「通って、泊まれて、家にもきてくれる」「住み慣れた家で24時間365日の安心」「臨機応変な対応、自立支援、医療の安心」特定非営利活動法人 地域の絆

Googleサイト内検索
NPO法人 地域の絆

NPO法人 地域の絆

中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

義なくして利なし

2013/10/25 18:40:33  社会福祉


 「『サ高住』とともに、政府の成長戦略や競争力会議で議論されている『ヘルスケアリート』の創設でも、役所の思惑が先行する。
 『高齢者住宅にこんなにお金に群がる人がいるのか。ヘルスケア施設とは何か。国交省が考えたのか。厚労省は認めているのか』
 『REIT(リート)(不動産投資信託)』と呼ばれる金融商品をつかって施設整備の資金を投資家から集めようという『ヘルスケア施設供給促進のための不動産証券化手法活用の検討委員会』の昨秋の初会合。委員の一人で、医療法人博愛会の菅間博理事長の発言に、室内の空気がピンと張った」※1。

 社会保障の領域にも市場原理の波が瀰漫的に広がりつつある昨今。税金や社会保険料を主たる財源とした事業の利益が、法人や職員ではなく株主や投資家に行き渡りつつある象徴的な記事に目を留めました。人々の生活と生命に係る領域を公的責任ではなく、何処まで自助・互助そして、市場に頼ろうというのでしょうか。今まさに社会保障制度の本質・根幹を揺るがす事態が起こっているのではないでしょうか。

 中国・韓国・スウェーデンの福祉や介護に昨今触れてきましたが、その国の福祉や介護の様相は、当然にその社会構造の在り方に依るものです。つまり、国民が有する普遍的な価値規範に大きくその内容が規定されているということであって、その価値規範は社会構造や文化によって構築されているものです。これは尤も自明のことではありますが、それでも改めて考えれば、我が国における現下の社会保障の在り方ははやり社会構造全般における課題としてあることが確認できます。

 1974年11月。私が生まれた丁度翌年に書かれた論文を引用しよう。「今のところ、空気はまだ完全には買い占められていない。たとえば、ある地域の空間に巨大なガラスかビニールが張られ、中の空気を『これはみんな俺のものだ』と主張する奴は現れていない。しかし、これは決して空想次元のものではないだろう。水や土地については、同じことが非常なスピードですすんでいるからだ」※2。今から40年前に書かれた本文の“予言”は見事に的中してしまいました。二酸化炭素は売買の対象となり、飲料水や浄水器に係る水も当然の如くお金で買わねばならぬものとなってしまいました。そもそも、土地や空、河川や海は一体誰のものなのでしょうか。福島第一原発事故で汚染されたそれらは、そこに住む住民や働く人々にすら十分な補償が成されぬままではありますが、万が一、その補償が成されていたとしてもそれで済む話ではないと自身は考えます。これらは、そこで暮らす人々だけのものではない。つまり、土地や空、海はやはり誰のものでもないのだと自身は考えます。事実、環境ホルモン然り、放射能汚染も潮の流れに乗り、生物の生態系と相俟って今後果てしなく蔓延していくことでしょう。やはり、誰のモノとも定義できぬモノなのでしょう。であるならば、それらは本来売買の対象とはなり得ぬはずです。所有者が明らかではないのですから。

 昨今「デザイナーベビー」の報道を耳にしました。遺伝子解析技術を駆使して、親が望む特徴をもつ赤ちゃんをつくることの特許がアメリカで認められたのだとか。「青い目で足が速く、乳がんになるリスクが低い子ども」の“選別”が可能になるのだそうです※3。このまま定向進化すれば、人の個性や性格までも、生前に選別することが出来るようになるのではないでしょうか。科学技術の発展と市場化が相俟った帰結として、人々の生命や生活の領域にまで、優位的価値基準に基づいた画一化・効率化が望まれているのです。

 話は変わって、インターネット販売大手企業が、書籍の定価をポイント還元することによって、再販売価格維持制度が揺らいでいる模様です。ご存知の通り、本制度は、出版物の多様性と、知へのアクセス保障、言論・表現の自由であったり、その個人・地域格差の是正を行うための最後の砦であり、そこが、市場原理によって崩壊することはあってはならぬことでしょう。学校教育現場においても、企業が望むべき人材の育成が中核的な位置を占めつつあります。本来の学校教育とは、多様性を認め、自らと価値観の異なる人々とどのように社会を構築していくのかを学ぶべきものであって、それは、企業が求める人材とは概ね相容れないものであったとしてもです。

