が知ることが出来なくなることにあります。言うまでもなく事実は一つではありません。着眼点によって、いくつもの事実があることこそが真実であり、私たちはその多様な事実からあるべき社会の姿を模索する必要があります。その多様な事実を画一化へと導くことは、国民の意識や能力の退廃を招き、やがて国力を低下させ、よって国益を損なうことに帰結することとなるでしょう。ここで述べる国益とは、文字通り全ての国民にとっての利益を指し、いわゆる為政者の振りかざす国益、即ち、一部の国民のための利益を言っているものではありません。国民が考えなくなれば、統制がしやすくなるなどという考えは、明らかに国益に反した思想と言えます。

 私は10代の頃より反原発論者でしたが、その知見も、一部の真なる知識人やジャーナリストから得ることが出来たもので、本法案が通過した際、この様なまともな情報を後の子どもたちが獲得することは困難となり、暗澹たる社会でその人生を送ることとなるのでしょう。また、私が得てきた知見も、決して社会の主流ではなく飽く迄も非主流であり、いわゆる少数派から発せられたものでしたので、そこに接近することは容易ではない状況だったと記憶します。これからの子どもたちには、その僅かな非主流・少数派の知見すら届かなくなる恐れがあるのです。何度も述べますが、事実は一つではありません。よって、多数派・主流派の流す情報も一つの事実でしかありません。むしろ、彼らの情報は社会構造の力学によって、あたかもそれが真実・真理であるかのように世間に知らしめることが出来るものです。であれば、そのバランスを取るためにも、私たちはむしろ少数派・非主流の情報にこそ耳を傾ける必要があります。そのバランスを取ることこそが、民主主義のあるべき姿であり、厳密には存在し得ない真実に接近する唯一の方法であると信じるのです。

 冒頭申し述べたように、日本人は察する力の高い民族です。周囲の尺度に順応し、適応する能力に長けています。その“優れた”能力をもってすれば、この法律が国民の言動に与える影響は計り知れないと推察できます。戦前の軍機保護法下で朝日新聞記者であったむのたけじ氏も以下の様に述べています。「直接の取り締まりよりも国民の自己規制が大きかったと指摘する。『怖そうな法律ができた、ひどいめにあうかもしれないと思うだけで効果は十分なのです』」※2。斯様に、事実が隠されることによって、人々の思想と意識の多様性が欠如し、延いてはそれが民主主義の退廃に帰結することに先ずもって警鐘を鳴らすべきと思います。

 多様な事実を認めないと言うことは、多様な思想を認めないと言うことに繋がります。斯くして、表現の自由・言論の自由の形骸化が促進されるでしょう。先に述べた一番声の小さい、「持たざる者たち」の声は顕著に制限されていくことでしょう。当然に、我々のクライエントの声を代弁するべき立場にあるソーシャルワーカーの実践にも多分な影を落とすこととなります。社会の歪や軋轢は、その構成員の内最も弱い立場の人々に顕著に表れることは言うまでもありません。だからこそ、ジャーナリストの基本的態度は、立場の最も弱い人々の取材から入るのだと書籍で教示を受けたことがありました。「アイヌとか在日朝鮮人とか、そういう人の生活がどうなっているかということをみると、その国の社会がうまくいっているかどうかが実によく出ている。だいたい少数民族が幸福な暮らしをしておれば、その国はうまくいっている、という大きな目安になるようです。アメリカ合州国なんかだと、これが黒人とか先住民とかプエルトリコとか、そういうことになってくるんですが、もし少数民族が不幸であれば、その国が表面的にはどういうきれいごとをいっておっても、ダメな国だということがいえると思います。いろんな矛盾というのは、そういう少数民族みたいな弱いところにいちばんよく出てくるわけです。これが、私の一つの原則的な態度です」※3。斯くの如くして、意思決定・自己決定に支援を要する人々の表現の自由や言論の自由は真っ先に蹂躙されるのではないでしょうか。これはまさに、ソーシャルワークにおける危機に直面しているとも言える事態ではありませんか。ソーシャルワーカーとして本法案の廃案を訴える意義はここにあります。

 最後にもう一つ、社会福祉専門職は平和の担い手であると以前から考えてきました。この度の法案は与党自民党から発案されたものです。自民党は憲法改正をその政権公約に掲げており、その憲法草案において、第二章では、「戦争の放棄」を削除して「安全保障」と名乗り、同じく第9条では「国防軍」を明記しています。この法案と、憲法草案が同じ政党から主張されていることを鑑みれば、これはこの国が戦争へと巻き込まれる、否、戦争を引き起こしかねない事態に急接近することを意味します。こんなことは、子どもでも考えれば気がつくことではないでしょうか。

 歴史を振り返っても、国家が戦争に突入するには必ずその地均しがありました。国民の言論・思想・表現・信教の自由が奪われたのち、権力の暴走が起こって帰結する訳です。であれば、私たちの仕事は、その中でも最もその自由が奪われやすいクライエントのそれを守っていると言う意味において、我々の行為は一方で戦争を防いでいるということになります。当法人の理念に平和主義を掲げる理由はここにあるのです。平和主義を掲げる当法人の代表者としても、この法案の成立及びその後の流れは看過できぬものと言えます。

