お世話になった方々のご逝去の続く昨今です。時間の許す限りご葬儀に参列させて頂いておりますこんな折に、少し不謹慎な発言となるかも知れませんが、この様な葬儀の場が人と人との絆を紡いでいるように見受けられました。葬儀を通して、久しぶりに再会した人々が故人を偲んで会話を交わす。組内の住民が通夜・葬儀のお手伝いを行う。会話は交わせずとも、お焼香の際に面々を互いに確認し合うことができる。特に近頃体調を崩されていると噂されている方をお見かけし、ホッとする場面もありました。
今や自宅での葬儀が激減しており、専ら民間企業の葬儀会社が会場やお食事から、香典返し、案内文書に至るまで執り行うことが普遍化しつつあります。確かに、家で葬儀を開催するのは大変です。家族・親戚総出でも対応は難しく、否が応でも地域住民やお勤め先の方々の協力が不可欠となりましょう。その点、多少の金銭的支出があろうとも、現在では葬儀会社が全ての手配をして下さるので、便利な世の中になりました。
一方で、葬儀がシステマチックに効率化されているのも事実でしょう。そこでは、如上で感じた非効率の中にある“幸福感”が減退しているのではないでしょうか。効率化された社会の中では、非効率なものが忌避され軽視されて行くのですが、そこでは、他者に思いやる気持ちや、お互い様の思いが失われているのではないかと心配しております。
昨日「マイケル・サンデル 究極の選択」※1というテレビ番組を見ました。そこで、原子力発電についての可否を問う設問で多くの参加者が議論を展開しています。もちろん「究極の選択」ですね。
中でも心に留めたのは歌手の高橋ジョージ氏が言われた一言です。―――生活水準の高い低いの意味がよく分からない。東京では計画停電が行われていて確かに不便だが、夜はなるべく家族一緒で一つの部屋で固まって節電に努めている。しかし、それが返って豊かな生活だと自身は感じている…。
私自身の見解も、原子力反対の立場です。原爆資料館に訪れたオーストラリア人の驚きがノートに綴られていると昨日の『中国新聞』「天風録」に書かれています。「ヒロシマ・ナガサキの歴史がある日本にすら原発があったとは」※2。そうです、原子力の負の側面を嫌という程体験した我が国が、今度はまた原子力の恐怖に曝されているのです。温故知新がなされていないと私は感じます。
番組の議論の中にもあったように、危険な原発は地方に存在するが、その恩恵を受けているのは遠く離れた都市部であるとの不公平感にも大きな疑問を持っています。この様に、効率化された“便利な”世の中は、一部の人たちの犠牲によって成り立っているのではないかと私は考えます。
素人が把握している限りでは、原子力開発には多大な開発コスト(10年前は全体の90%以上と聞いていました今は勉強不足です)がかけられていますが、その割合の半分もしくは、三分の一でも、波力発電や、風力発電、太陽光発電に投じるべきでしょう。
それでも、停電に見舞われる生活が生じるというのであれば、私たちはそれを甘受すればよいのだと思っています。その様な、懐の広さが今社会には強く求められているのだと私は考えます。
昨今の葬式のあり方と、原発を推進してきた社会のあり方は恐らく何処かで繋がっているのだと考えます。何かが間違っている。そんなことを思うのは私だけでしょうか。
※1 「マイケル・サンデル 究極の選択 『大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜』」NHK総合2011年4月16日9:00〜10:15
※2 「天風録」『中国新聞』2011年4月16日
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