 同じように国家も企業とは異なります。こんなことを改めて叙述せねばならぬほどに市場原理はあらゆる分野に蔓延しているのではないでしょうか。政治における市場化も顕著な様相です。政治こそ、市場原理とは相まみえぬものなのでしょうが。先の参院選結果の主な要因として、「スピード感」と「効率化」を優先した有権者の意識を内田樹氏は挙げられています。「国民国家はおよそ孫子までの3代、『寿命百年』の生物を基準としておのれのふるまいの適否を判断する。『国家百年の計』とはそのことである。一方、株式会社の平均寿命ははるかに短い。今ある会社で20年後に存在するものがいくつあるかは、すでに私たちの想像の埒外である。だが、経営者はその短命生物の寿命を基準にして企業活動の適否を判断する。『短期的には持ち出しだが、長期的に見れば孫子の代に見返りがある』という政策は、国民国家にとっては十分な適切性を持っているが、株式会社にとってはそうではない」※4。

 斯くの如き科学技術と市場原理が強調され、人文学などが衰退の一途にある均衡を欠いた構造下に我々の社会はあるのでしょう。その社会構造の影響を強く受けながら、私たちソーシャルワーカーの仕事があることを私たち自らがしっかりと認識をする必要があります。でなければ、地域包括ケアは、恐らく誤った形に発展していくことになりそうです。なぜなら、社会保障制度の本質が守られず、セーフティーネットの無い中で展開される互助や共助においては、そこに厳然とある格差を前に、社会保障を切望する人々とそうでは無い人々との間で対立の構造を生むことが想定されるからです。真なる地域包括ケアを推進するために、また、真に堅実な経済運営を行うためにも、社会保障制度は必要不可欠なものであり、それを市場に委ねることが、100年先の危機に直結することは誰もが分かっているはずです。

 表題の「義なくして利なし」とは、恐らく古くから産業界の経営者の間で語られていたものなのでしょう。今ほど「義」が顧みられない時代だからこそ、立ち止まってこの「義」について考えてみたいと思いますし、市場原理が蔓延する構造下にて揺さぶられながらも、自らがそこから解放されずにいながらも、この「義」について考え抜きたいと切望する毎日です。


※1 西井泰之・松浦新・松田史朗「限界にっぽん 第5部 アベノミクスと雇用4 医師や介護スタッフ来ない」『朝日新聞』2013年10月21日
※2 本多勝一「侵略としての『開発』」『殺される側の論理』朝日文庫P.254 1992年9月
※3 『朝日新聞』2013年10月20日
 「特許化されたのは、米国の個人向け遺伝子解析会社の大手「23アンドミー」(本社・米国カリフォルニア)の手法で、米特許商標庁が9月24日付で認めた。
 同社はIT大手グーグルの共同設立者らが出資。2007年から、唾液(だえき)に含まれるDNAの遺伝子配列のわずかな違い(SNP)を分析して、アルツハイマー病や糖尿病など約120の病気のリスクのほか、目の色や筋肉のタイプなど計250項目を判定する事業を展開している。価格は99ドル(約1万円)で、利用者は50カ国以上、日本人を含め40万人を超えている。
 今回、特許が認められたのは、これまでに得られた病気のリスクなど独自のデータや情報を利用する手法だ。具体的には、不妊クリニックや商業的バンクに保存されている精子や卵子の提供者と、利用者の遺伝情報をかけ合わせて解析する。利用者は『大腸がんリスクが低い』『青い目』など、望む子どもの特徴を示せば、提供者ごとに、子どもにそれぞれの特徴がどの程度表れるのか確率がはじき出される。利用者の希望を満たす度合いに基づき採点、点数の高い提供者を知ることができる。希望できる特徴には、身長や性格、寿命、酒の強さ、運動能力、病気の発症リスクなどがある」。
※4 内田 樹「寄稿 2013参院選 『複雑な解釈』」『朝日新聞』2013年7月23日