 最も恐れるべきは、法律が変わることではなく、人々の意識が変わることにあります。法律には人々の行動を規定し、そして意識を変える力があることは、例えば、日本の法律婚と事実婚の関係を諸外国のそれと比較しても良く理解が出来ることでしょう。元来従順で統制されやすい「奥ゆかしい」「美しい」国民性の上に、斯くの如く法律を制定し、政府は一体何を目指しているのか。私たち国民ひとり一人が自分の頭で考える事こそが今求められているのでしょう。

 友と呼べる尊敬すべき偉大な研究者に教えて頂いたことがあります。社会は大変長い期間をかけて変革する。イギリスの産業革命ですら70年の歳月をかけて成されたものだと。そして、その長い変革の期間を歴史家が後世においてあの時こうだったと総括するに過ぎないと。そのことに照らして考えてみましょう。社会は良くも悪くも変革します。仮に、今この社会が悪い方向に舵が切られているとして、今から100年先の歴史家はこの今をどのように評価するのでしょうか。先の大戦において、私たちは隣国の人々を蹂躙し、また私たち自身も酷く傷つきました。では、先の大戦を止められなかったかと言えばそうではないでしょう。戦時に突入するかなり前の時点において、人々の言論・表現の自由が保障されていたその時に、その方向性を変えることは出来たのではないでしょうか。今の世代でやっておかねば、後の世代にはどうにもならないことがあります。私は、子や孫の世代に、どうにもならない社会を残したくはありません。それがひとりの人間として、この法案に反対するべき理由となります。戦前直前になって、その流れを阻止することが出来なかったように、抜き差しならぬ状況下での方針転換は恐らく不可能でしょう。であれば、その更に少し前の時代に、その世代が成すべき役割があるはずです。そう、まさに今がその時である。


※1 例えば、最近拝読した、榎本博明『「すみません」の国』日本経済新聞社2012年4月、によれば、日本人のコミュニケーションに「わかりにくさ」と「奥ゆかしさ」が顕著な理由が心理学の視点で描写されています。
※2 「社説 秘密保護法案 自己規制の歴史に学ぶ」『朝日新聞』2013年11月24日
※3 本多勝一「海外取材の旅」『本多勝一集18』朝日新聞社 P.75 1995年12月



社会福祉と平和の関係

2013/11/22 21:02:31  社会福祉

当法人は経営理念に平和主義を謳っています。定款にもその行があり、当時の県担当課より文章で説明を求められました。2005年11月3日に回答したのが以下の文となります。


 平和主義とは言うまでもなく、反戦争の思想です。この世のあらゆる出来事の中で、人権を最も蹂躙する行為が戦争である事は自明の理でありましょう。その観点から、平和主義と基本的人権の尊重は切っても切り離せない関係にあると言えます。また、過去の歴史を振り返った時、多くは突然に戦時に突入するのではなく、民衆の思想・言論の自由が奪われ人権が軽視され、そういった土壌の上に、戦争が始まっているのです。

 「人権」と「福祉」の関係性は説明するまでもありませんが、ノーマライゼーション・生存権の観点から、両者にとって、社会的弱者の権利擁護がその大きな仕事となるため、両者は両輪の関係にあります。つまり、いかなる障害を有して生活されている方にも、健常者と同じ人権がある事を自明に、その人権の尊厳を行為として行っていく事が、社会福祉の基本的なあり方であると思っております。

 私一人の個人的見解と思われてもいけないので、介護老人福祉施設・あしや喜楽苑総施設長(当時)市川禮子氏の見解を追記しておきます(98年兵庫県連女性協総会での記念講演録から抜粋)。

 「福祉というのは平和な社会があって初めて築けるわけです。私たちが毎日やっている『人の尊厳を守ること』や『地域と結び付くこと』は、そこで、一人ずつの人間の尊厳が守られ、人権が守られるという闘いが広まっていけば、それがやがて日本の国の意志になって、戦争に巻き込まれない国になっていく、そういう重要な仕事なのだということを、市民的自由の尊重ということをこのように平和の問題に結び付けて語り合っているわけです。実は、ノーマライゼーションを提唱されたデンマークのバンク=ミケルソンは、やはりナチスに抵抗して、第二次世界大戦中にデンマークでレジスタンス運動をしていた人です。(中略)彼は収容所に送られましたが、戦後無事に復帰されました。そして彼は、知的障害の仕事をするようになったわけです。日本の厚生省のようなところで仕事をされて、(中略)(知的障害者施設を見た時に)これは自分のいた強制収容所の姿になんと似ていることか。それで彼はどんなに重い障害を持っていても、ごく普通の当たり前の生活をキチッと保障するべきだということで、ノーマライゼーション思想を、1958年にデンマークの社会福祉の理念に入れられたのです。ノーマライゼーションの思想が、戦争のいろんな経験の中から生まれてきているということもまた大きな今日的な意味があるのではないかと私は思っています」。

 社会福祉の実践は人権擁護であり、その実践は平和主義に結びつく、そのことを念頭に社会福祉を実践していくべきであると考え、「平和主義」も理念に併記いたします。
また、社会福祉施設を運営する社会福祉法人等において、「平和主義」をその理念に掲げている法人は多く存在します。これは、決して珍しい・特異な事ではないのです。

中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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