曖昧模糊と化す安全の定義

2013/10/16 00:55:34  社会全般


 危険が無く安心できることを「安全」と言う。子どもでも分かり得ることを敢えて冒頭で叙述したくなるほど、我が国における「安全」の定義が分からなくなってきました。

 自身の感覚がどうかしているのかと却って不安を抱いた出来事が、岐阜県可児市の小中学校のパンにクロバネキノコバエが付着していた「問題」でした。まず、自身は、なぜこの出来事が、ここまで大きな「問題」としてマスコミに取り上げられるのかが理解出来ませんでした。小中学校時の私の給食体験では、野菜に青虫がついていることは決して珍しくは無く、先生からも「虫がついていると言うことは、農薬が効いていない証拠なので『安全』な食べ物である証拠だ」と説明を受けた記憶があります。その様な経験の持ち主からすれば、なぜにこんなに大騒ぎになるのか、といった心証を抱いてしまうのでした。

 しかし、11日付の産経新聞の記事に目を留めた際、これは自身だけが疑問視しているものでは無い事に改めて気付かされ多少の安堵を感じた次第です。本紙によれば、可児市の小中学校給食「問題」において、「児童生徒や保護者から苦情はなかったが、対応を知った市議が市議会委員会で問題視した。市教委は『指導は間違いだった』と認め、早急にマニュアルを見直すとしている」ことに対する「食の安全・安心財団」理事長の唐木英明氏の問題提議のコメントを次の様に紹介しています。
「この問題は食品の安全性や廃棄の是非、世界の食料事情などを子供たちに考えさせる絶好の内容。『健康に影響がないと判断した場合は食べる』とのマニュアルも極めて妥当なもの」。
「もちろん、ハエを付着させたパンの納入業者に問題がある。しかし、この事故を業者やマニュアルの責任にして終わらせるべきだろうか」。
「食べられる食品を嫌だといって拒否することができるのは、今の豊かな日本だから許されること。それでいいのか。学校給食は教育の一環でもあり、世界の食料事情も伝え、子供たちと議論してほしい」※1。

 ヨーロッパにせよ、オセアニア、アジアにせよ、諸外国に訪れた際にハエを一匹も見なかったことはありませんでした。むしろ、我が国の生活よりもより身近にいることが多く、食事中もハエが飛んでいることは珍しくは無かったと記憶しています。そこに違和感を持って、ハエを手で払い除けてばかりいるのは私を含めた日本人だけでした。

 一方で、と私は感慨深く思います。巷に溢れる合成洗剤や無用な消毒剤・科学物質・電磁波等のことはどの様に考えるのだろうかと。これらは、如上のコバエに比較して安全と言い得るのでしょうか。前出の唐木氏の述べるようにパンに付着したコバエは「安全上、問題ない」と断言することは支持できます。しかしながら、合成洗剤・消毒剤・化学物質・電磁波等は真に「安全上、問題ない」とは断言できぬものです。安全が証明できないものは、危険と認識する「予防原則」の考えが定着していない我が国においては、致し方の無いことかも知れませんが、少なくとも安全証明は成されていないのが現状です。言わずもがな、他方「環境に影響ない」や「健康に影響ない」といった常套句が報じられてきた放射能汚染問題などはその最たるものでは無いでしょうか。「完全にブロックされている」「状況はコントロールされている」とは、まさにデマそのものであり、希望的観測であり、データーを追求すればそれが欺瞞であることは明らかでしょう。

 如上の様に「安全」について見てくれば、概ね次のような纏めを発することが出来るのではないかと思われます。自然に必然的にあるものを遠ざけてそれを「安全」と定義する傾向がある。また非自然なるものに“守られる”ことに「安全」を感じる向きもある。そこから、人々は、近視眼的で「煩わしくない」「熟慮の必要ない」ことを「安全」視する傾向がある。それに加えて、その事象が有するイメージにも大きく左右されている。このイメージは、資本主義社会の力学的必然の中から創造された偏向した情報に基づくのでしょう。イメージは飽く迄も、社会的に創造されたものであり、「黒猫は不吉である」というレベルのお話であって、理論やデーターとは大よそ関連の無い領域の産物であることは言うまでもありますまい。

 また、先進国内における安全とは、全ての人々にとってのもので無ければ成らないハズです。よって、福島第一原発の作業員の方々や、原発の周辺住民、強い電磁波の発生する建造物の周辺住民、沖縄の基地周辺の住民、全ての人々の安全を考えてのもので無ければ成らないハズです。

 斯様に欺瞞的なアンゼンが蔓延る現下の社会において、給食のコバエ事件で「安全」を指摘する報道に何ら説得力を感じないばかりか、強い違和感を覚えたのは以上の理由からでした。かてて加えて、最後にもう一言申し添えておきます。斯く如き教育現場は、子ども達のその後を、安全ではなく危険に晒すことに帰結するのではあるまいか。


※1 平沢裕子「『給食パンにハエ』除いて食べるよう指導… 食品廃棄の是非など考える好機」『産経新聞』2013年10月11日



ノーベル賞と多様性の関係

2013/10/14 01:12:10  社会全般
 さる10月14日、今年のノーベル賞の発表は終了しました。今年の受賞者には日本人該当者が皆無であり、それに応じて落胆の報道が成されているように見受けられます。毎年、この時期に若輩はいつも同様の疑念を抱くものです。それは、ノーベル賞とは如何なるものか?延いては、そもそも「賞」とは何なのか?という素朴な疑問から端を発するものであります。

 ノーベル賞は世界的権威のある賞として、巷でも、その注目度は世界随一であり、毎年世論もこの話で持ち切りとなります。若輩の様に大よそ「賞」とは縁遠い立場であるからこそ、感じることがあるのかも知れませんが、世界的権威として、また公の立場から発せられる「賞」に対しては、基本的にその趣旨が理解できずにいるものです。その理由を以下叙述してみたいと思います。

 例えば、当法人の就業規則においても「表彰」の規定があります。法人組織としては、そこに経営理念が描かれており、その共通理解を基に、これを実現するための方法・手段も組織の中では共有されているのが法人なり組織の一般的なあり方であると認識します。であれば、法人や組織が発する表彰なり賞は、その目的・目標を遂行するために、模範的な行動や実績に対して存在すると言えるのでしょう。法人や組織に、目指すべき・拠り所とすべき共通理念がある以上は、「表彰」や「賞」の発表はそれを実現する為の有効な手段と言えるのかも知れません。

 斯様に鑑みれば、「賞」の発表は、ある基準に照らして、その指標で測った帰結としてその優劣を選考して成されるものと言えそうです。戦時中の軍隊においては、敵を殲滅、即ちその多くを殺すことによって、賞を受賞したのと同様に、そこに何らかの基準が無ければ成り立たない代物なのでしょう。若輩は、何かを目的として集まった集団(会社・法人・学会・専門職団体・宗教等)内においては、その目的に照らした基準に拠る賞の発表は理解ができます。しかし、世界・国家といった公が発する賞にはその基準が不明瞭に思えるのです。ある目的をもって集まった集団とは異なり、多様な個性の共生する現下の社会において、ある基準に拠って、その優劣を判断することが果たして可能なのだろうかと。そもそも、社会においてその優劣を選別する基準などあるのでしょうか。例えば、ノーベル文学賞の選考にノミネートする条件としては、その著書なりがイギリス語に訳されていなければならないと聞いています(少し古い情報を基にした指摘ですので、異なっていれば訂正します)。また、昨今鳥取県の条例において、手話が言語であることが採択されましたが、恐らく、手話などはその対象にはされていないのでしょう。これだけを取り上げて顧みても、ここには言語間の優劣性や差別性を垣間見ることが出来るのです。

 今、世界の潮流は、明らかに個人の幸福を礎とした、多様性を認める社会構築へと流れていると見受けられます。その中にあって、何かの基準に基づいて発する賞は、その流れに逆行する要素を有しているのではないかと若輩は考えるのです。その賞が発せられる時、その選考の基準は、いったい何に、誰に、有利に作用しているのでしょうか。事実、その時々の権力に、公の賞は利用されてきたのではないかと勘繰りたくなる事象も散見されます。

 この度のノーベル賞報道を拝見し、賞による能力や思想の画一化よりも大切なものがある事について改めて考えさせられました。斯様な受賞の在り方よりも最も大切なことは、少数派と言われる人々の声を丁寧に掬い集め、その発表の場を設けることこそが重要であり、この多様性を構築する営みこそが、本賞の発表よりも社会により有意義な貢献をもたらすことをこの場をお借りして確信する次第です。



新自由主義の底が見えてきた介護

2013/10/08 19:53:47  社会福祉
 朝日新聞の「限界にっぽん」と言うコラムをご存知でしょうか。非正規労働者やホームレスの視点から現下の社会を捉えたという点では、優れたルポルタージュであると毎回拝見しております。その第5部からは、「アベノミクスと雇用」が掲載されていて、1回目と2回目は、我らが社会福祉分野を取り巻く情勢が描かれています。1回目の要旨は、「介護業界が熱いまなざしを送る大型M&A(企業合併・買収)の交渉が大詰めを迎えている」とし、破綻した大手介護事業者を「ファンド」等が安く買い取り、本来の価格に暖簾代(プレミアム)を上乗せて高く売るという実態を論じています。暖簾代の相場は、「年間のもうけの5〜6年分」から最近では「10年分」と言われているのだとか。その陰で、クライエントと介護職員の生活が不安定な状況に晒されていると報告するものです※1。2回目では、企業買収の結果、運営会社の変遷と共に混乱を来たす入居者の生活に焦点が当てられています。運営会社が変更すると共に、利用料の賃上げを強要されるケースや、入居者及び家族が反対すると事業の撤退を行うと切り返す運営事業者のやり取りを実例・実名を挙げて取り上げています※2。自身にとってこれらは、遂にここまで来たかと、実感を与えてくれる報告でした。無論、「ここまで」の道程は当初より予測が経っていたという意味であって、驚愕や落胆は若輩としては一切感じ得ないものです。社会保障に市場原理が導入された定向進化が“順調”に進んだ帰結として如上を捉えるからです。

 我が国における社会福祉分野で新自由主義が導入された走りは、1997年11月より検討が行われた社会福祉基礎構造改革からでしょう。その後、2000年の介護保険制度の創設を皮切りに、サービス提供事業者の福祉多元主義化、つまり、株式会社等の営利法人の参入促進が始まりました。その後、介護保険制度を皮切りに、イコールフッティングと言う名の下に、社会福祉法人の既得権域が切り崩されて来たのです。例えば、社会福祉施設職員等退職手当共済制度における助成の見直し等はその顕著な例であろう。つまり、どんなに綺麗ごとを羅列しても、社会福祉基礎構造改革や介護保険制度の導入はコスト・コントロールこそが第一義であった事が結果論から見て判断でき得るわけです。

 例えば、スウェーデンでは、福祉サービスの提供者を民間委託をしてもそれはコスト・コントロールにならないとコミューン職員から聞いたことがありましたが、我が国の場合は、民間委託することによってそれが、まさにコスト・コントロールに繋がっているのです。どういう意味かは銘々説明するまでもありませんが、要するに、民間委託をすることによって、公務員の給与体系ではない安価で、非常勤・非正規といった“効率”の良い人件費の設定が可能となるためであるようです。つまり、公務員の給与水準では対応できないことを、民間に委託してより安価にやらせることが我が国における民間委託の本意であるのでしょう。

 「介護の社会化」や「措置から契約へ」と煌びやかな成句が前面に押し出される水面下で、安上がりの福祉は促進されてきました。競争原理によって、失ったものは、福祉理念と連携意識でした。競争原理によって、業務の効率化が強調され、“顧客獲得”のための競争意識が顕在化し連携の意識が希釈されていきます。得ることが出来たものは、社会福祉サービス利用者やクライエントたる対象者の消費者・顧客化が促進された結果、一部専門技術と接遇といったサービスの質(産業界における同様の意においてのつまり真の専門性とは齟齬あるもの)が高まったことではないだろうか。そう天秤にかけると、得られたものより失ったものの方がより大きいと総括することが可能であると若輩は考えます。

 競争原理において、質は担保されるとの見方が大方でありましたが、果たしてそうなったのでしょうか。無論、サービスの量が急速に整備され、一定のサービスの質も担保されるに至っています。しかし、それは、競争原理が導入された帰結としてあるのかは不明です。つまり、競争原理に因らずとも、福祉専門職教育を真摯に行っていけばその結果は、サービスの質の向上に帰結する訳であって、それが市場原理の導入に因るものかは判別できないのではないだろうか。例えば、介護報酬の設定では、質の高いサービスを行えば、その報酬が高まるわけでは全く無く、介護報酬の評価に反映されているのは、僅かに有資格者や常勤比率、専らサービス提供時間ぐらいのものでしょう。特に、サービス提供時間こそがその主たる評価となっているのが現状です。また、対人援助サービスにおけるその質を測る指標は設定が難しい。なぜなら、対人援助活動においては、とどのつまり、マニュアル化は不可能であるからです。マニュアル化出来ない領域の実践が出来る専門性の高い人材を育成するには、時間と労力とそして金がかかります。そこにそれだけの、投資をしても、介護報酬では評価を受けることは無い。ましてや、需要は右肩上がりの当業界において、供給側は選ばれるための努力を然程強いられることがない。介護報酬すなわち、売上高が変わらぬのに、人材育成のための経費を捻出して行けば、経費がかさむ。結果として、収益にそれが結びつかない。であれば、人材育成は程ほどにした方が、収益率がよいと民間企業が判断するのは自明の理であると言えるのではないでしょうか。

 また福祉多元主義化の一つの要所としては、株主の利益が想定される株式会社の参入を認めたことにありました。つまり、介護報酬と言う税金と社会保険料を財源としたその収入を株主に配当することが認められたわけです。会社で働く、介護職員等に還元されるのであればまだしも、それが株主に配当されるのです。自身は、介護保険事業がそこまで余力ある事業であるとは到底思えません。つまり、職員に十分な配分が成されない中、株主にその“配分”が配当されることになるのではないだろうか。その様な、危機感を本特集は駆り立ててくれるのです。もちろん、このことをもって株式会社批判を展開するのは最も愚劣な行為と言えるでしょう。大手株式会社の経営者に社会性の高いビジョンと実践を展開されている方が存在することはよく知るところです。社会福祉法人やNPO法人においても、社会性を度外視した実践を繰り返すところもある訳ですから、これらは、構造上の問題を指摘しているのであって、個別性を度外視したものではないことは付言されるべきでしょう。

 斯くの如く鑑みれば、社会福祉基礎構造改革や介護保険制度の創設は、そもそもサービスの質を高めることが目的ではなかったのでしょう。サービスの質を高める方法は、市場原理に依らずとも、他に方法が無い訳ではあるまい。所属組織内におけるOJTを中心に据えた人材育成に時間と労力を費やす事こそが、その近道であることは疑いの余地がありません。それが、制度的な動機づけが成されていないことを鑑みれば、やはり、コスト・コントロールが第一義であった事は紛れもない事実であります。社会福祉基礎構造改革その後15年が経過した「現在地」を確認すれば、やはり、介護報酬は年々低下の一途を辿っています。昨今興味深い論文を目にしました。介護保険制度導入前の措置制度下におけるサービス利用者が、2000年4月以降どのように介護保険サービスに繋がったのかを検証したものです。それによれば、「(措置制度下の)旧サービス利用者のうち、(要支援・要介護認定の)申請をした者は約半数であり、申請した者には、疾患を有する者やIADLが自立していない者がより多かった。このことから、措置制度下では要支援・要介護状態でなかった者が多く含まれていた可能性がある」「旧サービス利用者のうち、介護保険制度導入後も介護保険サービスを利用していた者は、3割程度に留まっていた」(括弧内は中島)※3との結論づけが成されています。つまり、措置制度下でサービスの利用者であった人々の内、約3割の人たちが介護保険制度下の利用者になっているという事実。直言すれば、約7割の利用者のサービス抑制が“成功裡”に終わったことを物語っているものです。

 今後かてて加えて、消費税増税とインフレターゲットが導入されます。その結果、事業所経営は益々圧迫されることになるでしょう。法人間競争は更に激化し、生き残りをかけて“薄利多売”を行うこと、経費の削減を実践することこそが唯一の生き残る道となります。その様なシナリオの帰結として、現場で斯様な現象が起きていたとしても、これはある意味当然の帰結として起こっていると言えるのです。

 さて、如上の動きに対して、どういう方策が考えられるのでしょう。皆さんはご存じでしょうか。私たちの仲間が全国に約400万人は存在することを。連合の組合員数は、675万人前後との報道が過日なされていました。国民の福祉の向上のために、一団結すれば、我々もそれなりの動きが出来るのでしょう。また、障がい者数は元より、要介護高齢者は今後2035年まで増加の一途を辿ることが予測されています。特に、介護分野における我々の仲間は確実に増加するのです。全労働者人口は減退の一途を辿るその中においてである。その際に、最も留意するべきことがあるでしょう。それは、全ての国民の福祉の向上、これこそがその旗印になると言うことです。業界の、専門職の利益を前面に掲げた運動なり活動は、恐らくもう大時代であり、斯様な活動や運動にはもはや夢や希望を抱くものではありますまい。


※1 西井泰之・松浦新・大鹿靖明・横枕嘉泰・松田史朗・西崎香・吉田拓史「限界にっぽん 第5部アベノミクスと雇用 1 老人ホームを青田買い」『朝日新聞』2013年9月29日
※2 西井泰之・松浦新・大鹿靖明・横枕嘉泰・松田史朗・西崎香・吉田拓史「限界にっぽん 第5部アベノミクスと雇用 2 『なぜ突然値上げするのか』」『朝日新聞』2013年10月7日
※3 松田智行・田宮菜奈子・柏木聖代・森山葉子「介護保険制度導入前後における在宅サービス利用の変化」『日本公衆衛生雑誌』第60巻・第9号 日本公衆衛生学会 P.586-594 2013年9月



共に生きることの責任

2013/10/03 20:51:52  社会福祉
 2011年8月に改正された障害者基本法は、その目的として、「全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現する」とする共生社会の確立を意図したものであると言われています。「共生」という言葉は、一見耳触りも良く、分野を問わず彼方此方で多用されているように見受けられます。しかし、「共生」において最も重要なことは、その内実であり、実質的な人々の暮らしの在り方にこそ本質があるものなのでしょう。つまり、共に生きると言うことは、その構成員たる全ての人々の人間としての尊厳が守られていなければならないことが実質として求められているハズです。ここで敢えて、「ハズ」と書くのは、現下の社会がそうなってはいない現実に目を向けることにこそこの「共生」を考える意義があると思うからです。

 当法人のクライエントの9割以上は何らかの認知症のある人たちです。いわゆる「徘徊」や「不安・焦燥」、「興奮・暴力」等の行動・心理症状(BPSD:Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)が顕著な方も当然に珍しくはありません。因みに、なぜ、「行動」「心理」の「症状」と捉えるのかは理解に苦しむところです。「社会」(Social)の要素は無いのでしょうか。医学会が定義した本BPSDの捉え方にも実は異論のあるところです。まあ、それはさておき、斯様な「症状」のあるクライエントが、地域で暮らす中で、当然に地域住民に“ご迷惑”をおかけすることも多々ある訳です。自動車の修理工場に入って車を叩いたり、菜園のお花を勝手に摘んだり、誤って他の家の敷地に入ろうとしたり、今までの経験の中で、枚挙に遑がないほどこの様な事例は挙げることが出来るでしょう。問題は、その時の対応の方法にあります。今まで当法人の職員さんには、経緯と事情の説明をするために地域住民の所に挨拶には行ってもらうのですが、過失を認めるような謝罪はする必要はないと言ってきました。当然、社会における普遍的コミュニケーションの一環としての儀礼的な謝罪は必要だと思います。しかし、こちらが認める過失は無いと職員さんには伝えているのです。なぜか、それこそが真なる共生社会の在り方であると信じているからです。全ての人々の尊厳が守られた社会が共生社会であると叙述しましたが、「全ての人々」はその名の通り、それ以外の意味は無いのであって、障がいのある人も、児童も、要介護高齢者も、犯罪被害者も、そして、犯罪加害者であっても、文字通り全ての人々の事を指すハズです。斯様な社会こそが、多様性の認め合える真に豊かな社会であると自身は信じて憚りません。例えば、認知症のある人たちが、共生社会を生きると言うことは、その構成員たるその他全ての人々が、その存在を、そして共に生きることを認めなければ成立せぬことは自明の理でしょう。認知症のある方の内約7割はBPSDを有している訳ですから、認知症のある方と共に生きると言うことは、その他構成員全員がそのBPSDを受け止めていくと言うことになるハズです。障がいのある人々と、共に生きると言うことは、その様な“困難”を共有すると言うことなのではないでしょうか。それが出来ない現下の社会が、「共生社会」を声高に謳うことに思わず失笑してしまう自身がいるのはこの為です。だからこそ、そうある「ハズ」を、そうあるべき姿に変革していきたい思いがあるからこそ、過失を認める謝罪は不要だと職員さんには伝えるものです。

 さて、上記のようなメゾレベルのお話とは異なり、大きな禍根を残すであろう判決が昨今出され取り沙汰されていました。問題だと思いながら、忘却されつつあったのですが、本日の朝刊にて、そのことが論じられていた為、また鮮明にその記憶が呼び覚まされた次第です。本紙の社説によれば、「愛知県内で列車にはねられ死亡した認知症の男性(当時91)の遺族が、振り替え輸送にかかった費用などの損害賠償として約720万円をJR東海に支払うよう裁判で命じられた。 8月に名古屋地裁が出した判決は、介護の方針を決めていた長男に監督義務があるとし、死亡男性の妻(当時85)についても『目を離さず見守ることを怠った』と責任を認めた。 一方、介護の関与が薄いきょうだいの責任は認めなかった」とされています※2。「徘徊」によって、列車事故を起こして亡くなった認知症高齢者本人ではなく、その家族に対して司法が損害賠償の支払いを認めたと言うもの。真なる共生社会の議論が、いまこそ必要だと若輩は感じました。更に言えば、地域包括ケアと称して、家族で地域で支え合うことを強要しながら、では、政府は如何なるその責任を取ったと言うのでしょうか。判決では、家族による「見守り」義務が謳われているようですが、介護保険制度は、介護の社会化をその目的として創設されたものではなかったのでしょうか。本社説では、この判決に異論を唱えた上で、これが社会に与える影響を危惧しています。「介護に深くかかわるほど、重い責任を問われる。それなら家族にとっては施設に入れた方が安心。施設としてはカギをかけて外出させない方が安全――という判断に傾きかねない。年老いても、住みなれた地域で人間らしく暮らせるようにするのが、この国の政策目標である。判決は、そこに冷や水を浴びせかけた。高齢者の介護で家族が大きな役割を果たしているのは事実である。だが、法的にどんな責任を負うのかは別の問題だ。家族に見守りの注意義務を厳しく求めるあまり、『何かあったとき責任を取りきれないから病院や施設に入れる』という状況をつくってはならない」※2。失敗学を提唱されている工学院大学の畑村洋太郎氏によれば、失敗を捉える要諦として、「責任追及」ではなく、「原因究明」を挙げられています。であればこそ、この失敗が再発防止や、その予知に活用され、社会に真なる科学的理解が促進されるであろうというものです。この問題を、家族の責任に帰することによって、社会が失うものもまた大きいことは想像に難しくはありません。

 しかし、本社説も諸手を挙げて賛同できるものではありませんでした。「家族の責任を問う以外に、何らかの社会的なシステムをもうけるべきだ。たとえば犯罪被害者には給付金を支給する制度がある。知的障害者については互助会から発展した民間の賠償責任保険がある。参考になるだろう。 要介護の認知症高齢者は、2010年時点で280万人。25年には470万人にまで増えると推計されている。事故への備えは喫緊の課題だ」※2。私が言わんとすることは、もうお分かり頂けるものと思われます。「全ての人々」の尊厳が守られる社会こそが、共生社会であり、一部の人々は事故を起こしやすいのでその人や、その被害者のみに保険を掛けたり、救済することが真なる共生社会の実現に繋がらないことは明白な事実です。斯様な実践は、新たな偏見とレッテル張りを促進することでしょう。

 いみじくも、安倍政権は来年4月からの消費税率引き上げを決断しました。それに併せて、法人税の減税に踏み切るのだとか。斯くの如き、真なる共生社会の創造には、前途多難な障壁が、公共投資の如く、次々と建設ラッシュが続いております。この流れを変革し、真に、全ての国民の生活を守るための社会を構築するに、最も寄与するべきは、実は、私たちのクライエントなのだと確信する毎日です。



※1 障害者基本法(2011年8月改正)(目的)第一条
※2 「社説 認知症と賠償 家族を支える仕組みを」『朝日新聞』2013年 10月 3 日


中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
カテゴリ
<<2026年10月
MonTueWebThuFriSatSun
1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031
最新エントリ
最新コメント
ブログリスト
当サイトで使用されている全ての画像および文章を無断で複製・転載・販売することを堅く禁じます。
すべての内容は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。
Copyright 特定非営利活動法人 地域の絆 All Rights Reserved.

▲